第13話 向こうが十万円返した
金融会社の画面を開いた森健司は、しばらく数字を見つめていた。保証債務残高 2,600,000円
「……減ってるな」
昨日までは二百七十万円だった。自分は払っていない。だから、減るはずがない。それなのに十万円。きっちり減っている。
「上原、本当に払ったのか」
健司は少し驚いた。電話では、
――次の返済までに、お前らが払ってくれ。
そう言った。上原は最後に、
『分かった』
と答えた。正直なところ、健司は半分くらいしか信じていなかった。今まで電話に出なかった。催促状が届いても連絡してこなかった。急に連絡してきた理由も、自分たちの能力が失われていると気づいたからだ。そんな相手が一晩で本当に払うとは思っていなかった。
「十万円だけだけどな」
残り。二百六十万円。三百万円から始まって、四十万円減った。うち三十万円は健司。今日の十万円は上原側。
「まあ、返してくれたならいいか」
スマートフォンを閉じる。それで終わるつもりだった。だが。一つ気になる。健司は右手を握った。開く。剣。身体。気配。昨日までと変わらない。胸の奥が温かくなる感覚もなかった。最初の十万円。あった。二回目。あった。三回目。あった。今日はない。
「……やっぱり俺が払わないと駄目なのか?」
縁側。ゴンが伏せている。背中にはモチ。健司は二匹を見る。
「向こうが払ったら何も起きなかったぞ」
ピィ。
「お前、分かってる?」
モチが飛ぶ。健司の膝。
「分かってないな」
指を出す。モチが軽くつつく。庭。鶏。亀。朝のいつもの景色。昨日、簡易鑑定で自分のスキルを確認した。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
返済三回。スキル三つ。そして今日は上原側が十万円返済。何も起きない。
「偶然じゃなさそうだな」
健司もようやく、かなり真剣に考え始めていた。
《肩代わり》。
名前。他人が本来払うべきものを、自分が代わりに払う。そのときだけ。何かが動く。
「じゃあ、向こうが返してれば普通の借金ってことか」
それなら一番いい。健司は強くならない。上原たちも弱くならない。借金だけが減る。本来そうあるべきだ。
「だったら、このまま払ってもらえばいいな」
簡単だった。上原たちが残り二百六十万円を払う。終了。畑仕事へ向かう。今日はトウモロコシの状態を見る。実の入り。虫。葉。最近は《気配察知Ⅰ》のせいなのか、害虫を見つけるのが早い。それも便利ではある。ただ。
「これ、なくなったら困るかな」
スキル。自分のものとして定着している。上原たちが借金を返したからといって返却される様子はない。少し気にはなる。だが。今さら自分から剣術や身体強化を剥がす方法も分からない。
「まあ、いいか」
いつもの言葉。畑へ。母もいた。しゃがんで草を抜いている。
「母さん」
「なんだい?」
「十万円減ってた」
「何が?」
「借金」
母は少し考えた。
「ああ、三百万の」
「そう」
「健司が返したのかい?」
「上原」
「あら」
母の顔が少し明るくなる。
「じゃあよかったじゃない」
「うん」
「あといくら?」
「二百六十万」
「あら、まだいっぱいあるねえ」
「いっぱいある」
二人で笑った。母はまた草を抜き始める。
「でも自分で返す気になったんだねえ」
「そうみたい」
「じゃあ健司、ダンジョン行かなくてもいいんじゃない?」
健司の手が止まった。
「……あ」
考えていなかった。そもそも。ダンジョンへ戻った理由。三百万円。農業だけでは返済に時間がかかる。だから十年以上ぶりに探索者へ戻った。上原たちが全部払うなら。健司がダンジョンへ行く必要はない。
「そうだな」
「危ないところ行かなくていいよ」
母は何気なく言った。健司も少し考える。ダンジョン。剣。配信。しずく。素材。視聴者。そして。
「……でもな」
「何?」
「結構楽しいんだよ」
母が健司を見る。
「ダンジョンが?」
「ダンジョンも」
昔は仕事として潜っていた。若かった。金も欲しかった。でも今は少し違う。危険なことはしたくない。強い魔物と無理に戦いたいわけでもない。それでも。昔歩いた場所をもう一度歩く。魔石。素材。採取。身体を動かす。配信で知らない人と話す。家へ帰ればゴンとモチがいる。悪くない。
「借金なくなっても、たまには行くかもしれん」
母は笑った。
「なら気をつけてね」
「うん」
それだけ。農作業。二時間。最近は以前より作業が早い。身体強化。今まで二回運んでいた肥料。一度。コンテナ。両手。疲れにくい。健司は気づいている。もう「調子がいい」では説明しない。
《身体強化Ⅰ》。
本当にある。だから使える。
「便利だな」
素直にそう思った。問題は。これが元々誰のものだったのか。そこだけ。少し胸に引っかかる。昼前。軽トラック。今日は直売所へ。配信はしない。毎日する必要はない。野菜を納品。いつもの職員。
「健司ちゃん」
「おう」
「今日はカメラないのか」
「ないよ」
「孫が残念がるぞ」
「毎日畑見てもしょうがないだろ」
「そうでもないらしいぞ」
「変わってるなあ」
「お前の配信、うちの野菜も映るだろ」
「たまに」
「売上増えたぞ」
健司が止まった。
「本当?」
「配信見たって若い人が買いに来た」
「ここまで?」
「いや、通販」
直売所には小規模ながら通販ページがある。健司の畑で採れた野菜が映ったことで、注文が少し増えたらしい。
「俺の野菜って分かるの?」
「紹介ページに生産者名出てるからな」
「へえ」
自分の知らないところ。配信。農業。繋がっている。
「なら配信した方がいいのかな」
「してくれ」
「店長に聞いた?」
「許可取った」
「本当に?」
「今度ここでやれ」
「仕事増えたな」
職員が笑う。
「売れたらお前にも入るだろ」
「それならやる」
三百万は人を変える。やはり金は大事だった。直売所を出る。ギルド。自動ドア。しずく。
「森おじさん!」
「おう」
「モチは?」
「今日は家」
「……」
「その顔やめろ」
「いえ」
「俺だけじゃ駄目?」
「そんなこと言ってません」
しずくの態度は正直だった。健司は受付へ探索者証を出す。
「借金、減った」
しずくの手が止まる。
「返したんですか?」
「俺じゃない」
「え?」
「上原」
しずくの目が大きくなる。
「本当に?」
「十万だけ」
「残り二百六十万?」
「そう」
「じゃあ約束守ったんですね」
「今のところな」
健司は声を少し落とす。
「それでさ」
「はい」
「何も起きなかった」
しずくはすぐ意味を理解した。
「スキル?」
「うん」
「胸が温かくなる感じも?」
「なし」
「能力が変わった感じは?」
「なし」
しずくが考える。
「じゃあ」
「俺が払ったときだけかもしれない」
昨日の簡易鑑定。返済。スキル。今日。上原側が返済。変化なし。
「かなり条件絞れましたね」
「だよな」
「《肩代わり》ですから」
しずくは受付用紙の裏へ簡単に書く。本来の債務者が払う → 発動しない?森健司が保証債務として払う → 発動?
「分かりやすい」
「たぶんこうですよね」
「なら上原たちが全部返せば問題ない」
「そうなりますね」
しずくも少し安心したようだった。
「よかったじゃないですか」
「うん」
「これ以上、人の能力取らなくて済みますし」
「そこ気になってたからな」
「森おじさんらしいですね」
「普通だろ」
しずくが何か言いかける。やめた。たぶん「普通じゃない」と言いたかったのだろう。
「今日は潜ります?」
「来たからな」
「第二階層?」
「うん」
「配信は?」
少し考える。
「する」
「借金残高は?」
「書いていいかな」
上原。配信を見ている。だが残高はどうせ確認できる。返済予定だけ言わなければいい。
「二百六十万は書いていいと思います」
「じゃあ」
タイトル。
【借金残り260万円】今日は普通に素材集め
しずくが見る。
「普通って必要です?」
「最近普通じゃないこと多かったから」
「確かに」
配信。開始。すぐ。三百。六百。千。
《減ってる!》
《260万になった》
《森おじさん返した?》
「今日は俺じゃない」
コメントが一気に流れる。
《え》
《借金押しつけた人?》
《相手が払ったの?》
《やっと?》
健司は少し迷った。
「十万円だけだけど、向こうが払った」
《よかったじゃん》
《これが普通なんだよ》
《全部払ってもらえ》
「俺もそう思ってる」
詳しい能力の話はしない。簡易鑑定。
《肩代わり》。
それを配信で全部明かす気にはならなかった。しずくの言う通り。手の内を全部見せなくてもいい。第一階層。ゴブリン。姿を見る前に分かる。
「一体」
《もう索敵普通になってる》
「スキルらしい」
言ってから健司は止まった。
《え?》
《今スキルって言った?》
《鑑定した?》
「……言っちゃった」
コメント爆発。
《やっぱり!》
《気配察知?》
《鑑定結果見せて》
「見せないよ」
《ケチ》
「三千円払ったからな」
《そこw》
「自腹だぞ」
ゴブリン。一撃。素材。進む。コメントはしばらく鑑定の話。
「全部は言わない」
《なんで》
「いろいろあるんだよ」
《森おじさんが秘密持った》
《成長した》
「何だと思われてたんだ」
第二階層。牙犬。一体。避けられる。戦わない。魔力苔。採取。今日は本当に普通の素材集め。しばらく進む。そこで。気配。一つ。大きい。健司が止まる。
「前、いるな」
《何?》
「ちょっと大きい」
近づかない。待つ。向こうから音。重い足。オーク。
「今日はいいや」
引き返す。
《戦わないの?》
「素材集めって言っただろ」
《倒せるのに》
「怪我したら損だからな」
《借金脳》
「大事だぞ」
別ルート。採取。牙犬一体。倒す。休憩。塩むすび。コメント。
《本編》
「また言ってる」
《今日は何個?》
「二個」
《お母さん元気?》
「元気。朝から草取ってた」
《モチは?》
「ゴンと留守番」
《帰宅配信希望》
「今日はしない」
《残念》
麦茶。一息。健司自身。今日は少し気分が軽い。上原が返した。十万円だけ。それでも。約束を守った。なら。残りも。そう期待できる。
「このまま終わればいいな」
《借金?》
「うん」
《260万あるぞ》
「上原たちが返すって言ってるから」
《信じて大丈夫?》
コメント。健司は少し止まった。以前なら。迷わず。大丈夫。そう言ったかもしれない。今日は。
「分からん」
と答えた。自分でも変わったと思う。
「でも一回払ったからな」
《様子見だね》
「そうする」
配信。帰還。査定。68,900円応援。19,420円健司は明細を見る。
「今日も悪くないな」
しずく。
「これなら借金なくなっても続けられそうですね」
「母さんにも言われた」
「何て?」
「借金なくなったらダンジョン行かなくてもいいんじゃないって」
「やめるんですか?」
しずくの声。少し残念そう。
「たまには来るよ」
「たまに?」
「畑あるからな」
「配信は?」
「するんじゃない?」
「よかった」
「そんな楽しみ?」
しずくは少し考える。
「森おじさんの配信、ギルドの宣伝にもなってるんですよ」
「仕事か」
「それだけじゃないですけど」
「モチ?」
「……それもあります」
正直。ドローン返却。帰宅。門。ゴン。そして。白い影。モチ。肩へ。
「ただいま」
ピィ。母。
「おかえり」
「ただいま」
鶏。餌。畑。夕方の水。ゴンの散歩。モチはいつもの背中。一日。何も大きな事件なし。それでいい。夜。夕食。食後。羊羹。スマートフォン。借金。2,600,000円変わっていない。上原側から追加返済はなし。
「まあ、一日で全部は無理か」
三百万。A級探索者。健司からすると、彼らならもっと早く払える気もする。ただ装備。遠征。パーティー運営。金がかかるのだろう。昔から探索者は稼ぐが出費も大きい。
「待つって言ったしな」
三日。一週間。少し待つ。その頃。都市部。上原たちは円卓を囲んでいた。五人。上原。盾役。斥候役。魔法使い。治癒役。A級パーティー。全員。事情を知っている。机。スマートフォン。ローン残高。2,600,000円盾役が言った。
「何も起きてない」
上原が頷く。
「十万返したあと、誰も変化なし」
斥候役。
「俺の気配察知もそれ以上落ちてない」
魔法使いの女が腕を組む。
「つまり」
全員。分かっている。
「森本人が返さない限り発動しない」
上原が言った。治癒役が息を吐く。
「なら全部払えば終わりじゃない」
簡単。二百六十万円。A級探索者五人。一人あたり五十二万円。払えない金額ではない。普通なら。盾役が苛立ったように言う。
「払えばいいだろ。俺は出す」
斥候役も。
「俺も出す」
上原は黙る。魔法使い。
「待って」
「何だよ」
「今払ったら、こっちが損するだけじゃない」
盾役の表情が変わる。
「は?」
「元々、そのために森を保証人にしたんでしょう」
部屋。静か。最初から。事故ではない。計画だった。遠征費。装備費。借金。A級パーティー全員。返済を保証人へ回す。その前提で。森健司に判を押させた。盾役。
「状況変わっただろ!」
「三十万円分、能力を取られただけでしょ」
「だけ?」
男が立ち上がる。
「俺の身体強化、一段落ちてんだぞ!」
「私にはまだ何も起きてない」
空気。一気に悪くなる。斥候役も低い声。
「だから言えるんだろ」
魔法使いが目を細めた。
「だったら、次に森が返す前に方法を探せばいい」
「何の?」
「《肩代わり》を止める方法」
上原は顔を上げる。
「そんな方法あるのか」
「ギフトなら、条件がある」
「森本人の返済だ」
「それ以外にも」
魔法使いは言った。
「契約そのものを変えるとか」
上原。
「どうやって」
「保証人から外す」
盾役。
「それなら借金俺たちに戻るだろ」
「だから」
女が笑う。
「別の保証人を探す」
沈黙。斥候役の顔が歪む。
「お前……」
「何?」
「まだ誰かに押しつける気かよ」
「二百六十万よ」
「そういう問題じゃねえ」
パーティー。初めて。亀裂。上原は黙っていた。森健司。昔。何を頼んでも笑って、
『しょうがないな』
と言う男。だから選んだ。保証人。断らない。そう思った。実際。断らなかった。そして今。自分たちが。少しずつ。その代償を払っている。上原はスマートフォンを見る。森の配信。今日のタイトル。
【借金残り260万円】今日は普通に素材集め
コメント。たくさん。映像。塩むすび。魔力苔。牙犬。田舎のおじさん。本人は。何も奪おうとしていない。ただ。借金を返そうとしている。上原が低く言った。
「……残りは俺たちで払う」
魔法使いが見る。
「上原?」
「もういい」
「二百六十万よ」
「分かってる」
「何のために森を保証人にしたの?」
上原の顔が少し歪む。
「俺があいつに頼んだからだよ」
「今さら善人ぶるの?」
「違う」
上原は立ち上がった。
「次、俺たちの誰かがまた何か失ったら」
全員を見る。
「二百六十万じゃ済まない」
剣術。身体強化。気配察知。A級探索者の力。金額に換算できるものではない。
「一人五十二万」
上原。
「出せ」
魔法使い。動かない。
「嫌」
「お前」
「私はまだ何も取られてない」
盾役。
「ふざけんな!」
「ならあなたが多く払えば?」
椅子。音。空気。険悪。上原は額を押さえた。今まで。強い。稼げる。同じ目的。それだけでまとまっていたパーティー。三百万円。たったそれだけの金を押しつけたことで。少しずつ。壊れ始めていた。一方。何も知らない健司。縁側。ゴン。モチ。羊羹。茶。母。
「健司」
「なに?」
「明日、雨らしいよ」
「本当?」
「天気予報で言ってた」
「じゃあ水やりしなくていいな」
借金。二百六十万円。A級パーティーの争い。そんなものより。明日の雨。健司にとって。今はそちらの方が少しだけ大事だった。




