第12話 簡易鑑定、三千円
森健司は、朝から何度も自分の手を見ていた。右手。左手。握る。開く。特に変わったところはない。指が一本増えたわけでもなければ、手のひらに文字が浮かんでいるわけでもない。
「……分からんな」
縁側で呟く。ゴンが隣で寝ている。その背中にはモチ。庭の向こうでは鶏が歩き回り、さらに奥ではいつもの亀が植木鉢の影をゆっくり通り過ぎていた。昨日。上原から電話があった。返済を止めろ。理由は言わない。そして電話の向こうから聞こえた。
『次やられたら俺かもしれねえだろ!』
小さな声。普通なら聞き取れなかったかもしれない。だが今の健司には聞こえた。最近、妙に耳がいい。それだけではない。最初の十万円を返したあと、剣が急に扱いやすくなった。二度目の十万円を返したあと、身体が軽くなった。三度目。耳というより、周囲の気配そのものが分かるようになった。そして。若い頃から持っていたギフト。
《肩代わり》。
「……やっぱ関係あるのかな」
ピィ。モチが顔を上げた。
「お前に聞いても分からんよな」
ピィ。
「返事だけはいいな」
健司は立ち上がった。考えていても答えは出ない。なら調べる。昨日、しずくが言っていた。簡易鑑定。数千円。そこだけが少し気に入らない。
「三千円あれば羊羹何本買えるんだろ」
家の中から母の声。
「健司」
「なに?」
「羊羹なら戸棚にあるよ」
「今の聞こえた?」
「聞こえたよ」
健司は少し笑った。
「いや、食べたいって話じゃない」
「そうなのかい?」
「鑑定に三千円かかるんだよ」
母が台所から顔を出す。
「何を見てもらうんだい?」
「俺」
母の表情が少し止まった。
「病院?」
「違う違う」
「どっか悪いのかい?」
「だから違うって」
健司は笑いながら説明した。昔から持っているギフト。最近、妙に剣が上手くなったこと。身体が軽くなったこと。耳がよくなったこと。母は途中まで聞いて、
「元気ならいいじゃない」
と言った。
「まあ、そうなんだけど」
「痛いところあるのかい?」
「ない」
「熱は?」
「ない」
「ご飯食べられる?」
「昨日、二杯食った」
「なら大丈夫だよ」
「母さんの基準だと大体大丈夫になるな」
「大丈夫じゃないのかい?」
「多分大丈夫」
結局。母へ話しても解決はしなかった。ただ、少し気が楽にはなった。朝の畑仕事。トマトの収穫。支柱の補修。肥料。雑草。一通り終える。今日はダンジョンへ行く前にギルド。簡易鑑定。それから決める。軽トラックへ。モチが飛んでくる。
「今日はお前も来る?」
ピィ。
「ギルドだけならいいか」
籠。モチは少し嫌そうな顔をした。
「運転中は籠」
ピィ。
「分かってるなら入れ」
少し迷ったあと。自分から入った。
「賢くなったな」
ピィ。ゴンは留守番。母にも声をかける。
「行ってくる」
「気をつけてね」
「はいよ」
ギルド。自動ドア。受付。しずく。
「森おじさん」
「おう」
そして。
「モチ!」
「やっぱり先にそっち見るんだな」
モチが籠から飛び出す。しずくの肩へ。
「今日はどうしたんです?」
「鑑定」
しずくの動きが止まった。
「え?」
「簡易鑑定」
「森おじさんが?」
「そんな驚く?」
「昨日まで数千円惜しんでた人が」
「三千円だろ」
「ちゃんと値段覚えてる」
「高いからな」
「高くないです」
「羊羹なら――」
「買えますね」
「ほら」
「比較がおかしいです」
いつものやり取り。だが、しずくは健司の顔を見て少し真面目になる。
「何かあったんです?」
「上原から電話来た話、昨日しただろ」
「はい」
「そのあとさ」
健司は声を少し落とした。
「電話の向こうで、誰かが『次やられたら俺かもしれない』って言ってた」
しずくの表情が変わる。
「……聞こえたんですか?」
「小さかったけど」
「それ、気配察知の影響かもしれませんよ」
「耳がよくなっただけかも」
「まだ言います?」
「まだ言う」
健司は受付台へ肘をつく。
「で、ちょっと考えた」
「何をです?」
「十万円返すたび、なんか俺変わってる気がする」
しずくは黙った。健司が続ける。
「最初、剣」
「はい」
「次、身体」
「はい」
「その次、耳」
「気配察知だと思います」
「まあ、それ」
「……三回返済して、三回?」
「多分」
しずくが端末を触る手を止めた。
「それ、かなり怪しいですよ」
「だよな」
「もっと早く気づいてください」
「普通、借金返して強くなると思わないだろ」
「それはそうですけど」
「だから鑑定」
しずくが頷く。
「分かりました」
簡易鑑定はギルド内でできる。大掛かりな設備は必要ない。専用の鑑定石。探索者証。簡単な魔力測定。ただし簡易なので、特殊なギフトの詳細までは分からない。一般的なスキル。身体能力系。魔力適性。その程度。
「三千円です」
「先払い?」
「先払い」
「逃げないぞ」
「そういう制度です」
財布。三千円。健司は少しだけ名残惜しそうに札を出した。しずくが笑う。
「そんな顔します?」
「三千円だぞ」
「昨日配信で二万円以上もらってたじゃないですか」
「それとこれとは別」
「借金生活、完全に染みついてますね」
案内された小部屋。中央。椅子。その前に直径三十センチほどの透明な石。
「手を置いてください」
「これ?」
「はい」
モチはしずくの肩。健司は椅子へ座る。右手を石へ。冷たい。
「何かする?」
「そのままで」
しずくが端末を操作。石が淡く光る。健司の手。腕。身体。何かが軽く引っ張られるような感覚。痛くはない。数秒。十秒。二十秒。光が消える。
「終わり?」
「終わりです」
「早いな」
「簡易ですから」
結果が端末へ表示される。しずくが画面を見る。そして。止まった。
「……森おじさん」
「なに?」
「これ」
画面をこちらへ。健司は読む。
――保有ギフト。
《肩代わり》
「これは知ってる」
「その下」
――確認された技能。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
健司はしばらく黙った。もう一度見る。
「……三つあるな」
「ありますね」
「俺、昔これ持ってた?」
「過去データ確認します」
しずくが別画面。昔の探索者登録。二十年以上前。ギフト。
《肩代わり》。
技能。空欄。
「ないですね」
「本当に?」
「少なくともギルドの記録では」
「剣術も?」
「ないです」
「昔、剣使ってたぞ」
「技能として認定されるほどではなかったんじゃないですか」
健司は少し傷ついた。
「そんな下手だった?」
「私に聞かれても」
「郷田なら喜びそうだな」
しずくが画面を見る。
「でも……これ」
三つ。返済三回。健司も同じことを考えている。
「偶然かな」
「偶然にしては」
「だよな」
「《剣術Ⅰ》が増えた時期」
「最初の十万」
「《身体強化Ⅰ》」
「二回目」
「《気配察知Ⅰ》」
「三回目」
しずくが息を吐く。
「ほぼ確定じゃないですか」
「でも」
健司は少し考えた。
「なんで借金返してスキル増えるんだ?」
「《肩代わり》」
「名前はそれっぽいけど」
「今まで発動したことなかったんですよね?」
「多分」
「保証人になったことは?」
「今回が初めて」
「他人の借金を肩代わりしたことは?」
「ない」
「じゃあ、発動条件そのものが今まで成立しなかった可能性ありますよ」
健司は黙った。確かに。
《肩代わり》。
何を肩代わりするのか。若い頃。鑑定しても分からなかった。戦闘。怪我。疲労。病気。何も肩代わりしなかった。だから外れギフトだと思っていた。だが。借金。保証債務。本来、上原たちが返すべきもの。それを健司が払っている。
「……金?」
「可能性はあります」
「俺のギフト、金の話だったの?」
「分かりませんけど」
健司は少し複雑な顔。
「もっと早く分かってればな」
「どう使うんです?」
「知らん」
「ですよね」
二人で画面を見る。ただし。一つ。まだ分からないことがある。
「これ、どこから来たんだ?」
健司が言った。しずくも黙る。スキルが増えた。それは分かった。だが。自然に生えたのか。誰かから来たのか。
《肩代わり》が生成しているのか。
簡易鑑定ではそこまで分からない。
「上原さん側で何か起きてるんですよね」
「多分」
「電話の反応を見る限り」
「返済止めろって必死だったからな」
しずくは少し眉を寄せる。
「それなら、森おじさんがスキルを得る代わりに、向こうが失ってる可能性ありますよね」
健司の顔が少し変わった。そこ。一番気になっていた。
「やっぱそう思う?」
「思います」
「じゃあ、次返したら」
「誰かがまた弱くなるかもしれない」
健司は椅子に座ったまま黙った。三百万円。自分に押しつけられた。返済義務。契約上。自分が払う。それは悪いことではない。むしろ当然。だが。払うたびに、誰かの力が失われる。もし本当なら。
「……嫌だな」
しずくが少し驚いた。
「森おじさん?」
「いや」
健司は頭を掻く。
「借金押しつけられたのは腹立つよ」
「はい」
「電話無視されたのも」
「はい」
「でも、それで向こうの力取っていいかって言われると」
しずくはしばらく黙る。
「森おじさんが取ってるわけじゃないですよ」
「でも結果としてはな」
「返済しなかったら森おじさんが困ります」
「そうなんだよな」
それが難しい。返済しなければ。遅延。利息。自分の信用。家。畑。生活。全部に影響する可能性がある。返せる金があるのに、誰かが弱くなるから払わない。それも違う気がする。
「上原たちが払えばいいんだよ」
健司が言った。
「本来そうです」
「でも払わない」
「はい」
「じゃあ俺が払う」
「はい」
「そうすると向こうから何か来る」
「多分」
「……面倒だな」
しずくが少し笑った。
「そこに落ち着きます?」
「だって面倒だろ」
怒り。復讐。ざまあ。そういう気持ちより。面倒。それが一番近かった。
「本鑑定ならもっと分かる?」
「可能性はあります」
「いくら?」
しずくが金額を言う。健司は即座に立ち上がった。
「やめる」
「早い!」
「高い」
「だからって」
「何万円も払えるか」
「原因知りたくないんですか?」
「知りたいけど」
「けど?」
「借金ある」
「……ですよね」
しずくももう諦めた。
「じゃあ、簡易鑑定の結果だけ保存します」
「頼む」
紙にも出してもらう。健司は三つの技能を見る。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
「本当に増えてるんだな」
「はい」
「これ、俺のもの?」
「現時点では森おじさんの技能として認識されてます」
「返したら戻るとか?」
「分かりません」
「面倒」
「今日三回目ですよ」
部屋を出る。受付。モチがしずくから健司の肩へ戻る。
「お前も見てた?」
ピィ。
「俺、スキル三つ持ってたぞ」
ピィ。
「興味ない?」
モチは健司の帽子へ移動した。
「そこ乗るなって」
受付。今日はダンジョンへ行くか。健司は少し迷った。鑑定だけで帰るのももったいない。ドローンもある。時間もある。ただ。
「今日は配信やめとくか」
しずくが少し驚く。
「珍しいですね」
「ちょっと考えたい」
「分かりました」
配信なし。第二階層。一人。久しぶりにカメラがない。静か。健司は剣を抜いた。歩く。足音。自分。遠く。牙犬。いる。
「……気配察知」
声に出す。今まで。耳。そう思っていた。だが鑑定結果。
《気配察知Ⅰ》
「本当にスキルなんだな」
姿を見る前に分かる。右。一体。健司は道を変えた。無理に戦わない。少し進む。ゴブリン。避けられない。剣。構える。身体。自然。
《剣術Ⅰ》
意識してみる。柄。足。重心。刃。今まで感覚でやっていたもの。
「これか」
一撃。ゴブリン。倒れる。腕。疲れない。
《身体強化Ⅰ》
「……これもか」
全部。本当にある。偶然。昔の感覚。農業。体調。そうやって説明してきた。でも違った。少なくとも一部は。スキル。どこかから来た。
「上原……」
少しだけ思う。あいつの剣。昔から上手かった。剣道も。探索者になってからも。
《剣術》。
もし。最初の十万円で。健司の中へ。
「……まさかな」
でも。もう完全には否定できない。素材を少し集める。魔力苔。牙犬一体。深追いしない。一時間。二時間。今日は早めに帰る。ギルド。査定。四万円少し。
「今日は少ないですね」
しずく。
「考えながら歩いてた」
「危ないですよ」
「戦闘中は考えてないよ」
「ならいいですけど」
「帰る」
「今日は返済?」
健司が止まる。財布。スマートフォン。金。返そうと思えば。十万円。払える。今月の農業経費。生活費。残しても大丈夫。だが。
「今日はやめとく」
「上原さんのこと?」
「うん」
しずくは何も言わなかった。帰宅。ゴン。モチ。母。畑。夕方。いつもの仕事。鶏の餌。水。ゴンの散歩。モチはその背中。健司は歩きながら考える。上原。十万円。スキル。
《肩代わり》。
もし本当に。返済するたび。向こうから一つ来る。なら。次。どうする。
「……でもなあ」
ゴンが止まる。匂いを嗅ぐ。健司も止まる。
「俺が返さない理由にはならんよな」
ゴンは聞いていない。
「借金は借金だし」
ピィ。モチが鳴く。
「本来あいつらが返すもんだけど」
歩く。
「俺が保証人になった」
歩く。
「向こうが払わない」
歩く。
「じゃあ俺が払う」
結局。そこへ戻る。誰かの力を奪いたいから払う。それは違う。誰かを弱くしたいから払う。それも違う。ただ。借金を返す。それだけ。もし。それで向こうから力が失われるなら。
「……上原に聞くしかないな」
帰宅。夜。夕食。母。煮物。味噌汁。冷ややっこ。羊羹。今日は一切れだけ。スマートフォン。上原。健司は自分から電話をかけた。呼び出し。一回。二回。三回。今回は出た。
『……健司』
「上原」
『何だ』
「聞きたいことある」
沈黙。
『返済の話か』
「それも」
健司は簡易鑑定の紙を見る。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
「俺さ」
『……』
「最近、スキル三つ増えたんだ」
電話の向こう。何も聞こえなくなった。健司は続ける。
「十万円返すたびに、一つずつ」
まだ無言。
「上原」
『……何が言いたい』
「お前ら」
健司は少し迷った。だが聞く。
「何か減ってる?」
沈黙。長い。十秒。二十秒。
『……誰に聞いた』
「誰にも」
『じゃあなんで』
「鑑定した」
また沈黙。健司は確信に近づいた。
「減ってるんだな」
『……』
「上原」
『返すな』
声。低い。今までで一番真剣だった。
『次の十万、絶対に返すな』
健司は目を閉じた。
「理由、やっと分かった」
『分かったなら――』
「でもさ」
『何だ』
「俺が返さなかったら、誰が返す?」
電話の向こう。何もない。
「お前ら?」
『……』
「返してくれる?」
沈黙。
「いつ?」
沈黙。健司は小さく息を吐いた。
「俺、別にお前らから力取りたいわけじゃないよ」
『……』
「でも借金は返さないといけない」
『待て』
「だから」
健司は静かに言った。
「次の返済までに、お前らが払ってくれ」
『健司』
「それなら俺は払わない」
『……』
「本来、お前らの借金だろ」
長い付き合い。幼稚園。小学校。中学校。高校。昔。友達。だから保証人になった。その友達へ。初めて。はっきり。健司は言った。
「俺に返させたくないなら、自分で返してくれ」
電話。静か。そして。
『……分かった』
小さな声。本当か。分からない。でも健司は、
「じゃあ待ってる」
と答えた。通話終了。スマートフォン。机。母が向かいから見る。
「上原さん?」
「うん」
「どうだった?」
「自分で返してくれって言った」
「そうかい」
「ちょっと言いすぎたかな」
母は羊羹を一口。茶。
「自分で借りたお金なら、自分で返すんじゃないのかい?」
健司は少し笑った。
「そうだよな」
「うん」
それだけ。難しい話は。母の一言で。妙に簡単になった。健司は簡易鑑定の紙を折りたたむ。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
三つ。次の十万円。まだ払わない。上原たちが返すと言った。なら。少しだけ待つ。ただし。いつまでもではない。借金は。待ってくれないのだから。




