第11話 返済を止めてくれ
森健司が畑の端でしゃがみ込んだのは、トマトの葉の裏に小さな虫を見つけたからだった。
「いた」
指で摘まむより先に、そこに何かいると分かった。葉を裏返す。小さな青虫が一匹。昨日までなら目で探してから見つけていたはずなのに、今日は視線を向ける前から妙に存在が気になった。
「……最近、本当に耳がいいな」
口にしてから、健司は首を傾げる。虫の音など聞こえていない。正確には耳ではないのかもしれない。それでも他に説明のしようがなく、ここ数日は全部「耳がよくなった」で済ませていた。少し離れた日陰ではゴンが伏せている。その背中にはモチ。白い毛玉のようなスノーエナガは、ゴンの大きな背中を自分の場所だと思い始めているらしい。庭の向こうでは母が草を抜いていた。
「母さん、そこ暑いから休めよ」
「もうちょっとだから」
「昨日もそれ言ってたぞ」
「そうだったかい?」
「そうだったよ」
母は少し笑い、また草へ手を伸ばす。健司も無理に止めず、自分の作業へ戻った。いつもの朝だった。ただ、以前と違うものがいくつかある。借金残高は二百七十万円。三百万円から十万円ずつ三回返した。最初の返済後、長く忘れていたはずの剣の扱いが急に自然になった。二回目の返済後、肥料袋も収穫箱も以前より軽く感じるようになった。三回目の返済後、今度は周囲の小さな音や気配に妙に敏感になった。それでも健司は、探索者へ戻って身体が昔の感覚を思い出しているのだろうと思っていた。
「四十六でも戻るもんなんだな」
ピィ。モチが鳴く。
「お前に聞いてないぞ」
ピィ。ゴンは何も反応しない。
「まあ、調子いいならいいか」
深く考えても畑の仕事は減らない。健司はトマトを収穫し、形のいいものを出荷用、割れたものを家用へ分ける。最近は配信を見た人が直売所の通販を利用するようになり、少しずつ注文も増えていた。午前中だけ、今日も畑の配信をつける。借りたドローンが低い位置をゆっくり飛ぶ。
【朝の畑仕事】森おじさん、トマトを採る
配信開始から数分。三百人。五百人。八百人。
「ダンジョンじゃないのに結構来るな」
《おはよう森おじさん》
《ゴンいる?》
《モチは?》
《亀は?》
「俺の配信だよな?」
《森おじさんもいる》
「ついでみたいに言うな」
カメラをゴンへ向ける。ゴンは日陰で寝たまま。その背中にモチ。コメントが急に速くなる。
《本編》
《今日も乗ってるw》
《ゴンじいちゃん優しい》
《モチ丸い》
「俺より人気あるな、お前ら」
ピィ。
「誇らしげに鳴くな」
作業を続ける。モチがいつの間にか近くの支柱へ移り、赤いトマトを見ている。
「それ売り物」
ピィ。
「駄目」
一歩。
「駄目だって」
止まる。
《言うこと聞いた》
《賢い》
《でも絶対食べたい顔》
「傷あるやつならあとでやる」
《甘い》
《完全に飼い主》
健司は少し笑った。
「うちの子だからな」
その言葉が自然に出た。最初は怪我が治るまでと思っていた。飛べるようになれば森へ帰るだろうとも思っていた。だがモチは二度自由にしても戻ってきた。今では正式にテイム登録も済ませている。
「まあ、本人がいるって言うならいいだろ」
《本人?》
「モチ本人」
《本人扱いw》
一時間ほどで配信を切る。最大同時視聴者は千人を少し超えた。応援も入っている。
「野菜採ってるだけで金になるんだな」
以前なら理解できなかった。今でも完全には理解していない。ただ、ダンジョンだけでなく農業も金になるならありがたい。借金はまだ二百七十万円ある。ドローンを止めた直後だった。胸ポケットのスマートフォンが鳴る。画面を見る。健司の指が止まった。上原。
「……やっとか」
何度電話しても出なかった。メッセージにも返事がなかった。それなのに向こうからかけてきた。健司は縁側へ腰を下ろす。
「もしもし」
『健司か』
「俺の電話だからな」
向こうで小さく息を吐く音。
『……今、いいか』
「いいよ。畑ひと区切りついた」
『そうか』
「催促のこと?」
『ああ』
「やっと連絡来たな」
責めるつもりで言ったわけではない。だが上原はしばらく黙った。
『悪かった。いろいろあって』
「そう」
健司は待つ。謝罪の言葉を引き出そうとはしない。事情を言うなら聞く。言わないなら、それでも借金は残る。
『残り、二百七十万だよな』
健司の眉が少し動いた。
「そうだよ」
『三回払ったんだな』
「十万ずつ」
『……』
今まで無視していた男が、返済回数まで正確に知っている。本来の債務者なら金融会社の記録を確認できるのかもしれない。それでも妙だった。
「上原」
『何だ』
「お前、残高ずっと見てた?」
『……まあな』
「電話は出なかったけど?」
『それは』
言葉が止まる。健司は追及しない。代わりに上原が、急に低い声で言った。
『健司。もう返すな』
健司は黙った。
「……何を?」
『借金だ。次の返済、するな』
「何で?」
『こっちで何とかする』
「何とかって?」
『俺たちで処理する』
「いつ?」
『少し待ってくれ』
「何日?」
『……まだ分からない』
健司は畑を見る。返せる金がある。金融会社からの支払い義務は自分にもある。上原が具体的な日を言わないまま「待て」と言う。
「上原」
『何だ』
「俺が返済止めたら、金融会社は待ってくれるの?」
『それは……』
「延滞扱いにならない?」
『こっちから連絡する』
「まだしてないんだな」
また沈黙。
「俺、別に急いで全部払うつもりはないよ。でも払える十万をわざと止める理由がない」
『あるんだよ!』
急に声が大きくなる。健司は少しスマートフォンを耳から離した。
「何?」
『いや……』
上原の声が落ちる。
『頼む。とにかく次は払うな』
「理由教えて」
『今は言えない』
「それじゃ分からんよ」
『健司!』
「怒鳴っても分からん」
上原が息を飲む。健司は淡々と続けた。
「お前が払うって言うなら待つ。でもいつ払うかも言えない、理由も言えない。それで俺だけ返済止めろっていうのは無理だよ」
『……』
「金融会社にも確認する」
『待て』
「確認だけだよ」
『健司』
「じゃあまた」
通話を切る。モチが健司の膝へ飛んできた。ピィ。
「怒ってたな」
ピィ。
「俺、変なこと言った?」
モチは答えない。金融会社へ電話する。保証債務の支払いについて確認。本来の債務者側から支払いの相談が入っているか。担当者は個別の細かい内容までは答えられないと言った。ただし、現時点で健司の保証債務が消えたわけではない。支払いが実際に行われるまでは残高は残る。延滞を避けるなら、決められた返済を続ける必要がある。
「ですよね」
電話を切る。これで少なくとも、上原の「こっちで何とかする」はまだ完了していない。昼前。ギルドへ。受付の白花しずくは、健司の顔を見るより先に肩を見た。
「モチは?」
「今日は家」
「……」
「毎回その顔するの?」
「してません」
「してる」
健司は探索者証を出す。
「上原から電話来た」
しずくの表情が変わる。
「やっと?」
「返済止めろって」
「え?」
「理由は言わない。俺たちで払うから待てって」
しずくは数秒黙った。
「金融会社には?」
「確認した。まだ俺の債務残ってる」
「じゃあ、払うまでは何も変わってないですね」
「そう」
健司は少し考えてから、もう一つ言う。
「上原、残高が二百七十万って知ってた。三回返したのも」
しずくの目が細くなる。
「配信も見てるんじゃないですか?」
「上原が?」
「返済額、森おじさん配信で結構喋ってますよ」
「ああ」
最初の十万。二回目。三回目。視聴者にも話している。
「じゃあ見れば分かるか」
「今後は、次にいつ払うとか、いくら払う予定とかは言わない方がいいかもしれません」
「何で?」
「上原さんがそこまで返済を気にしてる理由が分からないからです」
健司は少し考える。
「隠すほどのことかな」
「手の内を全部見せる必要もないです」
「俺、手の内なんてある?」
「あります。たぶん森おじさんが思ってるより」
しずくは最近の健司の戦闘記録を開く。剣の上達。身体能力。気配察知らしき反応。
「これ」
「また耳の話?」
「耳じゃないと思います」
「聞こえるんだから耳だろ」
「見えない位置の牙犬まで分かってたじゃないですか」
「音した」
「若い探索者二人は聞こえてませんでした」
「俺の方が耳いいんだろ」
しずくはため息。
「今度、簡易鑑定しましょう」
「いくら?」
「そこからですか?」
「借金二百七十万」
「数千円です」
健司は少し悩んだ。
「羊羹何本買える?」
「比較がおかしいです」
「結構買えるよな」
「森おじさん」
「今度な」
「絶対やらないやつ」
今日は配信をする。ただしタイトルから返済予定は外した。
【Eランク】第二階層で素材集め
「地味だな」
しずくが言う。
「今日は本当に素材集めだから」
「無理しないでくださいね」
「しない」
ダンジョン。第一階層を抜け、第二階層。視聴者は二千人ほど。
《借金どうなった?》
《今日は残高書いてない》
「まだ二百七十万」
《返済は?》
「今日はしない」
《珍しい》
「生活費も農業経費もあるからな。入った金全部返済したら今度は肥料買えなくなる」
《現実的》
《森おじさんちゃんと考えてた》
「失礼だな」
魔力苔。採取。牙犬。一体。気配。先に分かる。健司は足を止める。
「前、いるな」
《まだ見えない》
「右の角」
数秒後。牙犬。
《本当にいた》
《気配察知だろこれ》
「耳」
《まだ言ってるw》
戦闘。一体だけ。危険なし。倒す。それ以上、奥へ行かない。素材を拾う。魔力苔。小さな魔石。今日は安全優先。途中で塩むすび。
《本編》
「またそれか」
《今日は何個》
「二個」
《ゴンは?》
「家で母さんとモチと留守番」
《帰宅配信》
「今日はしない」
夕方前に戻る。査定。四万円少し。応援。二万円台。十分。
「今日は返済しないんですよね」
しずくが念を押す。
「しない」
「上原さんからまた来たら?」
「理由聞く」
「言わなかったら?」
「払う必要ある時は払う」
「ですよね」
帰宅。ゴン。モチ。母。鶏。亀。畑。いつもの夕方。夕飯。食後。羊羹。茶。健司が一息ついたところで、またスマートフォンが鳴った。上原。
「今日二回目か」
出る。
「もしもし」
『健司』
「うん」
『今日、返してないよな』
健司の手が止まる。
「なんでそこ確認するの?」
『いいから』
「返してないよ」
電話の向こう。明らかに安堵した息。
『よかった』
「上原」
『何だ』
「やっぱ変だよ」
『……』
「俺が借金返すの、何でそんなに困るの?」
『だから、こっちで払うって』
「いつ?」
『少し待て』
「昼も同じこと聞いた」
『頼むから!』
上原の声。その後ろ。遠く。誰か。健司は意識して聞いたわけではなかった。だが。聞こえた。
『いつまで黙ってんだよ!』
別の男の声。上原。
『黙れ』
そして。さらに。
『次やられたら俺かもしれねえだろ!』
健司。動かない。電話の向こう。一瞬。完全に静まる。上原が低い声。
『……今の、聞こえたか』
健司はすぐ答えなかった。次やられたら。俺かもしれない。何を。誰に。
「上原」
『何だ』
「何が起きてる?」
『……』
「俺が返済すると、そっちで何か起きてるの?」
返事なし。健司の頭に。三回。浮かぶ。一回目。十万円。剣。二回目。十万円。身体。三回目。十万円。気配。そして。二十年以上。何も起きなかったギフト。
《肩代わり》。
「……まさか」
上原。
『健司』
「俺、返すたびに何か増えてる気がするんだよ」
『……』
「そっちは」
健司はゆっくり聞いた。
「何か減ってる?」
通話。切れた。上原から。健司はスマートフォンを耳から離す。画面。通話終了。母が向かいから見る。
「切れたの?」
「うん」
「上原さん?」
「うん」
「どうしたの?」
健司は少し考えた。
「分からん」
本当に。まだ分からない。ただ。今まで偶然だと思っていたものが。初めて。一本の線に見えた。返済。自分の変化。上原たちの焦り。
《肩代わり》。
健司は食卓の上にスマートフォンを置き、金融会社の残高を開いた。2,700,000円。
「……簡易鑑定、やるか」
母。
「病院?」
「違うよ」
「ならいいけど」
羊羹。残り一切れ。健司はそれを口へ入れる。甘い。茶。苦い。借金はまだ二百七十万円。だが。今まで役に立たないと思っていた《肩代わり》が。本当に動いているのかもしれない。健司はその夜、初めて。自分のギフトについて、二十年以上ぶりに真剣に考えた。そのあとも健司はすぐには眠らなかった。机の引き出しを開ける。昔使っていた探索者証の控え。若い頃の登録書類。ギフト鑑定の紙も一枚だけ残っていた。色褪せている。
《肩代わり》
名称だけ。発動条件――不明。効果――不明。二十年以上前、何度見ても意味が分からなかった紙だった。
「本当にこれなのかな」
当時の健司は、もっと分かりやすい能力を期待していた。剣が強くなるとか、身体が丈夫になるとか、回復できるとか。結局何も起きず、そのまま忘れた。だが今は。三回の返済。三回の変化。しかも上原たちの反応。偶然で片づけるには、少し重なりすぎている。ゴンが居間からゆっくり歩いてきた。
「まだ起きてたのか」
大きな頭を撫でる。モチはもう母の部屋の近くで丸くなっている。
「明日、三千円使うぞ」
ゴン。無反応。
「高いよな」
尻尾が一度だけ床を叩く。
「そうだよな」
都合のいい解釈。健司は鑑定紙を畳み、財布の横へ置いた。明日。畑を済ませたらギルド。簡易鑑定。それで何も出なければ、また考えればいい。何か出たなら。今度こそ、上原へちゃんと聞く。
「借金返してるだけなんだけどな」
誰に言うでもなく呟く。返済するたび強くなる。そんな都合のいい話なら、普通は喜ぶのかもしれない。だが健司には、電話の向こうで聞こえた言葉の方が引っかかっていた。
――次やられたら俺かもしれねえ。
自分が得るたび、誰かが失っている。もし本当にそうなら。
「……面倒だな」
結局、その感想へ戻る。怒るより先に。欲しがるより先に。まず確かめる。健司は照明を消した。明日も畑はある。だから考えるのは、そこまでにした。布団へ入ってからも、健司は一度だけ目を開けた。もし明日の鑑定で、本当に三つの技能が増えていたら。それでも返済そのものは止められない。上原たちが払うならそれでいい。払わないなら、自分が払う。そこだけは変わらない。
「能力欲しさに返したって思われるのは嫌だな」
暗い天井へ呟く。ゴンの寝息が遠くから聞こえる。その音を聞いていると、妙に落ち着いた。
「まあ、明日だな」
考えるのをやめる。畑も借金も、先のことを全部一晩で片づけることはできない。一つずつ。それでいい。そして何より、明日も朝になればトマトは待っている。ギフトがどれだけ珍しくても、畑の時間だけは変わらない。それが健司にはありがたかった。分からないことは多い。それでも、分からないまま勝手に決めつけるより、一度きちんと確かめた方がいい。健司はそう思った。明日になれば、少なくとも今より一つは答えに近づくはずだった。




