第10話 なんか、よく聞こえる
森健司が鶏小屋へ向かって歩いていると、右手の藪から小さな音がした。カサ。健司は足を止めた。
「ん?」
まだ日が昇ったばかりだった。畑の上には薄く朝靄が残り、遠くの山から鳥の鳴き声が聞こえている。縁側ではゴンが伏せている。その背中には、いつものようにモチ。鶏たちは小屋の中で、早く外へ出せと騒いでいた。健司は藪を見る。動かない。
「猫か?」
近所には野良猫もいる。狸も出る。たまに狐を見ることもある。田舎なら珍しくない。健司が再び歩き出そうとした。カサ。今度は少し奥。続いて、草を踏むような微かな音。健司は眉を寄せた。
「結構いるな」
縁側にいたゴンはまだ反応していない。鼻を地面へつけたまま。健司は静かに藪へ近づいた。三歩。四歩。そこで音が止まる。健司も止まった。数秒。何も聞こえない。
「気のせいかな」
そう呟いた瞬間。藪の中から茶色い影が飛び出した。
「おっ」
小さな獣。イタチだった。健司の横を駆け抜け、畑の向こうへ消えていく。少し遅れてゴンが顔を上げた。
「今気づいたの?」
ゴンはこちらを見る。
「俺の方が早かったぞ」
昔なら逆だった。人間より犬の方が耳も鼻もいい。当然だ。ところが今日は、ゴンが反応するより先に健司が気づいた。
「寝ぼけてた?」
ゴンの頭を撫でる。尻尾だけが動く。背中のモチが、
「ピィ」
と鳴いた。
「お前は気づいてた?」
ピィ。
「分からんな」
鶏小屋を開ける。鶏が次々に外へ出てくる。餌。水。卵。いつもの仕事を始める。だが今日は、妙に周囲の音が気になった。羽音。土を蹴る音。鶏が嘴で地面をつつく音。遠くで母が戸を開ける音。納屋の屋根から落ちた朝露。小さなものまで、やけにはっきり耳へ入ってくる。
「……耳掃除したっけ」
していない。昨日までと同じ。健司は首を傾げた。三度目の十万円を返したあと、一瞬だけ頭の奥が冴えたような感覚があった。そのときも、庭の小さな音がよく聞こえた。
「関係あるのかな」
少しだけ考えた。だが答えは出ない。そもそも借金を返したから耳が良くなるなど、意味が分からない。十万円。聴力。どう考えても繋がらない。
「たまたまだな」
結論は早かった。健司は卵を籠へ入れた。今日も七個。一つだけ少し小さい。
「これは家用だな」
畑へ向かう。昨日、探索者ランクがEへ上がった。昔はDまで上がっていたので、ようやく一つ手前まで戻ったことになる。だからといって生活は何も変わらない。朝は畑。そのあと時間があればダンジョン。夕方はまた畑。鶏へ餌。ゴンの散歩。モチへブルーベリー。母と晩飯。たまに夜は将棋か麻雀。探索者ランクが一つ上がったくらいで、農家の仕事が減ることはなかった。トマトを採る。キュウリ。ナス。ピーマン。籠がいっぱいになる。持ち上げる。
「よいしょ」
やはり軽い。最近はもう驚かなくなってきた。身体の調子がいい。耳もよく聞こえる。剣も昔より動く。
「健康になったな」
四十六歳。悪いことではない。むしろありがたい。畑の端まで籠を運んだところで、母がやってきた。
「健司」
「なに?」
「今日もダンジョン行くのかい?」
「昼からな」
「そうかい」
母は健司の横へしゃがんで、取り残していた雑草を抜き始めた。
「母さん、暑くなる前に戻れよ」
「まだ涼しいよ」
「日が出たらすぐ暑くなるから」
「分かってるよ」
健司は少し離れた畝へ移動する。そこで。小さな音。カチ。健司が止まった。
「ん?」
母の方を見る。何か落ちた。金属。視線を地面へ。母の作業着のポケットから、小さな鍵が落ちていた。
「母さん」
「なんだい?」
「鍵落としたぞ」
「どこに?」
健司が拾う。
「これ」
「あら」
母が受け取る。
「よく分かったねえ」
「音したから」
「聞こえたのかい?」
「うん」
母は鍵を見る。
「私、全然気づかなかったよ」
「最近耳いいんだよ」
「歳取ると耳遠くなるっていうのにねえ」
「若返ったかな」
「四十六で?」
「母さんに言われると説得力あるな」
二人で笑った。畑仕事を一通り終える。家へ戻る。朝飯。焼き鮭。味噌汁。漬物。卵焼き。その横でモチが健司の椅子の背へ止まっている。
「モチ」
ピィ。
「今日はギルド行くぞ」
モチが首を傾げる。
「でもダンジョンには連れていかない」
ピィ。
「しずくに預ける」
モチは何も答えなかった。母が味噌汁を飲みながら言う。
「白花さん、モチ好きなんだねえ」
「俺より喜ぶ」
「若い子は鳥好きなのかい?」
「どうだろ」
「健司も好きだろ」
「俺?」
母がモチを見る。
「毎日ブルーベリーやってるじゃない」
「餌だからな」
「ゴンにも毎日餌やってるねえ」
「当たり前だろ」
母が笑う。健司は少し考えた。そう言われると反論しにくい。朝食後。少し休憩してから軽トラックへ。今日はモチも一緒。籠へ入れようとすると、相変わらず嫌がる。
「運転中だけだって」
ピィ。
「飛べるようになったから余計危ないんだよ」
逃げる。助手席。ダッシュボード。健司の肩。最後は頭。
「モチ」
少し低い声で呼ぶ。白い毛玉が止まった。
「籠」
指をさす。モチが健司を見る。籠を見る。もう一度健司を見る。そして。自分から籠へ入った。
「……言葉分かってる?」
ピィ。
「まさかな」
籠を助手席へ置く。ギルドへ向かう。途中。スマートフォンが何度か通知を出した。信号待ちで確認。昨日の昇格試験の配信。再生数。41,000回
「四万?」
さらに切り抜き。
《岩皮猪を倒す農家のおじさん》
《昇格試験なのに塩むすび》
《Fランク詐欺? 元Dのおじさんが強すぎる》
タイトルだけ見てもよく分からない。
「詐欺って言われてる」
モチへ話しかける。ピィ。
「俺ちゃんとFだったんだけどな」
今はEになった。そう考えると、タイトルはもう古い。ギルドへ到着。自動ドア。中へ。
「モチ!」
受付のしずくが最初に言った。
「おはよう森おじさん、じゃないの?」
「あ、おはようございます」
「順番逆だろ」
「モチおはよう」
「また俺より先」
しずくが笑う。モチを籠から出す。飛ぶ。しずくの肩。もう完全に慣れている。
「お前、ここ好きになったな」
ピィ。
「私に会いに来てるんですよ」
「俺の家から出てるんだけど」
「細かいこと気にしないでください」
健司は探索者証を受付へ置いた。新しいEランク。しずくが確認する。
「今日はどうします?」
「第二階層」
「また?」
「Eになったからって急に奥へ行かないよ」
「安心しました」
「そんなに信用ない?」
「オークを逃げようとして途中で斬る人ですから」
「まだ言うの?」
「最近切り抜きで毎日見ます」
忘れさせてもらえないらしい。ドローンを借りる。配信タイトル。今日は健司自身が入力した。
【借金残り270万円】Eランクになったので第二階層を歩く
しずくが横から見る。
「普通ですね」
「普通でいいだろ」
「最近ちょっとタイトル上手くなりましたね」
「借金残高書けばいいって覚えた」
「そこだけですか」
配信開始。視聴者。開始直後から五百人。七百。千。
《Eランク森おじさん》
《昇格おめ》
《モチは?》
「受付」
《しずくちゃんに取られた?》
「預けただけ」
《返ってくる?》
「うちの子だぞ」
その言葉を自分で言って、少しだけ変な感じがした。数日前までは治ったら帰すつもりだった。今ではもう普通に「うちの子」と言っている。
「まあ、そういうもんか」
《何が?》
「独り言」
第一階層。ゴブリン。一体。通路の奥。姿が見える前に、健司は止まった。
「いるな」
《見える?》
「いや」
音。小さな足音。壁の向こう。健司は剣を抜いた。数秒後。ゴブリンが角から出てくる。
《ほんとにいた》
《なんで分かった?》
「足音」
《聞こえた?》
「聞こえた」
《マイクには全然入ってなかったぞ》
「カメラのマイク悪いんじゃない?」
《いや普通に高性能だろ》
ゴブリンが走る。一撃。倒す。先へ。今度は牙犬。まだ姿は見えない。健司が再び止まる。右。少し先。鼻息。爪が石を擦る音。
「牙犬かな」
《また?》
《どこにいるの》
数秒。岩陰。牙犬が出た。
《当たった》
《森おじさん索敵までできるようになった?》
「耳が調子いいだけだよ」
《耳の調子って何》
「最近よく聞こえるんだ」
牙犬。二撃。素材回収。第二階層へ。今日の目的は稼ぐこともあるが、Eランクになったからといって急に危険な場所へ進まないこと。今いる範囲で、安定して稼げる場所を覚える。健司はそう考えている。牙犬。魔力苔。少し珍しい赤い茸。茸を見て止まる。
「これ売れたっけ」
《食べられる?》
「食わないよ」
《農家なら分かる?》
「ダンジョンの茸は農業関係ないだろ」
《何でも農業でいけると思ってた》
「俺を何だと思ってるんだ」
昔の記憶を探る。名前が出てこない。
「無理だな」
採らない。
《持って帰って鑑定しないの?》
「毒だったら嫌だし」
《慎重》
「分からないもの触らない方がいいよ」
そのまま通り過ぎる。少し進んだところ。健司の足が止まった。
「……ん?」
今回は魔物の音ではない。金属。小さく何かがぶつかる。さらに。声。
「誰かいるな」
《探索者?》
「多分」
耳を澄ます。人間の荒い息。そして。低い唸り。一つ。二つ。三つ。
「戦ってる?」
健司は歩く速度を少し上げた。曲がり角。その先。若い探索者が二人いた。男女。どちらも十代後半から二十代前半くらい。男は片手剣。女は短い杖。二人の前には牙犬が二体。そして。健司は止まった。
「……後ろにもいるぞ」
二人は気づいていない。岩棚の陰。三体目。低い姿勢で、ゆっくり回り込んでいる。
《どこ?》
《見えない》
ドローンの位置からも隠れている。健司には聞こえていた。爪。呼吸。石を踏む音。若い男が前の牙犬へ剣を振った。
「下がって!」
女が叫ぶ。二人とも正面しか見ていない。後ろ。三体目が身体を沈める。健司の声が出た。
「後ろ!」
二人が振り返る。遅い。牙犬が跳んだ。女へ。健司は走った。自分でも驚くほど足が出た。剣を抜く。距離。間に合う。牙犬が女へ届く直前。横から剣を叩き込んだ。ガッ。牙犬の身体が軌道を変える。地面へ転がる。
「こっち!」
健司が声を上げる。若い二人がすぐ動いた。
「はい!」
男が答える。正面の牙犬一体。女が魔法を撃つ。小さな火球。牙犬が怯む。男が剣。一撃。残り一体。健司の方へ来る。
「おっと」
噛みつき。避ける。斬る。一撃目。肩。二撃目。首。倒す。先ほど弾いた三体目が起き上がる。女が杖を向ける。
「撃ちます!」
「どうぞ!」
火球。直撃。牙犬が止まる。若い男が踏み込み、最後を仕留めた。静かになる。健司は剣を下ろした。
「怪我ない?」
二人を見る。女が息を切らしながら頷く。
「はい……」
男も周囲を確認する。
「助かりました」
「後ろから一匹来てたよ」
「全然気づきませんでした」
「俺も音で分かっただけ」
若い男は少し戸惑った顔をした。
「音?」
「うん」
岩陰を見る。
「そこ歩いてた」
女も岩陰を見る。
「聞こえたんですか?」
「聞こえた」
二人が顔を見合わせた。コメント欄が凄い速度で動いている。
《森おじさんナイス》
《今の気づくのおかしい》
《ドローンにも映ってなかったぞ》
《完全に索敵持ちじゃん》
《Eランク昇格したばっかだよね?》
「耳いいだけだって」
《だから耳良すぎるんだよ》
健司はコメントを見て首を傾げる。若い男がそこで健司の顔に気づいたようだった。
「あの……森さんですか?」
「森だけど」
「配信の」
「そう」
女も目を見開く。
「あ、ゴンとモチの人!」
健司は少し黙った。
「そこ?」
「す、すみません!」
「いやいいけど」
男が笑いを堪えている。
「俺、一応ダンジョンも配信してるんだけどな」
《諦めろ森おじさん》
《もうゴンとモチの人》
《田舎の動物おじさん》
「農家だよ」
若い二人も笑った。少し緊張が解けたらしい。健司は二人の装備を見る。大きな損傷はない。怪我もない。
「二人だけ?」
「はい」
「第二階層、慣れてる?」
男が少し気まずそうにする。
「今日初めてです」
「なら、もう戻った方がいいよ」
女が頷いた。
「そうします」
男は少し悔しそうだったが、反論しなかった。それなら大丈夫だろう。健司は言った。
「入口まで一緒に戻る?」
「いいんですか?」
「俺も一回戻るよ」
《森おじさん探索続けないの?》
「牙犬三体出たからな」
《倒したじゃん》
「二人がいたから楽だっただけだよ」
《また慎重》
「初めての人二人だけで戻すのも心配だし」
若い男が頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いいよ」
素材を分ける。健司が倒した一体。若い二人が倒した二体。揉める必要はない。
「三体目、森さんが最初に斬ったので――」
「最後倒したのそっちだから、そっちでいいよ」
「でも」
「いいって」
健司は自分の分だけ魔石を取った。帰路。若い二人を前にしない。健司が少し先。二人が後ろ。そしてドローン。途中。健司がまた止まる。
「左、何かいる」
若い二人も止まった。数秒後。通路の左奥から牙犬の鳴き声。女が小声で言った。
「本当に聞こえてる……」
「今日はやけによく聞こえるんだよ」
若い男。
「今日だけですか?」
「最近かな」
《絶対スキル》
《鑑定行け》
《金かかるって断るぞ》
健司はコメントを見る。
「分かってるじゃん」
《やっぱりw》
「強くなって困ってないなら別にいいだろ」
《自分の能力に興味持て》
「借金減らす方が先」
若い二人が笑った。第一階層。安全な場所。昼休憩。健司は鞄を開ける。塩むすび。二個。若い探索者二人も保存食を出した。男が健司のおにぎりを見る。
「本当に塩むすびなんですね」
「本当にって何だよ」
「配信でいつも見てるので」
「普通だろ」
女が笑う。
「うちの母も、森さんの塩むすびのところ好きです」
「なんで?」
「落ち着くらしいです」
「食ってるだけだぞ」
《分かる》
《塩むすびタイムは必要》
《これ見ないと森おじさん配信じゃない》
健司には分からない。一個食べる。麦茶。もう一つ。
「食べる?」
若い二人へ聞く。
「え?」
「二人で半分にすれば」
男が遠慮する。
「いや、森さんの昼飯ですよね」
「一個食ったから大丈夫」
女が、
「でも……」
と言う。
「母さん大きく作るんだよ」
実際、一個でも結構腹に溜まる。結局二人で半分にした。
「うまいです」
男が言う。
「塩だけだけどな」
女も頷く。
「こういうとき、すごくおいしいです」
「だろ?」
健司は少し嬉しかった。
《塩むすび布教》
《お母さんのおにぎりが新人探索者を救う》
「大袈裟だよ」
休憩。その後、無事地上へ。若い二人と別れる。
「本当にありがとうございました」
「今度から三人以上で行った方がいいかもな」
「はい」
「慣れたら二人でもいいだろうけど」
「気をつけます」
女が少し迷ったあと、
「ゴンとモチにもよろしくお願いします」
と言った。健司は笑った。
「分かった」
ギルドへ戻る。しずくが受付からこちらを見る。
「森おじさん!」
「ただいま」
「また助けてましたね」
「見てたの?」
「途中だけです!」
「絶対仕事より見てるだろ」
「違います!」
肩にはモチ。しずくの肩。
「それより森おじさん」
「なに?」
「本当に最近、気配察知みたいなのありません?」
「耳」
「またそれ」
「聞こえるんだからしょうがないだろ」
しずくが少し考える。
「簡易鑑定なら今度やります?」
「いくら?」
「そこから聞きます?」
「借金二百七十万だぞ」
「簡易なら数千円です」
健司は少し悩む。
「……羊羹何本買える?」
「比較対象おかしくないですか?」
「結構買えるよな」
「森おじさん」
「今度な」
「絶対やらないやつ」
査定。今日は途中で帰ったので少ない。41,600円配信応援。28,350円合計約七万円。悪くない。
「人助けした回、応援多いですね」
しずくが言う。
「別にそのために助けたわけじゃないぞ」
「分かってますよ」
「困ってたら助けるだろ」
しずくが少し笑った。
「森おじさんらしいです」
「普通だって」
「たぶん、その普通が人気なんですよ」
健司は意味がよく分からなかった。ドローン返却。モチを受け取る。
「帰るぞ」
ピィ。家へ。軽トラック。畑。母。ゴン。鶏。亀。いつもの生活へ戻る。だが、その日の配信から切り抜かれた一つの動画が、健司の知らないところで急速に広がっていた。タイトル。
《見えない三体目に気づいた森おじさん――新人探索者を救う》
再生数。一万。三万。八万。そして。その動画を。都市部の高級ホテルの一室で、一人の男が見ていた。
「……森?」
上原だった。画面の中。中古の剣。地味な防具。四十六歳の男。間違えるはずがない。幼稚園から高校まで一緒だった。何十年も知っている顔。森健司。上原はスマートフォンを近づけた。動画。牙犬が岩陰から回り込む。健司が、姿を見るより先に言う。
『後ろ!』
そして走る。剣。救助。上原の表情が変わった。
「なんでこいつ……」
コメント欄。
《森おじさん索敵持ち?》
《気配察知っぽい》
《本人は耳がいいだけって言ってる》
上原の指が止まった。気配察知。その言葉。数日前。自分たちの斥候役から失われた能力。いや。完全に失われたわけではない。だが明らかに精度が落ちた。今までなら察知できた魔物を見落とした。そのせいで、高難度ダンジョンで不意打ちを受けた。
「まさか……」
上原は動画を閉じる。森健司の配信ページ。タイトル一覧。そこに毎回のように書かれている数字。三百万。二百九十万。二百八十万。二百七十万。
「……待て」
上原の顔から血の気が引いた。最初。自分の剣がおかしくなった日。いつだった。思い出す。その次。盾役の身体能力が落ちた。そして。斥候の感覚。上原はスマートフォンを操作する。銀行。借入。返済履歴。自分たちが返済を止めたローン。保証人へ請求が回った。それ以降、確認などしていなかった。どうせ健司が払う。払えなければ金融会社が取り立てる。自分たちにはもう関係ない。そう思っていた。画面。残債。2,700,000円上原の指が固まった。
「三十万……」
三回。十万円ずつ。そして。自分たちから失われたもの。三つ。剣術。身体強化。気配察知。
「……嘘だろ」
偶然。そんなはずがない。普通ならそう思う。だがダンジョンがある世界だ。ギフト。呪い。契約。代償。説明できない能力はいくらでも存在する。そして上原は知っていた。森健司にもギフトがあった。昔。まだ二人とも若かった頃。探索者登録をしたとき。確か。
「……肩代わり」
上原の口から言葉が落ちた。
《肩代わり》。
何をするのか分からない。使い道も分からない。健司自身が笑っていた。
『何の役にも立たん』
そう言っていた。上原も笑った。くだらないギフト。外れ。そう思っていた。だが。もし。本当に。肩代わり。保証人。借金。返済。
「まさか……」
ドアが開く。パーティーの盾役が入ってきた。
「上原」
返事がない。
「おい」
上原はスマートフォンを差し出した。
「これ見ろ」
「何だよ」
「森だ」
「誰?」
「俺の幼馴染」
盾役が動画を見る。数十秒。表情が変わる。
「……こいつ」
「分かるか?」
「動きじゃねえ」
動画を戻す。健司が牙犬の存在を察知するところ。
「これ、斥候の……」
「俺もそう思った」
二人が黙る。上原がローン残高を見せる。
「最初三百万だった」
「知ってる」
「今二百七十万」
盾役は最初意味が分からなかった。だが数秒後。目を見開いた。
「三回?」
「十万ずつ三回」
「俺らが変になったのも……」
「三人」
部屋の空気が変わった。盾役が低い声で言う。
「次、誰だ」
上原は答えない。答えられない。残り二百七十万円。もし。十万円返されるたび。一つ。何かを持っていかれるのなら。あと二十七回。
「冗談だろ……」
上原が呟いた。その頃。そんなことを何も知らない森健司は、自宅の庭にいた。ゴンの散歩から戻ったところだった。モチがゴンの背中から飛ぶ。健司の肩へ。鶏小屋の方。小さな羽音。そのさらに向こう。草。カサ。健司が顔を向ける。庭石の近く。亀。
「お前か」
暗くなり始めた庭を、いつもの亀が歩いている。
「最近、お前がどこにいるか音で分かるようになったな」
亀は返事をしない。健司は笑う。
「俺も歳取って変な特技ついたな」
家の中から母の声。
「健司、ご飯だよ」
「はいよ」
「今日はどこ行ってたんだい?」
「ダンジョン」
「そうかい」
「若い探索者助けた」
「そうかい。怪我しなかった?」
「してないよ」
「ならよかった」
それで終わる。晩飯。煮魚。冷ややっこ。畑で採れたキュウリの浅漬け。食後。羊羹。熱い茶。ゴンは縁側。モチはその横。借金残高。二百七十万円。健司はスマートフォンで数字を確認した。
「次はもうちょっと金貯まってからだな」
急いで返す必要はない。装備も必要。農業経費も必要。生活もある。少しずつ。無理なく。真面目に返せばいい。ただ、それだけ。遠く離れた場所で。
「次の十万円を絶対に払わせるな」
そう話し始めた男たちがいることなど――。森健司は知る由もなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かったら、★で高評価・フォローしていただけると嬉しいです。
よかったら応援よろしくお願いします!




