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7/12

ご主人様の昼食のために

 ほどなくして、前方から何かが地面を掘る音が聞こえてきた。


 ザックは足音を殺し、木々の隙間からそっと様子を窺う。


「……でか」


 そこにいたのは、猪によく似た魔獣だった。


 ただし、大きさは普通の猪などという可愛らしいものではない。


 四肢は太く、地面すれすれまで伸びた二本の牙は、人間の身体など簡単に貫けそうなほど巨大だ。背には黒褐色の甲殻が幾重にも重なり、首から肩にかけては特に分厚い。


 まともに刃を当てても、まず通らないだろう。


 ザックはしばらく魔獣を眺めた。


「…………」


 肉付きはいい。十分すぎるくらいに。


「よし。これにしよう」


 用意していた短剣を抜き、木陰から姿を現す。


 気配に気づいた魔獣が、ゆっくりと顔を上げた。


 目が合う。


 魔獣の鼻から荒い息が漏れ、前脚が地面を掻いた。


「お」


 次の瞬間、巨体が弾けるように駆け出した。


 地面を抉りながら、一直線にザックへ突っ込んでくる。その大きさからは想像できないほど速い。


 だが、ザックは動かなかった。


 迫りくる魔獣を見据え、距離を測る。


 十歩。


 五歩。


 三歩。


 巨大な牙が身体を貫く寸前、ザックは一歩だけ横へずれた。


 牙が服を掠めると同時に身を沈め、すれ違いざまに短剣を振り抜く。


 狙ったのは、甲殻に覆われていない前脚の内側だった。


 刃が肉を裂き、魔獣の体勢が大きく崩れる。それでも突進の勢いは止まらず、巨体はそのまま木へ激突した。


 鈍い音とともに幹が揺れ、枝葉がばらばらと降り注ぐ。


 数歩先で振り返ったザックは、傷を負った前脚を見て眉を寄せた。


「……浅かったか」


 狙いは悪くなかった。だが、思ったほど深く刃が入っていない。


 魔獣が巨体を起こし、怒りに満ちた咆哮を響かせる。


 ザックは短剣についた血を振り払い、右肩をぐるりと回した。


「やっぱ、ちょっと鈍ってるなぁ」


 昔なら、今ので仕留められていたはずだ。


 反応も踏み込みも、記憶にあるものよりわずかに遅い。


「まあ、あん時はまだピチピチの二十代だったしなぁ」


 三十六歳。


 あれから十年近く経ち、最近は魔獣と戦う機会もほとんどなかった。


「やっぱ、筋トレだけじゃ体は鈍るか」


 そんなことを呟いている間にも、魔獣は再び地面を蹴っていた。


 ザックは短剣を逆手に持ち替える。


 先ほどまでの、どこかぼんやりとした表情はもうない。黒い瞳が、真っ直ぐに魔獣を捉えていた。


 一度見た。それで十分だった。


 魔獣は突進する直前、わずかに頭を右へ傾ける。右の牙の方が長いからだろう。


 ならば、左。


 ザックは逃げるどころか、自ら前へ出た。


 牙が迫る寸前で身体を捻り、その脇をすり抜ける。そのまま懐へ潜り込み、前脚の内側へ短剣を深く走らせた。


 魔獣の脚が沈み、巨体が傾く。


 だが、まだ倒れない。


 魔獣は無理やり身体を捻り、ザックを掬い上げるように牙を振るった。


「っと」


 後ろへ跳んでかわすと、着地と同時にまた前へ出る。


 牙をかわし、懐へ潜り、再び距離を取る。


 攻撃を繰り返すうちに、ザックの足取りは徐々に軽くなっていった。


「よーし」


 なんとなく、思い出してきた。


 魔獣との距離。攻撃へ移る直前の筋肉の動き。次にどこへ重心が移るのか。


 忘れていた感覚が、少しずつ戻ってくる。


 もはや意識して考えるよりも早く、身体が次の動きを選んでいた。


「こんな感じだったな」


 ザックの口元が、わずかに上がる。


 苛立った魔獣が咆哮し、今までで最も強く地面を蹴った。


 真正面から迫る巨体に向かって、ザックも駆け出す。


 巨大な牙が迫った瞬間、地面を蹴った。


 魔獣が頭を振り上げる。その動きに合わせて牙へ足をかけ、勢いを利用してさらに高く跳ぶ。


 身体が宙を舞い、眼下を黒褐色の甲殻に覆われた巨体が流れていく。


 狙う場所は、すでに決まっていた。


 首の付け根。


 分厚い甲殻と甲殻の、わずかな隙間。


 ザックは空中で短剣を両手に握り直すと、落下の勢いと全体重を乗せ、その一点へ刃を突き立てた。


 短剣が深々と沈み、魔獣の巨体が大きく跳ねる。


 すぐさま刃を引き抜き、その背を蹴って離れた。


 軽やかに地面へ降り立った直後、背後で魔獣が数歩よろめく。


 そして、ズン、と巨体が地面へ沈んだ。


 森に静寂が戻る。


 ザックは振り返り、倒れた魔獣を眺めた。もう動く様子はない。


「ふぅ」


 短剣を収め、首を左右へ倒しながら肩を回す。


「適度な運動は大事だな」


 そのとき、ふと懐かしい顔が頭に浮かんだ。


「そういや、アイツ元気かなぁ……」


 最後に会ったのは、いつだっただろう。ずいぶん前のことなので、はっきりとは覚えていない。


「勇者になれたのかなぁ」


 ぽつりと呟き、少しだけ考える。


「…………」


 まあ、考えても分からない。


「ま、いっか」


 ザックはあっさり思考を打ち切った。


 今は昔の仲間より、ご主人様の昼食である。


「よし! 昼飯確保!」


 いつもの明るい表情に戻り、倒した魔獣へ近づいていく。


 しゃがみ込んで獲物を確認したザックは、ふと空を見上げた。


 さすがに全部を解体していては時間がかかる。昼食に間に合うよう戻ることも命令のうちなのだから、まずは必要な分だけ持ち帰ればいい。


「どこが美味いかなぁ」


 肉付きや脂の具合を確かめながら、ザックは慣れた手つきで解体を始めた。


「ラヴィ様、何作ったら喜ぶかなぁ」


 そんなことを考えながら、昼食に使う肉を切り分けていった。


 ◇


 昼。


 食卓には、森で仕留めた魔獣の肉を使った料理が並んでいた。


 香草をまぶして焼いた厚切りの肉に、肉汁を使った濃いめのソース。付け合わせには森で採ってきた茸を添え、温かいスープも用意してある。


「できましたよー!」


 ザックが満足げに声を上げる。


 席についたラヴィニアは、並んだ料理を一通り眺めた。


「ずいぶん立派な昼食になりましたね」


「いいのが獲れたので!」


「そうですか」


 ラヴィニアは向かいに座ろうとするザックへ視線を移した。


「?」


 ザックが首を傾げる。


 ラヴィニアは何も言わず、その姿を頭から足元まで確認した。


 目立った怪我は見当たらない。


「どうかしました? あ、ちゃんと着替えて、手を洗ってから料理しましたよ?」


「それは当然です。……まあ、いいでしょう。座ってください」


「はい!」


 何を確認されていたのか分からないまま、ザックは椅子に腰を下ろした。


「では、いただきましょうか」


「はい! いただきます!」


 二人で食事を始める。


 ラヴィニアはまず、肉をひと口食べた。


 表面は香ばしく焼かれ、中は柔らかい。癖のある魔獣肉の風味も、香草とソースで上手くまとめられている。


「美味しいですね」


「ほんとですか!」


 ザックの顔がぱっと明るくなる。


「ええ。朝食もそうでしたが、私の好みの味付けです」


「やった! あ、これ、こっちの茸と一緒に食べても美味しいですよ」


 勧められたとおりに食べてみると、確かに悪くない。


 ラヴィニアはしばらく食事を楽しんでから、ふと尋ねた。


「これで、獲ってきた肉は全部ですか?」


「まさか。全然ですよ」


「全然?」


「めちゃくちゃでかかったんで、とりあえず昼飯に必要な分だけ持って帰ってきました」


「では、残りはまだ森に?」


「はい。ほかの魔獣に食われないよう、魔獣除けを焚いてきたんで、食べ終わったら取りに行こうと思ってます」


「……なるほど」


「今日と明日で食べる分は冷蔵庫に入れて、残りは塩漬けですね。脂の多いところはベーコンにして、赤身は燻製にしようかなって。腸も使えそうだったんで、あとで回収してきますよ」


「腸まで?」


「ソーセージが作れますから」


「随分と無駄なく使うのですね」


「大事な命、貰ってますから」


 何でもないことのように言って、ザックは肉を口へ運んだ。


「燻製は何日かかかりますけどね。ベーコンも漬け込まないといけないですし」


「そこまで任せた覚えはないのですが」


「余計でした? ご所望でなければ、今後は控えます」


「いえ。むしろ助かります」


「じゃあ、やります!」


 ザックは嬉しそうに即答した。


 ラヴィニアはもう一切れ肉を口へ運ぶ。


 獲物の種類も調理方法も指定しなかったが、ザックは昼食までに狩りを済ませ、必要な肉を切り分け、料理まで仕上げてみせた。それどころか、残った肉の保存方法まで考えている。


 自分で何をするか決めるのは嫌がるくせに、一度目的を与えてしまえば、必要なことを判断し、手際よく進められるらしい。


 少なくとも、命じた仕事を安心して任せられるだけの能力はありそうだ。


「ちなみに」


「はい?」


「何を狩ってきたのですか?」


「猪っぽいやつです」


「……猪っぽい?」


「はい。でっかくて、背中が岩みたいに硬いやつ」


 ラヴィニアの手が止まった。


「甲殻は黒褐色で、牙が長かったですか?」


「あ、そうそう。それです」


「…………」


「どうかしました?」


「いえ。一人で狩ったのですよね?」


「もちろん」


 ザックは当然のように頷くと、肉をひと切れ口へ放り込んだ。


 ラヴィニアはしばらく黙っていた。


(……思っていた以上に、使えそうですね)


 やがて何事もなかったように食事を再開したが、その目は時折、美味しそうに肉を頬張るザックへ向けられていた。

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