ご主人様の昼食のために
ほどなくして、前方から何かが地面を掘る音が聞こえてきた。
ザックは足音を殺し、木々の隙間からそっと様子を窺う。
「……でか」
そこにいたのは、猪によく似た魔獣だった。
ただし、大きさは普通の猪などという可愛らしいものではない。
四肢は太く、地面すれすれまで伸びた二本の牙は、人間の身体など簡単に貫けそうなほど巨大だ。背には黒褐色の甲殻が幾重にも重なり、首から肩にかけては特に分厚い。
まともに刃を当てても、まず通らないだろう。
ザックはしばらく魔獣を眺めた。
「…………」
肉付きはいい。十分すぎるくらいに。
「よし。これにしよう」
用意していた短剣を抜き、木陰から姿を現す。
気配に気づいた魔獣が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
魔獣の鼻から荒い息が漏れ、前脚が地面を掻いた。
「お」
次の瞬間、巨体が弾けるように駆け出した。
地面を抉りながら、一直線にザックへ突っ込んでくる。その大きさからは想像できないほど速い。
だが、ザックは動かなかった。
迫りくる魔獣を見据え、距離を測る。
十歩。
五歩。
三歩。
巨大な牙が身体を貫く寸前、ザックは一歩だけ横へずれた。
牙が服を掠めると同時に身を沈め、すれ違いざまに短剣を振り抜く。
狙ったのは、甲殻に覆われていない前脚の内側だった。
刃が肉を裂き、魔獣の体勢が大きく崩れる。それでも突進の勢いは止まらず、巨体はそのまま木へ激突した。
鈍い音とともに幹が揺れ、枝葉がばらばらと降り注ぐ。
数歩先で振り返ったザックは、傷を負った前脚を見て眉を寄せた。
「……浅かったか」
狙いは悪くなかった。だが、思ったほど深く刃が入っていない。
魔獣が巨体を起こし、怒りに満ちた咆哮を響かせる。
ザックは短剣についた血を振り払い、右肩をぐるりと回した。
「やっぱ、ちょっと鈍ってるなぁ」
昔なら、今ので仕留められていたはずだ。
反応も踏み込みも、記憶にあるものよりわずかに遅い。
「まあ、あん時はまだピチピチの二十代だったしなぁ」
三十六歳。
あれから十年近く経ち、最近は魔獣と戦う機会もほとんどなかった。
「やっぱ、筋トレだけじゃ体は鈍るか」
そんなことを呟いている間にも、魔獣は再び地面を蹴っていた。
ザックは短剣を逆手に持ち替える。
先ほどまでの、どこかぼんやりとした表情はもうない。黒い瞳が、真っ直ぐに魔獣を捉えていた。
一度見た。それで十分だった。
魔獣は突進する直前、わずかに頭を右へ傾ける。右の牙の方が長いからだろう。
ならば、左。
ザックは逃げるどころか、自ら前へ出た。
牙が迫る寸前で身体を捻り、その脇をすり抜ける。そのまま懐へ潜り込み、前脚の内側へ短剣を深く走らせた。
魔獣の脚が沈み、巨体が傾く。
だが、まだ倒れない。
魔獣は無理やり身体を捻り、ザックを掬い上げるように牙を振るった。
「っと」
後ろへ跳んでかわすと、着地と同時にまた前へ出る。
牙をかわし、懐へ潜り、再び距離を取る。
攻撃を繰り返すうちに、ザックの足取りは徐々に軽くなっていった。
「よーし」
なんとなく、思い出してきた。
魔獣との距離。攻撃へ移る直前の筋肉の動き。次にどこへ重心が移るのか。
忘れていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
もはや意識して考えるよりも早く、身体が次の動きを選んでいた。
「こんな感じだったな」
ザックの口元が、わずかに上がる。
苛立った魔獣が咆哮し、今までで最も強く地面を蹴った。
真正面から迫る巨体に向かって、ザックも駆け出す。
巨大な牙が迫った瞬間、地面を蹴った。
魔獣が頭を振り上げる。その動きに合わせて牙へ足をかけ、勢いを利用してさらに高く跳ぶ。
身体が宙を舞い、眼下を黒褐色の甲殻に覆われた巨体が流れていく。
狙う場所は、すでに決まっていた。
首の付け根。
分厚い甲殻と甲殻の、わずかな隙間。
ザックは空中で短剣を両手に握り直すと、落下の勢いと全体重を乗せ、その一点へ刃を突き立てた。
短剣が深々と沈み、魔獣の巨体が大きく跳ねる。
すぐさま刃を引き抜き、その背を蹴って離れた。
軽やかに地面へ降り立った直後、背後で魔獣が数歩よろめく。
そして、ズン、と巨体が地面へ沈んだ。
森に静寂が戻る。
ザックは振り返り、倒れた魔獣を眺めた。もう動く様子はない。
「ふぅ」
短剣を収め、首を左右へ倒しながら肩を回す。
「適度な運動は大事だな」
そのとき、ふと懐かしい顔が頭に浮かんだ。
「そういや、アイツ元気かなぁ……」
最後に会ったのは、いつだっただろう。ずいぶん前のことなので、はっきりとは覚えていない。
「勇者になれたのかなぁ」
ぽつりと呟き、少しだけ考える。
「…………」
まあ、考えても分からない。
「ま、いっか」
ザックはあっさり思考を打ち切った。
今は昔の仲間より、ご主人様の昼食である。
「よし! 昼飯確保!」
いつもの明るい表情に戻り、倒した魔獣へ近づいていく。
しゃがみ込んで獲物を確認したザックは、ふと空を見上げた。
さすがに全部を解体していては時間がかかる。昼食に間に合うよう戻ることも命令のうちなのだから、まずは必要な分だけ持ち帰ればいい。
「どこが美味いかなぁ」
肉付きや脂の具合を確かめながら、ザックは慣れた手つきで解体を始めた。
「ラヴィ様、何作ったら喜ぶかなぁ」
そんなことを考えながら、昼食に使う肉を切り分けていった。
◇
昼。
食卓には、森で仕留めた魔獣の肉を使った料理が並んでいた。
香草をまぶして焼いた厚切りの肉に、肉汁を使った濃いめのソース。付け合わせには森で採ってきた茸を添え、温かいスープも用意してある。
「できましたよー!」
ザックが満足げに声を上げる。
席についたラヴィニアは、並んだ料理を一通り眺めた。
「ずいぶん立派な昼食になりましたね」
「いいのが獲れたので!」
「そうですか」
ラヴィニアは向かいに座ろうとするザックへ視線を移した。
「?」
ザックが首を傾げる。
ラヴィニアは何も言わず、その姿を頭から足元まで確認した。
目立った怪我は見当たらない。
「どうかしました? あ、ちゃんと着替えて、手を洗ってから料理しましたよ?」
「それは当然です。……まあ、いいでしょう。座ってください」
「はい!」
何を確認されていたのか分からないまま、ザックは椅子に腰を下ろした。
「では、いただきましょうか」
「はい! いただきます!」
二人で食事を始める。
ラヴィニアはまず、肉をひと口食べた。
表面は香ばしく焼かれ、中は柔らかい。癖のある魔獣肉の風味も、香草とソースで上手くまとめられている。
「美味しいですね」
「ほんとですか!」
ザックの顔がぱっと明るくなる。
「ええ。朝食もそうでしたが、私の好みの味付けです」
「やった! あ、これ、こっちの茸と一緒に食べても美味しいですよ」
勧められたとおりに食べてみると、確かに悪くない。
ラヴィニアはしばらく食事を楽しんでから、ふと尋ねた。
「これで、獲ってきた肉は全部ですか?」
「まさか。全然ですよ」
「全然?」
「めちゃくちゃでかかったんで、とりあえず昼飯に必要な分だけ持って帰ってきました」
「では、残りはまだ森に?」
「はい。ほかの魔獣に食われないよう、魔獣除けを焚いてきたんで、食べ終わったら取りに行こうと思ってます」
「……なるほど」
「今日と明日で食べる分は冷蔵庫に入れて、残りは塩漬けですね。脂の多いところはベーコンにして、赤身は燻製にしようかなって。腸も使えそうだったんで、あとで回収してきますよ」
「腸まで?」
「ソーセージが作れますから」
「随分と無駄なく使うのですね」
「大事な命、貰ってますから」
何でもないことのように言って、ザックは肉を口へ運んだ。
「燻製は何日かかかりますけどね。ベーコンも漬け込まないといけないですし」
「そこまで任せた覚えはないのですが」
「余計でした? ご所望でなければ、今後は控えます」
「いえ。むしろ助かります」
「じゃあ、やります!」
ザックは嬉しそうに即答した。
ラヴィニアはもう一切れ肉を口へ運ぶ。
獲物の種類も調理方法も指定しなかったが、ザックは昼食までに狩りを済ませ、必要な肉を切り分け、料理まで仕上げてみせた。それどころか、残った肉の保存方法まで考えている。
自分で何をするか決めるのは嫌がるくせに、一度目的を与えてしまえば、必要なことを判断し、手際よく進められるらしい。
少なくとも、命じた仕事を安心して任せられるだけの能力はありそうだ。
「ちなみに」
「はい?」
「何を狩ってきたのですか?」
「猪っぽいやつです」
「……猪っぽい?」
「はい。でっかくて、背中が岩みたいに硬いやつ」
ラヴィニアの手が止まった。
「甲殻は黒褐色で、牙が長かったですか?」
「あ、そうそう。それです」
「…………」
「どうかしました?」
「いえ。一人で狩ったのですよね?」
「もちろん」
ザックは当然のように頷くと、肉をひと切れ口へ放り込んだ。
ラヴィニアはしばらく黙っていた。
(……思っていた以上に、使えそうですね)
やがて何事もなかったように食事を再開したが、その目は時折、美味しそうに肉を頬張るザックへ向けられていた。




