ご主人様は魔女
第三王子を無事に王宮まで送り届け、ザックの護衛としての仕事は終了となった。
別れ際、なぜか第三王子から「本当に大丈夫?」と何度も念を押されたが、何がそんなに心配なのか、ザックにはさっぱり分からない。
王宮を出て正門へ向かう途中、見覚えのある白髪が目に入る。ラヴィニアだ。
門の脇に佇み、こちらを待ってくれていたらしい。
その姿を見つけた途端、ザックの顔がぱっと明るくなった。
「ラヴィニアさま——」
嬉々として駆け寄ろうとして、ふと足を止めた。
そういえば、大事なことを伝えていない。
衣食住についても聞いていないし、自分の希望も言ってない。それに、これまで奴隷契約を結ぼうとして失敗したことも、まだ説明していない。
ザックは先ほどまでの勢いを失い、幾分慎重な足取りでラヴィニアのもとへ向かった。
「お待ちしていました」
ラヴィニアの前まで来ると、ザックはどこか気まずそうに視線を泳がせた。
「あの、ラヴィニア様。俺、先に言っておかないといけないことがありまして」
「何でしょう?」
「奴隷になったあとの生活についてです」
ラヴィニアは何も言わず、続きを促すようにザックを見つめる。
「飯はちゃんと食いたいです。寝るところも欲しいですし、できればベッドがいい。風呂にも入りたいです」
「ええ」
「意味もなく殴られるのは嫌です。死ねという命令も遠慮したいです」
「当然でしょう」
「おお……」
その返事に、ザックの顔からわずかに緊張が抜けた。
「それと……」
そこでザックが言葉を止める。
「まだあるんですか?」
「こっちの方が大事かもしれません」
「?」
一度考えるように口を閉ざしてから、ザックは改めてラヴィニアを正面から見た。
「俺、奴隷契約の魔法を弾いちゃうんですよ」
「……弾く?」
「はい。身体が勝手に、外から入ってくる魔力を弾くようでして」
ラヴィニアがわずかに眉を上げる。
「あなた自身が拒んでいるわけではないのですね?」
「全然。むしろ受け入れる気満々なんですけど」
「そうですか」
「契約するには、それより強い魔力を流し込んで、無理やり押し切るしかないらしいです」
「なるほど」
「それで俺、今までの奴隷契約失敗してまして……」
「まあ」
ザックは困ったように眉を下げる。
「なので、俺が奴隷になりたくないとかじゃないんです。身体が勝手に抵抗するだけで」
「分かりました」
「結構な魔力が必要みたいなんですけど……」
そこまで言うと、ザックはラヴィニアの顔色を窺うように首を傾けた。
「それでも、大丈夫ですかね?」
「問題ありません」
あまりにもあっさりとした返事だった。
「おお……!」
「では、話も済んだことですし」
ラヴィニアはそれ以上この話題に触れることなく、ザックへ手を差し出した。
「さあ、私の家に帰りましょう」
「はい!」
ザックは迷いなくその手を取る。
自分の手よりもずっと小さく、すべすべとした手だ。
思わずその感触に気を取られていると、二人の足元から眩い光がぶわりと広がった。
「お?」
何事かとザックが視線を落とす間にも、光は勢いよく膨れ上がり、二人の身体を包み込んでいく。
次の瞬間、眩い輝きが弾ける。
光が収まった頃には、ラヴィニアとザックの姿は跡形もなく消えていた。
◇
足元を覆っていた光が薄れ、ザックはゆっくりと目を開けた。
「…………おお」
先ほどまで目の前にあった王宮の正門は、跡形もなく消えている。代わりにザックが立っていたのは、見知らぬ室内だった。
広々とした部屋には落ち着いた色合いの家具が並び、壁際には天井近くまで届く本棚がいくつも置かれている。
そのほとんどが分厚い本で埋め尽くされ、ところどころに見慣れない魔導具や、用途の分からない瓶が混ざっていた。
いかにも魔女の家らしい。
物珍しそうに周囲を見回していると、隣に立っていたラヴィニアがザックの手を離した。
「到着しましたよ」
「ここがラヴィニア様の家ですか?」
「ええ」
王宮から一瞬で移動したことも十分驚くべきことなのだろうが、それよりも今は、これから自分が暮らすことになる場所の方が気になった。
「今日から俺もここに住むんですよね?」
「そのつもりですが」
「おお……!」
途端にザックの顔が明るくなる。
ついに自分は、主人のいる生活を手に入れたのだ。
「嬉しそうですね」
「そりゃもう!」
ザックは満面の笑みで頷いた。
「念願の奴隷生活ですから!」
「そうですか」
ラヴィニアは相変わらず落ち着いた様子で答えると、改めてザックへ向き直った。
「では、まず……」
「はい!」
初めての命令が来る。そう思った瞬間、ザックは期待に満ちた顔で背筋を伸ばした。
何を命じられるのだろう。掃除か。荷物運びか。それとも、さっそく何か仕事を任せてもらえるのか。
そんなザックを見つめながら、ラヴィニアは静かに口を開いた。
「服を脱ぎなさい」
「はい!」
反射的に返事をしてから、ザックが止まった。
「……はい?」
「服です」
ラヴィニアの表情は変わらない。
「すべて脱いでください」
「……全部ですか?」
「すべて」
ザックは自分の身体を見下ろし、それからラヴィニアを見る。
(まあ、いいか!)
三十六歳にもなって、今さら裸のひとつやふたつ、何を恥じることがある。
「分かりました!」
腹を括るまでが早かった。
ザックはさっそく上着に手をかけると、何の躊躇もなく服を脱ぎ始めた。
初めての命令は予想していたものとだいぶ違ったが、命令であることに変わりはない。ならば従うまでである。
上着を脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンも脱ぐ。そして最後に残った下着にも手をかけ、あっさりと床へ置いた。
「脱ぎました」
「健康状態は問題ありませんね。では、後ろを向いてください」
「はい」
言われるがまま、くるりと背を向ける。すると背後からラヴィニアが近づいてくる気配がした。
「少し触りますよ」
「どうぞ」
直後、首の付け根に指先が触れた。
「…………!」
そこから背骨に沿って、ラヴィニアの指がゆっくりと下りていく。
ザックは目を見開いた。
これは、もしかして。
奴隷というのは、そういうことも……!
「なるほど」
期待に胸を膨らませているザックをよそに、背中に触れていたラヴィニアの指先から淡い光が漏れた。
その光は背骨に沿うように薄く広がり、やがてザックの身体へ溶け込むように消えていく。
「あなたが契約魔法を弾く原因がわかりました」
(あ、そっちかぁ)
ザックの期待はあっさりと霧散した。
そんなことには気づきもせず、ラヴィニアは再び指先をザックの背中へ滑らせていく。
「身体を巡っている魔力が、普通の人間とはまるで違います。外から魔力が入り込もうとすると、体内を巡るあなた自身の魔力が反応して、反射的に押し返しているようですね」
「へえ……」
「これでは契約魔法が定着しないのも当然です」
ラヴィニアはザックの肩甲骨のあたりで指を止めた。
「あなた、何か特別な修行でもしていましたか?」
「いや、してないですね」
即答だった。
「そうですか……。ですが、自然にこうなったとは考えにくいですね」
「うーん……」
ザックは記憶を探る。
修行と呼べるようなことをした覚えはない。剣や体術ならともかく、魔力に関して特別な訓練を受けた記憶など……。
「ああ」
ふと、ひとつ思い出した。
「強いて言うなら、子供の頃から変なことはやってましたね」
「変なこと?」
「近所に住んでた爺さんに教えてもらったんですよ。『身体の気を強くする方法』とかなんとか」
「どのような?」
「ええと……」
ザックは遠い記憶を辿りながら説明する。
「まず、腹の奥に気が集まってるところを想像するんです。そこから胸、肩、腕って流して、指先まで行ったらまた身体の中心に戻す。次は腰から脚に流して、足先まで行ったらまた戻す」
「…………」
「それを何回か繰り返したあと、今度は頭の先から足の先まで、気が全身をぐるぐる巡ってるところを想像するんです」
話しながら、ザック自身も改めて思う。
やはり怪しい。
「それを毎日やってれば、身体の気が強くなるって言われまして」
「それで、実際に?」
「やってましたよ。子供だったんで信じちゃって」
「どのくらい続けたのですか?」
「今もやってます」
ラヴィニアの指が止まった。
「今も?」
「はい。寝る前とか、暇なときとか。もう癖になってるんで」
「いつ頃から?」
「十歳くらいだったかなぁ……」
ザックは現在の年齢から逆算する。
「じゃあ、二十五、六年くらいですね」
今度は、先ほどよりも長い沈黙が落ちた。
「ラヴィニア様?」
「ザック」
「はい」
「おそらく、それです」
「え?」
思わず振り返ろうとすると、背中に添えられた指で止められた。
「そのままで」
「あ、はい」
ザックは素直に前へ向き直る。
「あなたが想像していた『気』というものは、おそらく魔力です。実際に体内の魔力を動かし、全身へ循環させていたのでしょう」
「ほお?」
「それを二十五年以上も繰り返した結果、体内の魔力循環が通常では考えられないほど強固になっている。意識して抵抗しなくとも、外部から侵入してきた魔力を身体が異物として押し返すほどに」
「…………」
ザックは黙り込んだ。
二十五年以上、ただの習慣として続けてきたことが、まさかそんな作用をもたらしていたとは思わなかった。
しかも、そのせいで自分は奴隷契約に何度も失敗している。
「…………あの爺さん」
「?」
ザックの眉間に、じわじわと皺が寄っていく。
「余計なこと教えやがって!」
「…………」
「おかげで俺、何度も奴隷になり損ねたじゃねえか……!」
心底恨めしそうな声だった。
ラヴィニアはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「普通は感謝するところでは?」
「どこがですか!」
「二十五年以上も続けた結果、これほど強い魔力抵抗を得たのでしょう?」
「奴隷契約まで弾いてどうするんですか!」
「それは……」
ラヴィニアが珍しく言葉に詰まる。
「あのジジイ、天国であったら文句言ってやる……」
ザックは裸のまま、遠い過去の老人に恨み言を吐いた。
「まあ、原因が分かったのなら話は早いですね」
ラヴィニアはザックの背中から指を離した。
「では、さっそく奴隷契約を結びましょう」
その言葉に爺さんへの恨みなど、一瞬で吹き飛んだ。
「はい!……俺、何すればいいですか?」
「こちらを向いて、そのまま動かないでください」
「分かりました!」
ザックが向き直ると、ラヴィニアはその胸元へ片手を向けた。




