奴隷、地雷を踏む
かつて人の領域と魔物の領域を隔てていた、古い境界線。その名残である石造りの防壁が、草原を横切るように長く続いている。
もっとも、造られてからすでに数百年。ところどころ崩れ、積み上げられた石の隙間からは雑草が伸びている。
今では領地の境を示す目印として残されているだけで、防壁としての役目はとうに終えていた。
ザックとラヴィニアは、その防壁から少し離れた場所に立っていた。
二人の前には、地面に刻まれた古い術式がある。
「ザック、心は決まりましたか?」
「……はい」
返事は珍しく小さく、その声にはまるで自信がない。
「踏むだけの簡単なお仕事ですよ!」などと息巻いていた昨日までの威勢はどこへやら。
今のザックは、数歩先にある防衛術式を前に、両足をガクガクと震わせている。
「昨日までの元気はどうしたのですか?」
ラヴィニアが可笑しそうに笑う。
ザックがここまで怯えている理由は、ただ一つ。
地雷ではない。今まさに、自分の身体にかけられている防護魔法のせいだった。
「……ラヴィ様。もう一回だけ聞いていいですか?」
「なんでしょう?」
「この防護魔法、本当に大丈夫なんですよね?」
「おそらく」
「おそらく……」
地雷から身体を守るためにかけられたこの魔法。実はラヴィニアが昨夜、即席で考えたものだった。
当然、実際に使うのはこれが初めてになる。
「理論上は問題ありません」
「そこなんですよ……!」
ザックは泣きそうな顔で自分の身体を見下ろす。
踏めば爆発する地雷ならいい。ラヴィニアに踏めと命じられたのだから、踏めばいいだけの話だ。
問題は、その爆発から自分を守ってくれる唯一のものが、昨夜思いつきで作られ、試したことすらない魔法だということである。
「私が信じられませんか?」
背後から、悲しげな声色でそう聞かれる。
もちろん、ラヴィニアはわざとそんな声を出している。だが、そんなことにザックが気づくはずもない。
「ぐぅ……」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
ラヴィニアのことは信じている。主人として選んだのも自分だし、これから命令には従うと決めたのも自分だ。
だからこそ、その言い方はずるい。
「し、信じてますよ」
「では、問題ありませんね。行きなさい」
「ぐぅぅ」
逃げ道を綺麗に塞がれた。
しばらくその場で唸っていたザックだったが、やがて覚悟を決めるように防衛術式へ向き直る。
「い、行きますよぉ!」
「ええ。お願いします」
背を向けたザックには見えなかったが、ラヴィニアの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
震える足を一歩、また一歩と前へ進め、防衛術式の中心までやってくる。
そこで、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……ここですよね?」
「ええ、そこです」
「踏みますよ?」
「どうぞ」
「本当に踏みますからね?」
「早くしなさい」
「はい!」
ぎゅっと目を瞑り、勢いよく足を踏み下ろす。
「どうにでもなれっ!」
瞬間、足元の術式が眩い光を放った。
「——っ!」
轟音が響く。
大地が爆ぜ、凄まじい衝撃とともに土砂が高く舞い上がった。周囲の草は根こそぎ吹き飛び、術式のあった地面が大きく抉れていく。
やがて土煙がゆっくりと晴れ、その中心から人影が現れた。
ザックだ。
「…………」
足元には大きな穴ができている。
にもかかわらず、身体には傷一つない。どこにも痛みはなく、服すら破れていなかった。
もちろん、手も足もちゃんと全部ついている。
「……生きてる」
「だから言ったでしょう。理論上は問題ないと」
「ラヴィ様……!」
感極まったように振り返ったところで、ふと動きが止まった。
「…………」
「どうしました?」
「ちょっと待ってください」
妙に真剣な顔で、自分の下半身へ視線を落とす。
数秒の沈黙。
「……ちょっと漏れました」
「…………」
ラヴィニアの顔から笑みが消えた。わずかに眉を寄せ、なんとも言えない顔でザックを見る。
「……本当に?」
「本当にちょっとです!」
「量の問題ではありません」
「だってあんな爆発すると思わないじゃないですか!」
「爆発すると散々説明したでしょう」
「聞いてる爆発と体験する爆発は違うんですよ!」
「…………」
ラヴィニアが、すっと半歩離れる。
「ちょっと!なんで離れるんですか!」
「いえ……」
「ラヴィ様!?」
「着替えは持ってきていますか?」
「そういう心配をされると余計に恥ずかしいんですけど!ないです!」
ザックの悲痛な声が、抉れた大地の上に響き渡った。
それからも、防壁に沿って残された防衛術式を次々と踏んでいく。
二つ目。
「い、行きます!」
ドォンッ!
「うわああっ!」
三つ目。
「踏みますよ!」
ドォンッ!
「ひぃっ!」
四つ目。
ドォンッ!
「うおっ!」
五つ、六つと数を重ねるうちに、悲鳴は少しずつ短くなっていった。
そして十を越える頃には、爆発の瞬間に目を瞑ることすらなくなっていた。
「次、どこですか?」
「あちらです」
「はーい」
示された場所まで歩いていくと、もはや躊躇することなく術式を踏みつける。
轟音とともに大地が爆ぜた。
土砂が舞い上がる中、ザックだけが何事もなかったかのようにその場に立っている。
「次は?」
「随分と慣れましたね」
「まあ、これだけ踏めば嫌でも慣れますよ」
服についた土埃を払いながら、次の術式を探す。
「なんなら、さっさと終わらせてパンツを履き替えたいです」
そう言ったザックの目は、少し遠かった。
「次、どこですか?」
「あちらです」
「はい」
ドォンッ!
「次!」
「その先です」
ドォンッ!
「次!」
「……急に仕事が早くなりましたね」
「今の俺には明確な目標がありますから!」
「パンツを履き替えることでしょう?」
「はい!」
「そんなに堂々と言うことではありません」
呆れたようなラヴィニアの声を背に、ザックは次の防衛術式へと駆けていった。
そうして爆音を響かせながら防壁沿いを進むこと、しばらく。
「これで最後です」
「はい!」
示された最後の防衛術式を、迷いなく踏みつける。
轟音。
何度目かも分からない爆発が大地を揺らし、また一つ新たな穴が刻まれた。
その中心で、ザックは微動だにせず立っている。
やがて辺りに静けさが戻った。
「終わりましたね」
「終わったぁ……!」
大きく息を吐く。
防壁に沿って点々と残るのは、いくつもの巨大な爆発跡。すべて無事に処理できた。
ザックはどこか誇らしげな顔でラヴィニアのもとへ戻る。
「これで、あのおばさんも俺をラヴィ様のエリート奴隷だと認めてくれますかね?」
「……エリート奴隷?」
「はい!」
「なんですか、それは」
「俺です!」
迷いのない即答に、ラヴィニアはしばらくザックを見つめたあと、ふっと小さく笑った。
「まあ、よくできました」
ぱっと顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「防護魔法も問題なく機能しましたし、これで安心して今後の地雷の処理はあなたにお任せできますね。ちなみに、まだ何ヶ所か心当たりがあります」
「何ヶ所か……」
「正確な数は覚えていませんが」
「…………」
数百年生きている魔女の言う『何ヶ所か』が、本当に何ヶ所なのか。
ザックは聞かないことにした。
◇
ザックとラヴィニアは、その足で老魔女のもとへ報告に向かった。
彼女が『私の領土』と呼んでいた場所を実際に治めているのは、その夫である領主らしい。つまり、老魔女自身は領主夫人という立場になる。
案内された屋敷の一室では、老魔女が椅子に腰掛け、二人を待っていた。
「随分と早かったじゃないか」
部屋へ入ってきた二人に、老魔女が眉を上げる。
「それで、どうだった?」
「すべて処理しましたよ」
「本当かい?」
「ええ」
あまりにもあっさりとした報告に、訝しげな表情を浮かべる。
「こんな短時間でどうやって解除したんだい?もちろん、その男にやらせたんだろうね?」
「ええ。あと、解除はしていませんよ」
「は?」
老魔女の眉間に皺が寄った。
「解除してないなら、どうやって処理したっていうんだい?」
「踏ませました」
「はぁ!?」
椅子から身を乗り出し、ドヤ顔のザックを見る。次にラヴィニアへ目を向け、もう一度ザックへと視線を戻した。
「正気かい……?」
「至って正気ですが。ザックに防護魔法をかけて、一つずつ踏ませました」
「……なんてことを」
「爆発で抉れた地面は、私が元に戻しておきました。ザックもよく働いてくれましたよ」
「はい!」
褒められたザックが、嬉しそうに胸を張る。
老魔女は絶句した。
何百年も放置されていた危険な術式をその身で起動させられたというのに、この男は主人に褒められただけでこの喜びようである。
「……あんた」
「はい?」
「もう心まで完全に飼い慣らされちまってるんだねぇ……」
「え?」
「可哀想に……」
「なんで!?」
思いもよらない言葉に、ザックが目を見開く。
「俺、めちゃくちゃいい主人に拾ってもらったと思ってますよ?」
その言葉を聞いた老魔女の眼差しが、ますます憐れみに満ちたものへと変わった。
「もういいよ。あんたが幸せなら、それで……」
「さて、報告も済みましたし、私たちはこれで失礼します」
ラヴィニアが席を立つ。
「なんだい、もう帰るのかい?」
「ええ。ザックに早く着替えさせたいんです」
そこで一度、ザックへ目を向ける。
「汚いので」
老魔女の眉がぴくりと動いた。
何度も爆発に巻き込まれたせいで、ザックの服はあちこち土埃にまみれている。
しかも、それを眺めるラヴィニアの目は、とてつもなく冷たい。
「……あんた」
「なんでしょう?」
「散々危ない目に遭わせて働かせた挙句、汚いとはなんだい!」
「え?」
珍しく、ラヴィニアがきょとんとする。
「見てみな!こんなに土埃まみれになって!あんたに言われた仕事を頑張った結果だろう!奴隷だとしても、一人の人間として扱ってやんな!」
「ああ。これは別に——」
「ザック、あなたは黙ってなさい」
「はい!」
素直すぎる返事に、老魔女の表情がさらに険しくなる。
「ザック」
「はい?」
「主人を庇わなくていいんだよ」
「庇ってないです!」
「いいんだ。私には分かってるから」
「え、なんのこと?」
「帰りますよ、ザック」
「はい!」
途端にザックの顔がぱっと明るくなる。
一刻も早く帰って、パンツを履き替えたい。
一刻も早く帰って、パンツを着替えさせたい。
ただそれだけなのだが、老魔女の目には、主人に呼ばれただけで喜んで駆け寄る哀れな奴隷の姿にしか映らなかった。
「可哀想に。強く生きるんだよ」
「何か勘違いしてません?」
「ザック」
「はい!今行きます!」
呼ばれるなり、ザックはラヴィニアのあとを追っていく。
その背中を痛ましげに見送りながら、老魔女はぽつりと呟いた。
「……すっかり支配されちまって」
その数日後、ザックのもとに老魔女から領地の名産品がたっぷりと詰まった荷物が届いた。
同封されていた手紙には、『身体を大事にするんだよ』の一言。
それを読んだザックが、自分の仕事ぶりを認めてもらえたのだと大喜びしたのは言うまでもない。




