第三十九話 ヴァレリアル・クワット(V.Q.)
「ヴァレリアル・クワット?」
エチカの口からその名がこぼれた瞬間、室内の空気がぴたりと止まった気がした。
俺には聞き覚えのない名前だ。それなのに、なぜか体の奥が冷える。まるで部屋の温度そのものが一段下がったみたいだ。
いつもなら笑っているエチカの表情が、別人みたいに険しくなっている。
その隣でヴァレリーは、隠れんぼでようやく鬼に見つけてもらえた子供みたいに、うっとりした笑みを浮かべていた。
「僕の本当の名前を知っているとは」
ヴァレリーがゆっくりと声を出す。
「ということは、君は少なくとも五十年以上は生きているか、あるいは地球の科学機関の人間ということになりますね」
「お、お前……五十年以上も生きてるのか!?」
思わず声が裏返った。
「ちがうよ!」
エチカはむっとした顔で俺を睨みつけた。
「五十年も生きてない! ちょっと下だよ。それに、地球の科学機関で働いてたのは本当。ヴァレリアル・クワットを知らない人なんて、あの界隈にはいないの」 「でしょうねぇ」
ヴァレリーが唇の端を上げる。
あまりの嬉しそうな顔に、俺の背中を再び冷たいものが這い上がった。
次の瞬間、エチカが声を発した。
「自分が地球で何をしたか、覚えてないの!?」
「覚えていますとも」
ヴァレリーの声は、氷みたいに静かだった。
「もっとも、今やっていることと大差ありませんがね」
ぞわり、とした感覚が喉元まで這い上がってくる。
「エチカ、こいつは一体何者なんだ」
俺が問うと、エチカは息を呑んで目を伏せた。
「この男は昔、違法で悲惨な人体実験を繰り返して地球から追放されたの。科学者なら誰だって知ってるほどの、悪名高い存在」
「悲惨って……どんな……」
俺の問いを遮るように、ヴァレリーはカプセルへと手を伸ばした。
透明なガラスの奥で、淡い紫の光が揺れている。
水に溶けた大きな塊の肉片のようなものが、ふよふよと漂っていた。
「これは……何なんだよ」
「人間ですよ」
ヴァレリーは声色を変えず、淡々と答えた。
「こちらのサンプルは、つい先日ブリアン様の部下が連れてきた女性です。ふつうならお相手を務めるだけで済むのですがこの女は口が減らず、身の程も知らない。ですので、ここに回されました」
カプセルの中にいる人間はかろうじて顔の形が保たれているが、見るに耐えない姿になっていた。
俺はその中にいる人間と、どこかで会ったような気がしたが思い出す前に吐き気がし、考えるのをやめた。
ヴァレリーは優しくカプセルを撫でる。ぞっとするほど慈しむような仕草だった。
「でも予算が足りなくてね。地球の頃のようにはいかないんです。あぁ、しかし朗報がありまして。君を再生できれば、ブリアン様が研究予算を増やしてくださるそうで。しかもなんと君はこの地下に落とされても生きていた! 私はとても幸運です」
満足げに笑うその顔は、外側だけ笑っていて、瞳の奥では何かが腐っているみたいだった。
「そういえば顔はもう思い出せませんが、この研究室を覗いた人間が、ブリアン様以外にも二人ほどいましたねぇ。ひとりは年老いた男、もうひとりは――ブリアン様がずいぶんとご執心だった女。運だけは良かったらしく、二人とも逃げおおせたようですが……。となると、ここを見た人間は外へ出られる可能性がある、ということになります。もっとも――その後、彼らがどんな末路を辿ったのかまでは、私も知りませんがね。ははっ」
ヴァレリーは不敵に笑っている。
何に喜んでいるのかすら、俺には理解できない。
「何のためにこんなことをしているんだ!」
「僕は老いを克服する研究をしています。不老の研究ですよ」
ヴァレリーはうっとりした声で続ける。
「あぁ、不死もかつては研究しましたが、技術的にまだ無理だと悟りました。だから路線変更したんです。まず肉体だけを若く保つ器を作ることにしたんです。老いない体をね」
声は穏やかなのに、言葉は氷の棘みたいに耳に刺さる。
「ブリアン様もまた、永続の美を望まれる方です。だから利害が一致した。だから僕はここにいるのですよ」
淡々と語るその姿を見て、俺の胸に湧いたのは恐怖じゃない。
人としての何かがごっそり削ぎ落とされた異物に対する嫌悪だった。
「そんな研究、ありなのかよ」
俺が吐き捨てると、エチカが静かに続ける。
「地球でも不老や不死の研究はあるけど、彼のように生きた人間に苦痛を与えた犠牲の上での研究じゃない。そんな研究を続けて、今の今まで生きていたなんて」
「私自身も研究の成果です。中身はおいぼれですが。それに苦痛を与える実験なんてあの時代では普通でしたよ。それ以前もです。政府が勝手に法を厳しくしただけです。全く余計なお世話でしたよ」
ヴァレリーは天井に視線を移し笑う。その笑みはもう人間の笑顔の形をしているようには見えなかった。
「それより」
ヴァレリーは憤るエチカに視線を移した。
「あなたはどうやってその体を手に入れたのです?」
その問いに、胸がざわつく。
まるでヴァレリーは、エチカの秘密をすでに知っているみたいだった。
エチカは、失敗作の薬でこの姿になったと言っていた。
でも、本当に失敗だったのか?
エチカは小さく息を吐き、そしていつもの調子に戻ったように明るく言った。
「秘密だよ! 知ってたとしても教えない! あっかんべー!」
その声に、張りつめていた俺の肩の力がほんの少し抜けた。
「脳まで幼児化してしまうのは、やはり厄介ですね」
ヴァレリーが小馬鹿にしたように言った、その瞬間——。
「お前たち、何をしている」
背後の扉の奥から、低く重い声が響いた。
振り返ると、さっきまでそこにいなかったはずの影が立っていた。
足音が静寂を踏みしめながら、一歩、また一歩と近づいてくる。




