第三十七話 軌道計算機
奥へ踏み込んだ瞬間、空気の質が変わったのが分かった。
ひんやりと湿った空気に、金属の匂いと静電気のざらつきが混じる。胸の奥に、嫌なざわつきが生まれた。
薄暗い部屋の中央に、それは鎮座していた。
直径一メートルほどの黒い球体。
闇を凝縮したような滑らかな表面を、無数の数字が淡い光をまとって流れていく。数列は脈動し、生き物の心拍みたいに絶えず形を変えていた。
まるでこの球体そのものが考えているみたいだ。そんな錯覚すら覚える。
「これが軌道計算機です」
ヴァレリーは胸を張り、どこか誇らしげな声で言った。そこには科学者の冷静さより、何かを創り出した神みたいな傲慢さが滲んでいた。
「エチカ、これをどうすればいいんだ」
思わず声をかけると、エチカは眉を寄せて球体を見つめていた。
顎に手を当て、頭の中で複雑な計算を組み立てているような、そんな沈黙。
「おい、どうした」
「彼女は気づいたようですね」
ヴァレリーが割り込んできた。柔らかな笑みの端に、他人の戸惑いを楽しむような影が差している。
「エチカ、説明してくれ」
エチカは小さく息を吸い、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「普通の軌道計算機なら、どんな複雑な演算でも数日で処理できる。でも、これは――」
その瞳が震えた。
「正しい答えを導き出すのに、十年はかかる」
「はぁ? 十年!?」
思わず声が裏返る。
その数字が現実味を持たず、頭の上でふわふわ漂った。
「ははっ、すばらしい!」
ヴァレリーが嬉しそうに手を打つ。
「まったく、驚きましたよ。君は本当に何者ですか? 助かった理由より、君の存在のほうがずっと興味深い」
その視線がエチカの身体を隅々まで舐めるように動く。その目は、喜びか興奮か分からない異様な光を帯びていた。
実験体を見つけたマッドサイエンティストの目、そう表現するしかない。
「君みたいな子供が、そんな知識を持っているなんて。まさか、本当は子供じゃないとか?」
背筋にざわりと冷たいものが走った。
そうだ、この男は最初からおかしかった。観察眼が異常に鋭い。どこかエチカと似ている。いや、それ以上に冷たく、残酷だ。
「おや? 図星ですか?」
にやりと笑うヴァレリー。
「それなら交換条件を、少し変更させてもらっても?」
「は?」
思わず声が荒れる。しかし、ヴァレリーは勝手に話を続けた。
「君は一体、何者ですか?」
その問いが、エチカに突き刺さる。
彼女は唇を震わせ、言葉を失っていた。
「勝手に条件を変えるな。そんな約束、してねぇだろ」
俺が怒鳴ると、ヴァレリーは肩をすくめて言った。
「甘いなぁ。交換条件を出した時点で、君たちはもう交渉の土俵に上がっている。僕のほうが一枚上手だ」
その瞬間だ。
ヴァレリーの身体がふっと揺れたかと思うと、俺の手からするりと抜け落ちた。掴んでいたはずの腕が空を切る。
白衣の裾が揺れ、胸元から金属の細い光が閃いた。
左腕に焼けつくような熱が走る。
「ッ――!」
反射的に後ずさる。痛みが追いつく前に、神経だけが強烈な警告を発した。
袖が裂け、ゆっくり血が滲み出していくのが見えた。
ヴァレリーの右手には一本のペン――いや、その先端には研ぎ澄まされた細い刃。
医療用か、いや、おそらく解剖用のメスだ。
ヴァレリーは微笑んだまま、それを指先でくるりと回して見せる。玩具を弄ぶみたいに。
「反応がいいですね」
その声が、氷のように冷たく響いた。
「ジーノ!」
背後からエチカの叫び。振り返る余裕なんてない。俺はただ、ヴァレリーとの距離を取った。
男の瞳は笑っている。だが、そこには人間の温度が欠片もなかった。
血がぽたりと床に落ちる。
ヴァレリーはそれを見て、芸術でも眺めたように微かに息を漏らした。
「やはり、生きている反応は美しい」
そう呟き、壁のボタンを一つ押す。
瞬間、部屋が歪んだ。壁が溶けるように消え、視界が一気に広がる。
五倍はある広さの実験室。整然と並ぶ透明カプセル、無機質な台座、光沢を放つ器具。
すべての表面に、「V.Q」の刻印。
「おい、これは……」
左腕を押さえながら、絞り出すように言った。
ヴァレリーの瞳が淡く光る。
「ふふふ」
ヴァレリーはゆっくりと唇の端を持ち上げる。
「彼女の反応が見たいだけです」
指差された先――エチカ。
額には汗が伝い、こめかみを流れ落ちている。それでも彼女はヴァレリーを睨みつけ、震える唇で言った。
「ヴァレリアル・クワット」
その名を聞いた瞬間、ヴァレリーの笑みがわずかに歪んだ。




