第三十六話 ヴァレリー
「あぁ〜あ、相変わらずブリアン様って人使いが荒いな。死体を生かしたまま回収しろだなんて」
鼻歌まじりの軽い愚痴が、無機質な金属の廊下に虚ろな残響を落とす。
分厚いメガネをかけ、真っ白な白衣を着た男ヴァレリーは両手で重々しい台車を押していた。
その上には、黒光りする棺が一つ。人間二人は詰め込めそうな大きさで、磨かれた表面が光を鈍く弾き、この不釣り合いな任務の不気味さを際立たせている。
「僕あの場所に行くの、本当に嫌なんだよね。体力ないし。部下に押しつければよかったかなぁ。でもまあ、予算増のために頑張るか」
文句の響きは軽い。しかし彼の足取りは揺らがず、愚痴を零すこと自体が呼吸のようなものらしい。どれほど倫理を外れた任務であっても、ヴァレリーの調子が変わることはない。
やがて、廊下の突き当たりに一枚の扉が現れた。分厚く沈んだ金属光沢を持ち、近づく者を拒むような生々しい圧迫感を放っている。まるで鋼鉄の皮膚をまとった巨大な生き物が、口を閉ざしながら侵入者を睨んでいるかのようだった。
ヴァレリーは小さくため息を吐き、取っ手下の装置に暗証番号を打ち込む。
カチリ、と乾いた解錠音が廊下に弾け、重い扉がゆっくりと開いた。
「さて、と。さっさと死体を、回収しちゃいますかね」
軽く弾む声でそう呟くと、棺の蓋を開け、ヘッドライトを取り出して額に固定する。
灯りを点すと、赤黒い染みが一面に広がる光景が浮かび上がった。壁も床も血の色に沈み、乾いた鉄の臭気がむわりと肺を押し潰す。
「相変わらずいい匂いじゃないけど、前より薄くなって心地いいかも」
ヴァレリーは棺をその場に置き、足元を慎重に踏み分けながらヘッドライトの光を左右へ振った。
「あそこから落ちたら、この辺りにあるはず……おっと──わっ!」
次の瞬間、背後から硬い指が両腕を強引に掴んだ。
台車ごと身体が乱暴に引き戻され、鋭い力で拘束される。
だが、ヴァレリーは取り乱さない。驚きの声こそ上げたものの、すぐに目を細め、口元に薄い笑みを浮かべた。
「へぇ。まさか、ここに落とされて生き延びてる人間がいるなんて」
その囁きには恐怖よりも、むしろ愉悦と好奇心が満ちていた。
まるで、想定外の獲物を前にした捕食者が、舌なめずりをしているかのように。
数十分前。
「なんでここから出られるって分かるんだよ」
「だってここには死体が一つもないでしょ。だから回収しにくる人がいるんだと思う」
「なるほど」
エチカが言うと、俺はもう疑う気にもなれなくなっていた。見た目は子供でも、中身は俺より年上の自称天才科学者。そのおかしなギャップにも、そろそろ慣れてきちまったらしい。
現在。
「エチカ、お手柄だな」
俺は白衣の男の両腕を後ろで押さえつけたまま声をかけた。
「でしょでしょ!」
エチカは胸を張って笑う。
すると、頭上のヘッドライトの白い光が差し込み、エチカの無邪気な笑顔の輪郭が浮かび上がった。その光の横で、俺の手の中の白衣の男が、苦笑ともつかない声を漏らす。
「いやはや、まさかこんな小さな子供に捕まってしまうとは」
白衣は汚れ一つなく、持ち物といえばヘッドライトと胸ポケットの高そうなペンくらいだ。
だが、その目だけがやけに冷めていて、まるで目の前の人間を研究対象として眺めているような視線だった。
「どうしてこの地下に落とされてなお生きているのか。うーん、非常に興味深い。ですが、この状況で素直に答えてはくれなさそうですね」
「もしそれが知りたいなら、交換条件だ」
俺が言うと、エチカがすかさず指を突きつける。
「そうそう! 軌道計算機の場所まで案内して!」
あまりの直球に、俺は心臓がひやっとした。だがこいつは数秒考えたあと、軽く肩をすくめただけだった。
「ええ、構いませんよ。ご案内しましょう」
普通ならもっと慎重になるはずだ。こいつ、何を企んでやがる。
「おい、本気かよ。そんな簡単に承諾していいのか? お前、ブリアンの部下なんだろ」
疑いをぶつけると、白衣の男は楽しそうに目を細めた。
「部下は部下ですがね。僕にとってブリアン様は、研究費や実験材料を潤沢に提供してくれるスポンサーに過ぎません。人格や理念を慕っているわけではないのですよ」
声は淡々としているのに、口元は妙に歪んだ笑みを浮かべている。
その笑みは忠誠でも愛想でもない。ただ異常な好奇心が滲み出ているだけだ。
「それに今は何より、あなた方がなぜ無事だったのか。それが知りたい。それさえ分かれば、軌道計算機の場所くらい、惜しむようなものではありません」
ギラリと光った瞳に、背筋がざわついた。虫の羽音みたいに薄気味悪い視線は獲物を見つけたハンターのようだ。
「助けを呼ぶような真似はするなよ」
俺は腕を締め上げた。無意識に力がこもる。
「痛っ、痛たた。両手を拘束されている僕に、どうして応援を呼べると思います? 心配しすぎですよ」
情けない声と裏腹に、その顔は嬉しそうにすら見える。
笑っているのに、目だけがまったく笑っていない。
「さぁ、行きましょう。軌道計算機のある部屋へ」
軽すぎる声だった。捕虜の態度じゃない。むしろこれから始まる実験が楽しみで仕方ない調子だ。
「エチカちゃんは僕とお揃いで白衣を着ているね。ちなみに僕はヴァレリーと言います」
歩きながら、ヴァレリーは飄々と話しかけてくる。
「それがどうした」
エチカより先に俺が遮った。理由は説明できない。ただ、こいつとエチカを関わらせたくなかった。
「僕は彼女に質問しているんだけどね」
肩をすくめて笑う。だがエチカは口を閉ざしたままだ。
やはり、感じ取っているんだ。こいつの気味の悪い気配を。
「君も僕と同じで、科学者なのかい?」
その言葉に、反射的に息が止まった。
外見は完全に子供。普通の人間なら、そんな発想にすら至らない。
なのに、こいつは最初から確信している。
「僕は外見で人を判断しないからね。だから君が本当は男性だということもわかるよ」
笑みを浮かべながら、エチカと俺を交互に眺める。
「とても綺麗な顔立ちだ。まぁ口の悪さが玉に傷かな。もっとお淑やかな口調なら、僕も気づくまでに時間がかかったかもしれないなぁ。まぁ数秒だけども」
勝手な観察をぶつぶつ続けるその声は、妙に柔らかいのに粘ついていて、背中にじっとり貼り付くような不快感を残した。
「静かに歩け」
ついに堪えきれず言った。
「お前の役目は部屋まで案内することだけだ」
ヴァレリーはにたりと笑い、小さく肩を揺らした。
「はいはい、わかりましたよ。でももう、部屋の前に着きました」
見れば、無機質な壁に黒い正方形のモニターがあるだけで、扉らしい扉はない。
「ここに扉があるのか?」
「僕の両目を、この黒いモニターに映せば開きます」
俺はエチカに視線を送る。彼女は無言で頷いた。
ヴァレリーの腕を締めたまま顔を画面の前に押しつけるようにすると、突然モニターが光り、数字とアルファベットが洪水みたいに流れ出した。
すると、壁に光の亀裂が走り、白く縁どられた扉が浮かび上がる。
その瞬間、胸がざわついた。
見たことがある。エチカの宇宙船の扉が開くときと同じだ。
エチカを見ると、彼女は鋭い目つきで内部を見据えていた。
複雑な計算式でも読み解くような、張りつめた表情で。
そしてその様子を、ヴァレリーがまた横目でじっと観察していた。
「さぁ、ここに軌道計算機があります。中へどうぞ」
浮き足立つ声には、もはや捕虜の影もない。




