第八話「無限との対話」
声を、最初に聞いたのは風呂の中だった。
シャワーを浴びていた。11月の頭、少し湯温を上げた。湯が肩を叩く音の中で——声がした。
人の声じゃなかった。
音、と言った方が正確かもしれない。でもその音は、何かを言おうとしていた。湯の音に混じって、確かに。
俺はシャワーを止めた。
耳を澄ませた。
何もない。
水滴が床を打つ音だけが残った。俺の呼吸の音が聞こえた。それだけだった。
気のせいだ、と思った。
それが間違いだったと気づくのは、翌朝のことだ。
◇◇◇
朝、起きたら部屋に誰かいた。
ベッドから体を起こして、目が慣れて——机の前の椅子に、人が座っていた。
人影が、そこにいた。
男か女か、すぐにはわからなかった。輪郭が、少しだけはっきりしていない。存在の密度が、普通の人間より薄い感じがした。煙が人の形をしているような——でも確かに、そこにある。
俺は動かなかった。
相手も動かなかった。
静止したまま、数秒が経った。
「お前が、無限か」と俺は言った。
名前なんて知らなかった。でもそう言った。なぜかそれが正しい名前だと思った。
人影が、顔をこちらに向けた。
「なぜそう思った」
声は、性別がなかった。高くも低くもない。温度がなかった。でも、どこかで聞いたことのある声だった。どこで、とはすぐに言えなかった。
「わからない」と俺は言った。「でも、そう呼ぶのが正しい気がした」
無限は、それ以上聞かなかった。否定もしなかった。
◇◇◇
壁の時計が逆に回っていた。かちかちかちかちかちかち。いつもの音だ。でも今朝は、その音が少し早い気がした。
「何者だ」と俺は聞いた。
「お前の中にあったものだ」と無限は言った。
「あった、過去形か」
「今もある。でも形が変わってきた」
「怒りのことか」
無限は少し間を置いた。
「気づいていたか」
「なんとなく」と俺は言った。「お前の輪郭が薄くなってるのも——そのせいか」
「3年前は、もっとくっきりしていた。お前が誰かを憎むたびに、俺はここに来ることができた。でも今のお前は——」
無限は続きを言わなかった。
輪郭がはっきりしない顔の中で、目だけがはっきりしていた。色は、暗い。黒に近い茶色。俺の目の色だ、と思って、それが正しいと気づいた。
「それを——お前は、どう思ってる」
無限は、答えなかった。
その沈黙の中に、何かがあった。
◇◇◇
立ち上がって、窓を開けた。
朝の空気が入ってきた。冷たかった。11月の朝は、もう冬の匂いがする。枯れ葉と、霜の手前の、乾いた冷気。
「外に出るか」と俺は言った。
「構わない」と無限は言った。
◇◇◇
学校が始まる1時間前に家を出た。
無限は俺の少し後ろを歩いた。距離を保っていた。俺が立ち止まると止まり、俺が歩くと歩いた。影みたいな歩き方だったが、影より存在感があった。
すれ違う人間は、無限を見なかった。見えていないのか、気にならないのか——どちらかわからないが、誰も反応しなかった。
「普通の人間には見えないのか」と俺は聞いた。
「お前には見える」と無限は言った。「お前の怒りから来ているものだから」
「他の誰かが、強い怒りを持っていれば見えるか」
「その怒りがどこから来るかによる」
住宅地を抜けて、川沿いの道に出た。
幅の狭い川だ。深さもない。でも朝の光が水面に当たると、細かく光が散る。コンクリートの護岸に囲まれた都市の川だが、その光だけはどこか清潔だった。
俺は護岸の縁に座った。
無限は立ったまま、川を見ていた。
「話があって来たんだろう」と俺は言った。
無限は少し間を置いた。
「ああ」
「聞く」
「お前は今、復讐をしない方向に動いている」と無限は言った。
「かもしれない」
「澪のために」
「それだけじゃない」と俺は言った。「でも、それもある」
「復讐を捨てれば」と無限は言った。「俺は消える」
俺は川の水面を見た。光が散って、また集まって、また散った。
「それを言いに来たのか」
「違う」と無限は言った。「お前に知っておいてほしかった。知った上で、お前が選ぶべきだから」
「消えることを——どう思ってる」
また沈黙があった。今度は長かった。川の音が、細く聞こえた。自転車が橋を渡る音が、遠くからした。
「怖い」と無限は言った。
俺は無限を見た。
「怒りがなくなれば、俺がなくなる」
少し間があった。
「それが——怖い」
「お前が、怖いのか」
「怖いのは、お前だ」と無限は言った。「俺はお前の中にある。だから、お前が感じていることは——俺も感じている」
俺は川を見た。
「俺が、怒りを失うことを怖いと思っているのか」
「ずっと、そうだ」
「知らなかった」
「気づきたくなかったんだろう」と無限は言った。「怒りが動力だと信じていれば、動き続けられる。でも俺がいる限り、お前は怒りを手放せない」
俺は黙っていた。
「抜け出せない、ってことか」
「今のままでは」と無限は言った。
◇◇◇
護岸に座ったまま、俺は足を投げ出した。
スニーカーの先端が、朝の光の中にあった。
3年間、怒りで動いてきた。怒っていれば進めた。立っていられた。怒りは燃料だったが——同時に、怒りがある限り、怒りを必要とする自分でいられた。
怒りがなくなった後、何が残るのか——それを考えたことがなかった。
「1つ、聞いていいか」と俺は言った。
「ああ」
「お前は、俺に復讐をやめてほしくないのか」
無限は川を向いたまま、少し時間をかけた。
「やめてほしくない」と無限は言った。「俺が存在するためには、お前の怒りが必要だ。お前が怒り続ける限り、俺は消えない。それが本音だ」
俺はうなずいた。
「もう1つだけ」
無限は黙って続きを待った。
「お前も——消えたいと思うことがあるか」
今度の沈黙は、1番長かった。
川が流れた。光が散った。遠くで鳥が鳴いた。
「ある」と無限は言った。
声が、少し変わった。温度が、少しだけ出た。
「怒りでいることは、疲れる。俺はお前の怒りだから——3年分の疲れを、俺も持っている」
「消えたいと思いながら、消えたくないとも思っているのか」
「そうだ。おかしいか」
「おかしくない」と俺は言った。「それは人間と同じだ」
無限が、俺の方を向いた。
輪郭のはっきりしない顔が、少しだけはっきりした気がした。
◇◇◇
俺は立ち上がった。
護岸の縁から離れて、川と平行に走る道に戻った。
「聞いていいか」と俺は言った。
「ああ」
「お前が消えたら——俺は、何で動けばいい」
無限は答えなかった。
俺も、答えを期待していなかった。自分に聞いている問いだとわかっていた。
でも無限は、少し間を置いてから口を開いた。
「それを見つけることが、お前に残された仕事だ」
「見つかるかどうか、わからない」
「わからない」と無限は言った。「でも、俺がいる限り——お前はその問いと向き合わなくていい。俺が怒りの受け皿でいる間は、お前は怒りだけで動けるから」
「だからお前は、ここに来たのか。俺がその問いから逃げ続けられるように」
「違う」と無限は言った。きっぱりと。
「じゃあなんで」
「お前にその問いと向き合ってほしいから、来た」
俺は足を止めた。
振り返った。
無限が立っていた。朝の光の中で、輪郭が薄かった。でも目だけは、はっきりしていた。暗い茶色の、俺の目。
「消えたくないと言ったばかりだろう」
「そうだ」と無限は言った。「消えたくない。でも——お前が怒りだけで動き続けた先に何があるか、俺は知っている。誰よりも」
「何がある」
「俺がいる」と無限は言った。「怒りだけになった先に、俺だけがいる。それだけの場所が」
◇◇◇
無限の顔が、変わった。
輪郭がはっきりしていく過程で、表情が出てきた。
俺は息を止めた。
見覚えのある目の形だった。眉の角度が、見覚えのある傾き方をしていた。口元の、少し引き締まった感じが——
「お前の顔は」と俺は言った。
言いかけて、止まった。
止まって、もう1度見た。
無限が、少し微笑んだ。
「父親に似ていると、言うつもりだったか」
俺は何も言えなかった。
「俺はお前の怒りでできている。怒りの中核に、父親への想いがある——だから、俺の顔が似てくることがある。お前が父親のことを強く思ったときに」
父の顔を、もう正確には思い出せなかった。3年前から、少しずつ輪郭が滲んでいた。でも無限の顔の中に、その滲んだ記憶と重なる何かがあった。
「怒りが動力でなくなったら」と俺は言った。
「俺は消える。その顔も、消える」
「それでも」と無限は言った。「お前が向き合うべき問いがある」
風が来た。
川から吹いてくる冷たい風が、俺たちの間を通り過ぎた。
無限の輪郭が、風で少し揺れた。煙みたいに、端がほどけた。そしてまた、戻った。
「俺はしばらく、お前の近くにいる」と無限は言った。「でも——」
「でも」
「次に会うとき、俺の顔がどうなっているかは、お前次第だ」
◇◇◇
学校に向かう道を、1人で歩いた。
無限は川沿いで薄くなって、空気に戻っていった。
朝の住宅地に、生活の音が増えてきた。ゴミを出す音、車が動き出す音、犬の散歩に出てきた人の靴音。
俺は歩きながら、考えた。
怒りが動力でなくなったら、何が残るのか。
3年間、1度も考えなかった問いを、今朝初めて正面から見た。
答えは、まだない。
でも今まで、問いすら立てていなかった。問いが立ったということは——何かが、変わり始めているということだ。
ポケットの中の金属の欠片に触れた。
冷たかった。
父の声が、3年前の歪みの断片から聞こえた夜を思い出した。まだそこにいる——澪が言った言葉を。
まだ、いる。
それを取り戻すために動くとき、動力が怒りである必要はない、かもしれない。
でも無限が、消えたくないと言いながら、消えてほしいと思っていた。
その矛盾が、なぜか俺には正しく聞こえた。
矛盾していることが、生きているということに近い。
俺は、まだ生きている。
◇◇◇
教室に着くと、琥白がいた。
俺の席に来て、弁当の袋をドンと置いた。
「今日、顔色悪い」
「悪いか」
「目の下にクマがある」
「眠れなかった」
「また時計か」
「時計だけじゃなかった」
琥白は少し俺を見た。何かを聞こうとして、止めた。
「昨日より、少しだけマシな顔してる」と琥白は言った。
「クマがあるのに」
「クマはあるけど、目が少し違う」
「どう違う」
「怒ってない目だ」と琥白は言った。「怒ってないだけで、諦めたわけでもなくて——考えてる目。3年で初めて見た」
チャイムが鳴った。
俺は鞄から教科書を出した。
怒っていない目。
まだ怒りが消えたわけじゃない。でも、怒りだけじゃなくなってきたのかもしれない。
◇◇◇
その日の昼、澪が校舎裏に来た。
「今朝、何かあった?」と澪は聞いた。
「あった」
「大きな気配がしたから。歪みじゃなくて——怒りの気配が、凝縮したみたいな」
「無限と話した」と俺は言った。
澪の目が、少し変わった。
「実体を持って現れたの?」
「朝、部屋にいた」
澪は少し間を置いた。
「それって——怒りが、動き始めたってことだと思う」
「どういうことだ」
「ずっと燃え続けてきた怒りが、向かう先を探してるとき——無限は出てくるの。出口を探してる怒りの、形だから」
俺は校舎の裏の苔を見た。
昨日より少し、霜で白くなっていた。
「無限の顔が、父親に似ていた」と俺は言った。
澪は少し間を置いた。
「……そうなんだ」
「怒りの中核にあるものが、出てきたということか」
「うん」と澪は言った。「言葉にできなかったものが、形になったんだと思う」
「父親への想いが、怒りの1番深いところにある」
「そうじゃないかな」と澪は言った。「復讐したいのは、誰かを憎んでいるからじゃない——失いたくなかった人がいるからだと思う」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
澪の言葉が、ゆっくりと、体の中に降りていった。
◇◇◇
「消えさせない」と俺は言った。
澪を見て、言った。
「お前のことも。無限のことも——まだわからないけど」
澪は、少しだけ目を細めた。笑っているのか、考えているのか、判別できない表情だった。
「無限を、消えさせたくないの?」
「消えさせたくない、というより」と俺は言った。「無限が消えるべきときに消えることを、俺が邪魔したくない。それと、無限に消えさせられたくない——の違いがある気がして」
澪はしばらく俺を見ていた。
「……うん」と澪は言った。「その違い、大事だと思う」
◇◇◇
放課後、1人で帰った。
琥白は塾があると言っていた。澪は昼で姿を消していた。
川沿いの道を通った。
今朝、無限と立っていた場所で、立ち止まった。
誰もいなかった。
水面が光を散らしていた。朝よりも斜めになった光が、夕方の角度で川を照らしていた。
俺は護岸の縁に座った。
怒りじゃない動力を見つけることが、俺の問いだ。
見つかるかどうか、わからない。でも今日、問いの形が見えた。
無限の顔の中に、父の輪郭があった。
怒りの1番深いところに、失いたくなかった人がいた。
それを取り戻すために動くとき——
それは復讐じゃなくて、もっと別の何かだ。
まだ名前がない。でも、確かにある。
かちかちかちかちかちかち——
遠くで、時計の音がした。
気のせいだ。
でも気のせいじゃないかもしれない。
今日は、その音に向かって、何も言わなかった。
言わなくていい気がした。
受け取った、と昨日言った。
それで十分だ。
あとは、俺が動く番だ。
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
ブックマークやフォローをいただけたら、
それは私たちにとって、何よりの灯りになります。
この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




