第七話「逆回りの理由」
答えが出たのは、最も予想していない場所だった。
数学の授業中だ。
黒板に2次方程式が書かれていて、先生がチョークで解の公式を展開していた。俺はノートに写していた。写しながら、別のことを考えていた。考えながら、手だけ動かしていた。
そのとき、時計が止まった。
正確には、止まったのは時計だけじゃなかった。
チョークが、空間で止まった。先生の口が、半開きのまま止まった。隣の席の女子が、消しゴムをかける途中で止まった。教室全体が、コマ送りの間に挟まれた静止画になった。
ほんの1秒、のはずだった。
でも今日は、違った。
1秒が、伸びた。
引き伸ばされた飴みたいに、1秒が長くなった。3秒になった。5秒になった。それ以上になった。
俺は椅子に座ったまま、止まった教室の中で1人だけ動いていた。
こういう静止は、3年間何度も経験してきた。でも今日は長い。今までで1番長い。
何かが、違う。
俺は立ち上がった。椅子を引く音がしたが、誰も反応しなかった。当然だ。全員止まっているから。
窓の方に歩いた。
外も止まっていた。道路を走っていた自転車が、空間で止まっている。風で揺れていたはずの木の葉が、傾いたまま止まっている。犬を連れて歩いていたおばさんが、片足を上げたまま止まっている。
止まった世界の中で、空気だけが動いていた。
秋の、冷たい空気。それが俺の頬を撫でた。
そのとき気づいた。
廊下に、誰かいる。
◇◇◇
引き戸のガラス越しに、シルエットが見えた。身長は俺と同じくらい。肩幅も同じくらい。立ち方が——
俺は息を呑んだ。
立ち方が、俺と同じだった。
癖がある。右肩を少し前に出す立ち方。子供の頃から直せなかった、俺だけの重心の置き方。
それが、ガラスの向こうにあった。
俺は3歩で引き戸まで行って、手をかけた。
開けようとした。
開かなかった。
引き戸は静止した世界の一部で、俺だけの力では動かせなかった。ガラスに手を当てると、冷たかった。向こう側のシルエットは動かなかった。
俺はガラスを叩いた。
シルエットが、少しだけ動いた。
顔を向けてきた。
ガラスが曇っていて、顔は見えなかった。でも輪郭だけが、うっすら見えた。
俺の、顔だった。
今の俺より少し輪郭が硬い。線が、少し深い。同じ顔が、少し違う年齢になったような——
声が聞こえた。
ガラスを通してではなく、頭の中に直接入ってきた。
「逆回りの理由を、聞きたいか」
答えは「ああ」に決まっていた。言葉にする必要がなかった。
「俺が送っている」と声は言った。「未来の俺が、今のお前に向けて」
◇◇◇
声は続いた。
感情がなかった。疲れていた。でも諦めてはいなかった。そのギリギリのところにある声だった。
「俺はお前の3年後だ。今、時間の外側にいる」
時間の外側。傑と同じ言葉だ。
「復讐を、完遂した」
胸郭の内側で、何かが硬くなった。
「家族のいた時間に跳んだ。あの夜に戻った。でも——俺が跳んだことで、歪みが起きた。それは、傑から聞いたはずだ」
「聞いた」と俺は言った。声が届いているかわからなかった。でも言った。
「復讐を完遂した瞬間、時間から弾き出された。今、どこにも属せない。家族は取り戻せなかった。失ったものしか残らなかった」
声が、1瞬止まった。
その沈黙の中に、3年分よりも重い何かがあった。
「それだけなら、警告を送り続けることはしなかった」と声は言った。「俺自身の失敗なら、俺が引き受ける。でも——」
「澪か?」と俺は言った。
声が、また止まった。今度は短く。
「気づいているのか」
「まだわからない。でも、関係があると思った」
「正しい」と声は言った。「俺が復讐を選んだ瞬間——澪が消えた」
◇◇◇
静止した教室に、音がなかった。
黒板のチョークが宙で止まっていた。窓の外で木の葉が止まっていた。31人の時間が止まっていた。
俺1人の時間だけが、動いていた。
「どういうことだ」
「澪は時間の修復者だ。時間が正常に流れることで、澪の存在は時間に繋ぎ止められている。俺が復讐のために時間を決定的に歪ませたとき——澪の存在を支えていた流れが、断ち切られた」
「修復者だから、逆に影響を受けやすいのか」
「時間に最も近い存在だから、時間が壊れると真っ先に消える」
俺はガラスに額をつけた。冷たかった。その冷たさを感じながら、向こう側のシルエットを見た。
「お前は」と俺は言った。「澪が消えるのを、見たんだな」
答えがなかった。
しばらくして、声は言った。
「見た。白い花が、散った。それだけだった。音もなかった。ただ、いなくなった」
俺は額をガラスから離した。
「なんで警告を送り続けた」と俺は聞いた。「お前は俺の未来だ。俺が止まれば、お前は存在しなくなる。それでいいのか」
「構わない」
迷いがなかった。
「お前に別の道を選ばせることができれば、俺の時間軸は消える。でも、それでいい。俺がいる時間軸は——残すべきものが、何もない」
俺は、何も言えなかった。
「時間は、ある」と声は言った。「今のお前には、まだある。選べる。俺が選べなかったものを」
「3つ目の選択が、何かわかるか」
「まだわからない。それはお前が見つけるものだ。俺はもう、選ぶ側にいない」
◇◇◇
時間が動き始めた。
チョークが、黒板に触れた。先生の声が、続きから再生された。消しゴムが、紙を滑った。
俺は席に戻って、椅子に座った。
ノートを見た。2次方程式の解が、途中まで写されていた。
手が動かなかった。
3年後の俺の声が、頭の中に残っていた。
残すべきものが、何もない——と言った声が。
疲れていた。感情がなかった。でも諦めていなかった。
その3つが、同時にある声だった。
俺はそうなりたくないと思った。
初めて、明確に思った。
復讐を果たした先の自分に——なりたくない。
◇◇◇
昼休み、澪が来た。
今日は非常階段の下、校舎の裏側に立っていた。日が当たらない場所で、でも風は当たる場所で、壁に背をつけて待っていた。
「今日、何かあった?」と澪は聞いた。
「あった」
「どんな」
「未来の俺に会った」
澪は少し間を置いた。
「今日の昼前、近くで大きな歪みがあったから」と澪は言った。「何かが来るって思ってた」
「気づいてたのか」
「修復者は、大きな歪みに反応するの。時間の静止が長かったから——」
俺は校舎の裏の地面を見た。
苔が少し生えていた。日の当たらない土の上に。水分を含んで、暗い緑色をしていた。
「澪が消えるかもしれない」と俺は言った。
澪は答えなかった。
「俺が復讐を選んだとき——時間の決定的な歪みが起きて、お前の存在を支えていた流れが断ち切られる」
「未来のあなたから、聞いたの?」
「ああ」
少しの間、黙っていた。
「知っていたのか?」と俺は聞いた。
「知らなかった」と澪は言った。「でも——」
澪が壁から背中を離した。
「驚かなかった」
「なんで」
「修復者は時間に近い存在だから。時間が壊れるとき、最初に影響を受ける——そういうものだって、どこかで知っていた気がするの。記憶のない知識として」
澪は俺を見た。
「怖いか」と俺は聞いた。
澪はまた少し考えた。空を見た。校舎の裏からは、空が狭く見えた。建物の間の細い青だった。
「消えることへの怖さが、あるかどうかわからない」と澪は言った。「消えた後の自分が想像できないから」
「消えた後は、ないんだから想像できなくて当然だ」
「そうだね」と澪は言った。「でも——」
澪が俺の方を向いた。
「消える前に、やり残すことがある気がする。それが怖い」
「やり残すことというのは」
「わからない」と澪は言った。「でも、ある気がするの。だからまだ、消えたくない」
俺は苔の生えた地面から視線を上げた。
澪の目が、いつもの色をしていた。名前のない、灰色とも水色とも言えない色。
「消えさせない」と俺は言った。
言ってから、自分でも驚いた。
3年間、俺は自分のことしか考えていなかった。家族を取り戻すことしか。それ以外は全部「関係ない」だった。
「復讐を選ばないってこと?」と澪は聞いた。
「まだわからない」と俺は言った。「でも——お前が消えることを、選ぶつもりはない」
それは同じことを違う言い方で言っているだけだと、頭ではわかっていた。
でも今は、その違いが重要だった。
消えさせないために動くのと、復讐をしないために止まるのとでは——動力が違う。
◇◇◇
放課後、俺は傑に連絡を取った。
番号は、最初に会った日に渡されていた。メッセージを送ると、5分で返信が来た。
「知ってるか」と俺は送った。
「何を」と傑は返した。
「時計が逆に回る理由」
しばらく間があった。
「知っている」と傑は返した。「話すべきか、迷っていた」
「なんで」
「知ってしまうと、選択の重さが変わる。知る前に決めることと、知った後に決めることは、全く別の覚悟が必要になるから」
俺はスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。夕方の空が、橙と紫の間にあった。
「もう知った」と俺は送った。
また間があった。
「そうか」と傑は返した。
「未来の俺から直接聞いた」
今度の間は、さっきより長かった。
「どうするつもりだ」と傑は返した。
「まだ決めてない」と俺は送った。「でも——1つだけ、決めたことがある」
「何を」
「澪を消さない」
送信した。
既読がついた。
返信は来なかった。
でも十分だった。今日は。
◇◇◇
夜、部屋の時計を見た。
逆に回っていた。かちかちかちかちかちかち。
3年前から続いてきた音。
未来の俺が、送り続けてきた警告の音。
「受け取った」と俺は言った。
時計に向かって。
「受け取ったから——あとは、俺が考える」
時計は答えない。逆に回り続けるだけだ。
でも今夜は、その音が少しだけ軽くなった気がした。
ずっと1人で警告を送り続けてきた未来の俺が——少しだけ、肩の荷を降ろした気がした。
勝手な想像かもしれない。
でも今夜は、そう思わせてくれ。
俺はベッドに横になって、目を閉じた。
暗闇の中で、3年後の自分の声を反芻した。
疲れていた。感情がなかった。でも諦めていなかった。
俺は、そうじゃない道を行く。
まだ何も見えていないが、その1点だけは決まった。
かちかちかちかちかちかち。
逆回りの音が、今夜だけは——応援に聞こえた。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




