第六話「白い花の正体」
澪が学校に来た。
昼休み、教室の外の廊下に立っていた。引き戸のガラス越しに見えて、最初は見間違いだと思った。でも白いワンピースは昨日と同じで、裸足ではなかった——今日は布製の薄い室内履きをはいていた。どこで調達したのか、見当もつかない。
琥白が先に気づいて、俺の肘を突いた。
「知り合い?」
「ああ」
「制服じゃないけど」
「うん」
「転入生?」
「違う」
「じゃあ何」
俺は弁当の蓋を閉めて立ち上がった。
「後で説明する」
琥白が何か言っていたが、廊下に出たら聞こえなくなった。
◇◇◇
澪を非常階段に連れて行った。いつもの場所。3段目の鉄板を踏まないように先に踏んでみせると、澪はその通りに足を置いた。1度で覚えた。
「今日、記憶が残ってたのか」
「昨日のことは、ある」と澪は言った。「澪という名前も。でも——」
「でも」
澪は手すりを握った。細い指で、白い指節が少し浮いた。
「今朝、1つ、断片が出てきたの」
「新しい記憶か」
「新しいのか古いのか、わからない。いつのものかわからない断片が、たまに出てくる。今朝のは——」
澪は空を見た。
快晴だった。10月の終わり、雲がほとんどない青。その色を確認してから、澪は俺を見た。
「あなたに関係のある断片だった」
俺は答えなかった。
「見せることができる」と澪は言った。「修復者の力の1つ。自分の記憶の断片を、触媒を使って他者に共有できるの」
「触媒というのは」
「媒介になるものがあればいい。強い感情と結びついた物体か、場所か」
俺は少し考えて、ポケットを探った。財布の奥に入れていたものを取り出した。
小さな、金属の欠片だった。形がない。3年前の夜、消えた家族の家跡を警察が調べた後、地面に落ちていたのを拾っておいたものだ。何かの部品だったのかもしれないし、もともとただの廃材だったかもしれない。
でも3年間、ずっと持ち歩いていた。
澪の目が、欠片を見て止まった。
「……それが、いい」
◇◇◇
澪が欠片を両手で包んだ。
目を閉じた。
手の動きは昨日の修復のときと似ていたが、今日は小さかった。内向きの動き。外に向かうのではなく、内側を探るような手の軌跡。
俺は何をすればいいかわからなくて、ただ立っていた。
3秒か、10秒か——体感ではわからない時間が経って。
頭の中に、映像が入ってきた。
映像、というより、感覚だ。視界が変わったのではなく、現実の上に別の現実が重なった。2枚の半透明なフィルムが重なるみたいに。
夜だった。
俺が知っている夜だ。
3年前の、あの夜の匂いがした。焦げた金属。濡れたアスファルト。そして——白い花。
場所は知っていた。3丁目の、今はコンビニになっている場所。当時はまだ古い住宅が並んでいた路地。
白い花が、舞っていた。
春の桜みたいに、舞っていた。でも桜じゃない。名前を知らない、小さくて白い花びらが、風もないのに空中を漂っていた。
そこに、少女がいた。
白いワンピース。今よりも少し幼い——でも確かに澪だとわかる輪郭。澪が、路地の中央に立っていた。
そして、俺の家族がいた。
父がいた。母がいた。妹がいた。
3人が、路地の奥で立ち止まっていた。何かに気づいて、立ち止まったみたいな体勢だった。父が母の腕を持っていて、妹を後ろに庇っていた。
澪が、3人に向かって歩いていた。
急いでいた。走ってはいない。でも急いでいた。手を伸ばしていた。何かをしようとしていた——守ろうとしていた。
時間の歪みが来ると、わかっていたのかもしれない。
でも間に合わなかった。
澪の手が届く、1瞬前に。
光が、白く——
映像が切れた。
◇◇◇
俺は非常階段に立っていた。快晴の空。10月の空気。
手すりを握っていた。いつ握ったのか覚えていない。握った手が、少し震えていた。
澪が目を開けて、俺を見た。
「見えた?」
「ああ」
声が、思ったより落ち着いていた。自分でも驚いた。
「お前が、いたんだな」
「……うん」
「守ろうとして」
「間に合わなかった」
澪の声に、感情がなかった。でも感情がないのとも違った。感情が、ある層よりも深いところにあって、表面に出てきていない——そういう声だった。
「謝るのか」と俺は言った。
澪は少し考えた。
「謝ることが正しいのか、わからない。私がいたから歪みが来たのか、歪みが来るから私がそこにいたのか——因果の順番が、わからないから」
「俺もわからない」
「でも」と澪は言った。「間に合わなかったのは、事実だから。それは——」
少しだけ、澪の表情が動いた。
「記憶はなくても、ずっと残っている気がするの」
◇◇◇
俺は手すりから手を離した。
金属の冷たさが、掌に残った。
3年間、誰かが家族を奪ったと思っていた。意図を持った誰かが。だから怒れた。だから動けた。
でも実際は——誰かが守ろうとして、間に合わなかった。
怒りの形が、また変わった。消えたわけじゃない。でも向かう先が、もう1度変わった。
「1つ、聞いていいか」
「うん」
「お前は、俺の家族を守ろうとした記憶が、ない」
「……ないの」
「自分がそこにいた断片は、さっき俺に見せたものだけか」
「そう、だと思う」
「なんで消えてるんだ」
澪は首を少し傾けた。答えを探しているのか、答えがないのか、判別できなかった。
「わからないの。他の修復の記憶は残ってる。あの夜だけ——ない」
「誰かが消したか」
「消したとすれば」と澪は言った。「私じゃないと思う。あれほど強い失敗を、自分で消すことは——記憶のない私には、できない気がするから」
「じゃあ」
「……誰かが、消したんだと思う」
2人で、少しの間黙っていた。
階下から、昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。
俺は金属の欠片を受け取って、ポケットに戻した。
「嶺生傑という人間を、知ってるか」
澪は少し間を置いた。
「名前は、知ってる」
「どこで」
「古い記録の中に、たまに出てくるの。時間の外側を歩いてきた人間の記録が、修復者のところに届くことがあるから」
「誰かに教わったのか」
「……わからない。自分で見つけたのか、誰かに教えてもらったのか、区別できないことがあって」
俺は少し考えた。
「お前の記憶を消せる人間が、傑の名前をお前の中に残した可能性がある」
「……そうかもしれない」
「なんのために」
「わからない」と澪は言った。「でも」
澪がまた空を見た。今日3度目だった。澪は考えるとき、空を見る。俺はその3回で、それを覚えた。
「嶺生傑があなたに接触したのは」と澪は言った。「偶然じゃないかもしれない」
「お前が、傑を俺に引き合わせたということか」
「私が意図したのか、記憶の中の誰かが設計したのかは——わからない。でも、繋がっている気がするの」
◇◇◇
教室に戻る前に、俺は1度だけ振り返った。
澪はまだ非常階段に立っていた。手すりに両手を置いて、空を見ていた。白いワンピースが、風で少し揺れていた。
「1つだけ」と俺は言った。
澪が振り返った。
「守ろうとしてくれたのは、わかった」
澪は何も言わなかった。
「礼を言うかどうか、まだわからない。でも——知らなかったよりは、よかった」
澪はしばらく俺を見ていた。
それから、ほんの少しだけ、頷いた。
◇◇◇
午後の授業中、俺はノートに線を引いた。
今日は定規を使った。真っすぐな線が引けた。
でも俺が書きたかったのは、直線じゃなかった。
途中で消して、定規なしで引いた。少し曲がった。
それでよかった。
曲がった線は、消さなかった。
◇◇◇
放課後、琥白が待っていた。
靴箱の前で、腕を組んで壁にもたれていた。
「説明」と琥白は言った。
「長い」と俺は言った。
「わかってる。だから待ってた」
俺たちは外に出た。いつもの商店街の方向に歩き始めた。
「どこから話す」
「あの子が、あの夜にいたとこから」
俺は足を止めた。
「知ってたのか」
「知らなかった」と琥白は言った。「でもそういう顔してた。昼休み、ガラス越しに見たとき——あの子、慟をただ見てる顔じゃなかった。守れなかった人間を見てる顔だった」
「顔でわかるのか」
「わかる人間には」と琥白は言った。「わかる」
琥白は歩き出した。俺は1秒遅れてついていった。
夕方の商店街。店の灯りが、1つずつついていく時間だった。
「白い花の意味は、わかったか」
「まだ」
「でも近づいた」
「近づいた」
「じゃあ十分だ」と琥白は言った。「今日は」
俺は答えなかった。
でも、そうかもしれないと思った。3年間で初めて——今日は、十分かもしれないと思った。
◇◇◇
その夜、部屋の壁の時計を見た。
逆に回っていた。かちかちかちかちかちかち。
俺は時計に向かって、小さく言った。
「お前は俺への警告だったのか、それとも誰かの設計だったのか」
時計は答えない。逆に回り続けるだけだ。
でも今夜は、その音が少し違って聞こえた。
敵意がない音だ、と気づいた。
3年間、この音を「異常」だと思っていた。でも異常だと思っていたのは、俺の読み方が間違っていたからで——誰かがずっと、俺に何かを伝えようとしていた。
誰が。なんのために。
澪の記憶を消せる人間と、俺への警告を送り続けた人間は——同一人物かもしれない。
かちかちかちかちかちかち。
逆回りの音が、今夜は問いに聞こえた。
答えはまだない。でも問いの形が見えてきた。
俺は電気を消して、目を閉じた。
眠れないとわかっていたけれど、今夜は——少しだけ、眠れる気がした。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




