第五話「時間の設計者」
男が俺の前に現れたのは、学校の帰り道だった。
住宅地の細い路地。ブロック塀と塀の間、人1人がギリギリ通れる幅。そこに男が立っていた。
20代の後半か、30手前か。黒いコートを着て、両手をポケットに入れていた。こちらを見ていた。ただ、それだけで——なぜか目が離せなかった。
俺を待っていた。
それはもう、すぐわかった。
「暮嶺慟」と男は言った。
「2人目だ」と俺は言った。「俺の名前を確認してくるやつ」
男は少しだけ眉を動かした。
「澪に会ったか」
「知ってるのか」
「知っている」
男は俺を品定めするように見た。上から下まで。値踏みではなく——確認、という感じ。何かと照合しているみたいな目だった。
「嶺生傑という」と男は言った。「話がある。少し長くなる」
◇◇◇
俺たちは駅前の喫茶店に入った。
傑はブラックコーヒーを頼んだ。俺はミルクコーヒーを頼んで、砂糖を2つ入れた。傑がその動作を見ていた。見ていることに気づいていないふりをした。
「何者だ」と俺は聞いた。
「かつて、お前と同じものを持っていた人間だ」
「時間跳躍の力か」
「そう呼ぶかはわからないが」傑はコーヒーカップを持ち上げた。
「時間の歪みに引き寄せられ、過去に干渉できた。そういう力を、持っていた」
「過去形か」
「ああ」
「なんで失った」
傑はカップを置いた。テーブルに視線を落として、少し間を置いた。その間の置き方が、俺の嫌いな種類だった。勿体ぶっているんじゃなくて、言葉を選んでいる——でも選んだ結果、半分しか言わないことに決めている人間の間の置き方。
「復讐を、完遂したから」
俺は何も言わなかった。
「時間跳躍の力は、怒りを動力にする。正確には、過去を取り戻したいという執念が時間を歪ませ、その歪みに乗って跳ぶ。怒りが強ければ強いほど、遠くへ跳べる」
「それは知ってる」
「感覚で、か」
「なんとなく、そういうもんだと思ってた」
傑は少し頷いた。「それで十分だ。そしてその怒りが消えた瞬間——復讐が完遂された瞬間に、その人間は時間の外へ弾き出される」
時間の外。
「どういう状態だ」
「どの時代にも属せない状態だ。今この瞬間、俺はここにいる。でも明日の俺がどこにいるかは、俺にも保証できない。時間が俺を、必要な場所に置く。必要でなければ、どこにも置かない」
俺はミルクコーヒーを飲んだ。甘い。でも今日はその甘さが遠かった。
「復讐の相手は誰だ」
「関係ない」傑はカップを置いた。
「話すべきことが、他にある」
◇◇◇
外では、夕方の人通りが始まっていた。
会社帰りの人間、買い物袋を持った人間、自転車で走り抜ける学生。ガラス越しに見える景色は、完全に普通の世界だった。時計が逆に回っていない世界。
「70年以上前から、同じ場所で同じことが繰り返されているのを知っている」と俺は言った。「暮嶺という名字が記録に残っていた」
「知っている」
俺は少し間を置いた。
「全部、繋がってるのか」
傑は答える前に、俺を見た。今度は、さっきとは違う目だった。確認じゃない。——測っている。
「覚悟はあるか」
「3年待ってた」
傑は何も言わなかった。少しだけ、目が細くなった。
「足りなかったら?」
「お前が決めろ」
「言えよ」
◇◇◇
傑はコーヒーカップを脇に置いた。テーブルの上で、両手を組んだ。澪と同じ動作だったから、少し意表を突かれた。
「3年前の夜、家族全員が消えた」と傑は言った。「その夜に、時間の歪みが起きた」
「知ってる」
「その歪みの原因が、わかるか」
俺は何も言わなかった。
「お前が、起こした」
息が、止まった。
「正確には——未来のお前が」
窓の外で、自転車のベルが鳴った。遠くで子供が笑う声がした。喫茶店のBGMが、低く流れていた。
俺の耳には何も入らなかった。
「もう一度言え」
「3年後、お前は過去に跳ぶ」と傑は言った。「あの夜に。家族を取り戻すために」
俺は黙って続きを待った。
「その跳躍が、時間を歪ませた。歪みに——家族が飲み込まれた」
「それは」
「お前が跳んだから、消えた。消えたから、お前は跳ぼうとする」傑の声は変わらなかった。「その循環が、70年以上続いてきた」
テーブルの木目を見た。薄い茶色の細い線が、何本も走っている。一本ずつ追いかけようとしたけれど、すぐに混ざって見失った。それでも目を上げられなかった。
「俺が、原因だと」
「未来のお前が、だ」
「同じことだ」
「今のお前には、まだ選択がある」と傑は言った。
俺は顔を上げた。
「なんで教える」
傑は少し間を置いた。
「俺は、同じ失敗をした」
それだけだった。でも傑の目が、ほんの少しだけ変わった。すぐに元に戻った。でも見えた。
「誰かに教えてもらいたかった」
◇◇◇
俺は立ち上がった。
椅子が床を引っかく音がした。隣のテーブルの客が一瞬こちらを見た。俺はそのまま喫茶店の外へ出た。
傑は追ってこなかった。
外の空気を吸った。夕方の、排気ガスと食べ物の匂いが混じった空気。肺に入れて、出した。もう一回。
頭の中で、組み替えが起きていた。
3年間の地図が——俺が信じてきた地図が、全部書き直されようとしていた。
消えたのは、事故でもなく、誰かに奪われたわけでもなく——未来の俺自身が引き起こした歪みのせいだ。
俺が、原因だ。
今の俺じゃない。でも俺だ。3年後の俺が、家族を取り戻そうとして——取り戻せないどころか、消した。
怒りの矛先が、どこにも向かなくなった。
誰かを憎んでいれば、動けた。3年間そうしてきた。でも自分を憎むのは——形が違う。鋭さがない。代わりに、胃の底に重たいものが落ちてくるような感覚がある。
少しして、後ろでドアが開く音がした。
追ってくるとは思っていなかった。でも、来た。
「逃げてない」と俺は言った。
「わかってる」
「整理してた」
「ああ」
それだけだった。傑は隣に立って、同じ方向を見ていた。
2人で、しばらく黙って立っていた。夕方の人通りが、俺たちの間を通り過ぎていった。誰も気づかない。普通の世界が、普通の速度で流れている。
「選択がある、と言ったな」
「ああ」
「何が選べる」
「跳ばないことだ」傑は前を向いたまま言った。「3年後、跳ぶ選択をしなければ——ループは止まる」
俺は少し間を置いた。
「家族は」
「戻らない」
風が止んだ。
断言だった。迷いがなかった。だから余計に、刺さった。
「戻らないのに」
「ループを止めることが、お前にできる唯一のことだ」
俺は傑を見た。
「それは」
言葉が、続かなかった。
「70年以上だ」と傑は言った。「暮嶺の名を持つ人間が、何度も同じ選択をしてきた。誰も止められなかった」
「諦めろってことと、同じじゃないか」
「違う」
「どう違う」
「諦めるのは、何もしないことだ」と傑は言った。「俺がお前に求めているのは、別の何かを選ぶことだ。復讐でも諦めでもない、3つ目の選択を」
「3つ目が何かも言えないのに」
「言えない」傑は少し目を細めた。「まだ、俺にもわかっていないから」
正直な答えだった。
俺は何も言わなかった。それでいい、と思った。
◇◇◇
その夜、部屋に帰って天井を見ていた。
壁の時計が、逆に回っている。かちかちかちかちかちかち。3年間、毎晩聞いてきた音。
今夜は違って聞こえる。
これは警告だったのか。シグナルだったのか。それとも——未来の俺が「行くな」と言い続けていた音だったのか。
どれが正しくても、俺は3年間、その音の意味を間違えていた。
復讐のための地図だと思っていた。
でも地図の読み方が、最初から違ったのかもしれない。
スマートフォンを取り出した。澪の名前だけが登録された、電話番号のない連絡先を開いた。メッセージは送れない。でも画面に名前を表示させたまま、少し考えた。
澪はあの夜にいた。守ろうとして、失敗した。
その記憶だけが、澪に残っていない。
なぜ。
何かが俺の中で引っかかった。答えは出ない。でも確実に、何かが引っかかっている。
傑は「復讐でも諦めでもない3つ目の選択」と言った。
澪は俺のことを「修復者かもしれない」と言った。
俺が信じてきた「取り戻す」という言葉が、「復讐」とは別の重力を持ち始めていた。
かちかちかちかちかちかち。
逆回りの音を聞きながら、目を閉じた。眠れるとは思っていなかった。
でも朝まで、考え続けることはできる。
3年間、怒りを動力にしてきた。
もし怒りじゃないものが動力になれるなら——それが何かを見つけるまで、俺は止まれない。
時間はある。
今のところは、まだ、ある。
壁の時計が、逆に回り続けていた。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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それは私たちにとって、何よりの灯りになります。
この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




