第四話「修復者」
その子が俺の目の前に現れたのは、図書館の帰り道だった。
正確には、現れた、というより——いた。
商店街の外れ、閉まったクリーニング店の軒先。夜の9時を過ぎていたから、人通りはほとんどない。街灯が一つ、オレンジの光を地面に丸く落としていた。
その円の真ん中に、少女が立っていた。
白いワンピース。10月の気温に対して、薄すぎる。裸足だった。アスファルトの上に、裸足で立っていた。
俺は3秒、そのまま立ち尽くした。
寒くないのか、と思った。次に、なんで裸足なんだ、と思った。それから——この子は俺を待っていた、と気づいた。
根拠はない。でも確信だった。
「暮嶺慟」
少女が言った。確認するみたいに、でも疑いなく。
「誰だ」
「わからない」
少女は首を傾けた。街灯の光で、目の色が少し薄く見えた。灰色とも、緑とも、水色とも言えない——色の名前がない目。
「わからない?」
「自分の名前を、持っていないの」
嘘をついている感じがしなかった。だから余計に、怖かった。
◇◇◇
とりあえず、近くのファミレスに入った。琥白はそこで別れていたから、俺一人だった。
少女はメニューを、一ページずつ丁寧にめくった。値段も含めて、全部読んでいた。
「何にする」
「ホットミルク」
「それだけ?」
「お金を持っていないから」
俺はホットミルクと、自分用のコーヒーを頼んだ。
少女はテーブルに両手を置いき、背筋を真っすぐに伸ばし行儀よく座っていた。
「名前がない、というのは」
「名前を、まだもらっていないの。正確には——名乗れる名前が、ない」
「どういう意味だ」
「記憶がないから」
ホットミルクが来た。少女は両手でカップを包んで、湯気に顔を近づけた。目を細めた。その表情が、初めて「人間みたいだ」と思った。
「記憶が、一切ないのか」
「昨日より前のことが、ない」
「昨日は」
「昨日も、同じことを言っていたと思う。たぶん」
俺はコーヒーを一口飲んだ。苦い。今日は特に苦い。
「図書館に来ていたのか」
「うん」
「見ていたのか、俺たちを」
「最初から」
最初から。
「なんで」
「呼ばれたから」
少女は言った。
「あなたが古い記録を引っ張り出したとき、時間の歪みが反応したの。歪みが揺れると、私はそこへ向かう。それが——私のする、ことだから」
◇◇◇
「時計が逆に回るのは、あなたのせいじゃない」
俺は反論しなかった。3年間、俺のせいだと思っていた。でもそれを言う気になれなかった。
「時計は、あなたを選んでいる」
「選ぶ、というのは」
「時間が歪んでいる場所には、修復者と——呼ばれた人間が引き寄せられる。時計はその信号なの。あなたに見えているのは、時間があなたに向けて出している、シグナル」
「修復者というのが、お前か」
「私は、歪みを直す側。あなたは——まだわからない。でも、引き寄せられているのは確かだと思う」
俺は少女の顔を見た。嘘をついていない、と感じる根拠を考えた。見つからなかった。それでも嘘じゃないと思った。
「家族が消えたのも、時間の歪みが原因か」
少女は少しだけ間を置いた。
「……知っているけど、全部じゃないの」
俺の胸郭の内側で、何かが収縮した。痛みとは違う。でも痛みに似た何か。
「知っているなら」
「全部は、知らないの。断片しかない」
俺は少し間を置いた。
「記憶がないから?」
「うん。私が何を見て、何をしようとしたか——その繋がりが、残っていない」
「じゃあ、見えてる断片は」
少女はカップを置いた。テーブルの上で、両手を組んだ。
「あの夜、白い花があった。私がそこにいた。誰かを——守ろうとしていた。それだけ」
ファミレスの有線放送が、低くBGMを流していた。厨房の音。隣のテーブルの会話。全部が、遠くの水中から聞こえる音みたいだった。
「守ろうとして、失敗したのか」
少女は、答えなかった。
答えないのが、答えだった。
◇◇◇
外に出ると、風が強くなっていた。
少女が立ち止まった。街灯の下で、空を見上げている。
俺も、つられて空を見た。何もない。雲と、その向こうの薄い星だけ。
「……近くにある」と少女は言った。
「何が」
「歪んだ時間の、欠片。修復されるとき——閉じ込められていた音が出てくるの。ほんの数秒だけ」
「音か」
「そこにあった音。確かに存在していた声とか、気配とか——そういうもの」
少女が少しだけ俺を見た。
「……聞いたことない?」
ある。電話の向こうで流れていた、白い花の匂いが音になったような何か。あれが——そうだったのかもしれない。
「今夜、ここで修復が起きる」とは言った。「私がやるから、見ていて」
少女が俺を見た。少しだけ、間があった。
「……出てくるものによっては、つらいかもしれない」
「何が出てくる」
「わからない。でも、あなたに関係のある音が出る可能性が高いと思う。歪みはあなたを選んでいるから」
俺は深呼吸した。冷たい空気が肺の底まで入ってくる。10月の夜の匂い。枯れ葉と、遠くの焼き芋屋の煙と——
白い花。
かすかに、する。
「やれ」と俺は言った。
少女が目を閉じた。
両手を、空気の中で動かした。何かを解きほぐすような、何かを束ねるような——その動きに名前がつかない。ダンスでも、武術でも、祈りでもない。ただそれが正しい動きだとわかる、必然的な軌跡。
街灯の光が、一瞬だけ揺れた。
地面に映っていた丸い光の輪が、歪んで——そして直った。
音が、出た。
ほんの3秒。
でも確かに、空気の中に流れた。
誰かが何かを言っている。男の声。低くて、どこか急いでいる感じがして——
俺は息ができなかった。
父の声だった。
3年前に消えた、父の声。言葉は聞き取れなかった。でも声だとわかった。声を覚えていると、3年間で初めて実感した。忘れていないと思っていたけど、確信したことはなかった。今、確信した。
3秒で、音は消えた。
少女が目を開いた。
「聞こえた?」
「ああ」
「……知ってる人の声だった?」
「父親だ」
少女はうなずいた。表情がなかった。
「あなたのお父さんは、あの夜の時間に閉じ込められているの」
「閉じ込められている、というのは」
「消えたのではなく、時間の歪みの中に存在している状態。死んでいない、とは断言できないけれど——」
「でも」
「音が出てくるということは、ね」と少女は言った。「まだ、そこにいる」
地面の光の輪が、また丸くなっていた。風が止んだ。
まだ、そこにいる。
3年間、消えた、と思っていた。もういない、と半分以上信じていた。だから怒り続けることができた。怒りは、喪失の別名だ。
でも消えていないなら。歪みの中に、まだいるなら。
「取り戻せるか」と、俺は聞いた。
少女は少しだけ間を置いてから、答えた。
「……私一人では、無理なの」
「俺が一緒なら」
また間が空いた。今度は、もっと長い沈黙だった。
「わからない」と彼女は言った。「でも——あなたは、ずっと選ばれていた。あの時計のシグナルは、最初からあなたに向けて出されていたの」
「それが何を意味する」
「修復者は、私だけじゃないかもしれない」
俺は空を見上げた。星が少し見えた。10月の、薄い雲の向こうに。
修復者。
復讐者じゃなくて。
その言葉の重さを確かめるように、もう一度だけ心の中で繰り返した。3年間信じてきた「復讐」という地図が、少しだけ形を変えようとしていた。変えてたまるか、とも思った。でもその抵抗が——今夜初めて、迷いに似た感触を持ち始めていた。
「名前がないんだろう」と俺は言った。「だったら、俺がつけてやる」
少女が俺を見た。初めて少し、表情が動いた。
「……つけてくれるの?」
「澪だ。水が流れるみたいに、あちこちに行くんだろ。お前は」
少女は——しばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「澪」と彼女は言った。「覚えておく、ね」
「覚えていられるのか、お前」
「……明日には、消えてるかもしれない」
「だったら毎日教えてやる」
言ってから、自分でも驚いた。3年間「関係ない」と言い続けてきた俺が、見知らぬ少女に名前をつけて、毎日教えてやる、と言っている。
でも後悔はしなかった。
父の声が聞こえた。まだ、そこにいる。
それだけで十分だった。今夜は。
◇◇◇
帰り道、スマートフォンを取り出して、琥白にメッセージを送った。
「明日、話がある」
既読がついて、すぐ返信が来た。
「了解。悪い話?」
「悪い話ではない、と思う」
「慟がそういうとき、大体悪い話なんだよね」
俺は少し笑った。
もう一件、メッセージを打った。消した。もう一度打った。
送り先の名前を、どう登録すればいいかわからなかった。
「澪」とだけ入れた。
電話番号を知らないから、送信もできない。でも、画面の中に「澪」という字が光っているのを見て——
俺は、久しぶりに目的を持った気がした。
復讐じゃない、違う何かの。
でもまだ、その「何か」を信じきれていない。信じたら、3年間を否定することになる気がして。
明日もきっと、時計は逆に回る。
でも今夜は、その音が少しだけ違って聞こえる気がした。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




