第三話「消えた夜の地図」
図書館は、時間が違う匂いがする。
紙の匂い。埃。それから、誰かが昔こぼしたコーヒーの染みが棚の奥に残っていて、湿気の多い日にだけそれが呼吸をする。俺は子供の頃から、ここに来ると少しだけ呼吸が楽になる気がした。今は違う。今は、この匂いが3年前の夜と混ざる。
「ここ」と琥白が言って、図書館の案内図、その端にある部屋を静かに指し示した。
「郷土資料室。一般の司書も滅多に来ない」
「なんで知ってるんだよ」
「小6の夏休みの自由研究、この部屋でやった」
俺は何も言わなかった。琥白のことを、3年間ずっと「知っている」と思っていた。でも時々、全然知らないと気づく。
◇◇◇
郷土資料室は、午後の光が水槽みたいに溜まる場所だった。窓が1つ。ブラインドが半分下りていて、そこから斜めに差し込む光の中に、埃が泳いでいる。
古い新聞のマイクロフィルム。地域の行政記録。昭和から平成にかけての「不明者届出一覧」——そういうものが、分類もなく詰め込まれている。
「あった夜の地点から3キロ圏内」と俺は言って、2ページ目を開いた。「それ以外は見なくていい」
「わかってる」
2時間、黙って読んだ。
最初の一致を見つけたのは琥白だった。
「ねえ」
声のトーンが違ったから、顔を上げる前から体が緊張した。
「何年?」
「1992年」
俺が生まれる前だ。
「場所は」
「3丁目の旧工場跡地。今コンビニになってるとこ」
コンビニ。放課後に琥白とよく行く。いつも棚の端に、ホットコーヒーが並んでいる。
「内容は」
琥白は少しだけ間を置いた。
「一家4人、夜の11時頃に全員が消えた。事故の痕跡なし。翌朝、近所の人間が白い花が散らばっているのを発見。警察は翌年、捜索打ち切り」
俺は椅子の背もたれに体重を預けた。背骨に硬い木が当たる。それを感じながら考えた。
白い花。
花が、そこにあった。
俺の家族が消えた夜にも、確かに白い花の匂いがした。記憶が混じったんだと思っていた。でも記憶は——正確な嘘をつく。それはつまり、正確だ。
「続きがあるか調べろ」
声が思ったより低かった。琥白は一瞬だけ俺を見て、また資料に向き直った。
◇◇◇
1時間後、数が変わっていた。
1978年。1985年。1992年。そして2003年——それは俺の家族が消えた年。
4件、全部、同じ地区の半径3キロ以内。全部、夜間。全部、痕跡なし。全部、白い花の報告あり。
そして全部、警察に捜索を打ち切られている。
「7年ごと、だ」と俺は言った。
琥白が計算する。1978から1985、7年。1985から1992、7年。1992から2003、11年。
「2003だけズレてる」
「ああ」
「なんで」
「わからない。でも」
でも、何かが割り込んだ。あの夜、何かが計算を狂わせた——そういう気がした。証拠はない。感覚だ。でも俺の感覚は3年間、時計の逆回転を捉え続けてきた。
「全国でも起きてる可能性がある」と琥白が言った。
「ここのデータだけじゃわからない」
「でも可能性はある」
ある。
ずっと「俺だけ」だと思っていた。家族が消えたのも、時計が逆に回るのも、あの夜の匂いが消えないのも。
俺だけじゃなかった。
その事実が、怒りを少し違う形に変えた。鋭くなった、というより——広がった。点が線になるような感覚。3年間、狭い場所に溜め込んでいたものが、もっと大きな何かの一部だったと気づく感覚。
嬉しくはない。
でも、一人じゃないというのは、怒りを正当化する。
「見て」
琥白の声が、また変わった。
今度は、震えていた。
資料の束の中から一枚、黄ばんだ紙を引き出している。ボールペンで手書きされた記録だ。昭和初期、1930年代の字体で——俺にはほとんど読めない崩した漢字で、何かが書かれている。
「何が書いてある」
「時計の話」
椅子から立ち上がって、隣に回り込んだ。
崩した文字の中から、読める部分だけ拾う。「時計之針、逆回リニ転ジ」「一家不在、痕跡ナシ」「白キ花、庭ニ散ル」
1933年。
70年以上前から、同じことが起きていた。
「最後のページ」と琥白が言った。声が少し掠れている。「届出人の名前が書いてある」
差し出されたページの、一番下。
インクが薄くなって、ところどころ読めない。でも名字だけは、はっきりと残っていた。
暮嶺。
俺の名字が、70年前の記録に書かれていた。
頭の中で、何かが急速に組み替わっていく。
3年前の夜は、事故じゃない。偶然じゃない。70年以上前から、この名字が、この場所で、何度も繰り返されてきた。
俺が、最初じゃない。
そして俺が、最後でもない——かもしれない。
「どう、する」と琥白が聞いた。
窓の外、ブラインドの隙間から見える空が、夕方の橙になっていた。図書館の閉館時刻まで、あと10分。
俺はそのページを写真に撮った。それから、関連する記録を全部撮った。
「調べる」とだけ言った。
「どこを」
「まず、1933年にここで何があったか。それから、暮嶺という名字が他の記録に出てくるかどうか。それから——」
それから。
ポケットの中の携帯が、一瞬だけ熱くなった。気のせいかもしれない。でも確かに、熱くなった。
着信は、来なかった。
でも確信した。次は近い。そしてそれは、俺が「準備できたとき」に来るんじゃない——来たときに、俺が準備するしかない。
70年以上、繰り返してきた。
誰かが、この繰り返しを止めようとして——止められなかった。
その「誰か」の一人が、俺の名字を持っていた。
俺は立ち上がって、「帰ろう」と言った。
琥白は資料を鞄にしまって、先に立ち上がった。
外に出ると、空は完全に暗くなっていた。図書館の自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、俺は70年前の暮嶺が何を思っていたか、考えた。
同じ怒りだったのか。
それとも——もっと違う何かだったのか。
まだわからない。
でも、調べればわかる。
時間ある。俺の周りだけ逆回りなんだから。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




