第二話「時間の外側」
母の声が、耳に残っている。
間に合わない。間に合わない。間に合わない。
眠れなかった。布団の中で天井を見ていた。部屋の時計は正常に動いている。今夜は。
かちかちかちと右に進んでいる。俺が見張っているときはいつもそうだ。あいつが逆に回るのは、俺が他のことを考えているときだけだ。まるで、隙を突くみたいに。
スマートフォンの通話履歴には「発信者不明」が残っている。番号もない。ただ、時刻だけがある。午後6時17分。3分14秒。その長さだけが、本物だったことの証拠だ。
俺は起き上がった。
◇◇◇
目を閉じた。
あの夜の匂いを、意図的に引き出す。焦げた金属。濡れたアスファルト。白い花。脳の奥が、じりじりと熱くなる。怒りじゃない——もっと深いところにあるもの。喪失の核心だ。そこに触れると、必ずあれが開く。
今まで5回、それが起きた。全部偶発的だった。全部、あの夜の直前か直後に着地した。全部、30秒以内に弾き出された。
今夜は、自分でやる。
床が、消えた。
◇◇◇
着地したのは、台所だった。
11月の夜。11時過ぎ。見覚えのある天井の電球。見覚えのある冷蔵庫の磁石。見覚えのある——母の後ろ姿。
立ったまま、動けなかった。
母は何かを作っていた。鍋の音。湯気。背中の丸み。白いエプロン。俺が子供の頃から変わらない、肩甲骨のあたりに少しだけある膨らみ。
喉が、石のように硬くなった。
声を出したかった。出したら、振り返る。振り返ったら、顔が見える。3年間、夢の中でしか見られなかった顔が。
足が、一歩、動いた。
その瞬間——空気が変わった。
引力だ。
深海の底から引っ張られるような力が、体の全部に同時にかかった。膝が折れた。手をついた。床の冷たさが掌に突き刺さる。
「まだ——」
俺は叫んだ。声になったかはわからない。
台所が、遠くなった。母の後ろ姿が、にじんだ。白い湯気だけが残って、それも消えた。
暗闇の中を、ゆっくりと落ちた。
◇◇◇
目を開けると、自分の部屋の床だった。
体が鉛みたいに重い。腕を動かすのに3秒かかった。立ち上がるのに5秒。
右手に、何かが触れた。
見ると、白い紙片があった。手のひらに、ぴったりと折りたたまれた、小さな紙切れ。
持ち込んだ覚えがない。あの台所に置いてあったものでもない。着地したとき、手は何も持っていなかった。
広げた。
走り書きだった。急いで書いたのか、文字が少し揺れている。インクじゃない、鉛筆だ。濃く、強く。
たった1行。
「まだ来るな」
5文字。
筆跡を見た瞬間、息が止まった。
知っている。当たり前だ。17年、毎日見てきた。授業中にノートに書いてきた。テストに名前を書いてきた。
それは——俺自身の、字だった。
◇◇◇
スマートフォンを拾い上げた。時刻は午前2時11分。手が震えている。
俺が、俺に、「まだ来るな」と書いた。
それはつまり——未来の俺が、過去に戻って、この紙を置いた。それが可能だということは、俺はいつかもっと深く、もっと自由に時間を跳ぶことができるようになる。
そこまでは、わかった。
わからないのは——なぜ、止めたのかだ。
あの夜に、何がある。3時間前に何があって、未来の俺は、過去の俺に「来るな」と書いたのか。
助けたいなら、来い、と書くはずだ。変えられるなら、変え方を教えるはずだ。
なのに。
「まだ」——という言葉が、引っかかった。
「来るな」じゃない。「まだ来るな」だ。
「まだ」は、「いつか来い」という意味だ。
頭の中で何かが、かちりと嚙み合った。
これは、終わりじゃない。俺はいつか、あの夜に行く。未来の俺が許可している。ただ——まだじゃない。
何かが、足りていない。
ベッドに倒れ込んだ。天井の電球が、じっと見下ろしている。部屋の時計は正常に動いている。右に。かちかちかちと。
目を閉じると、母の後ろ姿が、また見えた。
白いエプロン。少し丸まった肩。湯気の匂い。
俺には、何かが必要だ。そしてその「何か」を持っていないうちは、行っても——「間に合わない」。
母の声が、また耳に響いた。
◇◇◇
翌朝、学校の屋上に、誰も知らない少女が立っていた。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




