第一話「時間の匂い」
時計が、逆に動いていた。
壁のアナログ時計——秒針が左に回っている。かちかちかちと、いつも通りの音で。31人の教室で、それに気づいているのは俺だけだ。
3年前から、ずっとそうだ。
「暮嶺、聞いてるか?」
先生の声が遠い。黒板の文字が一瞬にじんで——次の瞬間、教室全体が静止した。
全員が、止まった。
琥白の消しゴムが、机から落ちかけたまま宙に浮いている。先生の口が、開いたまま動かない。埃が、窓の光の中で止まっている。
俺だけが、動いている。
1秒。それだけ経って、また世界が動き出す。消しゴムが床に落ちた。先生が続きを喋った。誰も気づいていない。
今月、4回目だ。
最初の頃は、声を上げようとした。誰かに届くと思っていた。でも声は空気に溶けるだけだった——その感覚を、1度だけ知っている。だから今は、黙っている。
チャイムが鳴る。椅子を引く音、誰かの笑い声、廊下へ出る足音——それら全部が、1枚のガラスの向こうで起きている。俺が内側にいるのか外側にいるのかも、もうわからない。
3年前から、ずっと。
◇◇◇
放課後。屋上への非常階段、3段目の鉄板を踏まずに上がってくる足音を、俺は音で判別できる。琥白以外に、あそこを避ける人間を知らない。
コーヒーが膝の上に置かれた。受け取らなかったのに、置いた。
「今日、また見た?」
「見た」
「今月で何回目」
「4回」
「増えてる」
琥白——"琥白"と書いて、”こはく”と読む。俺が最初に「こじろ」と呼んだとき、こいつは3秒だけ目を細めて、それ以来1度も訂正しなかった。
こいつが俺のそばにいる理由を、1度も聞いたことがない。聞けば答えてくれるとわかっているから、聞かない。答えを知った瞬間、何かが変わる。この3年で、俺は変化を恐れることを覚えた。
コーヒーを一口飲む。熱すぎる。舌が焼けた。それでも、もう一口飲んだ。
「俺、次に起きたら——行けるかもしれない」
琥白の手が止まった。
「どこに」
「3年前に」
沈黙。フェンスが風に唸った。橙の空が、暗くなっていく。向こうのマンションの窓に、灯りが1つずつ点いていく。あの灯りの数だけ、帰る場所がある人間がいる。
琥白はしばらく黙っていて、それから言った。
「——戻ったとして、何を変えるの」
答えられなかった。
考えていなかったからじゃない。答えを、言葉にしたくなかった。言葉にした瞬間、それが目的になる。目的ができれば、失敗が生まれる。この3年、前に進めなかったのは——たぶん、そのせいだ。
空が完全に暗くなった。
琥白が立ち上がる気配がした。帰るのかと思ったが、こいつはフェンスに背を預けただけだった。隣に来るわけでも、去るわけでもなく、ただそこにいた。
ポケットが震えた。
画面には「発信者不明」。
出ると、声も息もない。ただ電話の向こうで、音になった何かが流れていた。
焦げた金属。濡れたアスファルト。白い花。
3年前の夜の匂いが、耳から入ってくる。
「——間に合わないよ」
声だ。消えたはずの、母の声だ。
俺は何も言えなかった。
言葉より先に、手が震えていた。
電話が切れた。
琥白がこちらを見ていた。何も聞かなかった。ただ、コーヒーの缶を俺の手から静かに取り上げて——落とさないように、両手で握らせた。
温度が、手のひらに戻ってきた。
俺は、それだけで泣きそうになった。
作者より
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし、この物語に少しでも心が動いたなら、ぜひ他のかたちにも触れてみてください。
きっと——同じ世界が、少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




