第九話「琥白が待つ場所」
琥白がノートを持ち歩いているのは、知っていた。
いつも鞄の外ポケットに入っている、黒い表紙のノート。A5サイズ。同じものを何冊か使い続けているのか、いつも少し膨らんでいた。書き込みが多いと、ノートは膨らむ。挟み込まれた紙や付箋で、厚みが増す。
何を書いているのか、1度も聞いたことがなかった。
琥白のことを「知っている」と思いながら、知らないことが多い——と気づいたのは最近だ。
翌朝、俺は教室で琥白を見つけた。
琥白は窓際で、ノートを開いていた。何かを書いていた。俺が近づくと、素早く閉じた。
「見るなよ」
「見てない」
「見ようとしてた」
「してない」
琥白は俺を見た。目が、少し違った。いつもの「ツッコミを入れる直前」の目じゃなくて——何かを確認しているような目だった。
「今日、傑さんに会いに行く」
俺は少し驚いた。
「知ってるのか、傑のことを」
「慟が会った日の夜、連絡が来た」と琥白は言った。
◇◇◇
傑が琥白に連絡を取っていたのは、知らなかった。
放課後、俺は琥白についていった。傑が指定してきた場所は、川沿いの公園のベンチだった。平日の夕方、人通りの少ない場所だった。
傑は先に来ていた。コートのポケットに両手を入れて、ベンチに座っていた。川の方を見ていた。俺たちが近づいても、振り返らなかった。
「2人で来たか」
「俺も聞いていい話か」
「ああ」と傑は言った。しばらく間があった。「琥白君に話がある。慟が聞いても構わない」
琥白は俺の隣に座った。俺は立ったまま、川の方を向いた。
夕方の川が、夕焼けの色を映していた。風が冷たかった。
「何の話だ」と俺は聞いた。
「慟が時間の外へ跳んだ場合の話だ」と傑は言った。
◇◇◇
傑の声は、いつも感情が薄い。
でも今日は、その薄さが少し違った。何かを抑えているときの薄さだ、と思った。経験から来る、意図的な平坦さ。
「復讐を完遂するか、あるいは時間の決定的な歪みを起こした場合——慟は時間の外へ弾き出される。どの時代にも属せない。俺と同じ状態だ」
「知っている」
「戻れないことも、知っているか」
「それも聞いた」
「聞いたことと、わかっていることは、別だ」と傑は言った。
俺は何も言わなかった。
「2度と、この時間軸には戻れない。今ここにいる人間と——永遠に、会えなくなる」
川が流れていた。
夕焼けの色が、少しずつ川面から消えていった。
隣で、琥白が膝の上でノートを開く音がした。
◇◇◇
「3年間」と琥白は言った。
声が、普段と違った。
俺は振り返った。
琥白はノートを開いたまま、川を見ていた。
「3年間、記録してた」
俺は黙っていた。続きを待った。
「時計の異常が起きた日時。場所。頻度。それから——慟の様子。その日どんな顔をしていたか。どれくらい眠れていたか。何を食べたか。学校に来たか来なかったか」
琥白はページをめくった。
「最初の1年は、毎日書いてた。2年目からは週に3回くらい。3年目の最近は、また頻度が上がってる」
俺は少し黙っていた。
「……なんでそんなことを」と俺は言った。声が出るかどうか、少し不安だった。出た。ちゃんと出た。
「何かがあったとき——どこかに残しておきたかった」と琥白は言った。「慟が消えたとき、誰かが調べようとしたとき、何もなかったら悔しいから」
「消えたとき」
「時間の外に行ったとき」
琥白は、傑の話を聞く前から知っていた。
「いつから知っていたんだ」
「最初から」と琥白は言った。「最初から、いなくなるかもしれないと思ってた。時計が逆に回って、過去に行こうとしていて——そういう力を持った人間が、普通にここにいられるとは思えなかった」
◇◇◇
傑が立ち上がった。
ベンチから離れて、川の方に歩いた。
「席を外す。2人の話だ」
傑は橋の方に向かって歩いていった。コートの背中が、夕暮れの中に遠ざかっていった。
俺は琥白の隣に座った。
ベンチの木が、冷たかった。
少し間があった。
「怒ってないのか」と琥白は言った。
俺は少し考えた。
「怒る理由がない」
「黙って記録してたのに」
「それが怒る理由になるか」と俺は言った。
琥白は何も言わなかった。ノートの表紙を、指先でなぞっていた。
「中に何が書いてあるか、聞いてもいいか」
「見せない」と琥白は言った。即答だった。
「内容だけでも」
「それも駄目」
「なんで」
少し間があった。
「恥ずかしいから」
その「恥ずかしい」が、どういう種類のものか——俺には少しわかった。だから、それ以上聞かなかった。
◇◇◇
風が来た。
川から吹いてくる、冷たい風だった。琥白がコートの襟を立てた。俺は立てる襟がない上着を着ていたから、首に風が当たった。
「止まってほしいのか」と俺は聞いた。
「止まってほしい」と琥白は言った。迷いがなかった。「でも止まれとは言えない」
「違いがあるか」
「ある」と琥白は言った。「止まってほしいのは、俺のわがままだ。でも止まれと言えないのは、慟がやろうとしていることを——間違いだと思えないから」
俺は琥白を見た。
琥白は川を見ていた。ノートを膝の上に置いたまま、表紙を閉じていた。
「3年間、俺が消えないように記録していたのか」
「違う」と琥白は言った。「消えないようにじゃない。消えたとしても——ちゃんとここにいたことを、残しておきたかった。それだけ」
「消えるな、という記録じゃない」
「ここにいた、という記録だ」
◇◇◇
ノートの厚みを、俺は見た。
3年分の厚みだった。
「重くなかったのか。ずっと持ち歩くの」
「重い」と琥白は言った。「でも置いていく気にならなかった。置いていくと——慟がいなくなる日が来たとき、何も残らないから」
俺は膝の上で、手を握った。
爪が掌に食い込んだ。
痛みで今にいる——3年間やってきたやつだ。でも今日の痛みは、少し意味が違った。今にいたいから、痛くしているわけじゃなかった。
「全部じゃなくていい。少しだけ見せてくれないか」
「見せない」
「なんで」
「言った。恥ずかしいから」
琥白はノートを鞄に入れた。外ポケットに、いつもの場所に。
「でも」と琥白は言った。
ノートをしまった手で、鞄のポケットを1瞬だけ押さえた。
「最後のページだけ、教える。毎冊、最後のページに同じことを書いてる。1冊目から、ずっと」
俺は琥白を見た。
琥白は俺を見なかった。川を向いたまま、少し唇を引き結んだ。
「慟がいなくなったら——時間の意味がなくなる」
風が止んだ。
川が流れていた。遠くで車の音がした。橋の上を、バイクが通り過ぎた。
それ以外は、何も聞こえなかった。
◇◇◇
俺は長い間、何も言えなかった。
何を言えばいいかわからなかったからじゃない。言葉が、多すぎて出てこなかった。
時間の意味がなくなる。
時間が逆に回っていた3年間、俺は時間を取り戻そうとしていた。過去の時間を。失った時間を。
でも琥白は、今の時間を——俺がここにいる時間を——1日ずつ記録していた。
「ありがとう」と俺は言った。それだけしか出なかった。「3年間」と続けようとして、言葉が足りない気がして、やめた。
「礼を言うな」と琥白は言った。
「でも」
「礼を言われたいから書いたんじゃない」
「じゃあなんで」
「言った」と琥白は言った。「ここにいたことを、残しておきたかった」
俺はまた何も言えなくなった。
琥白が、ようやく俺の方を向いた。
「止まれとは言えない」と琥白は言った。「でも——戻ってこい。どんな選択をしても、最後は戻ってこい。時間の外からでも、どこからでも」
「戻れないかもしれない」
「知ってる」と琥白は言った。「傑さんから聞いた。でも——戻ってこいって言い続けないと、ここで待てないから」
◇◇◇
傑が戻ってきた。
橋の向こうから歩いてきた。俺たちのことを遠くから確認して、ゆっくりした足取りで近づいてきた。
「話せたか」
「ああ」と俺は言った。
傑はベンチの前に立った。俺と琥白を見て、少し目を細めた。
「伝わったか」
「伝わった」と琥白は言った。
「慟は」
「わかった」と俺は言った。「戻れないかもしれない選択がある。それを理解した上で——まだ、決めていない。でも今日、1つわかったことがある」
「何を」
「何かを決めるとき、俺は1人じゃないということが——やっと、わかった」
傑は少しだけ、表情が動いた。感情が1層、出た。いつもはすぐ引っ込むのに、今日は少し残った。
「そうか」
それだけだった。でも、それで十分だった。
◇◇◇
帰り道、琥白と2人で歩いた。
川沿いから住宅地に入って、商店街を抜ける道。3年間、何百回も歩いた道だ。
「コーヒー、寄ってくか」と琥白は言った。
「いいな」
コンビニに入った。ホットコーヒーを2つ買った。琥白が先に金を出した。俺が払おうとしたら「今日は俺が」と言われた。
コンビニを出て、並んで歩いた。
「1つ聞いていいか」と俺は言った。
「何」
「俺が時間の外に行ったら、どうする」
琥白は少し間を置いた。コーヒーを1口飲んだ。
「待つ」と琥白は言った。
「戻れないかもしれないのに」
「それでも待つ」と琥白は言った。「俺にできることは、それだけだから」
俺はコーヒーを飲んだ。
熱かった。今日も、少し熱すぎた。舌の先が焼けた。
その痛みを感じながら——俺は初めて、今ここにいることを、いいことだと思った。
3年間、今にいるために痛みを使ってきた。でも今日は違う。
今ここにいたいから——今ここにいたいと、初めて思えた。
「ありがとう」と俺は言った。また。
「だから礼を言うなって」
「でも言いたい」
「言うな」
「なんでだ」
「礼を言われると」と琥白は言って、少し止まった。「終わった感じがして、嫌だ。まだ終わってない。終わらせたくない」
俺は琥白を見た。
琥白は前を向いて歩いていた。コーヒーを持って、コートのポケットに片手を入れて。鞄の外ポケットに、ノートが入っていた。
「終わらせない」と俺は言った。
「約束するな」と琥白は言った。「約束は、破れるから」
「だったら何と言えばいい」
「何も言わなくていい。言葉じゃなくていい。戻ってくることで、示せ」
◇◇◇
家に帰った。
部屋に入ると、壁の時計が逆に回っていた。かちかちかちかちかちかち。
いつもの音だ。
俺は机に座って、ポケットから金属の欠片を取り出した。テーブルの上に置いた。
この欠片が、澪の記憶の断片を媒介した。父の声が聞こえたのも、この欠片を澪が持ったときだった。
父がまだ、歪みの中にいる。
それを取り戻すために動くことは、復讐とは別の話だ——と今日初めて、言葉にできた気がする。
傑は「復讐でも諦めでもない3つ目の選択」と言った。
澪は「修復者かもしれない」と言った。
琥白は「戻ってこい」と言った。
3人の言葉が、頭の中で並んだ。
向かう方向が、少しずつ見えてきた。まだ道ではない。でも方角が、見えてきた。
時間の外に行ったとしても——時間の外から、戻ることを目指す。
復讐のために跳ぶのではなく、修復のために動く。
怒りを動力にするのではなく——失いたくなかった人への想いを、動力にする。
名前のない動力に、今夜、名前をつけた。
まだ1言では言えない。
でも確かに、ある。
◇◇◇
机の上の金属の欠片を、手に取った。
冷たかった。
いつも冷たい。3年間持ち歩いても、体温を持たない。
でも今日は——その冷たさが、少し違った感触に思えた。
冷たくても、ここにある。
なくならずに、ここにある。
3年間、俺の手の届く場所に、ずっとあった。
それは、金属の欠片だけじゃない。
俺はそれを、ようやく知った。
◇◇◇
翌朝、早く起きた。
時計を見た。逆に回っていた。
でもその音を聞く前に——携帯を開いた。
琥白へのメッセージを打った。
「昨日ありがとう」
少し考えて、もう1行打った。
「礼じゃなくて報告な」
送った。
10秒で既読がついた。朝の早い時間なのに。
「起きてたのか」
「起きてた」と返ってきた。
「なんで」
「待ってたから」
俺は携帯を持ったまま、少し考えた。
「俺が戻ってくるのを?」
「昨日の続きを」
それだけだった。
俺は携帯を置いて、壁の時計を見た。逆に回っていた。かちかちかちかちかちかち。
今日も、逆回りで始まる1日だ。
でも——今日は、その音を聞きながら、起き上がれた。
3年で初めて、起き上がることが、少し軽かった。
9話まで、読んでくださってありがとうございます。
人は、誰かに見ていてもらえるとき——
自分の存在を、はじめて確かに感じられると言います。
慟が変わっていくのを、あなたはここまで見届けてくれました。
あなたが読んでいてくれたから、慟はここにいられた—— そう信じています。
この物語は、母である私と、3人の娘たちで紡いできたものです。
言葉を選ぶ時間、絵に色をのせる瞬間——
ひとつひとつを家族で重ねながら、この世界を形にしてきました。
書きながら、私たちも一緒に見届けています。
あなたと、同じように。 文章、イラスト、動画、スタンプ。
この世界観はすべて、私たち家族の手から生まれています。
小説は、その入り口のひとつにすぎません。
もし他のかたちにも触れてみたいと思ったなら——
きっと、同じ世界が少し違った顔を見せてくれるはずです。
続きを待ってくださる方へ。
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この物語の奥にある、ささやかなぬくもりが、あなたに届きますように。
— mom.daughters.animelab




