第9話 反逆者の肖像
旧魔導ショップ街の夜は、表の帝都から半歩だけ外れている。
道幅は狭い。古い石畳には魔導炉の粒子光が薄く積もり、足元で淡く砕ける。閉じたシャッターの隙間からは、かつて使われていた結界符の古い匂いが漏れていた。看板の文字は半分消え、店先に吊るされた魔導灯は、ときおり息をするように明滅する。
その一角に、旧マモン技術研究棟はあった。
地上三階、地下二階。
外観だけなら、古い貸しビルに見える。入口には錆びたシャッター。壁には「立入禁止」「老朽化につき危険」「管理者マモン・アセットサービス」と書かれた札が貼られている。だが、その札の上から、誰かが黒いペンで小さく書き足していた。
――まだ下にいる。
カリンはその落書きを見て、少しだけ眉を上げた。
「趣味悪いねぇ」
彼の格好は、もう泥まみれではなかった。
マナの屋敷で借りた黒の戦闘用ドレス。軽量で、動きやすく、防刃と防汚の魔導処理が施されている。レースは控えめだが、袖口と裾にはカリン好みの装飾があり、彼が歩くたびに夜風を受けて小さく揺れた。腰には香の小瓶。手袋は新しいもの。大鎌の予備はアリスの修復を受け、異空間の奥で静かに待機している。
胸元の内側には、小さな記録タグがある。
アリスが渡してくれたもの。
名前と存在証明を、一時的に支える補助具。
触れると、かすかに冷たい。
KARIN。
たった五文字が、思った以上に心強かった。
端末が震えた。
シンからの通信だった。
『着いたか』
「うん。見た目は廃ビル」
『見た目通りなら楽なんだがな』
「帝都で見た目通りだったもの、今まである?」
『ほとんどない』
「だよねぇ」
カリンはシャッターへ近づいた。
表面には、古い封印符と電子錠と物理鍵が重なっている。普通なら、どれか一つを破れば済むものではない。だが、シンがすでに遠隔でいくつか潰していたらしく、電子錠は死んでいた。封印符も、マナが送ってくれた簡易解除コードで沈黙する。
最後に残ったのは、ただの錆びた南京錠だった。
カリンは小さく笑った。
「最後だけ普通」
『油断するな。普通が一番しぶとい』
「それはそう」
カリンは小型の鎌を取り出し、南京錠を切った。
シャッターを持ち上げる。
ぎしり、と嫌な音がした。
中から、冷たい空気が流れ出す。
古い薬品、乾いた埃、焦げた魔導回路、そして長い間閉じ込められていた記録の匂い。
カリンは一歩、旧研究棟へ入った。
内部は暗かった。
床には壊れた机、倒れた棚、割れた試験管、古い魔導端末が散乱している。壁にはマモンカンパニーの旧ロゴが残っていた。現在の白く洗練された企業ロゴとは違い、少し角ばった古いデザインだ。研究棟が使われていたのは十年以上前らしい。だが、完全に廃棄されたわけではない。いくつかの端末には、まだ微弱な電力が通っている。天井の奥で、監視カメラらしきものが一瞬だけ赤く光った。
カリンはそちらへ手を振った。
「見てる?」
『こちらからは今のところ映像を乗っ取れている。だが、別系統がいるかもしれない』
「別系統?」
『マモン社内のものではないアクセス痕がある』
「ゲイツ以外にも誰かいるってこと?」
『あるいは、先客だ』
カリンは目を細めた。
「ルルトくん?」
『可能性はある』
「シンくん、知ってたなら言ってよぉ」
『確定情報ではなかった』
「便利な言い方」
『情報屋の基本だ』
カリンはため息をつきながら、奥へ進んだ。
旧研究棟の一階は、表向きの研究室だったらしい。魔導回路の試作、機械人形用関節部品の評価、封印額縁の劣化試験。書類棚の中には、一般企業の監査を通すための綺麗な研究報告書が残っている。
だが、地下へ続く階段の手前で、空気が変わった。
壁に貼られた標識。
『地下記録室』
『関係者以外立入禁止』
『人格層資料保管区域』
『封印対象記録閲覧には責任者承認を要する』
カリンはその文字を見て、胸の奥が少し冷えた。
アリスの声が蘇る。
――それは、人を閉じ込める絵ではありません。
――閉じ込めた相手に、そういう形であることを覚えさせる絵です。
カリンは記録タグに指を触れた。
小さな結晶が、かすかに光る。
「大丈夫」
誰に言うでもなく呟いた。
「ボクはカリン」
それだけ言って、地下へ降りた。
*
地下記録室の扉は、半分開いていた。
中に入ると、古いサーバーラックが並んでいた。埃をかぶった端末、魔導記録板、紙のファイル、封印箱。マモンカンパニーがまだ今ほど巨大ではなかった頃に使っていた研究資料が、ここに残されている。
残されている、というより、捨てきれなかったのだろう。
記録は、金になる。
たとえ人命を失っても、研究者が消えても、実験が失敗しても、企業は記録を捨てない。失敗の中にも特許があり、死体の中にもデータがあり、名前を失った者の残骸にも利益の芽がある。マモンカンパニーとは、そういう会社だった。
カリンは中央の端末に近づいた。
端末は古いが、まだ動く。
シンが遠隔で接続する。
『今から表示する。映像記録にはノイズがある。長く見るな』
「呪われてる?」
『呪いというより、記録汚染だ。君の名前タグを使え』
「了解」
カリンは胸元の記録タグを指先で押さえた。
端末の画面が点灯する。
最初に表示されたのは、古い管理番号だった。
『SOL-REC/EM-1321』
『暫定表題:反逆者』
『媒体形式:肖像画』
『封印前由来:ソエル系人格記録』
『封印者:ヨハン・ファウスト式封印術系統』
『再管理:夢殿管理局』
『外部検証協力:マモン技術研究棟』
カリンは画面を睨んだ。
「外部検証協力、ねぇ」
『便利な言葉だろう』
「企業の言葉、どんどん嫌いになる」
次のファイル。
封印前記録。
カリンは息を止めた。
画面には、一枚の古い裁判記録の写しが表示された。
ただし、欠けている。
ひどく欠けている。
『被審問者名:■■■■■■』
『由来:ソエル』
『役割:■■■■■■■■』
『関与領域:封印機構補助/記録層調整/■■■■■■』
『罪状:■■■■■■■■■■』
『反逆内容:削除済』
『証人:削除済』
『審問者:削除済』
『判決:反逆者』
『処分:肖像媒体固定。記録名上書き。人格層再定義。外部閲覧禁止』
カリンの手が止まった。
「……何これ」
画面をスクロールする。
どこを見ても、黒く塗られている。
天使の名は削除されている。
反逆の内容も削除されている。
誰に反逆したのかも、何をしたのかも、誰が裁いたのかも、何を守ろうとしたのかも、何もない。
ただ、判決だけが残っている。
反逆者。
その一語だけが、異様にはっきりと表示されている。
カリンの喉がひくりと動いた。
「何をしたかも書いてないのに、反逆者って決まってるの?」
通信の向こうで、シンが低く言った。
『判決だけが残っている裁判ほど、気味の悪いものはない』
「裁判っていうより、もう決めつけじゃん」
『おそらく、審問の前に結論があった。あるいは、結論だけを後世に残す必要があった』
「誰にとって?」
『秩序にとって』
その言い方が、ひどく嫌だった。
秩序。
便利な言葉だ。
誰かを守るためにも使える。
誰かを封じるためにも使える。
誰かを犠牲にしたことを、必要だったと言い換えるためにも使える。
カリンは画面を睨みつけた。
「名前を消して、罪も消して、判決だけ残すなんてさ」
声が冷える。
「それ、反逆者にしたかっただけじゃないの?」
端末の画面が一瞬、乱れた。
黒いノイズが走る。
胸元の記録タグが小さく熱を持つ。
カリンは自分の名前が胸の奥で揺れるような感覚を覚えた。
すぐに、タグが淡く光る。
KARIN。
意識が戻る。
カリンは息を吐いた。
「ありがと、アリスちゃん」
『どうした』
「ちょっと名前を引っ張られた」
『なら、長居するな』
「そうしたいけど、まだ見るものあるでしょ」
『ある。旧研究員の内部メモだ』
端末に別のファイルが表示される。
研究員の名が並んでいた。
ただし、多くは欠けている。
『主任研究員:春木■■』
『記録技師:■■玲奈』
『人格核担当:小野■■』
『封印媒体担当:■■■■』
『失踪』
『失踪』
『失踪』
『退職扱い』
『記録なし』
失踪。
退職扱い。
記録なし。
文字列の冷たさが、地下記録室の空気と混ざる。
カリンが画面に手を伸ばした時、背後で声がした。
「不用意に触ると、触られた方も君を覚えるよ」
カリンは振り返った。
記録室の奥。
サーバーラックの影に、男が立っていた。
白銀の髪。
白い肌。
紅い唇。
整いすぎた顔立ち。
黒いシャツに細身のジャケット。肩から黒いコートを羽織り、片手には古い映画の探偵のような黒い傘を持っている。胸元には、十字の刺青とも魔導刻印ともつかないものが見えた。
美しい。
だが、カリンやシグレとは違う美しさだった。
シグレが帝都の天使なら、この男は夜明け前の悪魔。
カリンが氷の花なら、この男は毒を含んだ星。
宵の明星。
ルルト。
帝都裏社会で活動する、探偵寄りの殺し屋。
カリンは目を細めた。
「ルルトくん、何してるの?」
ルルトは、傘の先で床に落ちていた紙片を軽く動かした。
「事件を見ている。キミは火を消しに来たんだろう?」
「火、だいぶ燃えてるよぉ」
「燃えたものを見れば、何に火がついたかはわかる」
「探偵っぽいこと言うね」
「探偵のふりをしているからね」
「殺し屋じゃなかった?」
「殺しは結論だ。調査は本文。キミは結論だけ急ぎたがる」
カリンは頬を膨らませた。
「犯人わかってるなら教えてよぉ」
ルルトは少し笑った。
優しい笑みではない。
相手の反応を観察している笑みだった。
「犯人はいる。だが、今回の問題は犯人じゃない」
彼は端末の画面を見た。
「誰が彼を反逆者にしたかだ」
カリンは黙った。
その言葉は、アリスの説明と同じ場所へ落ちた。
閉じ込めた相手に、そういう形であることを覚えさせる絵。
反逆者であることを覚えさせられている存在。
ルルトは記録室の奥へ歩き出した。
「こっちだ。マモンの旧研究員が隠した紙の記録がある」
「紙?」
「データは消される。紙は燃える。だが、燃え残りは嘘をつきにくい」
「ルルトくん、たまに詩人みたいなこと言うよね」
「探偵は詩人の親戚だよ。死体を読む時だけね」
「やな親戚」
カリンはルルトについていった。
記録室の奥には、崩れた棚があった。そこを動かすと、壁の一部が外れる。隠し金庫ではない。もっと雑な隠し場所だ。急いで作られた空洞。その中に、防火袋が一つ入っていた。
ルルトはそれを開け、古いノートを取り出した。
「元研究員の私的記録だ。彼は失踪扱いになっている。だが、消える直前まで、記録を残していた」
「名前は?」
「ここに書かれていたはずだが、今は読めない」
ノートの表紙には、黒く滲んだ跡があった。
名前があった場所。
そこだけが、紙ごと薄くなっている。
カリンは胸元のタグへ触れた。
名前を失う、ということ。
それが少しずつ、自分の近くまで来ている気がした。
ルルトがノートを開く。
ページの文字はかすれていたが、いくつかは読めた。
『反逆者は、もともと敵ではなかった』
『少なくとも、女帝ヌルへの単純な敵対者ではない』
『封印機構の初期調整に関わった記録がある』
『記録層に触れる能力』
『名と役割の接続補助』
『なぜ反逆者とされたのか、理由が消されている』
『消したのは誰か』
『もしかすると、彼は反逆したのではない』
『秩序の外へ出ようとしただけではないか』
『あるいは、誰かを反逆者にしないため、自分が反逆者になったのではないか』
カリンはページを見つめた。
「封印機構に関わった協力者……?」
ルルトは頷いた。
「可能性の話だ。だが、裁判記録にも役割欄が残っていた。封印機構補助、記録層調整。敵に任せる仕事ではない」
「じゃあ、最初は味方だった?」
「味方、という言葉も雑だね。秩序側にいた。少なくとも、秩序を構築する側に近かった」
「それが、ある段階で外れた」
「そう。そして外れたものは、秩序から見れば反逆者になる」
ルルトはノートを閉じた。
「問題は、なぜ外れたかだ」
「わからないの?」
「消されている」
「誰が?」
「記録を必要とする者か、記録を恐れた者」
「それ、だいたい全部じゃない?」
「その通り。だから事件は面白い」
「面白くないよぉ」
「キミは怒っているからね」
カリンはルルトを睨んだ。
「ルルトくんは怒ってないの?」
「怒りは推理を雑にする」
「じゃあ、怒らないの?」
「怒る前に観察する。怒った後で殺すかどうか決める」
「やっぱり殺し屋じゃん」
「探偵寄りだよ」
カリンはため息をついた。
だが、ルルトの存在は便利だった。
シンがデータの海から拾う情報屋なら、ルルトは現場の影を読む。紙片、足跡、嘘の順番、隠した者の焦り。彼の推理は、カリンとは違う角度から事件を切っていた。
ルルトは防火袋の底から、もう一枚の薄い記録板を取り出した。
「これは、キリングドール関連だ」
カリンの表情が変わる。
「見せて」
記録板を端末に接続する。
映像が浮かぶ。
旧研究棟の別室。
実験台の上に、黒服の機械人形が寝かされている。今カリンを襲っているキリングドールと同型だ。ただし、外装はまだ白く、顔も未調整で、目は閉じている。
研究員の声が入る。
『人格核転写試験、第三系列。対象、反逆者由来記録片。適合率、二十七パーセント。対象名――』
そこから先はノイズで潰れていた。
映像が切り替わる。
研究員たちが慌てている。
誰かが叫ぶ。
『名前が、消える』
『記録板から離せ!』
『違う、こっちの記録じゃない、俺の――』
映像の中で、研究員の名札から文字が消えていく。
一人の女性研究員が、自分の胸の名札を押さえながら泣いている。別の男が端末へ名前を打とうとしているが、指が止まる。自分の名前を思い出せないのだ。カリンは第1話の警備員と、マフィアの下っ端たちを思い出した。
映像はさらに乱れる。
誰かの声。
『名前を失った人格片を、制御核へ避難させろ』
『廃棄するより使える』
『命令で縛れ』
『名前がないなら、命令だけで動かせる』
カリンの手が、端末の縁を握った。
強く。
白い指先が、わずかに震えている。
次の映像では、黒服のキリングドールが起き上がっていた。
目は開いている。
だが、死んでいる。
その胸部制御核には、薄いタグが埋め込まれていた。
人名の残骸。
読めないほど欠けた名前。
それを命令文で上書きしている。
対象識別。
排除。
追跡。
命令遂行。
カリンは、呟いた。
「完全な無人格じゃなかったんだ」
ルルトは黙っている。
シンの通信も、珍しく何も言わなかった。
「奪われた名前の残骸を、命令だけで縛ってた」
キリングドールの死んだ目。
カリンを追ってきた黒服たち。
髪を切り、服を裂き、車を弾き飛ばし、ただ命令だけで動いていた人形。
あれらは、完全な空っぽではなかった。
誰かの名前の残骸があった。
カリンは奥歯を噛んだ。
「最悪」
声が低くなる。
「アリスちゃんの話、聞いてなかったら、気づかないまま壊してた」
それが、悔しかった。
もちろん、戦闘中に壊さなければ自分が死んでいた。一般人にも被害が出ていた。だから壊したこと自体を悔やんでも仕方ない。
だが、知らなかった。
見ようともしなかった。
名前がないから、命令だけで動くから、ただの違法機械人形だと思った。
ゲイツと同じ視線で見てしまったのではないか。
その事実が、カリンの胸を刺した。
ルルトは淡々と言った。
「気づいたなら、次は見える」
「ルルトくん、慰め下手って言われない?」
「慰めたつもりはない」
「だろうねぇ」
カリンは息を吐いた。
怒りを整える。
怒りは刃になる。
だが、乱れたまま振るえば、自分の手も切る。
彼はアリスの記録タグに触れた。
KARIN。
自分の名を確かめる。
「そのタグ」
ルルトが言った。
「アリスのものか」
「うん。借りた」
「彼女らしいね」
「ルルトくん、アリスちゃん知ってるんだっけ」
「知っている、と言えるほどではない。覚えている、と言えるほどでもない。ただ、名前を呼ばれない人形が、名前を探す姿は見たことがある」
カリンは少しだけルルトを見た。
彼の横顔は、いつも通り冷たい。
だが、ほんの一瞬だけ、言葉の奥に別の温度があった気がした。
カリンは深くは聞かなかった。
今は、それどころではない。
記録室のさらに奥で、金属音がした。
シンの声が戻る。
『カリン、警告だ。旧研究棟の地下二階に起動反応。キリングドールの残骸が動いている』
「残骸?」
『壊れているが、人格核がまだ生きている。いや、正確には、名前の残骸が命令を再起動させている』
カリンは大鎌を取り出した。
ルルトも黒い傘を閉じた。
その手の指先に、影のような黒い爪が生じる。
「ルルトくんも戦う?」
「事件が襲ってくるなら、観察だけでは済まない」
「助かる」
「報酬は?」
「シンくんにつけといて」
『勝手につけるな』
通信の向こうでシンが抗議する。
その直後、記録室の扉が吹き飛んだ。
壊れたキリングドールが三体、現れた。
黒服ではない。
外装は剥がれ、腕は欠け、顔は半分割れている。だが、胸部の制御核が淡く光っていた。そこに、消えかけた名前タグが埋まっている。
カリンには、以前なら見えなかったものが見えた。
命令文の奥。
欠けた名前。
呼ばれたかった誰か。
それでも、キリングドールたちは襲ってくる。
カリンは大鎌を構えた。
「ごめんね」
声は小さかった。
「でも、止める」
壊れた一体目が飛びかかる。
カリンは首を狙わない。胸部制御核も砕かない。関節を落とす。右膝、左肩、腰部駆動軸。大鎌の刃が滑るように走り、機体を床へ崩す。
二体目の腕部ブレードが迫る。
ルルトが影のように動いた。
黒い爪が、機体の腕を静かに裂く。派手な音はない。切断面だけが、妙に美しい。ルルトは相手の顔を見ず、胸部のタグだけを見る。
「名前を奪われた後に、命令を与えられた。実に企業的だ」
「皮肉言ってる暇ある?」
「ある。腕を一本落とした」
「じゃあ、もう一本お願い」
「注文が雑だね」
三体目が天井へ跳ぶ。
カリンは小鎌を投げる。魔導ワイヤーが足を絡め、天井から引き剥がす。落下した機体を、大鎌の柄で床へ叩きつける。壊すのではなく、動けなくする。
だが、制御核はなお光る。
胸部タグの文字が揺れていた。
カリンは息を飲む。
読める。
完全ではない。
だが、読める。
一体目。
『春木――』
二体目。
『――玲奈』
三体目。
『小野――』
旧研究員たちの名前。
失踪扱いになっていた者たち。
カリンは歯を食いしばった。
「名前、返せないのかな」
ルルトは低く答えた。
「返せるなら、こんな形で残っていない」
「嫌な答え」
「だが、残っていることには意味がある」
カリンは動けなくなったキリングドールの胸部から、小さな名前タグを取り出した。
壊さないように、慎重に。
金属片のように小さなタグ。
表面には、消えかけた人名が残っている。
春木。
玲奈。
小野。
そして、もう一つ。
床に転がっていた別の残骸から、カリンは小さなタグを見つけた。
そこには、ほとんど消えた文字があった。
美術館警備員の記録と照合して、シンが息を呑む。
『それ、第1封印庫の警備員だ』
「名前、読める?」
『……待て』
通信の向こうで、シンが何かを走らせる。
端末にノイズが走る。
アリスのタグが熱を持つ。
カリンは自分の名を握りしめるように、胸元を押さえた。
やがて、シンが言った。
『完全ではない。だが、断片は拾えた』
「名前は?」
『――ナギサワ、トオル。おそらく、凪沢徹』
カリンはその名を、ゆっくり繰り返した。
「ナギサワ、トオル」
タグが、かすかに光った気がした。
それは返事ではない。
魂が救われたわけでもない。
名前を取り戻したわけでもない。
それでも、何もないよりはましだった。
カリンはタグをひとつずつ布袋に入れた。
ハルナがくれた応急袋の中。
タオルや飴と一緒に、名前の残骸が入る。
少し変な組み合わせだった。
でも、悪くない気がした。
「持って帰る」
カリンは言った。
「少なくとも、番号だけで終わらせない」
ルルトは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
その時、端末にマナからの緊急通信が割り込んだ。
『カリン! マモン本社側で高出力起動反応! 旧魔導ショップ街地下倉庫じゃない、本社地下でも並行起動してる! ゲイツ、実験を前倒しした!』
カリンの表情が変わる。
「今?」
『今! 『反逆者』の記録層が開き始めてる。転写先は複数。キリングドール群と兵器用人格核! 急いで!』
通信の向こうで、アリスの声も聞こえた。
『カリン様。記録タグの出力が上昇しております。お名前を見失わないでください』
カリンは胸元のタグを押さえた。
KARIN。
まだ、ある。
自分の名は、まだここにある。
「うん。わかってる」
ルルトが傘を肩にかけた。
「行くのか」
「行く」
「火を消しに?」
「うん」
カリンは大鎌を構え直した。
「でも、燃やしたやつの顔も見てくる」
ルルトは薄く笑った。
「探偵向きではないが、実にカリン君らしい」
「褒めてる?」
「観察結果だ」
「じゃあ、褒め言葉にしとく」
カリンは旧研究棟の出口へ走り出した。
胸の内側で、記録タグが光る。
布袋の中では、消えかけた名前タグが小さく触れ合って音を立てた。
*
マモンカンパニー本社地下。
白い研究区画の最奥で、実験が始まっていた。
『反逆者』は、台座の上に置かれている。
だが、もはやただの絵ではなかった。
額縁の内側から、白い指が外へ伸びている。右手は半分ほど絵の外へ出かかり、指先は現実の空気に触れていた。天使の瞳は、これまでよりも深く、暗い。微笑みはまだある。だが、その奥には緊張がある。
周囲には、複数の兵器用人格核が並べられていた。
透明な筒の中で、青白い核が回転している。
さらに奥には、黒服のキリングドール群。まだ目を閉じているが、胸部制御核はすでに起動準備に入っている。
ゲイツは白いスーツ姿で、絵の前に立っていた。
彼の顔は、子どものように輝いている。
研究員たちは不安げだった。測定値は想定を超えている。名前欠損率が異常上昇している。絵の自律性が増している。封印フレームの警告灯が点滅している。
だが、ゲイツは止めない。
彼は絵に向かって、優しく語りかけた。
「あなたの名は不要です」
絵の中の天使の目が、わずかに細くなる。
「必要なのは、あなたが反逆者として記録された事実だけです」
研究室の照明が揺れた。
周囲の研究員の名札から、文字が一画ずつ欠けていく。
ゲイツは気づいている。
気づいていて、笑っている。
「名は不安定です。人格は反抗します。記憶は嘘をつきます。けれど、判決は使える。反逆者という記録は、兵器に向いています。支配者に逆らう力を、支配者へ忠誠させる。素晴らしいでしょう?」
絵の中の天使が、初めて微笑みを消した。
白い顔に、怒りが浮かぶ。
静かで、深い怒り。
長い間、額縁の中に押し込められ、反逆者と呼ばれ続け、それでも声が届かなかった者の怒り。
研究室の空気が、音もなく裂けた。
黒い羽根が一枚、絵の外へ落ちる。
それは床に触れた瞬間、青白い火花を散らした。
ゲイツは恍惚とした表情で囁いた。
「さあ」
台座の周囲で、転写装置が起動する。
「次の段階へ進みましょう」
絵の中の天使は、怒りの目でゲイツを見ていた。
その唇が、わずかに動く。
声はまだ聞こえない。
だが、そこに宿る言葉だけは、確かに見えた。
――私は、反逆者ではない。




