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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
10/12

第10話 悪魔の取引

 旧マモン技術研究棟の地下記録室から出た時、帝都エデンの夜は少しだけ色を変えていた。


 空が白い。


 夜なのに、雲の底が薄く発光している。ミナト区の方角から、魔導炉の光とも違う、夢殿の光とも違う、冷たい白が滲んでいた。街路に立つ魔導灯が、その白さに負けてぼやけている。遠くのビル群は輪郭だけが浮かび上がり、夜景の美しさよりも、何かが起きる直前の静けさが目立った。


 カリンは旧研究棟の非常階段を駆け下りながら、胸元の記録タグを指で押さえた。


 KARIN。


 まだ表示は安定している。


 名前はある。


 自分はまだ、自分のままだ。


 だが、布袋の中には、消えかけた名前タグが入っている。


 春木。


 玲奈。


 小野。


 凪沢徹。


 旧研究員たち。第1話で名前を消された警備員。キリングドールの人格核に再利用されていた、人間の名の残骸。


 カリンは奥歯を噛んだ。


「ほんと、最悪」


 声に、甘さはほとんどなかった。


 通信端末が震える。


 マナからだった。


『カリン、聞こえる?』


「聞こえてる」


『本社地下の起動反応がさらに上がった。ゲイツ、封印解除と転写実験を同時に進めてる。普通はそんなことしない。というか、普通じゃなくてもやらない』


「ゲイツだからねぇ」


『笑い事じゃない。あの術式、ファウスト系統よ』


 カリンの足が、階段の踊り場で止まった。


 ファウスト。


 その名は、旧時代の大魔導士として帝都の魔導史に何度も出てくる。歴史上の人物なのか、伝説上の複数人物が混ざった名なのか、それとも長い時代を生き延びた誰かの記録名なのか。学者によって解釈は違う。だが、ファウスト式封印術だけは確かに残っていた。


 名前と契約。


 魂と器。


 記録と代償。


 その境界を縫い止める、古い魔導体系。


 カリンは、その名が嫌いだった。


「……ファウスト系、ね」


 マナは少しだけ声を落とした。


『大丈夫?』


「大丈夫じゃないって言ったら、止めてくれる?」


『止めたいけど、たぶん止まらないでしょ』


「うん」


『だから聞いてるの。大丈夫じゃないなら、違う手を考える』


 カリンは非常階段の手すりに背を預けた。


 遠くで、白い光がまた強くなる。


 彼の脳裏に、古い記憶が浮かびかけた。


 白い部屋。


 香の匂い。


 眠りと覚醒の境目。


 誰かの声。


 「適性が高い」


 「香への親和性」


 「異空間器具との接続」


 「身体の境界が柔らかい」


 「名前を固定しすぎるな」


 幼い頃か、もっと後か。


 はっきりしない。


 記録として残っているのか、夢として混ざったのかもわからない。ただ、カリンの身体には、ファウスト系列の魔導実験が何かを残した。薔薇の香との異常な親和性。大鎌を異空間から取り出す感覚。人間離れした身体能力。痛みや恐怖を笑顔の奥に沈める癖。


 それらのすべてが実験のせいだとは思わない。


 思いたくもない。


 他人に作られた部分があるとしても、それで全部を決められるのはごめんだった。


 カリンは、静かに息を吐いた。


「ボクの身体に何をしたかは、あいつらの罪」


 通信の向こうで、マナが黙る。


 カリンは続けた。


「でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由」


 マナは、少しだけ笑ったようだった。


『そう言うと思った』


「マナちゃん、ボクのことわかってきたねぇ」


『嫌でもわかるわよ。あなた、自分で選んだ輪郭にはうるさいもの』


「そこが可愛いでしょ」


『そこは面倒』


「ひどい」


『でも、嫌いじゃない』


 カリンは小さく笑った。


 その笑いで、胸の奥の嫌な記憶が少しだけ遠のく。


 端末の向こうに、アリスの声が入った。


『カリン様。記録タグとの同期を開始いたします』


「アリスちゃん」


『はい。カリン様の表示名、現在安定しております。ただし、マモンカンパニー本社へ接近するにつれ、記録層干渉が強まると予測されます』


「ボクの名前、見失いそうになったら教えて」


『承知いたしました。必要に応じて、わたくしがカリン様のお名前を読み上げます』


「それ、ちょっと恥ずかしいね」


『羞恥心よりも存在証明を優先いたします』


「真面目」


『はい』


 シンの声が割り込んだ。


『雑談は終わりだ。マモン本社周辺の監視網を一部潰した。突入経路を送る』


「ありがと、シンくん」


『礼より支払いが欲しい』


「生きて帰ったらね」


『では、必ず生きて帰れ』


 軽口のようで、そうではなかった。


 カリンは少しだけ目を細める。


「うん。帰るよ」


 最後に、別の回線が静かに開いた。


 シグレだった。


『カリン』


「兄さま?」


『夢殿側の監視が動き始めた。ワルキューレの観測線も少し増えてる。ボクがこっちで誤魔化すけど、長くは無理かも』


「兄さま、出てこないの?」


『出ていくと、たぶん事件が大きくなる。だから、今は裏で押さえる』


「そっか」


『うん』


 短い沈黙。


 カリンは夜空を見た。


 白い光は、さらに濃くなっている。


『カリン』


「何?」


『がんばって』


 その一言で、カリンの胸が少しだけ熱くなった。


 泣きたくなるほど嬉しい。


 だから、泣かない。


 今は泣く場面ではない。


 カリンは笑った。


「うん。兄さまもがんばって」


『ボクも?』


「夢殿に見つからないように、がんばって」


『それ、けっこう大変なんだけどねぇ』


「兄さまなら大丈夫」


『雑に信頼された』


「愛だよぉ」


『じゃあ、受け取っておく』


 通信が切れる。


 カリンは階段を降りきり、旧研究棟の裏口から外へ出た。


 ミナト区の白い本社ビルが、遠くで静かに光っている。


 マモンカンパニー。


 白く清潔な企業の顔。


 その下に、名前のない人形たちを捨て、奪った名前を燃料にして、魂の形をした制御装置を作ろうとしている会社。


 カリンは布袋を肩にかけ直した。


 中で、小さな名前タグが触れ合う。


「行こうか」


 誰に向けてでもなく、彼は言った。


「悪魔の取引、壊しに」


     *


 マモンカンパニー本社地下、第一人格核転写区画。


 白い研究室は、もはや清潔ではなかった。


 床には黒い羽根が落ちている。壁に刻まれた封印術式は、青白い光を放ちながら何度も書き換わり、警告表示が空中に重なっていた。天井から吊るされた転写装置は過熱し、透明な筒の中で兵器用人格核が激しく回転している。


 中央の台座には、『反逆者』があった。


 ただし、もう絵ではない。


 絵の内側から、白い腕が外へ出ている。肩まで。胸元まで。半身が額縁の外へ滲み出し、現実の空気に触れていた。白い布をまとった身体。中性的な顔。長い髪。閉じかけた瞳。美しい。あまりにも美しい。だが、その背にある翼は黒く焼け、白い羽根の隙間から炭化した骨のような軸が覗いている。


 ゲイツは台座の前に立っていた。


 白いスーツ。


 少年の外見。


 瞳は興奮で輝いている。


 その周囲に、キリングドール群が整列していた。黒服の男型機械人形。白い未完成外装の人形。兵器用フレーム。人間型ではない多脚戦闘機体。すべてが、転写待機状態で停止している。


 ゲイツは両手を広げた。


「第一転写、開始」


 研究員たちが不安げに端末を操作する。


「社長、名前欠損率が上昇しています。対象媒体の自律性が想定値を超過――」


「素晴らしい」


「封印フレームの制御が戻りません。キリングドール側への転写線が逆流しています」


「それも素晴らしい」


「社長、これは暴走です!」


 ゲイツは振り返った。


 子どものように微笑む。


「暴走?」


 研究員が黙る。


 ゲイツは絵から滲み出る白い腕を見つめた。


「いいえ。これは暴走ではありません。進化です」


 転写装置が唸る。


 兵器用人格核へ、反逆者の魂の輪郭を転写する。


 名前を奪われた人間の記録を燃料として使う。


 アリス零式に近い自律型戦闘人形を、企業兵器として完成させる。


 それがゲイツの計画だった。


 だが、計画は最初の数秒で破綻した。


 『反逆者』は、転写されなかった。


 逆に、転写線を辿ってキリングドール群へ侵入した。


 黒服の機械人形たちが、一斉に目を開く。


 瞳に青白い光が宿る。


 背中の外装が割れた。


 そこから、翼が生える。


 金属の翼。


 白い羽根の翼。


 黒く焼けた翼。


 壊れた名札をつなぎ合わせたような、文字の羽根。


 それぞれの機械人形が、別々の形の翼を形成していく。


 研究員の一人が後ずさった。


「社長、キリングドール側の制御が奪われています!」


「奪われているのではありません。学習しているんです」


「社員記録にも欠損が発生! 名札が――」


 秘書が、自分の胸元を見下ろした。


 白いスーツの胸についた名札。


 そこにあったはずの名前が、薄くなっている。


「私は……」


 彼女は声を震わせた。


「私は、誰でしたか」


 ゲイツはちらりと見ただけだった。


「業務を継続してください」


「社長、私の名前が――」


「社用識別番号で十分です」


 その言葉が、研究室の空気をさらに冷やした。


 秘書の顔が凍る。


 次の瞬間、彼女の背後から白い羽根が一枚落ちた。


 端末が一斉に警告を表示する。


『記録名欠損』

『人格層逆流』

『封印媒体自律化』

『転写先支配権喪失』

『外部記録汚染拡大』


 ゲイツは笑った。


「美しい」


 台座の上で、半身だけ現実化した天使が目を開く。


 瞳には怒りがあった。


 深く、静かで、長い怒り。


 ゲイツはその目を見て、さらに笑みを深める。


「その怒りも記録できます。反逆者としての情動。支配者に逆らう力。それを支配者の武器に変える。最高の矛盾です」


 天使の唇が動いた。


 声はまだ完全ではない。


 だが、研究室の誰もが聞いた。


「私は」


 空気が震える。


「反逆者ではない」


 ゲイツは恍惚とした表情で頷いた。


「ええ。その否定も含めて、商品価値があります」


     *


 カリンは、マモンカンパニー本社へ正面から入らなかった。


 前回、それで落とされた。


 同じ手に二度引っかかるほど、可愛くても馬鹿ではない。


 シンが送ってきた突入経路は、地下搬入口から廃棄物処理ラインへ潜り、そこから第一人格核転写区画へ抜けるものだった。つまり、また下水と廃棄物の近くを通る。


 カリンは図面を見た瞬間、少しだけ泣きそうになった。


「シンくん、他に道ないの?」


『ある。正面玄関、屋上ヘリポート、社員用連絡通路、夢殿管理局用の緊急封印ゲート』


「廃棄物ラインでお願いします」


『賢明だ』


「賢明だけど嫌ぁ……」


 地下搬入口の警備は厳重だった。


 だが、マモンカンパニー内部はすでに混乱している。転写実験の暴走で、警備機械人形の一部が応答しなくなり、社員記録の欠損で認証システムが誤作動し、非常扉のロックが何度も開閉していた。


 カリンはその隙を縫って進んだ。


 大鎌はまだ出さない。


 代わりに小鎌と香を使う。


 警備員を眠らせ、機械センサーを誤認させ、監視カメラの視線を一瞬だけ逸らす。廃棄物ラインの細い通路を走り、壁を蹴り、配管の上を滑る。前回の大下水道に比べれば、まだ清潔だ。そう思うことにした。そう思わないと心が折れる。


 通信には、複数の声が重なっていた。


『右、三十メートル先に警備ドローン二機。片方は私が落とす。もう片方は君が処理しろ』


 シン。


『カリン、胸元のタグ出力上げるわよ。名前の揺らぎが出たらすぐ報告』


 マナ。


『カリン様、表示名安定。現在、KARIN。記録層干渉、許容範囲内でございます』


 アリス。


『夢殿側の観測線、少し逸らした。急いでねぇ』


 シグレ。


 カリンは走りながら笑った。


「みんな、過保護」


『過保護ではありません。妥当な支援でございます』


 アリスが真面目に返す。


「アリスちゃん、そういうところ好き」


『ありがとうございます。ですが、前方にキリングドールが三体おります』


「そういうところは好きじゃない」


 通路の奥に、黒服の機械人形が現れた。


 三体。


 だが、前回までと違う。


 背中に翼が生えている。


 白い羽根と金属片が混ざった翼。胸部制御核には、消えかけた名前タグが埋まっている。目には死んだ光だけではない、怒りとも苦痛ともつかない揺らぎがあった。


 カリンは足を止めた。


「……ごめん」


 小さく言う。


 そして、大鎌を取り出した。


「でも、通して」


 キリングドールが動く。


 一体目が真正面から突進する。カリンは大鎌の刃で腕部ブレードを受け、流し、膝関節を落とす。制御核は砕かない。胸部を壊さず、駆動だけを止める。


 二体目が天井へ跳ぶ。


 翼を使う。


 滑空ではない。狭い通路の中で、翼を刃のように広げて迫ってくる。羽根に触れた配管の表面から、識別番号が消えた。物の名前さえ削るのか、とカリンは一瞬だけ戦慄する。


 胸元のタグが熱を持った。


『カリン様、表示名に微細な揺らぎ。読み上げます』


 アリスの声。


『KARIN。カリン様。氷の花カリン様』


「最後ちょっと恥ずかしい!」


『存在証明を優先いたします』


「わかった!」


 カリンは壁を蹴り、二体目の背後へ回った。


 大鎌の柄で翼の付け根を叩く。


 白い羽根が散る。


 羽根が頬を掠めた瞬間、カリンの頭の中に、知らない名前が流れ込んだ。


 春木。


 玲奈。


 小野。


 凪沢徹。


 他にも、知らない名がいくつも。


 呼ばれなかった名前。


 記録から削られた名前。


 カリンは歯を食いしばった。


「持ってくるなとは言わないけど、今は多い!」


 三体目が背後から迫る。


 カリンは香の小瓶を床へ叩きつけた。


 薔薇の香が爆ぜる。


 通常ならキリングドールには効きにくい。だが、翼を形成したことで、機械部分と記録層が不安定に混ざっている。香は嗅覚センサーではなく、記録層の隙間へ入り込んだ。三体目の動きが一瞬鈍る。


 その隙に、大鎌の柄で制御核周辺を打つ。


 破壊ではなく、停止。


 三体目が床に崩れる。


 カリンは息を吐いた。


「壊さず止めるの、面倒だねぇ」


『でも、やってるわね』


 マナが言う。


「やるよ。知っちゃったから」


『そう』


 マナの声が少しだけ柔らかくなる。


『なら、次の扉。封印術式がある。ファウスト系よ』


 カリンの目が細くなる。


 通路の先に、重い扉があった。


 白い扉。


 中央に、古い魔導文字と企業ロゴが重なった紋章。


 ファウスト式封印術を、企業のセキュリティへ組み込んだもの。


 名前と契約。


 魂と器。


 記録と代償。


 それを、扉の鍵にしている。


 カリンは吐き気を覚えた。


「ほんと、嫌い」


『解除する。三秒待って』


「待たない」


『カリン!?』


 カリンは大鎌を構えた。


 アリスのタグが胸元で光る。


 KARIN。


 自分の名を確かめる。


 他人に刻まれたものではない。


 他人に処置された身体でも。


 他人にラベルを貼られる姿でも。


 自分で選んだ輪郭がある。


「ボクの身体に何をしたかは、あいつらの罪」


 大鎌の刃が、ファウスト式の紋章に触れる。


「でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由」


 刃が振り抜かれた。


 封印術式が悲鳴のような音を立てて裂ける。


 扉が割れた。


 その向こうから、白い光が溢れ出す。


     *


 第一人格核転写区画は、翼で満ちていた。


 壁から、白い羽根が生えている。


 床から、黒い羽根が突き出している。


 天井の配線には、文字のような羽根が絡みつき、機械人形たちは背中に不完全な翼を生やして、うめくように立っている。


 研究員たちは逃げようとしていた。


 だが、扉の認証が働かない。名前を失った者は、社員として認識されない。彼らは自分たちの作ったシステムに閉じ込められていた。


 秘書が床に座り込んでいる。


 胸の名札は空白だった。


「私は……私は……」


 彼女は繰り返している。


 誰かが名前を呼んでくれるのを待っているように。


 カリンは一瞬だけ足を止めた。


 ゲイツは台座の前にいた。


 彼だけは、まだ楽しそうだった。


「来ましたか、カリンさん」


「来たよ。招待状がしつこかったから」


「素晴らしいでしょう?」


「最悪だよ」


「感性の違いですね」


「倫理の違いだよ」


 ゲイツは笑った。


 彼の背後で、『反逆者』が半分だけ現実化している。


 白い身体。


 黒く焼けた翼。


 美しく、痛ましい姿。


 彼は台座からまだ完全には離れていない。下半身は絵の中に残り、上半身だけが現実へ滲み出ている。額縁は、彼の腰から下を縛る檻のようにも、傷口のようにも見えた。


 堕天使はカリンを見た。


 瞳が揺れる。


 怒り。


 悲しみ。


 憎しみ。


 そして、長く呼ばれなかった者の空白。


「私は」


 堕天使が言った。


 声は、礼拝堂で男の口を借りた時よりも深い。


「反逆者ではない」


 カリンは大鎌を下ろさず、静かに聞いた。


「じゃあ、名前は?」


 堕天使の唇が止まった。


 研究室の空気も止まる。


 白い羽根が、ゆっくり落ちた。


 堕天使はカリンを見ている。


 だが、答えられない。


 怒りがある。


 否定がある。


 反逆者ではないと言う力はある。


 けれど、自分が誰だったのかを言えない。


 カリンは胸元のタグに触れた。


「ボクはカリン」


 タグが淡く光る。


「カリン。氷の花。清掃員。トラブルシューター。兄さまの弟分。可愛いほう。男の子って呼ばれることもあるし、女の子みたいって言われることもある。どれも、まあ、時と場合によるけど」


 ゲイツが笑う。


「自己紹介ですか?」


「うん。大事でしょ」


 カリンはゲイツを見た。


「君たち、名前を軽く見すぎ」


「名前は管理のための情報です」


「違うよ」


 カリンの声が冷えた。


「名前は、呼ばれるためにあるんだよ」


 堕天使の瞳が、わずかに揺れる。


 ゲイツは肩をすくめた。


「感傷的ですね」


「君にはわからないだろうね」


「ええ。不要な感情です」


 ゲイツは端末を持ち上げた。


「では、不要な感情ごと、次の段階へ進めましょう」


 マナの声が通信で叫ぶ。


『カリン、止めて! ゲイツ、最後の術式を起動する気!』


 シンが続く。


『本社ビル全体の封印フレームが動いている。あいつ、建物そのものを媒体にするつもりだ!』


 アリスの声が重なる。


『記録タグ出力上昇。カリン様、名前を保持してください』


 シグレの声が低くなる。


『夢殿側、気づいた。急いで』


 カリンは踏み込んだ。


 ゲイツへ向かって。


 しかし、床から翼が生えた。


 白い羽根の束が鎖のように絡みつき、カリンの足を止める。大鎌で斬る。だが、羽根は切断面から文字を散らし、また絡み直す。


 ゲイツは笑った。


「遅い」


 端末を押す。


 最後の術式が起動した。


 『反逆者』の記録が完全に開く。


 台座の額縁が砕けた。


 堕天使の身体が、現実へ落ちる。


 落ちるというより、生まれ落ちる。


 白い光が研究室を満たし、黒く焼けた翼が大きく広がった。キリングドール群が一斉にひざまずく。研究員たちの名札から、さらに文字が欠ける。秘書が自分の名を完全に忘れ、空白の名札を握りしめて泣いた。


 マモンカンパニー本社が揺れた。


 地下から地上へ、白い光が突き上がる。


 ビルの外壁に亀裂が走る。


 その亀裂から、白い羽根が生えた。


 一枚。


 二枚。


 百枚。


 千枚。


 ガラスと白い外壁でできた清潔な企業ビルが、巨大な翼を持つ生物のように変形していく。外壁のパネルが羽根のように開き、フロアの窓が光を吐き、屋上へ向かって巨大な光の柱が立ち上がる。


 ミナト区の夜空が、真昼のように白く染まった。


 帝都全域の記録端末が、一斉に点滅する。


 ツインタワーの館内表示。


 ホウジュ区の商店街端末。


 帝都警察の緊急連絡網。


 地下鉄の案内板。


 マナの屋敷の監視端末。


 シグレの雑貨店の古いレジ。


 すべての画面に、同じ一文が表示された。


『反逆者、光臨』


 カリンは白い光の中で、歯を食いしばった。


 胸元のタグが強く熱を持つ。


 KARIN。


 KARIN。


 KARIN。


 自分の名が、必死に彼をこちら側へ引き留めている。


 目の前で、完全に現実化した堕天使が立っていた。


 美しく。


 傷つき。


 怒りに濡れ。


 誰の名も持たないまま、反逆者として世界に呼び出された存在。


 カリンは大鎌を握り直した。


「……勝手に光臨とか、ほんと迷惑」


 白い羽根が嵐のように舞う。


 ゲイツはその中心で、恍惚と笑っていた。


 そして堕天使は、ゆっくりと天井を見上げる。


 黒く焼けた翼が、一度、大きく羽ばたいた。


 マモンカンパニー本社の天井が、音もなく砕け始めた。

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