第10話 悪魔の取引
旧マモン技術研究棟の地下記録室から出た時、帝都エデンの夜は少しだけ色を変えていた。
空が白い。
夜なのに、雲の底が薄く発光している。ミナト区の方角から、魔導炉の光とも違う、夢殿の光とも違う、冷たい白が滲んでいた。街路に立つ魔導灯が、その白さに負けてぼやけている。遠くのビル群は輪郭だけが浮かび上がり、夜景の美しさよりも、何かが起きる直前の静けさが目立った。
カリンは旧研究棟の非常階段を駆け下りながら、胸元の記録タグを指で押さえた。
KARIN。
まだ表示は安定している。
名前はある。
自分はまだ、自分のままだ。
だが、布袋の中には、消えかけた名前タグが入っている。
春木。
玲奈。
小野。
凪沢徹。
旧研究員たち。第1話で名前を消された警備員。キリングドールの人格核に再利用されていた、人間の名の残骸。
カリンは奥歯を噛んだ。
「ほんと、最悪」
声に、甘さはほとんどなかった。
通信端末が震える。
マナからだった。
『カリン、聞こえる?』
「聞こえてる」
『本社地下の起動反応がさらに上がった。ゲイツ、封印解除と転写実験を同時に進めてる。普通はそんなことしない。というか、普通じゃなくてもやらない』
「ゲイツだからねぇ」
『笑い事じゃない。あの術式、ファウスト系統よ』
カリンの足が、階段の踊り場で止まった。
ファウスト。
その名は、旧時代の大魔導士として帝都の魔導史に何度も出てくる。歴史上の人物なのか、伝説上の複数人物が混ざった名なのか、それとも長い時代を生き延びた誰かの記録名なのか。学者によって解釈は違う。だが、ファウスト式封印術だけは確かに残っていた。
名前と契約。
魂と器。
記録と代償。
その境界を縫い止める、古い魔導体系。
カリンは、その名が嫌いだった。
「……ファウスト系、ね」
マナは少しだけ声を落とした。
『大丈夫?』
「大丈夫じゃないって言ったら、止めてくれる?」
『止めたいけど、たぶん止まらないでしょ』
「うん」
『だから聞いてるの。大丈夫じゃないなら、違う手を考える』
カリンは非常階段の手すりに背を預けた。
遠くで、白い光がまた強くなる。
彼の脳裏に、古い記憶が浮かびかけた。
白い部屋。
香の匂い。
眠りと覚醒の境目。
誰かの声。
「適性が高い」
「香への親和性」
「異空間器具との接続」
「身体の境界が柔らかい」
「名前を固定しすぎるな」
幼い頃か、もっと後か。
はっきりしない。
記録として残っているのか、夢として混ざったのかもわからない。ただ、カリンの身体には、ファウスト系列の魔導実験が何かを残した。薔薇の香との異常な親和性。大鎌を異空間から取り出す感覚。人間離れした身体能力。痛みや恐怖を笑顔の奥に沈める癖。
それらのすべてが実験のせいだとは思わない。
思いたくもない。
他人に作られた部分があるとしても、それで全部を決められるのはごめんだった。
カリンは、静かに息を吐いた。
「ボクの身体に何をしたかは、あいつらの罪」
通信の向こうで、マナが黙る。
カリンは続けた。
「でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由」
マナは、少しだけ笑ったようだった。
『そう言うと思った』
「マナちゃん、ボクのことわかってきたねぇ」
『嫌でもわかるわよ。あなた、自分で選んだ輪郭にはうるさいもの』
「そこが可愛いでしょ」
『そこは面倒』
「ひどい」
『でも、嫌いじゃない』
カリンは小さく笑った。
その笑いで、胸の奥の嫌な記憶が少しだけ遠のく。
端末の向こうに、アリスの声が入った。
『カリン様。記録タグとの同期を開始いたします』
「アリスちゃん」
『はい。カリン様の表示名、現在安定しております。ただし、マモンカンパニー本社へ接近するにつれ、記録層干渉が強まると予測されます』
「ボクの名前、見失いそうになったら教えて」
『承知いたしました。必要に応じて、わたくしがカリン様のお名前を読み上げます』
「それ、ちょっと恥ずかしいね」
『羞恥心よりも存在証明を優先いたします』
「真面目」
『はい』
シンの声が割り込んだ。
『雑談は終わりだ。マモン本社周辺の監視網を一部潰した。突入経路を送る』
「ありがと、シンくん」
『礼より支払いが欲しい』
「生きて帰ったらね」
『では、必ず生きて帰れ』
軽口のようで、そうではなかった。
カリンは少しだけ目を細める。
「うん。帰るよ」
最後に、別の回線が静かに開いた。
シグレだった。
『カリン』
「兄さま?」
『夢殿側の監視が動き始めた。ワルキューレの観測線も少し増えてる。ボクがこっちで誤魔化すけど、長くは無理かも』
「兄さま、出てこないの?」
『出ていくと、たぶん事件が大きくなる。だから、今は裏で押さえる』
「そっか」
『うん』
短い沈黙。
カリンは夜空を見た。
白い光は、さらに濃くなっている。
『カリン』
「何?」
『がんばって』
その一言で、カリンの胸が少しだけ熱くなった。
泣きたくなるほど嬉しい。
だから、泣かない。
今は泣く場面ではない。
カリンは笑った。
「うん。兄さまもがんばって」
『ボクも?』
「夢殿に見つからないように、がんばって」
『それ、けっこう大変なんだけどねぇ』
「兄さまなら大丈夫」
『雑に信頼された』
「愛だよぉ」
『じゃあ、受け取っておく』
通信が切れる。
カリンは階段を降りきり、旧研究棟の裏口から外へ出た。
ミナト区の白い本社ビルが、遠くで静かに光っている。
マモンカンパニー。
白く清潔な企業の顔。
その下に、名前のない人形たちを捨て、奪った名前を燃料にして、魂の形をした制御装置を作ろうとしている会社。
カリンは布袋を肩にかけ直した。
中で、小さな名前タグが触れ合う。
「行こうか」
誰に向けてでもなく、彼は言った。
「悪魔の取引、壊しに」
*
マモンカンパニー本社地下、第一人格核転写区画。
白い研究室は、もはや清潔ではなかった。
床には黒い羽根が落ちている。壁に刻まれた封印術式は、青白い光を放ちながら何度も書き換わり、警告表示が空中に重なっていた。天井から吊るされた転写装置は過熱し、透明な筒の中で兵器用人格核が激しく回転している。
中央の台座には、『反逆者』があった。
ただし、もう絵ではない。
絵の内側から、白い腕が外へ出ている。肩まで。胸元まで。半身が額縁の外へ滲み出し、現実の空気に触れていた。白い布をまとった身体。中性的な顔。長い髪。閉じかけた瞳。美しい。あまりにも美しい。だが、その背にある翼は黒く焼け、白い羽根の隙間から炭化した骨のような軸が覗いている。
ゲイツは台座の前に立っていた。
白いスーツ。
少年の外見。
瞳は興奮で輝いている。
その周囲に、キリングドール群が整列していた。黒服の男型機械人形。白い未完成外装の人形。兵器用フレーム。人間型ではない多脚戦闘機体。すべてが、転写待機状態で停止している。
ゲイツは両手を広げた。
「第一転写、開始」
研究員たちが不安げに端末を操作する。
「社長、名前欠損率が上昇しています。対象媒体の自律性が想定値を超過――」
「素晴らしい」
「封印フレームの制御が戻りません。キリングドール側への転写線が逆流しています」
「それも素晴らしい」
「社長、これは暴走です!」
ゲイツは振り返った。
子どものように微笑む。
「暴走?」
研究員が黙る。
ゲイツは絵から滲み出る白い腕を見つめた。
「いいえ。これは暴走ではありません。進化です」
転写装置が唸る。
兵器用人格核へ、反逆者の魂の輪郭を転写する。
名前を奪われた人間の記録を燃料として使う。
アリス零式に近い自律型戦闘人形を、企業兵器として完成させる。
それがゲイツの計画だった。
だが、計画は最初の数秒で破綻した。
『反逆者』は、転写されなかった。
逆に、転写線を辿ってキリングドール群へ侵入した。
黒服の機械人形たちが、一斉に目を開く。
瞳に青白い光が宿る。
背中の外装が割れた。
そこから、翼が生える。
金属の翼。
白い羽根の翼。
黒く焼けた翼。
壊れた名札をつなぎ合わせたような、文字の羽根。
それぞれの機械人形が、別々の形の翼を形成していく。
研究員の一人が後ずさった。
「社長、キリングドール側の制御が奪われています!」
「奪われているのではありません。学習しているんです」
「社員記録にも欠損が発生! 名札が――」
秘書が、自分の胸元を見下ろした。
白いスーツの胸についた名札。
そこにあったはずの名前が、薄くなっている。
「私は……」
彼女は声を震わせた。
「私は、誰でしたか」
ゲイツはちらりと見ただけだった。
「業務を継続してください」
「社長、私の名前が――」
「社用識別番号で十分です」
その言葉が、研究室の空気をさらに冷やした。
秘書の顔が凍る。
次の瞬間、彼女の背後から白い羽根が一枚落ちた。
端末が一斉に警告を表示する。
『記録名欠損』
『人格層逆流』
『封印媒体自律化』
『転写先支配権喪失』
『外部記録汚染拡大』
ゲイツは笑った。
「美しい」
台座の上で、半身だけ現実化した天使が目を開く。
瞳には怒りがあった。
深く、静かで、長い怒り。
ゲイツはその目を見て、さらに笑みを深める。
「その怒りも記録できます。反逆者としての情動。支配者に逆らう力。それを支配者の武器に変える。最高の矛盾です」
天使の唇が動いた。
声はまだ完全ではない。
だが、研究室の誰もが聞いた。
「私は」
空気が震える。
「反逆者ではない」
ゲイツは恍惚とした表情で頷いた。
「ええ。その否定も含めて、商品価値があります」
*
カリンは、マモンカンパニー本社へ正面から入らなかった。
前回、それで落とされた。
同じ手に二度引っかかるほど、可愛くても馬鹿ではない。
シンが送ってきた突入経路は、地下搬入口から廃棄物処理ラインへ潜り、そこから第一人格核転写区画へ抜けるものだった。つまり、また下水と廃棄物の近くを通る。
カリンは図面を見た瞬間、少しだけ泣きそうになった。
「シンくん、他に道ないの?」
『ある。正面玄関、屋上ヘリポート、社員用連絡通路、夢殿管理局用の緊急封印ゲート』
「廃棄物ラインでお願いします」
『賢明だ』
「賢明だけど嫌ぁ……」
地下搬入口の警備は厳重だった。
だが、マモンカンパニー内部はすでに混乱している。転写実験の暴走で、警備機械人形の一部が応答しなくなり、社員記録の欠損で認証システムが誤作動し、非常扉のロックが何度も開閉していた。
カリンはその隙を縫って進んだ。
大鎌はまだ出さない。
代わりに小鎌と香を使う。
警備員を眠らせ、機械センサーを誤認させ、監視カメラの視線を一瞬だけ逸らす。廃棄物ラインの細い通路を走り、壁を蹴り、配管の上を滑る。前回の大下水道に比べれば、まだ清潔だ。そう思うことにした。そう思わないと心が折れる。
通信には、複数の声が重なっていた。
『右、三十メートル先に警備ドローン二機。片方は私が落とす。もう片方は君が処理しろ』
シン。
『カリン、胸元のタグ出力上げるわよ。名前の揺らぎが出たらすぐ報告』
マナ。
『カリン様、表示名安定。現在、KARIN。記録層干渉、許容範囲内でございます』
アリス。
『夢殿側の観測線、少し逸らした。急いでねぇ』
シグレ。
カリンは走りながら笑った。
「みんな、過保護」
『過保護ではありません。妥当な支援でございます』
アリスが真面目に返す。
「アリスちゃん、そういうところ好き」
『ありがとうございます。ですが、前方にキリングドールが三体おります』
「そういうところは好きじゃない」
通路の奥に、黒服の機械人形が現れた。
三体。
だが、前回までと違う。
背中に翼が生えている。
白い羽根と金属片が混ざった翼。胸部制御核には、消えかけた名前タグが埋まっている。目には死んだ光だけではない、怒りとも苦痛ともつかない揺らぎがあった。
カリンは足を止めた。
「……ごめん」
小さく言う。
そして、大鎌を取り出した。
「でも、通して」
キリングドールが動く。
一体目が真正面から突進する。カリンは大鎌の刃で腕部ブレードを受け、流し、膝関節を落とす。制御核は砕かない。胸部を壊さず、駆動だけを止める。
二体目が天井へ跳ぶ。
翼を使う。
滑空ではない。狭い通路の中で、翼を刃のように広げて迫ってくる。羽根に触れた配管の表面から、識別番号が消えた。物の名前さえ削るのか、とカリンは一瞬だけ戦慄する。
胸元のタグが熱を持った。
『カリン様、表示名に微細な揺らぎ。読み上げます』
アリスの声。
『KARIN。カリン様。氷の花カリン様』
「最後ちょっと恥ずかしい!」
『存在証明を優先いたします』
「わかった!」
カリンは壁を蹴り、二体目の背後へ回った。
大鎌の柄で翼の付け根を叩く。
白い羽根が散る。
羽根が頬を掠めた瞬間、カリンの頭の中に、知らない名前が流れ込んだ。
春木。
玲奈。
小野。
凪沢徹。
他にも、知らない名がいくつも。
呼ばれなかった名前。
記録から削られた名前。
カリンは歯を食いしばった。
「持ってくるなとは言わないけど、今は多い!」
三体目が背後から迫る。
カリンは香の小瓶を床へ叩きつけた。
薔薇の香が爆ぜる。
通常ならキリングドールには効きにくい。だが、翼を形成したことで、機械部分と記録層が不安定に混ざっている。香は嗅覚センサーではなく、記録層の隙間へ入り込んだ。三体目の動きが一瞬鈍る。
その隙に、大鎌の柄で制御核周辺を打つ。
破壊ではなく、停止。
三体目が床に崩れる。
カリンは息を吐いた。
「壊さず止めるの、面倒だねぇ」
『でも、やってるわね』
マナが言う。
「やるよ。知っちゃったから」
『そう』
マナの声が少しだけ柔らかくなる。
『なら、次の扉。封印術式がある。ファウスト系よ』
カリンの目が細くなる。
通路の先に、重い扉があった。
白い扉。
中央に、古い魔導文字と企業ロゴが重なった紋章。
ファウスト式封印術を、企業のセキュリティへ組み込んだもの。
名前と契約。
魂と器。
記録と代償。
それを、扉の鍵にしている。
カリンは吐き気を覚えた。
「ほんと、嫌い」
『解除する。三秒待って』
「待たない」
『カリン!?』
カリンは大鎌を構えた。
アリスのタグが胸元で光る。
KARIN。
自分の名を確かめる。
他人に刻まれたものではない。
他人に処置された身体でも。
他人にラベルを貼られる姿でも。
自分で選んだ輪郭がある。
「ボクの身体に何をしたかは、あいつらの罪」
大鎌の刃が、ファウスト式の紋章に触れる。
「でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由」
刃が振り抜かれた。
封印術式が悲鳴のような音を立てて裂ける。
扉が割れた。
その向こうから、白い光が溢れ出す。
*
第一人格核転写区画は、翼で満ちていた。
壁から、白い羽根が生えている。
床から、黒い羽根が突き出している。
天井の配線には、文字のような羽根が絡みつき、機械人形たちは背中に不完全な翼を生やして、うめくように立っている。
研究員たちは逃げようとしていた。
だが、扉の認証が働かない。名前を失った者は、社員として認識されない。彼らは自分たちの作ったシステムに閉じ込められていた。
秘書が床に座り込んでいる。
胸の名札は空白だった。
「私は……私は……」
彼女は繰り返している。
誰かが名前を呼んでくれるのを待っているように。
カリンは一瞬だけ足を止めた。
ゲイツは台座の前にいた。
彼だけは、まだ楽しそうだった。
「来ましたか、カリンさん」
「来たよ。招待状がしつこかったから」
「素晴らしいでしょう?」
「最悪だよ」
「感性の違いですね」
「倫理の違いだよ」
ゲイツは笑った。
彼の背後で、『反逆者』が半分だけ現実化している。
白い身体。
黒く焼けた翼。
美しく、痛ましい姿。
彼は台座からまだ完全には離れていない。下半身は絵の中に残り、上半身だけが現実へ滲み出ている。額縁は、彼の腰から下を縛る檻のようにも、傷口のようにも見えた。
堕天使はカリンを見た。
瞳が揺れる。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
そして、長く呼ばれなかった者の空白。
「私は」
堕天使が言った。
声は、礼拝堂で男の口を借りた時よりも深い。
「反逆者ではない」
カリンは大鎌を下ろさず、静かに聞いた。
「じゃあ、名前は?」
堕天使の唇が止まった。
研究室の空気も止まる。
白い羽根が、ゆっくり落ちた。
堕天使はカリンを見ている。
だが、答えられない。
怒りがある。
否定がある。
反逆者ではないと言う力はある。
けれど、自分が誰だったのかを言えない。
カリンは胸元のタグに触れた。
「ボクはカリン」
タグが淡く光る。
「カリン。氷の花。清掃員。トラブルシューター。兄さまの弟分。可愛いほう。男の子って呼ばれることもあるし、女の子みたいって言われることもある。どれも、まあ、時と場合によるけど」
ゲイツが笑う。
「自己紹介ですか?」
「うん。大事でしょ」
カリンはゲイツを見た。
「君たち、名前を軽く見すぎ」
「名前は管理のための情報です」
「違うよ」
カリンの声が冷えた。
「名前は、呼ばれるためにあるんだよ」
堕天使の瞳が、わずかに揺れる。
ゲイツは肩をすくめた。
「感傷的ですね」
「君にはわからないだろうね」
「ええ。不要な感情です」
ゲイツは端末を持ち上げた。
「では、不要な感情ごと、次の段階へ進めましょう」
マナの声が通信で叫ぶ。
『カリン、止めて! ゲイツ、最後の術式を起動する気!』
シンが続く。
『本社ビル全体の封印フレームが動いている。あいつ、建物そのものを媒体にするつもりだ!』
アリスの声が重なる。
『記録タグ出力上昇。カリン様、名前を保持してください』
シグレの声が低くなる。
『夢殿側、気づいた。急いで』
カリンは踏み込んだ。
ゲイツへ向かって。
しかし、床から翼が生えた。
白い羽根の束が鎖のように絡みつき、カリンの足を止める。大鎌で斬る。だが、羽根は切断面から文字を散らし、また絡み直す。
ゲイツは笑った。
「遅い」
端末を押す。
最後の術式が起動した。
『反逆者』の記録が完全に開く。
台座の額縁が砕けた。
堕天使の身体が、現実へ落ちる。
落ちるというより、生まれ落ちる。
白い光が研究室を満たし、黒く焼けた翼が大きく広がった。キリングドール群が一斉にひざまずく。研究員たちの名札から、さらに文字が欠ける。秘書が自分の名を完全に忘れ、空白の名札を握りしめて泣いた。
マモンカンパニー本社が揺れた。
地下から地上へ、白い光が突き上がる。
ビルの外壁に亀裂が走る。
その亀裂から、白い羽根が生えた。
一枚。
二枚。
百枚。
千枚。
ガラスと白い外壁でできた清潔な企業ビルが、巨大な翼を持つ生物のように変形していく。外壁のパネルが羽根のように開き、フロアの窓が光を吐き、屋上へ向かって巨大な光の柱が立ち上がる。
ミナト区の夜空が、真昼のように白く染まった。
帝都全域の記録端末が、一斉に点滅する。
ツインタワーの館内表示。
ホウジュ区の商店街端末。
帝都警察の緊急連絡網。
地下鉄の案内板。
マナの屋敷の監視端末。
シグレの雑貨店の古いレジ。
すべての画面に、同じ一文が表示された。
『反逆者、光臨』
カリンは白い光の中で、歯を食いしばった。
胸元のタグが強く熱を持つ。
KARIN。
KARIN。
KARIN。
自分の名が、必死に彼をこちら側へ引き留めている。
目の前で、完全に現実化した堕天使が立っていた。
美しく。
傷つき。
怒りに濡れ。
誰の名も持たないまま、反逆者として世界に呼び出された存在。
カリンは大鎌を握り直した。
「……勝手に光臨とか、ほんと迷惑」
白い羽根が嵐のように舞う。
ゲイツはその中心で、恍惚と笑っていた。
そして堕天使は、ゆっくりと天井を見上げる。
黒く焼けた翼が、一度、大きく羽ばたいた。
マモンカンパニー本社の天井が、音もなく砕け始めた。




