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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
11/12

第11話 天使が堕ちる夜

 マモンカンパニー本社は、翼を広げていた。


 比喩ではない。


 ミナト区の夜空へ向かって伸びる白い高層ビル。その外壁が裂け、ガラスパネルが羽根のように開き、鉄骨と魔導配線の隙間から無数の白い羽毛が噴き出している。企業ロゴの掲げられた壁面は、いまや巨大な肩甲骨のように盛り上がり、屋上から突き立つ光の柱は、空そのものに穴を穿つようだった。


 帝都エデンの空は、白く染まっていた。


 夜なのに、真昼よりも冷たい白だった。


 ミナト区の港湾クレーンが光を浴びて骨のように浮かび上がる。ホウジュ区の商店街では、夜営業の屋台が一斉に火を落とし、ツインタワー西タワーの展望フロアでは客たちが窓際に詰めかけ、東タワーでは裏社会の人間たちが珍しく顔色を失って空を見上げていた。


 帝都全域の端末に、一文が表示されている。


『反逆者、光臨』


 表示は一度だけでは終わらない。


 消しても、また出る。


 閉じても、別の画面に出る。


 駅の案内板、警察の緊急連絡網、企業ビルの館内表示、家庭用端末、学校の出席管理システム、病院の電子カルテ、コンビニのレジ、清掃会社の業務端末、シグレの雑貨店にある古いレジまで。


 反逆者。


 反逆者。


 反逆者。


 その言葉が、帝都の記録層を白い羽根のように埋めていく。


 羽根は実際にも降っていた。


 マモンカンパニー本社から空へ舞い上がった無数の羽根が、ミナト区一帯へ降り注いでいる。白く、美しく、雪のように軽い。だが、羽根に触れた者は、自分の名前を一瞬失った。


「え……私、何て……」


 避難中の社員が、胸元の名札を見た。


 そこには何も書かれていない。


 彼女は隣の同僚を見た。


「ねえ、私、誰?」


 同僚は答えようとして、口を開いたまま止まった。


 その同僚の端末からも、彼女の連絡先だけが空白になっている。


 道路では、緊急停止した自動運転車両が並び、帝都警察の誘導ドローンが赤い光を点滅させていた。機動警察の装甲車両がミナト区へ入り、企業警備部隊の多脚機が本社周辺を封鎖する。上空には女帝政府所属の監視艇が姿を見せかけ、すぐに距離を取った。


 夢殿側は、まだ動かない。


 動けないのではない。


 動けば、事件の意味が変わるからだ。


 これはタルタロス封印級の災厄ではない。死都東京が開いたわけでも、裁きの門が顕現したわけでもない。女帝ヌル本体を揺るがすほどの事態ではない。


 だが、ソエル由来存在の記録暴走である。


 放置すれば、帝都の記録基盤に傷が残る。


 名前が剥がれ、役割が上書きされ、誰かが誰かであった証明が白い羽根に埋もれていく。


 その傷は、街の外壁や道路よりもずっと深く残る。


     *


 東タワー四十六階。


 情報屋シンのオフィスでは、すべてのモニターが同時に白く点滅していた。


「冗談じゃないな」


 シンは椅子に沈み込んだまま、両手を端末群の上で走らせていた。無数のコードが彼の首筋、腕、背中へ接続され、部屋の壁面に広がる画面には、帝都全域の記録ネットワークが表示されている。


 市民登録。


 交通ログ。


 医療記録。


 勤務記録。


 戸籍系統。


 魔導識別子。


 清掃会社の作業員名簿。


 ツインタワー外壁清掃シフト表。


 それらのあちこちに、白い穴が空いていた。


 名前だけが抜ける。


 それ以外の情報は残る。


 年齢、住所、勤務先、体温、購買履歴、通勤経路、顔写真、声紋。すべて残っているのに、名前だけがない。


 存在はある。


 呼べない。


 それが、どれほど不気味なことか。


 シンは低く舌打ちした。


「カリン。早くしろ。都市記録を縫い止めるのにも限度がある」


 彼は市民記録の欠損箇所へ仮識別子を打ち込み、システムの深部へ仮の杭を刺していく。名前そのものを戻すことはできない。だが、完全に消える前に、消えた場所へ「ここに誰かがいた」という印を残すことはできる。


 それだけでも、後でアリスの記録タグと照合すれば戻せる可能性がある。


 部屋の片隅で、かぼちゃ公爵の動画広告が勝手に再生されかけた。


 シンは見もせずに消した。


「今はお前の出番じゃない」


     *


 旧魔導ショップ街、マナの屋敷。


 修復室と研究室を隔てる扉は開け放たれ、マナは床一面に展開した封印式の上で端末を叩いていた。髪はさらに乱れ、白衣は肩からずれ、目の下の隈は深い。だが、目だけは鋭かった。


「本社ビル全体を媒体にしてる。最悪。ほんっと最悪。企業ビルを封印画布にする馬鹿がどこにいるのよ!」


 怒鳴りながら、彼女は魔導陣を書き換える。


 床には旧式のファウスト封印術式、夢殿管理局系の記録固定式、マナ独自の強引な補助線、そしてアリスから提供された記録核安定化式が重なっている。美しくはない。むしろ、術式としてはかなり乱暴だ。


 だが、今は美しさより速度だった。


 アリスはその隣で、複数の記録タグを並列接続していた。


 小さな銀色のタグが、台座の上にいくつも並び、それぞれが青白く光っている。カリンに渡したものと同じ系統の補助タグ。ただし、出力は弱い。市民全員の名前を守るには足りない。だから、アリスはシンが打ち込んだ仮識別子を拾い、消えかけた市民の存在証明へ一時的に結びつけていく。


「仮名固定、三百二十一件。追加、五百八十件。シン様の仮識別子と同期中」


「アリス、カリンのタグは?」


「出力上昇中。表示名、KARIN。揺らぎはありますが、まだ保持しております」


「カリン本人が無茶すると出力飛ぶから、こっちで支えるわよ」


「承知いたしました」


 アリスの声は静かだった。


 だが、指先は通常よりわずかに速い。


 それは焦りではなく、集中だった。


 彼女は一度、自分の記録を失いかけた。


 器として作られたことを覚えさせられ、自分が誰かを問うた。


 だから、今、名前を失いかけている者たちを放っておくことはできなかった。


「カリン様」


 アリスは通信越しに、静かに呼ぶ。


「お名前を、見失わないでください」


     *


 ホウジュ区の雑貨店。


 シグレは店の屋根の上に立っていた。


 黒いロングコートが夜風に揺れる。手には魔導刀ムラサメ。だが、抜いてはいない。彼が見ているのはミナト区の光柱ではなく、そのさらに上、夢殿から伸びる観測線だった。


 ワルキューレが動きかけている。


 女帝政府も、当然この異常を見ている。


 もし夢殿側が本格的に介入すれば、事件は封印処理へ移る。帝都政府にとって安全な解決にはなるかもしれない。だが、『反逆者』の名は、反逆者のまま再封印されるだろう。記録名が危険と判断されれば、上から強い封印を被せるだけになる。


 それでは、カリンがここまで来た意味が薄れる。


 シグレは眠たげな目で空を見上げた。


「もう少しだけ、待ってねぇ」


 誰に向けた言葉かは、本人にも半分しかわからない。


 夢殿へか。


 女帝へか。


 ワルキューレへか。


 それとも、カリンへか。


 ハルナが屋根下から叫んだ。


「テンチョ! 落ちないでくださいよ!」


「落ちないよぉ」


「前にそう言って落ちました!」


「今回は大丈夫」


「信用できません!」


 シグレは少し笑った。


 そして、ムラサメの柄に指を添える。


 抜くのではない。


 ただ、そこにあると示す。


 夢殿から伸びる観測線が、ほんのわずかに逸れた。


「カリン」


 シグレは小さく呟いた。


「がんばって」


     *


 ミナト区地上。


 崩れかけたマモンカンパニー本社の足元で、ルルトは黒い傘を肩にかけて歩いていた。


 白い羽根が降っている。


 彼は羽根を避けるように、ほとんど足音を立てず進む。目の前を、白いスーツの男が走り抜けようとした。マモンカンパニーの幹部だ。手には緊急脱出用の認証ケース。背後には護衛用の企業警備員が二人。


 ルルトは傘を開いた。


 それだけで、男の進路が塞がれた。


「退け!」


 男が叫ぶ。


 ルルトは涼しい顔で言った。


「逃走経路を見ている」


「何だと?」


「君は逃げる。ゲイツは残る。企業は記録を消す。罪は下へ流れる。実に見慣れた構造だ」


「ふざけるな!」


 護衛が銃を抜く。


 次の瞬間、黒い傘の内側から影が伸びた。


 護衛二人の腕が、銃を握ったまま床へ落ちる。


 血はほとんど出ない。ルルトの切断は、傷口を封じるほど静かだった。


 男が悲鳴を上げる。


 ルルトは傘を閉じた。


「今日は殺しに来たわけじゃない。証人を残す日だ」


 彼は男の足元に、小さな魔導杭を打ち込んだ。


 逃走防止結界が起動する。


「そこで見ていろ。会社が翼を生やして落ちるところを」


     *


 カリンは、光の中にいた。


 マモンカンパニー本社の第一人格核転写区画は、もう地下室ではなくなっていた。天井は砕け、フロアは裂け、白い光の柱が下から上へ突き抜けている。壁だったものは翼の骨に変わり、床だったものは巨大な羽根の根元のように波打っていた。


 キリングドール群が暴走している。


 白い翼を生やした黒服の機械人形たちが、命令と怒りの狭間で震え、腕部ブレードを展開しながらも、時折自分の胸部制御核を押さえてうずくまる。そこには、かつて誰かの名前だったタグが埋め込まれている。


 カリンはその群れの中を走った。


 大鎌が円を描く。


 だが、斬るのは首ではない。


 膝。肩。翼の付け根。駆動軸。制御補助線。


 動けなくする。


 殺さない。


 壊さない。


 少なくとも、できる限りは。


「アリスちゃんの話、聞いててよかったよ、ほんと!」


『カリン様、左側面より三体接近』


「見えてる!」


 左から迫る三体の翼が、一斉に開く。


 羽根が散る。


 羽根に触れれば、名前が揺らぐ。


 カリンは大鎌を回し、羽根を弾いた。弾かれた羽根が床に落ち、そこに書かれていた小さな文字列が消える。文字の羽根。誰かの名前の破片。壊したくない。だが、触れれば自分が消える。


「ごめん、今は避ける!」


 彼は壁を蹴り、上へ跳んだ。


 壁はもう壁ではなく、巨大な翼の内側のように脈打っている。白い羽根の根元を足場にして、さらに跳ぶ。背後でキリングドールが追ってくる。カリンは小瓶を投げた。薔薇の香が光の中で爆ぜ、センサーと記録層の両方に薄く干渉する。


 一瞬だけ、キリングドールたちの動きが鈍る。


 その隙に、カリンは光柱の中心へ向かった。


 そこに、堕天使がいた。


 完全に現実化した姿。


 白い身体。


 白い布。


 金色にも銀色にも見える髪。


 中性的で、恐ろしく美しい顔。


 だが、翼は黒く焼けている。白い羽根の先が炭のように黒く、ところどころ骨が露出していた。瞳は怒りと悲しみで濁り、光を宿しているのに、底が見えない。


 彼は、空へ向かって飛び立とうとしていた。


 天井はすでにない。


 マモンカンパニー本社の上層階を突き破り、光の柱は夜空へ開いている。


 堕天使が翼を広げる。


 爆風。


 カリンの身体が後ろへ吹き飛ばされる。


 床を転がり、裂けた鉄骨にぶつかる寸前で、大鎌の柄を突き立てて止まる。


 ゲイツの笑い声が響いた。


「行くのですか! 素晴らしい! 帝都全域へ、あなたの記録を――」


「黙ってて」


 カリンは低く言った。


 ゲイツは聞いていない。


 堕天使が飛び立つ。


 カリンは大鎌を消した。


 そして、走った。


 翼が一度、羽ばたく。


 堕天使の身体が宙へ浮かぶ。


 旧作のように、天へ向かって舞い上がる。


 カリンは跳んだ。


 片手を伸ばす。


 白い足首を掴む。


 堕天使は気にしなかった。


 そのまま、カリンごと天へ飛んだ。


     *


 マモンカンパニー本社の屋上が砕けた。


 白い光柱の中から、堕天使が飛び出す。


 その足首に、黒い花のような影がしがみついている。


 カリンだった。


「うわ、高い! やっぱり高い!」


 夜空へ吹き上げられながら、カリンは叫んだ。


 ミナト区の街が遠ざかる。


 港湾クレーンが小さくなる。


 地上の装甲車両が玩具のように見える。


 マモンカンパニー本社は翼を持つ怪物のように見え、その周囲を白い羽根の嵐が取り巻いている。さらに遠くには、ホウジュ区のツインタワー。西タワーと東タワーのガラス外壁が、白い光を反射している。


 堕天使は上昇を続ける。


 カリンは必死に足首を掴んでいた。


 普通の人間なら、風圧で腕が千切れている。だが、カリンは歯を食いしばり、片腕でしがみつきながら、もう片方の手で胸元の記録タグを押さえた。


 タグが光っている。


 KARIN。


 KARIN。


 KARIN。


 白い羽根が頬を掠めるたび、自分の名前が薄くなる感覚がする。そのたび、タグとアリスの声が引き戻す。


『KARIN。カリン様。氷の花カリン様。表示名、保持』


「その呼び方、ちょっと癖になりそう!」


『戦闘中の嗜好変化は後ほど記録いたします』


「しないで!」


 堕天使が初めて、カリンを見下ろした。


 空中で。


 白い光の中で。


 彼の瞳が、カリンを射抜く。


「おまえは何者だ」


 声は風よりも強く、頭の内側へ直接響いた。


 カリンは歯を見せて笑った。


「カリン」


 短く。


 迷わず。


「男か、女か」


 堕天使が重ねて問う。


 その問いには、刃があった。


 分類する刃。


 固定する刃。


 お前はどちらだ、と世界へ押し込める刃。


 カリンは片手で足首にしがみついたまま、髪を風に乱されながら答えた。


「今日は可愛いほう」


 堕天使の眉が動く。


「人か、魔か」


「仕事中は、だいたい化け物扱いされるね」


「誰のものだ」


 その問いに、カリンの表情が変わった。


 シグレの弟分。


 氷の花。


 清掃員。


 男。


 女のようなもの。


 マモンが欲しがる研究対象。


 誰かが勝手に貼ってくる名前が、頭の中を白い羽根のように舞った。


 カリンは記録タグを握りしめた。


「ボクのもの」


 風が止まったように感じた。


 堕天使の瞳が、わずかに揺れる。


 カリンは続けた。


「ボクはカリン。ボクの身体に何をされたかは、あいつらの罪。でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由。男って呼ばれる日もあるし、女の子みたいって言われる日もある。弟分って呼ばれるのは好き。氷の花って呼ばれるのも、まあ、かっこいいから嫌いじゃない」


 風が強くなる。


 堕天使の翼が震える。


「でも、どれを持つかはボクが決める」


 カリンは、堕天使を見上げた。


「あんたは?」


 堕天使の表情が歪む。


「私は、反逆者ではない」


「知ってる」


「私は、反逆者ではない!」


「知ってるってば」


「では、私は何だ!」


 その叫びで、空が震えた。


 白い羽根が帝都へ降る。


 街の端末から、さらに名前が消えかける。


 堕天使は怒っていた。


 自分が反逆者としてしか記録されていないことに。


 本当の名を奪われたことに。


 誰もその名を呼べないことに。


 だから、他者の名前を奪う。


 帝都全体に「反逆者」という名を上書きしようとする。


 自分だけが空白なのが許せないから、街全体を同じ空白へ落とそうとしている。


 カリンは、しがみついたまま言った。


「知らないよ」


 堕天使の瞳が燃える。


「知らない?」


「うん。知らない。だって、あんたの本当の名前、誰も知らない。記録にも残ってない。シンくんでも拾えなかった。アリスちゃんでもわからなかった。マナちゃんにも見えない」


「ならば、呼べないではないか!」


「だから、勝手に呼ばない」


 カリンの声は、風の中でもはっきりしていた。


「あんたが思い出すまで、勝手に決めない」


 堕天使は言葉を失った。


 その一瞬、カリンは足首から手を離し、堕天使の翼の付け根へ飛び移った。黒く焼けた羽根が腕に刺さる。痛みが走る。名前を削る白い光が指先を這う。


 記録タグが悲鳴のように光った。


『カリン様、表示名揺らぎ大。KARIN。KARIN。KARIN』


「聞こえてる!」


 カリンは翼にしがみつきながら、大鎌を取り出した。


 空中で。


 片腕で。


 落下寸前で。


 黒い柄が彼の手に収まり、銀の刃が白い夜空を切る。


 堕天使が叫ぶ。


「では、私の名を呼べ!」


 カリンは答えられない。


 堕天使の本当の名前は、誰も知らない。


 だから、カリンは言った。


「知らない」


 正直に。


 残酷に。


 けれど、嘘をつかずに。


「だから、勝手に決めない。あんたが思い出すまで、名前のないまま封じてやる」


 堕天使が激昂した。


 翼が大きく開き、白い羽根が嵐のように吹き荒れる。


 カリンの身体が吹き飛ばされかける。


 その時、胸元のタグがひび割れた。


 KARINの文字が揺れる。


 カリンはタグを掴み、堕天使へ突きつけた。


「ボクの名前は、ボクが持ってる」


 ひび割れたタグが、まだ光っている。


「KARIN」


 カリンは自分で読んだ。


「カリン。これがボクの名前」


 堕天使が睨む。


「だから何だ」


「あんたの名前も、あんたが持ちなよ」


 カリンの声が、鋭くなる。


「反逆者なんて、他人がつけた名前にしがみついてんじゃないよ」


 大鎌が振り上げられる。


 だが、狙うのは堕天使の身体ではない。


 カリンの目には、鎖が見えていた。


 白い首に巻きつく、黒い文字の鎖。


 翼の根元へ食い込む、判決文の鎖。


 額縁から伸び、堕天使の存在そのものへ結びついている記録名。


『反逆者』


 その名が、彼を縛っている。


 カリンはそれを斬る。


「マナちゃん!」


『合わせる!』


 通信越しに、マナが叫ぶ。


 帝都のどこかで、封印式が起動する。


「アリスちゃん!」


『名前固定補助、最大出力。対象を“反逆者”ではなく、“未確定存在”として再定義します』


「シンくん!」


『都市記録側の“反逆者”表示を切り離す。三秒しか持たない』


「兄さま!」


『夢殿側、もう少しだけ止めるよ』


 全部が重なる。


 カリンの大鎌が、白い夜空で軌跡を描いた。


 刃が鎖に触れる。


 金属音ではない。


 紙が裂ける音でもない。


 誰かが長い間信じ込まされていた名前が、初めて疑われる音がした。


 鎖が裂けた。


 堕天使が絶叫する。


 それは痛みの声だった。


 怒りの声だった。


 同時に、解放の声でもあった。


     *


 地上では、ゲイツが最後の悪あがきをしていた。


 第一人格核転写区画の残骸の中で、彼は白い端末を抱え、企業用人格核の緊急転写装置を起動していた。周囲は崩壊している。研究員たちは逃げ、キリングドールは停止し、秘書は名札を握ったまま床に座り込んでいる。


 それでも、ゲイツは笑っていた。


「まだ終わっていません。まだ商品化できます。堕天使の記録が完全に取れなくても、反逆者としての情動だけで十分です。忠誠と反抗。支配者へ逆らう力を、企業のものに――」


 端末が警告を出す。


『逆流』

『対象記録、企業人格核へ侵入』

『所有者識別、拒否』

『名前欠損』


 ゲイツは画面を叩いた。


「違う。私が所有者です。私が開発者です。私が――」


 白い羽根が、彼の頬に触れた。


 ゲイツの言葉が止まる。


 胸の名札から、名前が半分消えた。


 ゲ■■。


 彼は目を見開く。


「私は……」


 空中に、堕天使の声が響いた。


「商品?」


 ゲイツは震えながら空を見上げる。


 堕天使はそこにはいない。


 だが、声だけが降ってくる。


「名も知らぬものに値をつけるな」


 ゲイツの端末が白く焼けた。


 企業用人格核が砕ける。


 彼は悲鳴を上げた。


「私はあなたを商品にするはずだった!」


 白い羽根が、彼の名の残りをさらに削る。


 だが、完全には消えなかった。


 マナの封印式とシンの記録固定が、彼の存在証明を最低限だけ地上へ縫い止めていた。皮肉なことに、それはゲイツを救うためではない。


 証人として残すためだった。


 帝都警察の機動部隊が崩れた隔壁を突破する。


 彼らは床に倒れ込んだ少年社長を拘束した。


 名札には、もう個人名はない。


 残っているのは、役職だけだった。


『マモンカンパニー代表取締役』


 ゲイツは自分の名を思い出せないまま、笑いとも泣き声ともつかない声を漏らしていた。


     *


 空で、堕天使が落ち始めた。


 鎖を斬られたからではない。


 翼を失ったからでもない。


 むしろ、彼は初めて、自分が何に縛られていたのかを知ったように見えた。


 白い羽根の嵐が止まる。


 黒く焼けた翼が小さく震える。


 堕天使の瞳から、怒りだけが少しずつ抜けていく。代わりに残るのは、空白だった。名を失った者の空白。反逆者ではないと叫び続けることでしか、自分を保てなかった者の空白。


 カリンも落ちていた。


 大鎌を振り抜いた反動で、堕天使の翼から離れたのだ。


 地上が近づく。


 マモンカンパニー本社の屋上が、翼の残骸と白い光に包まれている。


 カリンは空中で身体をひねった。


 落下姿勢を整える。


 ブーツの底に魔導光が灯る。


 だが、速度が速すぎる。


「やば。ちょっと可愛くない落ち方」


『カリン様、着地点補正を送信します』


 アリスの声。


「ありがと!」


『ただし、成功率は六十二パーセントでございます』


「もう少し盛って!」


『九十パーセントでございます』


「嘘でも元気出た!」


 カリンは笑い、落下先のビル外壁を蹴った。


 ガラスが割れる。


 身体が横へ流れる。


 さらに看板を蹴る。


 空中車両用の広告フレームへ鎌の柄を引っかけ、落下速度を殺す。


 最後は、マモンカンパニー本社屋上の端へ転がり込んだ。


 肩を打つ。


 膝を擦る。


 ドレスがまた裂ける。


 リボンがひとつ飛ぶ。


「……また服」


 言いながら、彼はすぐに起き上がった。


 堕天使が、光の中へ落ちてくる。


 マナの封印式が展開された。


 マモンカンパニー本社の崩れた屋上に、巨大な円環が浮かび上がる。白い羽根を焼くのではなく、包むように光が回る。アリスの記録タグが、青い補助線を引く。シンが都市記録側から「反逆者」の表示を剥がしていく。シグレが夢殿側の観測を逸らし続ける。


 堕天使の身体が、少しずつ薄くなる。


 現実から、絵へ。


 だが、元の『反逆者』へ戻すのではない。


 反逆者として封じ直すのではない。


 名を失った存在として。


 まだ名を取り戻していない者として。


 堕天使がカリンを見る。


「私は……」


 声が掠れる。


「私は、何者だ」


 カリンは、大鎌を支えに立っていた。


 全身が痛い。


 記録タグはひび割れている。


 KARINの文字も、薄くなったり濃くなったりしている。


 それでも、彼は笑った。


「知らない」


 堕天使の瞳が揺れる。


「でも、勝手に決めない」


 カリンは続けた。


「反逆者じゃないなら、反逆者じゃないまま戻りなよ。名前は、あんたが思い出すまで空けといてあげる」


 堕天使はしばらくカリンを見ていた。


 怒りは、もう薄い。


 悲しみも、少しだけ遠い。


 ただ、長い疲れのようなものが残っていた。


 彼の身体が、光の粒になって崩れる。


 白い羽根が、一枚、カリンの前へ落ちた。


 その羽根には、もう「反逆者」とは書かれていなかった。


 何も書かれていない。


 空白だった。


 カリンはその空白を見て、小さく頷いた。


「うん。その方がいいよ」


 封印式が閉じる。


 堕天使は、再び絵へ戻された。


 だが、その絵に『反逆者』という題名は戻らなかった。


     *


 夜明け前。


 帝都の空から、羽根が消えた。


 白く染まっていた雲の底が、少しずつ夜明けの灰色へ戻っていく。ミナト区の港湾クレーンは静かになり、ツインタワーのガラス外壁には、薄い朝の光が反射し始めていた。マモンカンパニー本社は半壊し、翼を広げていた外壁は崩れ落ち、白い羽根の痕跡だけが道路と屋上に残っている。


 街中では、名前を失いかけた市民たちが、少しずつ自分を取り戻していた。


 シンが仮識別子を照合する。


 アリスが記録タグで存在証明を固定する。


 マナが封印式の残響を閉じる。


 シグレが夢殿側の観測線を静かに戻す。


 誰かが、自分の名前を思い出して泣いた。


 誰かが、隣の人の名前を呼んで抱きしめた。


 誰かが、端末に戻った自分の表示名を見て、ただ座り込んだ。


 名前は、ただの情報ではない。


 呼ばれるためのものだ。


 カリンは、マモンカンパニー本社の屋上に立っていた。


 ボロボロだった。


 戦闘用ドレスは裂け、袖口は焦げ、髪は乱れ、頬には擦り傷があり、片方の手袋は破れている。大鎌の刃も欠け、香の小瓶はほとんど空になっていた。ハルナが見たら、また悲鳴を上げるだろう。いや、今度は悲鳴の前に黙って風呂を沸かすかもしれない。


 カリンは胸元から記録タグを取り出した。


 ひび割れていた。


 銀色の板には細い亀裂が走り、中央の蒼い結晶も欠けている。


 だが、文字は残っていた。


 KARIN。


 薄く、けれど確かに。


 カリンはそれを見つめた。


 氷の花。


 帝都の黒薔薇。


 ツインタワーの窓辺の天使。


 清掃員。


 トラブルシューター。


 シグレの弟分。


 男の子。


 女の子みたい。


 可愛いほう。


 化け物扱いされる仕事人。


 いくつもの呼び名がある。


 でも、その中心に、これがある。


 カリン。


 自分で持つ名前。


 彼は、ひび割れたタグを指先で撫でた。


「うん」


 朝風が、乱れた黒髪を揺らす。


「可愛い名前」


 通信端末が震えた。


 シグレからだった。


 カリンは少し迷ってから、通話を受ける。


『カリン?』


「兄さま」


『終わった?』


「たぶん。まだ後片付けはいっぱいあるけど」


『そっか』


 少し間があった。


 シグレの声が、いつもより柔らかくなる。


『お疲れさま、カリン』


 カリンは目を閉じた。


 泣きそうになった。


 けれど、泣かない。


 今は、朝日が来るところだから。


「うん」


 彼は笑った。


「ボク、がんばったでしょ」


『うん。すごくがんばった』


「じゃあ、帰ったら褒めて」


『褒めるよ。あと、ハルナがお風呂沸かしてる』


「好き」


『ボク?』


「今はハルナちゃん」


『そっかぁ』


 シグレの間延びした声に、カリンはようやく笑った。


 屋上の端では、帝都警察がゲイツを拘束している。ルルトがどこかで逃走経路を潰しているはずだ。シンは請求書を作っているだろう。マナは睡眠不足で倒れるかもしれない。アリスにはタグを返して、たぶん叱られる。いや、無表情で「修復不能に近い損傷でございます」と言われるかもしれない。


 やることは、まだたくさんある。


 『反逆者』ではなくなった絵を、どう呼ぶかも決めなければならない。


 だが、それは次の仕事だ。


 カリンはひび割れた記録タグを胸元へ戻した。


 朝日が、マモンカンパニー本社の壊れた屋上を照らす。


 白い羽根はもう降っていない。


 帝都エデンの夜が、ようやく終わろうとしていた。

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