第11話 天使が堕ちる夜
マモンカンパニー本社は、翼を広げていた。
比喩ではない。
ミナト区の夜空へ向かって伸びる白い高層ビル。その外壁が裂け、ガラスパネルが羽根のように開き、鉄骨と魔導配線の隙間から無数の白い羽毛が噴き出している。企業ロゴの掲げられた壁面は、いまや巨大な肩甲骨のように盛り上がり、屋上から突き立つ光の柱は、空そのものに穴を穿つようだった。
帝都エデンの空は、白く染まっていた。
夜なのに、真昼よりも冷たい白だった。
ミナト区の港湾クレーンが光を浴びて骨のように浮かび上がる。ホウジュ区の商店街では、夜営業の屋台が一斉に火を落とし、ツインタワー西タワーの展望フロアでは客たちが窓際に詰めかけ、東タワーでは裏社会の人間たちが珍しく顔色を失って空を見上げていた。
帝都全域の端末に、一文が表示されている。
『反逆者、光臨』
表示は一度だけでは終わらない。
消しても、また出る。
閉じても、別の画面に出る。
駅の案内板、警察の緊急連絡網、企業ビルの館内表示、家庭用端末、学校の出席管理システム、病院の電子カルテ、コンビニのレジ、清掃会社の業務端末、シグレの雑貨店にある古いレジまで。
反逆者。
反逆者。
反逆者。
その言葉が、帝都の記録層を白い羽根のように埋めていく。
羽根は実際にも降っていた。
マモンカンパニー本社から空へ舞い上がった無数の羽根が、ミナト区一帯へ降り注いでいる。白く、美しく、雪のように軽い。だが、羽根に触れた者は、自分の名前を一瞬失った。
「え……私、何て……」
避難中の社員が、胸元の名札を見た。
そこには何も書かれていない。
彼女は隣の同僚を見た。
「ねえ、私、誰?」
同僚は答えようとして、口を開いたまま止まった。
その同僚の端末からも、彼女の連絡先だけが空白になっている。
道路では、緊急停止した自動運転車両が並び、帝都警察の誘導ドローンが赤い光を点滅させていた。機動警察の装甲車両がミナト区へ入り、企業警備部隊の多脚機が本社周辺を封鎖する。上空には女帝政府所属の監視艇が姿を見せかけ、すぐに距離を取った。
夢殿側は、まだ動かない。
動けないのではない。
動けば、事件の意味が変わるからだ。
これはタルタロス封印級の災厄ではない。死都東京が開いたわけでも、裁きの門が顕現したわけでもない。女帝ヌル本体を揺るがすほどの事態ではない。
だが、ソエル由来存在の記録暴走である。
放置すれば、帝都の記録基盤に傷が残る。
名前が剥がれ、役割が上書きされ、誰かが誰かであった証明が白い羽根に埋もれていく。
その傷は、街の外壁や道路よりもずっと深く残る。
*
東タワー四十六階。
情報屋シンのオフィスでは、すべてのモニターが同時に白く点滅していた。
「冗談じゃないな」
シンは椅子に沈み込んだまま、両手を端末群の上で走らせていた。無数のコードが彼の首筋、腕、背中へ接続され、部屋の壁面に広がる画面には、帝都全域の記録ネットワークが表示されている。
市民登録。
交通ログ。
医療記録。
勤務記録。
戸籍系統。
魔導識別子。
清掃会社の作業員名簿。
ツインタワー外壁清掃シフト表。
それらのあちこちに、白い穴が空いていた。
名前だけが抜ける。
それ以外の情報は残る。
年齢、住所、勤務先、体温、購買履歴、通勤経路、顔写真、声紋。すべて残っているのに、名前だけがない。
存在はある。
呼べない。
それが、どれほど不気味なことか。
シンは低く舌打ちした。
「カリン。早くしろ。都市記録を縫い止めるのにも限度がある」
彼は市民記録の欠損箇所へ仮識別子を打ち込み、システムの深部へ仮の杭を刺していく。名前そのものを戻すことはできない。だが、完全に消える前に、消えた場所へ「ここに誰かがいた」という印を残すことはできる。
それだけでも、後でアリスの記録タグと照合すれば戻せる可能性がある。
部屋の片隅で、かぼちゃ公爵の動画広告が勝手に再生されかけた。
シンは見もせずに消した。
「今はお前の出番じゃない」
*
旧魔導ショップ街、マナの屋敷。
修復室と研究室を隔てる扉は開け放たれ、マナは床一面に展開した封印式の上で端末を叩いていた。髪はさらに乱れ、白衣は肩からずれ、目の下の隈は深い。だが、目だけは鋭かった。
「本社ビル全体を媒体にしてる。最悪。ほんっと最悪。企業ビルを封印画布にする馬鹿がどこにいるのよ!」
怒鳴りながら、彼女は魔導陣を書き換える。
床には旧式のファウスト封印術式、夢殿管理局系の記録固定式、マナ独自の強引な補助線、そしてアリスから提供された記録核安定化式が重なっている。美しくはない。むしろ、術式としてはかなり乱暴だ。
だが、今は美しさより速度だった。
アリスはその隣で、複数の記録タグを並列接続していた。
小さな銀色のタグが、台座の上にいくつも並び、それぞれが青白く光っている。カリンに渡したものと同じ系統の補助タグ。ただし、出力は弱い。市民全員の名前を守るには足りない。だから、アリスはシンが打ち込んだ仮識別子を拾い、消えかけた市民の存在証明へ一時的に結びつけていく。
「仮名固定、三百二十一件。追加、五百八十件。シン様の仮識別子と同期中」
「アリス、カリンのタグは?」
「出力上昇中。表示名、KARIN。揺らぎはありますが、まだ保持しております」
「カリン本人が無茶すると出力飛ぶから、こっちで支えるわよ」
「承知いたしました」
アリスの声は静かだった。
だが、指先は通常よりわずかに速い。
それは焦りではなく、集中だった。
彼女は一度、自分の記録を失いかけた。
器として作られたことを覚えさせられ、自分が誰かを問うた。
だから、今、名前を失いかけている者たちを放っておくことはできなかった。
「カリン様」
アリスは通信越しに、静かに呼ぶ。
「お名前を、見失わないでください」
*
ホウジュ区の雑貨店。
シグレは店の屋根の上に立っていた。
黒いロングコートが夜風に揺れる。手には魔導刀ムラサメ。だが、抜いてはいない。彼が見ているのはミナト区の光柱ではなく、そのさらに上、夢殿から伸びる観測線だった。
ワルキューレが動きかけている。
女帝政府も、当然この異常を見ている。
もし夢殿側が本格的に介入すれば、事件は封印処理へ移る。帝都政府にとって安全な解決にはなるかもしれない。だが、『反逆者』の名は、反逆者のまま再封印されるだろう。記録名が危険と判断されれば、上から強い封印を被せるだけになる。
それでは、カリンがここまで来た意味が薄れる。
シグレは眠たげな目で空を見上げた。
「もう少しだけ、待ってねぇ」
誰に向けた言葉かは、本人にも半分しかわからない。
夢殿へか。
女帝へか。
ワルキューレへか。
それとも、カリンへか。
ハルナが屋根下から叫んだ。
「テンチョ! 落ちないでくださいよ!」
「落ちないよぉ」
「前にそう言って落ちました!」
「今回は大丈夫」
「信用できません!」
シグレは少し笑った。
そして、ムラサメの柄に指を添える。
抜くのではない。
ただ、そこにあると示す。
夢殿から伸びる観測線が、ほんのわずかに逸れた。
「カリン」
シグレは小さく呟いた。
「がんばって」
*
ミナト区地上。
崩れかけたマモンカンパニー本社の足元で、ルルトは黒い傘を肩にかけて歩いていた。
白い羽根が降っている。
彼は羽根を避けるように、ほとんど足音を立てず進む。目の前を、白いスーツの男が走り抜けようとした。マモンカンパニーの幹部だ。手には緊急脱出用の認証ケース。背後には護衛用の企業警備員が二人。
ルルトは傘を開いた。
それだけで、男の進路が塞がれた。
「退け!」
男が叫ぶ。
ルルトは涼しい顔で言った。
「逃走経路を見ている」
「何だと?」
「君は逃げる。ゲイツは残る。企業は記録を消す。罪は下へ流れる。実に見慣れた構造だ」
「ふざけるな!」
護衛が銃を抜く。
次の瞬間、黒い傘の内側から影が伸びた。
護衛二人の腕が、銃を握ったまま床へ落ちる。
血はほとんど出ない。ルルトの切断は、傷口を封じるほど静かだった。
男が悲鳴を上げる。
ルルトは傘を閉じた。
「今日は殺しに来たわけじゃない。証人を残す日だ」
彼は男の足元に、小さな魔導杭を打ち込んだ。
逃走防止結界が起動する。
「そこで見ていろ。会社が翼を生やして落ちるところを」
*
カリンは、光の中にいた。
マモンカンパニー本社の第一人格核転写区画は、もう地下室ではなくなっていた。天井は砕け、フロアは裂け、白い光の柱が下から上へ突き抜けている。壁だったものは翼の骨に変わり、床だったものは巨大な羽根の根元のように波打っていた。
キリングドール群が暴走している。
白い翼を生やした黒服の機械人形たちが、命令と怒りの狭間で震え、腕部ブレードを展開しながらも、時折自分の胸部制御核を押さえてうずくまる。そこには、かつて誰かの名前だったタグが埋め込まれている。
カリンはその群れの中を走った。
大鎌が円を描く。
だが、斬るのは首ではない。
膝。肩。翼の付け根。駆動軸。制御補助線。
動けなくする。
殺さない。
壊さない。
少なくとも、できる限りは。
「アリスちゃんの話、聞いててよかったよ、ほんと!」
『カリン様、左側面より三体接近』
「見えてる!」
左から迫る三体の翼が、一斉に開く。
羽根が散る。
羽根に触れれば、名前が揺らぐ。
カリンは大鎌を回し、羽根を弾いた。弾かれた羽根が床に落ち、そこに書かれていた小さな文字列が消える。文字の羽根。誰かの名前の破片。壊したくない。だが、触れれば自分が消える。
「ごめん、今は避ける!」
彼は壁を蹴り、上へ跳んだ。
壁はもう壁ではなく、巨大な翼の内側のように脈打っている。白い羽根の根元を足場にして、さらに跳ぶ。背後でキリングドールが追ってくる。カリンは小瓶を投げた。薔薇の香が光の中で爆ぜ、センサーと記録層の両方に薄く干渉する。
一瞬だけ、キリングドールたちの動きが鈍る。
その隙に、カリンは光柱の中心へ向かった。
そこに、堕天使がいた。
完全に現実化した姿。
白い身体。
白い布。
金色にも銀色にも見える髪。
中性的で、恐ろしく美しい顔。
だが、翼は黒く焼けている。白い羽根の先が炭のように黒く、ところどころ骨が露出していた。瞳は怒りと悲しみで濁り、光を宿しているのに、底が見えない。
彼は、空へ向かって飛び立とうとしていた。
天井はすでにない。
マモンカンパニー本社の上層階を突き破り、光の柱は夜空へ開いている。
堕天使が翼を広げる。
爆風。
カリンの身体が後ろへ吹き飛ばされる。
床を転がり、裂けた鉄骨にぶつかる寸前で、大鎌の柄を突き立てて止まる。
ゲイツの笑い声が響いた。
「行くのですか! 素晴らしい! 帝都全域へ、あなたの記録を――」
「黙ってて」
カリンは低く言った。
ゲイツは聞いていない。
堕天使が飛び立つ。
カリンは大鎌を消した。
そして、走った。
翼が一度、羽ばたく。
堕天使の身体が宙へ浮かぶ。
旧作のように、天へ向かって舞い上がる。
カリンは跳んだ。
片手を伸ばす。
白い足首を掴む。
堕天使は気にしなかった。
そのまま、カリンごと天へ飛んだ。
*
マモンカンパニー本社の屋上が砕けた。
白い光柱の中から、堕天使が飛び出す。
その足首に、黒い花のような影がしがみついている。
カリンだった。
「うわ、高い! やっぱり高い!」
夜空へ吹き上げられながら、カリンは叫んだ。
ミナト区の街が遠ざかる。
港湾クレーンが小さくなる。
地上の装甲車両が玩具のように見える。
マモンカンパニー本社は翼を持つ怪物のように見え、その周囲を白い羽根の嵐が取り巻いている。さらに遠くには、ホウジュ区のツインタワー。西タワーと東タワーのガラス外壁が、白い光を反射している。
堕天使は上昇を続ける。
カリンは必死に足首を掴んでいた。
普通の人間なら、風圧で腕が千切れている。だが、カリンは歯を食いしばり、片腕でしがみつきながら、もう片方の手で胸元の記録タグを押さえた。
タグが光っている。
KARIN。
KARIN。
KARIN。
白い羽根が頬を掠めるたび、自分の名前が薄くなる感覚がする。そのたび、タグとアリスの声が引き戻す。
『KARIN。カリン様。氷の花カリン様。表示名、保持』
「その呼び方、ちょっと癖になりそう!」
『戦闘中の嗜好変化は後ほど記録いたします』
「しないで!」
堕天使が初めて、カリンを見下ろした。
空中で。
白い光の中で。
彼の瞳が、カリンを射抜く。
「おまえは何者だ」
声は風よりも強く、頭の内側へ直接響いた。
カリンは歯を見せて笑った。
「カリン」
短く。
迷わず。
「男か、女か」
堕天使が重ねて問う。
その問いには、刃があった。
分類する刃。
固定する刃。
お前はどちらだ、と世界へ押し込める刃。
カリンは片手で足首にしがみついたまま、髪を風に乱されながら答えた。
「今日は可愛いほう」
堕天使の眉が動く。
「人か、魔か」
「仕事中は、だいたい化け物扱いされるね」
「誰のものだ」
その問いに、カリンの表情が変わった。
シグレの弟分。
氷の花。
清掃員。
男。
女のようなもの。
マモンが欲しがる研究対象。
誰かが勝手に貼ってくる名前が、頭の中を白い羽根のように舞った。
カリンは記録タグを握りしめた。
「ボクのもの」
風が止まったように感じた。
堕天使の瞳が、わずかに揺れる。
カリンは続けた。
「ボクはカリン。ボクの身体に何をされたかは、あいつらの罪。でも、ボクがどう可愛くなるかは、ボクの自由。男って呼ばれる日もあるし、女の子みたいって言われる日もある。弟分って呼ばれるのは好き。氷の花って呼ばれるのも、まあ、かっこいいから嫌いじゃない」
風が強くなる。
堕天使の翼が震える。
「でも、どれを持つかはボクが決める」
カリンは、堕天使を見上げた。
「あんたは?」
堕天使の表情が歪む。
「私は、反逆者ではない」
「知ってる」
「私は、反逆者ではない!」
「知ってるってば」
「では、私は何だ!」
その叫びで、空が震えた。
白い羽根が帝都へ降る。
街の端末から、さらに名前が消えかける。
堕天使は怒っていた。
自分が反逆者としてしか記録されていないことに。
本当の名を奪われたことに。
誰もその名を呼べないことに。
だから、他者の名前を奪う。
帝都全体に「反逆者」という名を上書きしようとする。
自分だけが空白なのが許せないから、街全体を同じ空白へ落とそうとしている。
カリンは、しがみついたまま言った。
「知らないよ」
堕天使の瞳が燃える。
「知らない?」
「うん。知らない。だって、あんたの本当の名前、誰も知らない。記録にも残ってない。シンくんでも拾えなかった。アリスちゃんでもわからなかった。マナちゃんにも見えない」
「ならば、呼べないではないか!」
「だから、勝手に呼ばない」
カリンの声は、風の中でもはっきりしていた。
「あんたが思い出すまで、勝手に決めない」
堕天使は言葉を失った。
その一瞬、カリンは足首から手を離し、堕天使の翼の付け根へ飛び移った。黒く焼けた羽根が腕に刺さる。痛みが走る。名前を削る白い光が指先を這う。
記録タグが悲鳴のように光った。
『カリン様、表示名揺らぎ大。KARIN。KARIN。KARIN』
「聞こえてる!」
カリンは翼にしがみつきながら、大鎌を取り出した。
空中で。
片腕で。
落下寸前で。
黒い柄が彼の手に収まり、銀の刃が白い夜空を切る。
堕天使が叫ぶ。
「では、私の名を呼べ!」
カリンは答えられない。
堕天使の本当の名前は、誰も知らない。
だから、カリンは言った。
「知らない」
正直に。
残酷に。
けれど、嘘をつかずに。
「だから、勝手に決めない。あんたが思い出すまで、名前のないまま封じてやる」
堕天使が激昂した。
翼が大きく開き、白い羽根が嵐のように吹き荒れる。
カリンの身体が吹き飛ばされかける。
その時、胸元のタグがひび割れた。
KARINの文字が揺れる。
カリンはタグを掴み、堕天使へ突きつけた。
「ボクの名前は、ボクが持ってる」
ひび割れたタグが、まだ光っている。
「KARIN」
カリンは自分で読んだ。
「カリン。これがボクの名前」
堕天使が睨む。
「だから何だ」
「あんたの名前も、あんたが持ちなよ」
カリンの声が、鋭くなる。
「反逆者なんて、他人がつけた名前にしがみついてんじゃないよ」
大鎌が振り上げられる。
だが、狙うのは堕天使の身体ではない。
カリンの目には、鎖が見えていた。
白い首に巻きつく、黒い文字の鎖。
翼の根元へ食い込む、判決文の鎖。
額縁から伸び、堕天使の存在そのものへ結びついている記録名。
『反逆者』
その名が、彼を縛っている。
カリンはそれを斬る。
「マナちゃん!」
『合わせる!』
通信越しに、マナが叫ぶ。
帝都のどこかで、封印式が起動する。
「アリスちゃん!」
『名前固定補助、最大出力。対象を“反逆者”ではなく、“未確定存在”として再定義します』
「シンくん!」
『都市記録側の“反逆者”表示を切り離す。三秒しか持たない』
「兄さま!」
『夢殿側、もう少しだけ止めるよ』
全部が重なる。
カリンの大鎌が、白い夜空で軌跡を描いた。
刃が鎖に触れる。
金属音ではない。
紙が裂ける音でもない。
誰かが長い間信じ込まされていた名前が、初めて疑われる音がした。
鎖が裂けた。
堕天使が絶叫する。
それは痛みの声だった。
怒りの声だった。
同時に、解放の声でもあった。
*
地上では、ゲイツが最後の悪あがきをしていた。
第一人格核転写区画の残骸の中で、彼は白い端末を抱え、企業用人格核の緊急転写装置を起動していた。周囲は崩壊している。研究員たちは逃げ、キリングドールは停止し、秘書は名札を握ったまま床に座り込んでいる。
それでも、ゲイツは笑っていた。
「まだ終わっていません。まだ商品化できます。堕天使の記録が完全に取れなくても、反逆者としての情動だけで十分です。忠誠と反抗。支配者へ逆らう力を、企業のものに――」
端末が警告を出す。
『逆流』
『対象記録、企業人格核へ侵入』
『所有者識別、拒否』
『名前欠損』
ゲイツは画面を叩いた。
「違う。私が所有者です。私が開発者です。私が――」
白い羽根が、彼の頬に触れた。
ゲイツの言葉が止まる。
胸の名札から、名前が半分消えた。
ゲ■■。
彼は目を見開く。
「私は……」
空中に、堕天使の声が響いた。
「商品?」
ゲイツは震えながら空を見上げる。
堕天使はそこにはいない。
だが、声だけが降ってくる。
「名も知らぬものに値をつけるな」
ゲイツの端末が白く焼けた。
企業用人格核が砕ける。
彼は悲鳴を上げた。
「私はあなたを商品にするはずだった!」
白い羽根が、彼の名の残りをさらに削る。
だが、完全には消えなかった。
マナの封印式とシンの記録固定が、彼の存在証明を最低限だけ地上へ縫い止めていた。皮肉なことに、それはゲイツを救うためではない。
証人として残すためだった。
帝都警察の機動部隊が崩れた隔壁を突破する。
彼らは床に倒れ込んだ少年社長を拘束した。
名札には、もう個人名はない。
残っているのは、役職だけだった。
『マモンカンパニー代表取締役』
ゲイツは自分の名を思い出せないまま、笑いとも泣き声ともつかない声を漏らしていた。
*
空で、堕天使が落ち始めた。
鎖を斬られたからではない。
翼を失ったからでもない。
むしろ、彼は初めて、自分が何に縛られていたのかを知ったように見えた。
白い羽根の嵐が止まる。
黒く焼けた翼が小さく震える。
堕天使の瞳から、怒りだけが少しずつ抜けていく。代わりに残るのは、空白だった。名を失った者の空白。反逆者ではないと叫び続けることでしか、自分を保てなかった者の空白。
カリンも落ちていた。
大鎌を振り抜いた反動で、堕天使の翼から離れたのだ。
地上が近づく。
マモンカンパニー本社の屋上が、翼の残骸と白い光に包まれている。
カリンは空中で身体をひねった。
落下姿勢を整える。
ブーツの底に魔導光が灯る。
だが、速度が速すぎる。
「やば。ちょっと可愛くない落ち方」
『カリン様、着地点補正を送信します』
アリスの声。
「ありがと!」
『ただし、成功率は六十二パーセントでございます』
「もう少し盛って!」
『九十パーセントでございます』
「嘘でも元気出た!」
カリンは笑い、落下先のビル外壁を蹴った。
ガラスが割れる。
身体が横へ流れる。
さらに看板を蹴る。
空中車両用の広告フレームへ鎌の柄を引っかけ、落下速度を殺す。
最後は、マモンカンパニー本社屋上の端へ転がり込んだ。
肩を打つ。
膝を擦る。
ドレスがまた裂ける。
リボンがひとつ飛ぶ。
「……また服」
言いながら、彼はすぐに起き上がった。
堕天使が、光の中へ落ちてくる。
マナの封印式が展開された。
マモンカンパニー本社の崩れた屋上に、巨大な円環が浮かび上がる。白い羽根を焼くのではなく、包むように光が回る。アリスの記録タグが、青い補助線を引く。シンが都市記録側から「反逆者」の表示を剥がしていく。シグレが夢殿側の観測を逸らし続ける。
堕天使の身体が、少しずつ薄くなる。
現実から、絵へ。
だが、元の『反逆者』へ戻すのではない。
反逆者として封じ直すのではない。
名を失った存在として。
まだ名を取り戻していない者として。
堕天使がカリンを見る。
「私は……」
声が掠れる。
「私は、何者だ」
カリンは、大鎌を支えに立っていた。
全身が痛い。
記録タグはひび割れている。
KARINの文字も、薄くなったり濃くなったりしている。
それでも、彼は笑った。
「知らない」
堕天使の瞳が揺れる。
「でも、勝手に決めない」
カリンは続けた。
「反逆者じゃないなら、反逆者じゃないまま戻りなよ。名前は、あんたが思い出すまで空けといてあげる」
堕天使はしばらくカリンを見ていた。
怒りは、もう薄い。
悲しみも、少しだけ遠い。
ただ、長い疲れのようなものが残っていた。
彼の身体が、光の粒になって崩れる。
白い羽根が、一枚、カリンの前へ落ちた。
その羽根には、もう「反逆者」とは書かれていなかった。
何も書かれていない。
空白だった。
カリンはその空白を見て、小さく頷いた。
「うん。その方がいいよ」
封印式が閉じる。
堕天使は、再び絵へ戻された。
だが、その絵に『反逆者』という題名は戻らなかった。
*
夜明け前。
帝都の空から、羽根が消えた。
白く染まっていた雲の底が、少しずつ夜明けの灰色へ戻っていく。ミナト区の港湾クレーンは静かになり、ツインタワーのガラス外壁には、薄い朝の光が反射し始めていた。マモンカンパニー本社は半壊し、翼を広げていた外壁は崩れ落ち、白い羽根の痕跡だけが道路と屋上に残っている。
街中では、名前を失いかけた市民たちが、少しずつ自分を取り戻していた。
シンが仮識別子を照合する。
アリスが記録タグで存在証明を固定する。
マナが封印式の残響を閉じる。
シグレが夢殿側の観測線を静かに戻す。
誰かが、自分の名前を思い出して泣いた。
誰かが、隣の人の名前を呼んで抱きしめた。
誰かが、端末に戻った自分の表示名を見て、ただ座り込んだ。
名前は、ただの情報ではない。
呼ばれるためのものだ。
カリンは、マモンカンパニー本社の屋上に立っていた。
ボロボロだった。
戦闘用ドレスは裂け、袖口は焦げ、髪は乱れ、頬には擦り傷があり、片方の手袋は破れている。大鎌の刃も欠け、香の小瓶はほとんど空になっていた。ハルナが見たら、また悲鳴を上げるだろう。いや、今度は悲鳴の前に黙って風呂を沸かすかもしれない。
カリンは胸元から記録タグを取り出した。
ひび割れていた。
銀色の板には細い亀裂が走り、中央の蒼い結晶も欠けている。
だが、文字は残っていた。
KARIN。
薄く、けれど確かに。
カリンはそれを見つめた。
氷の花。
帝都の黒薔薇。
ツインタワーの窓辺の天使。
清掃員。
トラブルシューター。
シグレの弟分。
男の子。
女の子みたい。
可愛いほう。
化け物扱いされる仕事人。
いくつもの呼び名がある。
でも、その中心に、これがある。
カリン。
自分で持つ名前。
彼は、ひび割れたタグを指先で撫でた。
「うん」
朝風が、乱れた黒髪を揺らす。
「可愛い名前」
通信端末が震えた。
シグレからだった。
カリンは少し迷ってから、通話を受ける。
『カリン?』
「兄さま」
『終わった?』
「たぶん。まだ後片付けはいっぱいあるけど」
『そっか』
少し間があった。
シグレの声が、いつもより柔らかくなる。
『お疲れさま、カリン』
カリンは目を閉じた。
泣きそうになった。
けれど、泣かない。
今は、朝日が来るところだから。
「うん」
彼は笑った。
「ボク、がんばったでしょ」
『うん。すごくがんばった』
「じゃあ、帰ったら褒めて」
『褒めるよ。あと、ハルナがお風呂沸かしてる』
「好き」
『ボク?』
「今はハルナちゃん」
『そっかぁ』
シグレの間延びした声に、カリンはようやく笑った。
屋上の端では、帝都警察がゲイツを拘束している。ルルトがどこかで逃走経路を潰しているはずだ。シンは請求書を作っているだろう。マナは睡眠不足で倒れるかもしれない。アリスにはタグを返して、たぶん叱られる。いや、無表情で「修復不能に近い損傷でございます」と言われるかもしれない。
やることは、まだたくさんある。
『反逆者』ではなくなった絵を、どう呼ぶかも決めなければならない。
だが、それは次の仕事だ。
カリンはひび割れた記録タグを胸元へ戻した。
朝日が、マモンカンパニー本社の壊れた屋上を照らす。
白い羽根はもう降っていない。
帝都エデンの夜が、ようやく終わろうとしていた。




