第12話 氷の花、名を選ぶ
マモンカンパニー本社ビルが翼を失った翌朝、帝都エデンはいつも通り騒がしかった。
ミナト区の空には、まだ白い羽根の残光が薄く残っている。実際の羽根は夜明け前までにほとんど消え、道路に落ちていたものも、帝都警察と女帝政府の封印班が回収した。だが、光の痕だけはすぐには消えない。高層ビルの窓、港湾クレーンの鉄骨、空中交通路の透明防壁、マモンカンパニー本社の砕けた外壁。そのすべてに、夜の事件が白い傷のように焼きついていた。
ニュース端末は朝から同じ映像を繰り返している。
半壊した白い企業ビル。
屋上から立ち上った光柱。
白い羽根に触れて名前を一時的に忘れた市民たち。
帝都警察機動部隊による強制捜査。
マモンカンパニー経営陣への聴取。
だが、報道の言葉は慎重だった。
『大規模魔導事故』
『人格核実験に関する管理不備』
『外部封印物の違法取り扱い疑惑』
『企業倫理審査委員会の設置』
『親会社パンデモニウム・グループは関与を否定』
カリンは東タワー四十六階、シンのオフィスで、そのニュースを眺めていた。
黒い服は新しいものに替えている。昨日の戦闘用ドレスは、アリスによる診断で「修復困難、ただし記念品として保存可能」と判断された。カリンとしてはかなり悲しい判定だったが、下水道、リヴァイアサン、キリングドール、堕天使を経由した服が原形を保っている方がおかしい。
今日の服は黒のブラウスに短めのスカート、胸元に小さな薔薇飾り。派手すぎず、地味すぎず、いつでも夜の仕事に移れる格好だった。
机の向こうでは、シンが端末の海に沈んでいる。
マモンカンパニー関係のログ、帝都警察の公開情報、裏社会の噂、女帝政府の非公開記録の一部、企業株価、政治家の朝の発言、マフィアの反応。すべてが、彼の周囲のモニターに浮かんでいる。
「潰れないんだねぇ」
カリンがぽつりと言った。
画面の中で、マモンカンパニーの広報担当者が頭を下げている。
『今回の件は一部研究部門における重大な管理逸脱であり、社として再発防止に全力で取り組んでまいります』
カリンは無表情でその映像を見た。
「一部研究部門、ね」
シンはキーボードを叩きながら答える。
「便利な言葉だ」
「便利すぎて嫌い」
「企業とは、責任を分割するための機械でもある。親会社、子会社、委託先、研究部門、外部顧問、契約社員、現場責任者、故人、失踪者、名前を失った者。責任は細かく刻まれる。刻まれた責任は、最終的に誰のものでもなくなる」
シンは別の画面を開いた。
そこには、拘束されたゲイツの情報が表示されていた。
ゲイツ。
マモンカンパニー代表取締役。
個人名は、アリスとシンの復旧作業によってかろうじて戻されている。だが、彼の記録には奇妙な穴が残っていた。氏名、年齢、経歴、職歴、研究実績、企業登記情報はある。けれど、今回の実験を「なぜ商品化しようとしたのか」という動機の部分だけが、本人の中でも記録上でも空白になっている。
取り調べ記録には、同じ言葉が何度も残っていた。
『私は、それを商品にするはずだった』
『なぜ?』
『商品にするためです』
『なぜ商品にする必要があった?』
『必要だったからです』
『誰のために?』
『企業のために』
『あなた自身は、何を欲していた?』
『……わかりません』
カリンは眉をひそめた。
「名前は戻ったのに、そこだけ空っぽ?」
「堕天使に削られたのか、本人がもともと空っぽだったのか、判断が難しいな」
「辛辣」
「情報屋としての客観的見解だ」
「じゃあ、社長としての記録だけ残ってるの?」
「おおむねな。個人としてのゲイツは戻った。だが、企業人としてのゲイツの方が濃く残っている。つまり、責任者としては使えるが、本人の内面は逃げた」
「逃げたんじゃなくて、削られたんでしょ」
「同じことだ。企業というのは便利だ。誰か一人が名前を失っても、組織の責任は勝手に薄まる」
カリンは頬杖をついた。
不機嫌だった。
「やっぱり、もう一発殴っておけばよかった」
「殴っても記録は戻らない」
「気持ちはすっきりするよ」
「その場合、君の暴行記録が増える」
「シンくん、消してくれる?」
「料金次第だ」
「友情は?」
「友情にも維持費がかかる」
「最低」
カリンは椅子の背にもたれた。
事件は終わった。
少なくとも、表向きは。
マモンカンパニーには強制捜査が入った。旧研究棟の記録も、地下実験区画の残骸も、名前タグも、アリスとシンが復元した市民記録も、すべて証拠として押さえられた。ゲイツは拘束され、秘書を含む関係者も保護または聴取を受けている。
だが、会社は完全には潰れない。
親会社がある。
政治家がいる。
女帝政府との契約がある。
裏社会の利害がある。
帝都の便利なものは、たいてい何かを犠牲にして動いている。汚れた部分だけ切り落とせば綺麗になる、というほど単純ではない。
カリンはそのことを知っている。
知っているから、余計に腹が立った。
「ねぇ、シンくん」
「何だ」
「ボクたち、勝ったのかな」
シンの指が一瞬だけ止まった。
珍しいことだった。
彼はモニターから目を離さずに言う。
「少なくとも、負けてはいない」
「それ、微妙」
「帝都では、それで十分な日もある」
カリンは少しだけ黙った。
やがて、肩をすくめる。
「まあ、ゲイツを殴れなかったのは、後で夢に出そうだけどね」
「必要なら、差し入れとしてボクシンググローブを送っておく」
「シンくんが?」
「請求書つきで」
「やっぱり最低」
その時、端末が鳴った。
帝都美術館からだった。
封印庫への再搬入準備が整ったという通知。
カリンは立ち上がった。
「行ってくる」
「絵の題名を見届けるのか」
「うん」
「君が決めるわけではないだろう」
「でも、見届けたいじゃん」
シンは少しだけカリンを見た。
「変わったな」
「可愛く?」
「面倒に」
「そこは可愛くって言ってよぉ」
カリンは笑い、東タワー四十六階の扉へ向かった。
*
帝都美術館の地下封印庫は、事件前よりも静かだった。
それは、単に人が少ないからではない。
空気そのものが慎重になっているように感じられた。壁の封印符は新しく貼り替えられ、床の結界線は二重から四重へ増え、監視端末には帝都政府、夢殿管理局、帝都美術館、外部監査担当の認証が重なっている。前回、ここから『反逆者』が消えた。記録も名前も警備員も、すべて一瞬で揺らいだ。
同じ失敗を繰り返す気は、さすがにないらしい。
カリンはアリスと並んで、封印庫の最奥へ向かった。
アリスは黒いメイド服姿だった。歩き方はいつも通り静かで、背筋はまっすぐ、表情はほとんど動かない。だが、胸元には補助記録タグがひとつ増えている。カリンへ貸したタグは、ひび割れた状態で返却された。アリスはそれを受け取った時、「損傷率七十二パーセント。想定以上でございます」と言った。
怒っているのかと思ったら、次にこう続けた。
「ですが、カリン様のお名前を保持したのであれば、十分に役目を果たしました」
その言い方が、妙に嬉しかった。
封印庫の奥で、絵が待っていた。
額縁は修復されている。
だが、以前とは違う。
豪奢な金色の額縁ではなく、簡素な白銀の封印枠。過剰に飾らず、閉じ込めすぎず、ただ内側と外側の境界を保つための枠だった。絵の中には、白い布をまとった中性的な天使が描かれている。翼は黒く焼けているが、以前よりも静かに畳まれていた。右手はもうこちらへ伸びていない。胸に当てているわけでもない。ただ、膝の上に置かれている。
顔は美しい。
けれど、微笑んではいなかった。
怒ってもいない。
眠っているようにも見えるし、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
絵の下に、新しいプレートが取り付けられている。
『堕天使の肖像』
その下に、小さく注記があった。
『旧題:反逆者』
『現在名未確定』
『夢殿管理局・帝都美術館共同封印』
『閲覧制限:第七層』
カリンはプレートを見て、少しだけ息を吐いた。
「堕天使の肖像、か」
隣でアリスが絵を見上げている。
「この方は、まだご自身のお名前を思い出していないのですね」
「たぶんね」
カリンは絵の中の天使を見た。
あの夜、空の上で叫んだ声を思い出す。
私は、何者だ。
カリンは答えられなかった。
知らない、と言った。
勝手に決めない、と言った。
それでよかったのか、今でも完全にはわからない。
だが、少なくとも『反逆者』と呼び直すことだけは違うと思った。
「いいんじゃない?」
カリンは言った。
「勝手に反逆者って呼ばれるよりは、ずっとマシだよ」
アリスは静かに頷いた。
「はい。名前は、与えられるものではなく、受け取るものでもなく、選ぶものです」
カリンはアリスを見た。
「アリスちゃん、言うようになったねぇ」
「わたくしも学習しております」
「それ、自分で思った?」
「はい」
アリスは絵を見つめたまま続ける。
「わたくしは、器として作られました。記録として扱われ、誰かの再現であることを求められました。ですが、現在のわたくしは、アリスであることを選択しております」
「うん」
「ですので、この方にも、いつか選択の機会があるべきだと考えます」
「名前を?」
「はい」
「でも、思い出せなかったら?」
「新しく選ぶことも可能でございます」
カリンは少し笑った。
「それ、いいね」
絵の中の天使は動かない。
だが、カリンには一瞬だけ、絵の表情が柔らかくなったように見えた。
気のせいかもしれない。
そうでなくてもいい。
カリンは封印庫の床に、布袋から取り出した小さな名前タグを置いた。
春木。
玲奈。
小野。
凪沢徹。
他にも、完全には読めない名前の断片がいくつか。
美術館側の職員が一瞬緊張したが、アリスが静かに首を振ったことで止まった。
「この人たちも、ここでよかった?」
カリンが問う。
アリスは答えた。
「記録タグとしては、シン様とわたくしが復元処理を進めます。ですが、ここに一度置くことには意味があると思われます」
「意味って?」
「この方が奪った名前であり、同時に、この方を兵器化しようとした者たちによって利用された名前です。どちらか一方だけの罪ではございません」
カリンは頷いた。
「そうだね」
絵の前に置かれた名前タグは、淡く光った。
何かが救われたわけではない。
死者が戻るわけでもない。
消えかけた時間が完全に修復されるわけでもない。
それでも、名前は番号ではない。
その程度のことを、ここに残す意味はある。
カリンは絵に向かって、軽く手を振った。
「じゃあね、堕天使さん。名前、思い出したら教えてよ」
もちろん、返事はない。
けれど、封印庫を出る直前、カリンは背中に視線を感じた。
振り返ると、絵の中の天使は、静かにこちらを見ていた。
反逆者ではない顔で。
*
シグレの雑貨店は、相変わらずだった。
事件後の帝都がどれほど騒いでいても、ホウジュ区の小さな店だけは、妙に落ち着いている。窓辺には怪しい置物が並び、棚には用途不明の魔導具が置かれ、入口脇にはハルナの字で書かれた札が下がっていた。
『店内に白い羽根を持ち込まないでください』
『記録汚染対策中』
『テンチョはいますが、仕事は選びます』
カリンはその札を見て笑った。
「ハルナちゃん、仕事が早い」
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内では、シグレがお茶を淹れていた。
いつもの黒いロングコートではなく、少し柔らかい服装だった。眠たげな目。ゆるい動作。けれど、昨日の夢殿側の監視を逸らし続けた疲れはまだ残っているらしく、目元には薄く疲労が出ていた。
ハルナは棚の掃除をしている。
白い羽根対策なのか、いつもより念入りだった。
カリンが入ってくるなり、ハルナは振り返った。
「カリンさん」
「はぁい」
「今日は下水道臭くないですね」
「第一声それ?」
「大事です」
「大事だけどぉ」
「服も無事ですね」
「うん。今日はまだ」
「まだ、という言い方が不穏です」
「帝都だからねぇ」
ハルナはため息をついた。
「お茶、飲んでいきますか?」
「飲む」
カリンは当然のように席へ向かった。
シグレが湯呑みをひとつ追加する。
「美術館、行ってきた?」
「うん」
「どうだった?」
「絵、戻ったよ。題名も変わった」
「反逆者じゃなくなった?」
「うん。『堕天使の肖像』」
シグレは静かに頷いた。
「そっか」
「まだ名前はないけどね」
「名前がないまま置いておくのも、ひとつの答えだよ」
「兄さまもそう思う?」
「うん。知らない名前を勝手に呼ぶよりは、ずっといい」
カリンは湯呑みを受け取った。
温かい。
シグレの店のお茶は、いつも少し薄い。ハルナが淹れるとちょうどよくなるが、シグレが淹れるとたいてい薄い。けれど、今日はその薄さが妙に落ち着いた。
「マモンカンパニーは?」
シグレが聞く。
「潰れないって。ゲイツは捕まったけど、会社は責任を細かく刻んで逃げるみたい。シンくんが嫌な顔してた」
「シンが嫌な顔するのは珍しいねぇ」
「請求書作る時は楽しそうだったよ」
「それはいつも通りだ」
「ゲイツ、名前は戻ったけど、何で商品化しようとしたのか思い出せないんだって」
「怖いね」
「うん。本人も会社も、空っぽなのに動いてたのかも」
ハルナが掃除の手を止めた。
「それ、かなり怖い話ですね」
「でしょ。だから、もう一発殴っておけばよかったって言ったら、シンくんに記録は戻らないって言われた」
「暴力で記録を戻そうとしないでください」
「気持ちは戻るよぉ」
「カリンさん」
「はい」
ハルナの声が強かったので、カリンは大人しく湯呑みに口をつけた。
シグレは二人のやり取りを見て、少し笑った。
「カリン」
呼ばれた。
ただ、それだけだった。
だが、カリンの手が止まった。
シグレは湯呑みを置き、静かに言った。
「お疲れさま、カリン」
その言葉は、何気ないものだった。
シグレにとっては、ただ名前を呼んだだけかもしれない。
けれど、カリンは一瞬だけ固まった。
兄さまが、カリンと呼んだ。
弟分でもなく。
氷の花でもなく。
厄介者でもなく。
可愛い子でも、黒薔薇でも、トラブルシューターでもなく。
ただ、カリンと。
胸の奥が、変なふうに揺れた。
事件の中で何度も確認した名前。
アリスのタグに表示された名前。
自分で持つと決めた名前。
それを、シグレが普通に呼んだ。
カリンは笑顔を作ろうとした。
いつものように、甘く、可愛く、軽く返そうとした。
だが、少し失敗した。
唇が震えて、目元が熱くなる。
「兄さま、そういうのズルい」
シグレは首をかしげた。
「何が?」
カリンは答えなかった。
答えたら、きっと泣く。
それは嫌だ。
泣くなら、もっと可愛い場面がいい。
だから、彼は湯呑みを両手で持ち、少しだけ下を向いた。
ハルナは何か言いかけて、やめた。
代わりに、棚の掃除を再開する。
シグレはよくわからないまま、もう一度お茶を注いだ。
その何でもなさが、ひどく優しかった。
「兄さま」
「うん?」
「帰ってきたよ」
シグレは微笑んだ。
「おかえり、カリン」
今度は、カリンもちゃんと笑えた。
「ただいま」
*
翌日。
ツインタワー西タワーは、いつも通り営業していた。
昨夜の事件で帝都全域が白い羽根に覆われかけたにもかかわらず、昼の商業施設は強い。エントランスには、早くも「記録復旧記念セール」のポスターが貼られ、カフェでは限定メニュー「白羽ミルクパフェ」が販売されていた。帝都の商魂は、災厄の翌日でも折れない。
西タワー三十四階。
外壁清掃用リフトの上で、カリンは窓を拭いていた。
清掃員の制服。
髪は仕事用に軽くまとめている。
胸元には作業員タグ。
昨日まで帝都上空で堕天使の翼にしがみついていた者と同一人物だとは、とても思えない。
館内の客たちは、今日も窓際に集まっていた。
「カリンくん来た!」
「手振って!」
「昨日の事件、大丈夫だったのかな」
「いや、普通に窓拭きしてるし、大丈夫なんじゃない?」
「すごい、労働意識が高い」
カリンは営業スマイルで手を振った。
歓声が上がる。
地上百メートルの空中で、彼は魔導ワイパーを動かす。ガラスについた薄い汚れが、光になって流れ落ちる。昨日の白い羽根の残滓が、まだ少しだけ外壁に残っていた。触れると危険なものではない。だが、放っておくと曇りになる。
汚れは落とす。
それが今日の仕事だ。
下の階のメンテナンスデッキでは、職場のおばちゃんたちが待ち構えていた。
「カリンちゃーん! 今日も綺麗よ!」
「昨日の夜、大丈夫だったの!?」
「ニュースで白い羽根がどうとか言ってたけど、あんた関係してないでしょうね!」
「タオル新しいの用意しといたわよ!」
カリンは遠くから声を張った。
「タオル回収しないでねぇ!」
「ちっ」
「今、舌打ちしたよね!?」
笑い声が上がる。
カリンは窓を磨きながら、少しだけ東タワーの方を見た。
東タワー四十六階。
シンのオフィスがある場所。
その中では今頃、シンが次の怪事件の情報を拾っているに違いない。請求書も作っているだろう。マモンカンパニー宛てのクリーニング代、窓修理代、情報料、精神的苦痛料。どこまで通るかは知らないが、シンなら通る形にするはずだ。
さらに遠く、ミナト区。
マモンカンパニーの違法倉庫のひとつから、昨夜の混乱に紛れて名前のない機械人形が一体、消えていた。
その痕跡を、ホウジュ区裏路地でルルトが見つけている。
黒い傘の先で、彼は床に落ちた小さな部品を転がした。
「逃げたのか。逃がされたのか。それとも、名前を探しに行ったのか」
誰に聞かせるでもなく呟き、ルルトは薄く笑った。
帝都エデンは、今日も騒がしい。
昨日、街の名前が消えかけた。
それでも、朝は来る。
窓は汚れる。
人は働く。
誰かは依頼を出し、誰かは逃げ、誰かは追う。
カリンは窓の外、地上百メートルの空中で、営業スマイルを浮かべた。
その笑顔は可憐で、甘く、美しい。
だが、その目の奥には、夜の帝都で氷の花と呼ばれる男の冷たさがある。
カリンは小さく呟いた。
「次のお仕事は、もう少し綺麗なのがいいなぁ」
その時、腰の通信端末が鳴った。
作業中なので無視しようと思った。
だが、表示名を見て、少しだけ嫌な予感がした。
シン。
カリンは片手でリフトの手すりを掴み、もう片方の手で端末を開いた。
『新規依頼。違法機械人形の失踪。関係者にマモンカンパニー残党の影。報酬は悪くない』
カリンは無言で画面を見た。
端末がもう一度震える。
『追伸。比較的綺麗な仕事ではない』
「追伸いらないよぉ……」
カリンは深いため息をついた。
窓の内側では、客たちがまだ手を振っている。
清掃デッキでは、おばちゃんたちがタオルを構えている。
東タワーでは、情報屋が笑っているに違いない。
シグレの店では、たぶんハルナが掃除をしていて、シグレがお茶を淹れている。
アリスは記録タグを修理しているかもしれない。
マナは寝ているべきだが、きっと寝ていない。
帝都は今日も、何も終わっていない顔をしている。
カリンは端末をしまった。
「綺麗なお仕事って、帝都にはないのかなぁ」
そう言いながらも、彼の口元には笑みが浮かんでいた。
リフトの安全ロックを外す。
下の清掃員たちが気づいて叫ぶ。
「カリンちゃん!? 作業中よ!?」
「主任に怒られるわよ!」
「タオルいる!?」
「いらない!」
カリンは笑った。
そして、リフトの縁に足をかける。
風が吹いた。
ツインタワー西タワーの窓に、彼の姿が映る。
清掃員の制服。
可憐な顔。
黒い髪。
営業スマイル。
そして、その奥に潜む氷の花。
カリンは地上百メートルの空中から、夜の方へ飛び降りた。
昼の帝都のざわめきが遠ざかる。
風が頬を撫でる。
彼は笑う。
可愛く。
甘く。
そして、少しだけ冷たく。
氷の花が、また帝都の夜に咲く。




