第8話 魔導ショップのアリス
旧魔導ショップ街は、夜になると時間の流れ方が少し変わる。
ホウジュ区とカミハラ区の境界に近いその一角は、かつて帝都エデンの魔導具流通を支えた古い商店街だった。今では大型商業施設やツインタワーの専門フロアに客を奪われ、表通りの店の多くは閉じている。だが、完全に死んだ街ではない。むしろ、昼間より夜の方が本来の顔を見せる。
古い看板が、魔導灯の淡い光を受けて浮かび上がる。
『呪物鑑定』
『封印具修繕』
『旧式魔導炉部品』
『人形関節調整』
『夢見薬取扱注意』
『女帝政府非公認品あります』
半分消えかけた文字の隙間から、まだ商売を諦めていない店の気配が漏れている。シャッターの下から青い光が滲む店。窓の奥で誰かの影だけが動く店。看板は朽ちているのに、扉の結界だけやけに新しい店。帝都の表通りでは買えないもの、買ってはいけないもの、買ったあと後悔するものが、この街にはまだある。
カリンはその通りを歩いていた。
シグレの店を出てから、まだそれほど時間は経っていない。髪は乾いている。ハルナが用意してくれた簡易の黒いワンピースは清潔だ。だが、戦闘用としては頼りない。大鎌の予備は減っている。香の小瓶も割れた。靴も替えたばかりで、足に馴染んでいない。
何より、気持ちがまだ落ち着いていなかった。
大下水道の臭いは、もう身体から消えている。
けれど、記憶には残っている。
虫。
リヴァイアサン。
壊れたキリングドール。
名前のない人形たち。
マモンカンパニー地下で見た、アリスに似た廃棄人形の顔。
カリンは、シグレからもらった魔石を指先で転がした。
小さな魔石は、手の中で淡く光っている。封印記録の歪みに反応するよう、シグレが調整したものだ。今も、旧魔導ショップ街の奥へ向かうほど、かすかに冷たくなる。
目的地は、通りの一番奥にある屋敷だった。
屋敷というより、魔導工房と洋館と古い店舗を無理やりつなげたような建物である。外壁には修繕の跡がいくつもあり、窓には結界符が貼られ、屋根の上には用途不明のアンテナが立っている。庭には薬草らしきもの、機械部品らしきもの、壊れた箒らしきものが雑多に置かれていた。
マナの屋敷。
帝都でも屈指の実力を持つ魔導士、マナの拠点である。
カリンは門の前で立ち止まり、呼び鈴を押した。
呼び鈴は鳴らなかった。
代わりに、門柱の上に置かれていた小さな人形が目を開けた。
『深夜訪問者を確認。氏名を述べよ。なお、不審者の場合は玄関前床面が爆発します』
「物騒」
カリンは顔をしかめた。
「カリンだよぉ。マナちゃんに用事。あと、アリスちゃんがいたら会いたい」
『カリン様を確認。爆発を保留します』
「保留なんだ」
『マナ様の設定でございます』
「マナちゃん、相変わらずだねぇ」
門が開いた。
庭を抜けると、玄関扉が音もなく開いた。
そこに、アリスが立っていた。
黒を基調とした古風なメイド服。金色の髪。蒼い瞳。陶器のような白い肌。人間離れした整った顔立ち。相変わらず、少女というより精巧な芸術品に近い。けれど、その目には以前より少しだけ温度があった。感情の揺れは小さいが、無ではない。カリンはそれを知っている。
アリスは丁寧に一礼した。
「カリン様、深夜の御訪問でございます。また何かを壊されましたか」
カリンは一瞬、言葉に詰まった。
それから笑った。
「まだ壊してないよぉ。これから壊すかもしれないけど」
「承知いたしました。破壊予定でございますね」
「そんな予定表みたいに言わないで」
「では、破壊可能性と記録いたします」
「それもやだなぁ」
アリスは無表情のまま、扉を大きく開けた。
「どうぞ、お入りください。マナ様は奥の研究室にて、三日前から継続中の解析作業を行っております」
「三日前から?」
「はい。睡眠時間は合計二時間四十分でございます」
「それ、生きてる?」
「生存反応は確認しております。ですが、人格的安定性については通常時から変動幅が大きいため、判断が困難でございます」
「マナちゃん、通常時からひどい扱い」
「事実でございます」
カリンは笑いながら屋敷へ入った。
玄関ホールには、魔導具が山のように積まれていた。棚に収まりきらない本、分解途中の機械人形部品、魔導回路の基板、封印符、半分焦げた箒、なぜか大きな鍋。生活空間というより、実験室が住居を侵食しているような場所だ。
アリスはその混沌の中を、何の迷いもなく歩く。
カリンは足元の部品を避けながらついていった。
「ねぇ、アリスちゃん」
「はい」
「この床、爆発しない?」
「通常歩行では爆発いたしません」
「通常じゃない歩行だと?」
「跳躍、滑走、戦闘機動、またはマナ様が設定した『格好良い登場』を検知した場合、局所的に爆発する可能性がございます」
「マナちゃん、何作ってるの?」
「わたくしにも理解できない領域でございます」
「アリスちゃんが理解できないって、相当だね」
「はい。マジでございます」
淡々と言うので、カリンは思わず笑ってしまった。
久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。
アリスはカリンを屋敷の奥にある修復室へ案内した。
そこは、マナの屋敷の中では珍しく整理されていた。壁には工具が種類別に並び、中央には作業台。片側には魔導回路調整用の椅子、もう片側には衣装や装備を修繕するための作業スペースがある。天井からは複数の照明が下がり、必要な場所だけを明るく照らせるようになっていた。
アリスは作業台の上を片づけ、カリンへ椅子を示す。
「まずは状態確認を行います」
「ボク、機械人形じゃないよぉ」
「存じております。ですが、現在のカリン様は損傷品に近い状態でございます」
「言い方」
「より柔らかく申しますと、修復対象でございます」
「変わってないよぉ」
カリンは椅子に座った。
アリスは無表情のまま、カリンの服、靴、手袋、髪、装備を順に確認していく。動きは丁寧で、無駄がない。医療担当というより、精密機械の整備士にも見える。ただし、彼女自身も機械人形であることを思えば、整備する側とされる側の境界が少し不思議に感じられた。
「衣服、戦闘継続には不向き。靴、足首固定力不足。香料瓶、残数低下。大鎌の予備格納領域、三割ほど空白。右手首に軽度の捻挫。左膝に打撲。髪の毛、洗浄済みですが下水道由来と思われる精神的汚染が残留しております」
「精神的汚染って何?」
「カリン様の表情から推定いたしました」
「当たってるけど、言われたくなかった」
アリスは小さく頷いた。
「虫でございますね」
カリンは両手で顔を覆った。
「言わないでぇ……」
「承知いたしました。虫の話題は封印いたします」
「ありがとう」
「封印強度は低めでございます」
「高めにして!」
アリスは作業棚から黒い箱を取り出した。
「まず、服をお貸しいたします。マナ様のものではサイズおよび趣味が合わないため、以前カリン様が置いていかれた予備衣装を使用いたします」
「え、残ってたの?」
「はい。ハルナ様のメイド服を借りた際に、代替として置いていかれたものです」
「うわぁ、懐かしい」
「保管状態は良好でございます。マナ様が雑に箱へ押し込もうとしたため、わたくしが管理いたしました」
「アリスちゃん、天使」
「わたくしは機械人形でございます」
「そういうところも好き」
アリスは箱を開けた。
中には、黒を基調にした戦闘用ドレスが入っていた。軽量で動きやすく、裾は短め。レースは控えめだが、胸元と袖口にはカリン好みの装飾がある。布地には薄い防刃と防汚の魔導処理が施されている。完全な防水ではないが、少なくとも下水道に落ちても一度なら耐える程度の加工だ。
カリンは目を輝かせた。
「これ、まだ着られる?」
「はい。カリン様の現在寸法に合わせ、微調整いたします」
「アリスちゃん、本当に天使」
「わたくしは機械人形でございます」
「じゃあ、機械人形の天使」
「分類が複雑でございます」
アリスは衣装を作業台へ広げ、魔導裁縫具を起動した。
その間に、カリンは大鎌の予備を取り出した。
異空間が開き、黒い柄の大鎌が数本、作業台横の固定台へ並ぶ。中には刃が欠けたもの、粘液がこびりついたもの、魔導回路が不安定になっているものもある。
アリスはそれらを見て、わずかに目を細めた。
「三番目の鎌は、使用を推奨いたしません」
「虫に使ったやつ」
「なるほど」
「もう見たくない」
「廃棄処理いたします」
「お願い。盛大に燃やして」
「安全上、盛大には燃やせません」
「じゃあ、可愛く燃やして」
「検討いたします」
アリスは大鎌の魔導回路を調整し、刃の欠けを修復し、異空間格納時の安定値を整えていく。カリンも香の小瓶を並べ、残量を確認した。眠りを誘うもの、自白を促すもの、興奮を抑えるもの、幻覚を見せるもの、魔導センサーを誤認させるもの。すべて薔薇の香りに偽装されている。
アリスはその小瓶を見て言った。
「カリン様の香は、相変わらず識別が困難でございます」
「機械人形にも効く?」
「わたくしには限定的でございます。ですが、低位機械人形の吸気センサー、嗅覚模倣機構、行動判断補助回路には干渉可能と思われます」
「キリングドールは対策してきた」
「学習型でございますか」
「うん。ボクの動きも香も、どんどん読んできた」
「であれば、次回以降は同じ方法が通じにくいと考えられます」
「嫌なこと言うねぇ」
「事実でございます」
「アリスちゃん、優しいけど容赦ない」
「マナ様にもよく言われます」
装備の修復が進むにつれ、カリンの姿は少しずつ戻っていった。
清潔な服。
整え直された髪。
補充された香。
修復された大鎌。
汚泥の中で一度折れかけた輪郭が、また黒い花の形に整っていく。
だが、心の奥に残ったものは、装備を整えても消えなかった。
カリンは作業台に端末を置いた。
「アリスちゃん。これ、見て」
画面に、『反逆者』の画像を表示する。
帝都美術館の収蔵記録。
マモンカンパニー地下で撮られた、シン経由の不鮮明な映像。
ゲイツが表示していた計測値の一部。
名前を喰われた男たちの身分証。
黒田リョウジの証言。
礼拝堂で現れた影の翼。
アリスは画面を見た。
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
アリスの蒼い瞳の奥で、青白い光が揺れる。
記録核が反応している。
彼女は無表情のまま、手を止めた。
「アリスちゃん?」
カリンが声をかける。
アリスは少しだけ瞬きをした。
「失礼いたしました。記録核に微細な反応がありました」
「危ない?」
「ただちに危険ではございません。ただし、不快に近い反応でございます」
「不快」
「はい。かつてのわたくしの内部記録、ALICE-00関連の断片、シオン=ノイン様に関する封印負荷記録。それらとは完全には一致いたしません」
アリスは画面を見つめたまま続ける。
「ですが、似ています」
カリンは黙った。
アリスが「似ている」と言う時、それはただの印象ではない。彼女の中にある記録核が、構造として反応しているという意味だ。
「どう似てるの?」
「名前、役割、記録、器の関係性です」
「難しいね」
「簡略化いたします」
「お願い」
アリスは作業台の上に小さな投影魔導具を置いた。
空中に、簡易的な図が浮かぶ。
ひとつの円。
その外側に、額縁のような四角。
さらにその上から、赤い文字で『反逆者』と刻まれる。
「それは、人を閉じ込める絵ではありません」
アリスは言った。
「閉じ込めてるんじゃないの?」
「閉じ込める機能もあります。ですが、本質はそこではございません」
アリスは投影された円を指した。
「仮に、この円を絵の中の方の本来の存在とします」
次に、四角い額縁を指す。
「この額縁は、物理的封印です。対象を絵画媒体へ固定するための枠です」
最後に、赤い文字を指した。
「そして、こちらが記録名です」
「反逆者」
「はい。問題は、この記録名が単なる題名ではないことです」
赤い文字が円の中へ染み込んでいく。
カリンは眉をひそめた。
「中に入ってる」
「はい」
アリスの声は淡々としていた。
「閉じ込めた相手に、そういう形であることを覚えさせる絵です」
カリンはすぐには理解できなかった。
いや、言葉はわかる。
だが、意味が身体に入ってこない。
「ごめん。もう少し」
「わたくしが、器として作られたことを覚えさせられていたように」
アリスは静かに言った。
カリンは息を止めた。
「その絵の中の方は、反逆者であることを覚えさせられているのかもしれません」
部屋が静かになる。
魔導裁縫具の小さな駆動音だけが聞こえる。
カリンは笑おうとした。
いつものように、軽く流そうとした。
だが、笑えなかった。
アリスは、誰かの再現として作られた存在だった。
器。
代用品。
記録。
そういう名前を、外側から与えられた。
けれど、彼女は最終的に自分を選んだ。
アリス零式。
誰かの器ではなく、アリスとして。
その彼女が言う。
『反逆者』は、反逆者であることを覚えさせられているのかもしれない、と。
「……ひどいね」
カリンは小さく言った。
自分でも驚くほど、声が低かった。
「はい」
アリスは頷いた。
「ひどいことでございます」
「でも、その絵は人の名前を喰ってる」
「はい」
「警備員も、マフィアの下っ端も、黒田リョウジも。みんな名前を持っていかれかけてる」
「はい」
「じゃあ、被害者だからって放っておけない」
「その通りでございます」
アリスは静かにカリンを見た。
「ですが、倒す対象を間違えると、同じことを繰り返す可能性があります」
「同じこと?」
「反逆者として描かれたから、反逆者として封じる。危険だから、危険物として処理する。名前を持たないから、番号で管理する」
アリスの瞳が、ほんの少し揺れた。
「わたくしが、器であることを理由に器として扱われ続けた場合と、似ています」
カリンは何も言えなかった。
作業室の扉が、勢いよく開いた。
「アリス! こっちの解析ログ、また勝手に踊り出したんだけど!」
マナが入ってきた。
ぼさぼさの髪。白衣。片手に魔導端末。もう片方の手には、なぜか焦げたスプーン。目の下には隈があり、三日間で合計二時間四十分しか寝ていないというアリスの報告に説得力を持たせる姿だった。
そして、カリンを見た瞬間、足を止めた。
「……なんでカリンがいるの?」
「やっほ、マナちゃん」
「その格好、うちの予備衣装? また何か壊したの?」
「アリスちゃんにも同じこと言われた」
「だいたい当たるからね」
マナは部屋の状況を見た。
作業台に並ぶ大鎌。
香の小瓶。
アリスが表示している『反逆者』の構造図。
カリンの真剣な表情。
マナの顔から、眠気が少し消えた。
「……見せて」
カリンは端末を渡した。
マナは凄まじい速度で情報を読む。
帝都美術館地下封印庫。
夢殿関連の封印記録物。
ソエル由来人格記録媒体。
ヨハン・ファウスト式封印。
名前の捕食。
マモンカンパニー。
ゲイツ。
兵器用人格核への転写実験。
読み終える頃には、マナの表情は険しくなっていた。
「最悪」
「みんなそれ言うねぇ」
「実際、最悪だからよ。カリン、これ以上関わらない方がいい」
カリンは少しだけ目を細めた。
「マナちゃんまで?」
「まで、じゃない。これは夢殿管理の危険封印物よ。帝都美術館にあった時点で変だけど、実分類がソエル由来人格記録媒体なら、一般の魔導事件じゃない。下手に触れば、ワルキューレか夢殿管理局が出てくる。出てこないなら、出てこない理由がある。どっちにしても危険」
「ゲイツは今夜、転写実験するって」
「止めるべきなのはわかる。でも、あなたが正面から行く必要はない」
「じゃあ、誰が行くの?」
「夢殿に通報する。女帝政府に――」
マナは言いながら、途中で口を止めた。
自分でもわかっているのだ。
女帝政府に通報すれば、事件は大きくなる。
証拠は封じられ、マモンカンパニーは一部の研究員を切り捨て、ゲイツは「管理上の不備」として逃げるかもしれない。あるいは、夢殿が『反逆者』を危険物として処理し、絵の中の存在の言葉など聞かずに、さらに強い封印をかけるかもしれない。
帝都の秩序は、必ずしも正しさと同じではない。
それを、マナも知っている。
カリンは静かに言った。
「もう関わってるよ」
声は甘くなかった。
「ボクの仕事だし、ボクの街だし、アリスちゃんみたいな子を兵器にしようとしてる会社を放っておけないし」
アリスがカリンを見た。
無表情に近い。
けれど、視線は柔らかい。
「カリン様は、怒っていらっしゃるのですね」
カリンは少しだけ笑った。
「うん。可愛く怒ってる」
「可愛く怒る、という状態の定義が困難でございます」
「ボクを見ればわかるよ」
「現在のカリン様は、可愛らしく、かつ怒っていらっしゃいます」
「ほらね」
マナは額を押さえた。
「緊張感があるんだかないんだか……」
「あるよぉ。すごく」
カリンはマナを見た。
「だから、助けて。止めたい。ゲイツも、転写実験も。あと、できれば『反逆者』って名前も」
マナは黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、彼女の中でいくつもの計算が走っているのがわかった。危険度。関係者。夢殿。女帝政府。アリスへの影響。カリンの生存率。ゲイツの逃走可能性。旧魔導ショップ街地下倉庫の構造。
やがて、マナは深く息を吐いた。
「わかった」
「ほんと?」
「ただし、私は直接は出ない。出ると、たぶんマモン側が警戒するし、夢殿にも引っかかる。裏から結界をいじる。アリスも――」
「わたくしは同行可能でございます」
「駄目」
マナは即答した。
アリスは静かにマナを見る。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「あなたの記録核が反応した。『反逆者』の構造がALICE-00やシオン=ノイン断片と似てるなら、近づきすぎるのは危険。ゲイツが欲しがってるのは、あなたみたいな“面倒な人格”じゃない。でも、だからこそ、あなたの記録核は最高級の参考資料になる」
アリスはしばらく黙った。
「わたくしは、資料ではございません」
「知ってる」
マナの声が少しだけ柔らかくなる。
「だから行かせないの」
アリスはゆっくり頷いた。
「承知いたしました。では、わたくしはカリン様の支援準備を行います」
「そうして」
マナはカリンへ向き直った。
「カリン。あなた一人で行くなら、最低限の保険を持っていきなさい」
「保険?」
アリスが、作業台の引き出しを開けた。
そこから、小さなタグを取り出す。
薄い銀色の板だった。指先ほどの大きさで、中央に小さな蒼い結晶が埋め込まれている。表面には細かな魔導文字が刻まれ、裏側には何も書かれていない。
アリスはそれを両手で持ち、カリンへ差し出した。
「これは、わたくしがアリス零式となった後、自分の記録を安定させるために使用していた補助タグでございます」
カリンは受け取らず、まずアリスを見た。
「大事なものじゃないの?」
「大事なものです」
「じゃあ、借りていいの?」
「はい」
アリスは迷わず答えた。
「現在のわたくしには、常時使用の必要はございません。ですが、『反逆者』の記録干渉がカリン様のお名前へ影響した場合、これが一時的な支えになる可能性があります」
「名前を守るタグ?」
「正確には、対象の名前と存在証明を、周囲の記録層へ一時的に固定する補助具でございます。完全防御ではありません。名前の捕食を防ぎ切ることはできないかもしれません。ですが、揺らいだ時に戻る場所になります」
カリンは、そっとタグを受け取った。
冷たいと思った。
だが、すぐに温度を持つ。
タグの結晶が、淡く光った。
アリスは静かに言う。
「カリン様のお名前が揺らいだ場合、これが支えになるかもしれません」
カリンは軽く笑った。
軽く受け取るつもりだった。
いつものように、可愛く流すつもりだった。
「ありがと、アリスちゃん」
その時、記録タグが一瞬だけ強く反応した。
銀色の板の表面に、青白い文字が浮かぶ。
KARIN。
カリンは真顔になった。
ただの表記だ。
自分の名前が、アルファベットで表示されただけ。
それだけなのに、妙に胸の奥に触れた。
氷の花。
帝都の黒薔薇。
シグレの弟分。
清掃員。
トラブルシューター。
男の子。
女の子みたい。
美しいもの。
危険なもの。
他人は、いろいろな名前でカリンを呼ぶ。
それらを嫌っているわけではない。
利用することもある。
でも。
このタグに浮かんだ五文字は、ただの名前だった。
KARIN。
それ以上でも、それ以下でもない。
アリスが静かに言った。
「表示名、安定しております」
カリンは小さく息を吐いた。
「そっか」
「はい」
「ボク、カリンなんだねぇ」
「はい。カリン様でございます」
その言い方があまりに真面目だったので、カリンは少し笑った。
「アリスちゃんに言われると、なんか効くね」
「薬効は設定されておりません」
「そういう意味じゃないよぉ」
マナが横から口を挟む。
「感動してるところ悪いけど、準備急ぐわよ。旧魔導ショップ街地下倉庫の図面を出す。アリス、カリンの服の最終調整。香の補充は私がやる。あと、カリン」
「何?」
「無茶しないで」
カリンはにこりと笑った。
「無茶の定義によるかな」
「そういう返事すると思った」
「でも、帰ってくるよ」
マナは一瞬、黙った。
アリスもカリンを見る。
カリンは記録タグを胸元の内側へしまった。
「兄さまに褒めてもらう約束してるし。ハルナちゃんに、普通に帰ってこいって言われたし。アリスちゃんに借りたタグ、返さなきゃいけないし」
彼は大鎌の柄を握る。
黒い花が、もう一度夜へ咲く準備を整える。
「それに、ゲイツにはまだ言ってないんだよね」
カリンは甘く笑った。
「ボク、非売品だって」
作業室の外で、旧魔導ショップ街の夜風が窓を叩いた。
遠く、どこかの地下で、封印記録が揺れたように魔石が冷たく光る。
アリスは静かに一礼した。
「ご武運を、カリン様」
「うん」
カリンは振り返り、いつもの調子で手を振った。
「行ってくるね、アリスちゃん」
「はい」
アリスの声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「いってらっしゃいませ、カリン様」




