第7話 兄さまがんばれ、でもボクもがんばる
ホウジュ区の夜は、帝都エデンの中でも少しだけ人間臭い。
ツインタワーのように磨かれすぎてはいない。ミヤ区の夢殿周辺のように神聖ぶってもいない。ミナト区の倉庫街のように塩と油と密輸品の匂いだけでできているわけでもない。古い商店街、路地裏の屋台、二十四時間営業の魔導コンビニ、閉店後も看板だけ点いている骨董屋、何を売っているのかわからない小さな魔導具店、そして、その隙間に人の生活がある。
その一角に、シグレの雑貨店はあった。
看板は小さい。店構えも地味だ。だが、窓辺に並ぶ品物は妙に個性的だった。眠る猫の形をした置物、誰も読めない文字が刻まれた小瓶、古びた懐中時計、使うと必ず一度は転ぶ靴べら、用途不明の金属球、たぶん呪われているが値引き中のティーカップ。まともな雑貨もあるにはあるが、まともなものほど奥に追いやられている。
表向きは、雑貨店。
裏では、帝都の怪事件が最後に転がり込んでくる場所のひとつ。
カリンはその店の前まで来て、しばらく立ち止まった。
泥まみれだった。
自分でも笑えるくらい、ひどい姿だった。
黒いドレスは下水と魔導炉廃液で重くなり、裾は裂け、レースは溶け、リボンはしおれ、ブーツからは歩くたびに嫌な音がする。髪は汚水を吸って固まり、頬には泥の線が残り、香の小瓶は割れたせいで、薔薇の香りと下水の匂いが最悪の形で混ざっていた。
氷の花。
帝都の黒薔薇。
ツインタワーの窓辺の天使。
そのどの通り名も、今の姿には似合わなかった。
強いて言うなら、下水道で摘み忘れられた汚泥の花である。
カリンは自分でその表現を思いついて、深く傷ついた。
「……帰りたい」
もう帰ってきているのだが。
それでも、帰りたい。
自宅は昨夜のキリングドール襲撃で警察と保険会社と清掃会社主任と、なぜか近所の自治会の事情聴取が入っており、まともに使えない。マモンカンパニーからは追われている。マナの屋敷へ行くには、さすがにこの姿では行きたくない。アリスに見られたら、きっと丁寧な顔で「カリン様、現在の外観状態は深刻でございます」と言われる。
それは嫌だ。
とても嫌だ。
だから、シグレの店へ来た。
兄さまのところへ。
カリンは扉の前に立ち、深呼吸をした。
臭かった。
自分が。
「……泣きそう」
呟いた直後、店の扉が内側から開いた。
ハルナが出てきた。
眼鏡。ツインテール。メイド服。いつもどおり、店の中をきっちり整えていそうな表情。片手には箒、もう片手には雑巾。閉店作業の最中だったらしい。
ハルナはカリンを見た。
一秒、止まった。
二秒、見た。
三秒目で、悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああああああっ!」
「ハルナちゃん、ひどい」
「ひどいのはカリンさんの状態です! 何ですかそれ! どこから来たんですか!? いえ、聞きたくありません! 下水ですね!? 絶対下水ですね!?」
「うん。大下水道」
「言わなくていいです! 言った瞬間に臭いの解像度が上がるじゃないですか!」
ハルナは箒を構えた。
まるで魔導槍のような構えだった。
「そのまま入らないでください!」
「えぇ……兄さまに会いに来たのに」
「テンチョへの愛があるなら、店に下水道を持ち込まないでください!」
「愛はあるよぉ」
「なら一歩下がってください!」
「ハルナちゃん、ボクに冷たくない?」
「泥に対して厳しいだけです!」
カリンはしょんぼりした。
と、その時、店の奥から声がした。
「ハルナ、どうしたのぉ?」
眠たげな声だった。
カリンの顔がぱっと明るくなる。
「兄さま!」
彼は扉の隙間から身を乗り出そうとした。
ハルナが箒で止める。
「入らない!」
「兄さまぁ!」
「カリン?」
店の奥から、シグレが姿を見せた。
黒いロングコートを羽織っている。だが、いつもより明らかにくたびれていた。髪は少し湿っており、袖口には泥がつき、コートの裾には何かの粘液が乾いた跡がある。眠たげな目はいつも通りだが、表情には疲労がにじんでいた。
カリンは一瞬、固まった。
シグレも、カリンを見て固まった。
泥まみれの氷の花。
やや泥まみれの帝都の天使。
二人はしばらく無言で見つめ合った。
そして、同時に言った。
「兄さまも下水?」
「カリンも下水?」
ハルナの顔が、絶望に染まった。
「テンチョもカリンさんも、店に下水道持ち込まないでください!」
その声は、ホウジュ区の夜に響き渡った。
*
シグレの雑貨店の裏には、小さな住居スペースがある。
店舗部分から奥へ入ると、狭い廊下、台所、小さな居間、倉庫、それから風呂場がある。店の外観からは想像しにくいが、風呂場は比較的まともだった。ハルナが日々管理しているからである。シグレ一人なら、恐らく湯沸かし魔導具の点検を忘れ、浴室の隅に謎の鉱石を置きっぱなしにし、排水溝に怪しい藻を繁殖させていただろう。
ハルナは二人を裏口から敷地内へ入れた。
ただし、店内には入れなかった。
裏口前で靴を脱がせ、濡れた上着を剥がし、応急的に古い布を渡し、二人を浴室方面へ誘導する。その手際は、災害対応に近かった。
「テンチョは先にそっち! カリンさんはこっちで待機!」
「えー、兄さまと一緒に――」
「入りません!」
「まだ何も言ってないのにぃ」
「顔に書いてあります!」
カリンは頬を膨らませた。
シグレは苦笑する。
「カリン、ハルナの言うこと聞いた方がいいよ。今日は本気で怒ってる」
「兄さま、助けて」
「ボクも怒られてる側だからねぇ」
「テンチョ!」
「はい」
シグレは大人しく浴室へ向かった。
カリンはそれを追おうとした。
ハルナが無言で箒を構える。
カリンはぴたりと止まった。
「……ハルナちゃん、最近強くなった?」
「テンチョの周りにいる人たちが全員厄介なので、鍛えられました」
「ボクも入ってる?」
「もちろんです」
「ひどい」
「泥だらけで来る人に言われたくありません」
ハルナは古いバスタオルと替えの簡易ローブをカリンへ押しつけた。
「カリンさんは、テンチョが出た後です」
「兄さまの残り湯?」
「全部入れ替えます」
「えぇー」
「その顔やめてください。美形で悲しそうにしても駄目です」
「ちぇ」
カリンは渋々、廊下の隅に置かれた椅子へ座った。
椅子には、ハルナがあらかじめビニールシートを敷いていた。
その徹底ぶりに、少しだけ傷つく。
しかし、座った瞬間、身体から力が抜けた。
疲れていた。
自覚していた以上に。
マモンカンパニー本社へ乗り込み、ゲイツと対峙し、『反逆者』を見て、地下実験区画へ落とされ、廃棄処理生物と戦い、大下水道へ落ち、虫に追われ、リヴァイアサンに追われ、キリングドールを巻き込み、泥まみれで地上へ這い出てきた。
その全部が、身体に残っていた。
カリンは膝の上で指を組んだ。
爪の黒い塗りが、何本か剥げている。
最悪。
本当に、最悪。
だが、ハルナの怒鳴り声と、風呂場から聞こえるシグレの間延びした返事と、店の奥に漂うお茶の匂いが、どこか現実感を取り戻させる。
ここは、シグレの店だ。
帰ってきた場所。
そう思ってしまう自分がいる。
「カリンさん」
ハルナの声が、少しだけ柔らかくなった。
カリンは顔を上げる。
「怪我は?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけで済む人は、そんな顔しません」
「顔、そんなにひどい?」
「綺麗です。腹が立つくらいに。ですが、疲れてます」
「……ハルナちゃん、たまに優しいね」
「たまにじゃありません」
「うん。ごめん」
素直に謝ると、ハルナは少しだけ目を丸くした。
そして、咳払いをする。
「とにかく、お風呂に入ってください。その後、服は……」
ハルナはカリンの服を見た。
沈黙する。
「……これは、洗えば戻りますか?」
「戻らないと思う」
「ですよね」
「お気に入りだったのにぃ」
「お気の毒です」
「慰めが事務的」
「泥の処理で精一杯です」
その時、浴室の扉が開いた。
シグレが湯気をまとって出てくる。髪は濡れており、ハルナが用意した部屋着を着ていた。いつもの黒いロングコートではなく、柔らかい灰色の上着なので、普段より少しだけ年相応に見える。疲れは残っているが、泥と下水の匂いは消えていた。
カリンは立ち上がった。
「兄さま!」
「カリン、まだ近づかないで」
「ひどい」
「ボク、今洗ったばっかりだからねぇ」
「じゃあ、ボクも洗ってくる」
カリンは浴室へ向かいかけた。
ハルナが後ろから声をかける。
「服は脱衣所の袋に入れてください! 床に置かない! 髪は二回洗ってください! 排水溝に変なものを流したらテンチョに取ってもらいます!」
「ハルナちゃん、お母さんみたい」
「誰のせいですか!」
カリンは笑いながら浴室へ逃げ込んだ。
*
風呂は天国だった。
いや、天国と呼ぶには帝都エデンの世界観上、いろいろ問題があるが、少なくとも大下水道よりは遥かに上位の領域だった。
熱い湯。
清潔な湯気。
石鹸の香り。
髪に絡んだ汚れが落ちていく感覚。
ブーツの中に入った下水を思い出さなくていい空間。
カリンは浴槽に沈み、湯の中で長く息を吐いた。
「生き返る……」
何度も髪を洗った。
ハルナに言われた通り二回、いや三回洗った。途中で、どこからか白い糸のようなものが出てきた気がしたが、見なかったことにした。見てしまえば、また悲鳴を上げることになる。
湯から上がる頃には、ようやく氷の花としての輪郭が戻ってきた。
ただし、服はない。
脱衣所に置かれていたのは、ハルナが用意した簡易の黒いワンピースと、予備のカーディガンだった。サイズは少し合わない。だが、非常用としては十分だ。ついでに、髪をまとめるリボンも置かれていた。黒ではなく、紺色。
カリンはそれを手に取り、少し笑った。
「ハルナちゃん、優しい」
着替えて居間へ行くと、シグレとハルナがちゃぶ台の前に座っていた。
雑貨店の居間は、狭いが落ち着く場所だった。壁際には本棚。棚の上には売り物なのか私物なのかわからない置物。ちゃぶ台の上には急須、湯呑み、ハルナが用意した簡単な夜食。焼きおにぎり、漬物、卵焼き、味噌汁。なぜか、カリン用と思われる小さな皿に、甘い和菓子も置かれている。
カリンは一瞬で機嫌を直した。
「ハルナちゃん、好き」
「そういう時だけ懐かないでください」
「お菓子ある」
「疲れていると思ったので」
「やっぱり好き」
「はいはい」
シグレは湯呑みを持ったまま、眠たげに笑っている。
「少し元気になったね」
「兄さまの家のお風呂、命の恩人だよ」
「うちの風呂、そこまで大きなものじゃないけどねぇ」
「大下水道の後だと、すべてが聖域」
「それはわかる」
シグレがしみじみ言う。
カリンは目を細めた。
「兄さまも下水だったんでしょ。何してたの?」
「カリンから途中で通信切れたから、探しに行こうとしたんだけどねぇ。ホウジュ区の地下水路で別の妖物に絡まれて」
「兄さま、ボクを迎えに来ようとしてくれたの?」
「まあ、途中までは」
「兄さまぁ!」
カリンはシグレへ抱きつこうとした。
ハルナが箸を置いた。
かつん、という音。
カリンは動きを止める。
「……食事中だもんね」
「わかっているなら座ってください」
「はい」
大人しく座る。
シグレは苦笑しながら、お茶を注いだ。
「それで、何があったの?」
カリンは焼きおにぎりをひと口食べた。
温かい。
香ばしい。
ちゃんと味がする。
大下水道の後だと、普通の食べ物が奇跡のように感じられる。
彼は少しだけ落ち着いてから、話し始めた。
マモンカンパニー本社へ乗り込んだこと。
清潔すぎる白いロビー。
少年の姿をした社長ゲイツ。
『反逆者』が本社地下にあったこと。
ゲイツがそれを、ソエル由来存在の魂の輪郭を保持する人格記録媒体だと呼んだこと。
キリングドールに転写し、自律型の兵器を作ろうとしていること。
アリス零式のような「面倒な人格」は不要だと言ったこと。
地下実験区画に落とされ、名前のない人形たちと、廃棄処理生物を見たこと。
大下水道へ落ち、リヴァイアサンに追われたこと。
虫が出たこと。
虫が出たこと。
虫が出たこと。
「虫の話、多くない?」
シグレが言う。
「大事だよ! 兄さま、あれは本当に無理だったんだから!」
「うん、それは伝わった」
ハルナは青い顔をしていた。
「マモンカンパニー、そんなことを地下で……」
「うん」
カリンは和菓子をひとつ摘まんだ。
「綺麗な会社だったよ。上はね。下は、名前のないものを捨てる場所だった」
シグレの目が、少しだけ伏せられた。
名前のないもの。
誰かの代用品。
役割だけ残された存在。
それは、シグレにとっても無関係ではない言葉だった。
ハルナは世界の深い真相をすべて知っているわけではない。だが、シグレがそういう言葉に弱いことは知っている。彼女は何も聞かず、ただ急須を取り、お茶を足した。
シグレはしばらく黙ってから言った。
「それ、君が処理できる事件じゃないかもしれない」
静かな声だった。
責めてはいない。
止めてもいない。
ただ、危険だと言っている。
カリンは湯呑みを持ったまま、シグレを見た。
「夢殿案件?」
「たぶんね。女帝政府、夢殿、封印記録、ソエル由来存在。そこまで揃うと、普通の企業犯罪じゃ済まない」
「ワルキューレも動く?」
「動くかもしれない。動かないようにしているのかもしれない。どっちにしても、面倒だよ」
シグレは軽く笑った。
だが、目は笑っていない。
「ボクが正面から入ると、たぶん余計なものが動く。夢殿がボクの中のノインの残響に反応するかもしれないし、ワルキューレが警戒するかもしれない。シオンの件と関係があると思われたら、事件が一気に大きくなる」
ハルナは黙って聞いている。
シグレの言葉のすべてを理解しているわけではない。それでも、「テンチョが関わると世界の大きなところが動く」という感覚は、もう何度も見てきた。
カリンは軽く笑った。
「じゃあ、兄さまが処理する?」
シグレは答えなかった。
その沈黙は、優しさでもあり、拒絶でもあり、信頼でもあった。
カリンは少しだけ寂しそうにした。
本当に一瞬だけ。
すぐにいつもの笑顔へ戻す。
「大丈夫。ボク、氷の花だから」
シグレはカリンを見た。
「カリン」
「何?」
「怖くない?」
カリンは考えた。
虫は怖かった。
リヴァイアサンも怖かった。
ゲイツは気持ち悪かった。
名前のない人形たちは、見ていて胸が冷たくなった。
『反逆者』の目は、まだ脳裏に残っている。
自分の顔に似て見えた一瞬も。
怖くないと言えば、嘘になる。
「怖いよ」
カリンは正直に言った。
「でもさ、兄さま」
「うん」
「怖いからやめるって言ったら、あの地下に捨てられてた子たち、ずっと名前なしのままでしょ」
シグレは黙った。
「アリスちゃんみたいなのを作りたいんじゃないって、ゲイツは言った。アリスちゃんみたいに悩む人格はいらないって。必要なのは、魂の形をした制御装置だって」
カリンの声が低くなる。
「ボク、それ嫌い」
シグレは、ゆっくり頷いた。
「うん」
「嫌いだから、止めたい」
「うん」
「兄さまに褒めてもらいたいから始めた仕事かもしれないけど、今はそれだけじゃないんだと思う」
カリンは少しだけ照れくさそうに笑った。
「ボク、自分で腹立ってるんだよ」
シグレは湯呑みを置いた。
その表情は、少し寂しそうで、少し嬉しそうだった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、ボクは口出ししすぎない方がいいね」
「助けてくれないの?」
「助けるよ。本当に危なくなったら」
「今もけっこう危ないよ?」
「今は、まだカリンが自分で立ってる」
カリンは目を丸くした。
それから、少しだけ唇を尖らせる。
「兄さま、ずるい言い方する」
「そう?」
「うん。そういうこと言われると、甘えにくい」
「甘えてもいいよ」
「どっちなのぉ」
シグレは眠たげに笑った。
「甘えてもいいけど、決めるのはカリン」
カリンはしばらく黙った。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
甘えてもいい。
でも、決めるのは自分。
兄さまに頼ることと、兄さまに代わってもらうことは違う。
カリンはようやく、その違いを少しだけ理解した気がした。
端末が鳴った。
シンからだった。
空気が変わる。
カリンは画面を開いた。
短い文章。
『マモンカンパニー、今夜動く。旧魔導ショップ街地下倉庫。反逆者の記録を兵器用人格核へ転写する実験予定』
続けて、地図が送られてくる。
カミハラ区とホウジュ区の境界に近い、旧魔導ショップ街。その地下倉庫。
マナの屋敷に近い。
カリンは息を吐いた。
「今夜だって」
シグレが目を細める。
「実験?」
「うん。『反逆者』の記録を、兵器用人格核に転写するって」
ハルナが口元を押さえた。
「それ、さっき言っていた……」
「うん。ゲイツがやりたいこと」
カリンは立ち上がった。
体はまだ重い。
けれど、休む時間は終わった。
ハルナがすぐに言う。
「その格好で行く気ですか?」
カリンは自分の簡易ワンピースを見る。
「可愛いけど、戦闘向きじゃないね」
「可愛いのは否定しないんですね」
「そこは大事だから」
「装備は?」
「自宅は封鎖中。警察と保険会社と主任と自治会がいる」
「なぜ自治会まで」
「近所迷惑な戦闘したからかなぁ」
ハルナは額を押さえた。
シグレは少し考えた。
「マナのところへ行く?」
「うん。マナちゃんの屋敷なら、魔導装備もあるし、アリスちゃんもいるかもしれない。あと、服を借りられるかも」
「カリン、そこ重要なんだ」
「重要だよ。テンションに関わる」
「それは大事だねぇ」
ハルナが立ち上がった。
「待ってください。せめて応急装備とタオルと替えの靴下を持っていってください」
「ハルナちゃん、好き」
「だから、そういう時だけ懐かないでください」
ハルナは台所の奥へ向かい、手早く布袋を用意した。
タオル。応急用の魔導絆創膏。小型の香袋。乾いた靴下。携帯食。小さな裁縫セット。なぜか、飴が三つ。
カリンは袋を受け取り、目を細めた。
「飴」
「疲れた時用です」
「やっぱり好き」
「はいはい。無事に帰ってきてから言ってください」
シグレも立ち上がった。
店の奥から、小さな魔石を持ってくる。
「これ、持っていって」
「ダウジング用?」
「うん。死都系じゃなくて、封印記録の歪みに反応するように少し調整してある。マナならもっと正確に見られると思うけど、ないよりはマシ」
「兄さまの魔石」
「お守りみたいなものだよ」
カリンはそれを受け取った。
冷たい魔石だった。
けれど、不思議と手の中にあると安心する。
「ありがとう」
珍しく素直に言った。
シグレは少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「うん。気をつけて」
「兄さま」
「うん?」
「ボクが帰ってきたら、褒めてね」
シグレは静かに頷いた。
「帰ってきたらね」
「約束」
「約束」
カリンは笑った。
今度は、いつもの甘い笑顔だった。
けれど、目の奥には、さっきまでとは違う光がある。
ハルナが店の裏口を開ける。
「カリンさん」
「何?」
「今度、下水道経由で帰ってきたら、本当に外で洗いますからね」
「それは嫌」
「なら、普通に帰ってきてください」
「努力する」
「努力じゃなくて実行してください」
カリンはひらひらと手を振った。
そして、夜のホウジュ区へ出ていった。
*
カリンが去った後、雑貨店には少しだけ静けさが戻った。
ハルナは居間に残された湯呑みを片づけ、カリンが座っていた場所を確認した。泥は落ちていない。よかった。あれだけ警戒した甲斐があった。だが、彼が持ち込んだ空気の名残はある。薔薇の香りと、下水の記憶と、少しだけ焦げたような戦闘の匂い。
シグレはちゃぶ台の前に座り直し、湯呑みを手に取った。
中身はもう冷めている。
それでも、彼は少しだけ口をつけた。
「カリン、少し変わったね」
ハルナは台所から戻りながら言った。
「テンチョに甘えるだけじゃなくなった、ってことですか?」
「うん」
シグレは窓の外を見た。
夜のホウジュ区。
カリンが歩いていった方角には、古い商店街の明かりが点々と続いている。その先に、旧魔導ショップ街がある。さらにその奥には、マナの屋敷があるはずだった。
「ちょっと寂しいねぇ」
ハルナは少しだけ呆れた顔をした。
「テンチョ、それは親みたいな発言です」
「親ではないかなぁ」
「兄でもないですしね」
「でも、カリンは兄さまって呼ぶから」
「呼ばせてるんですか?」
「勝手に呼ばれてる」
「止めないんですか?」
「止めたら泣きそうな顔するんだよ」
「テンチョはそういうところが甘いです」
シグレは苦笑した。
「そうかなぁ」
「そうです」
ハルナは湯呑みを片づけながら、少し声を柔らかくした。
「でも、行かせたんですね」
「うん」
「心配じゃないんですか」
「心配だよ」
「なら――」
「でも、これはカリンの仕事だ」
シグレの声は静かだった。
「ボクが全部代わったら、カリンはきっと笑うよ。嬉しそうに。でも、そのあと、少しだけ悔しそうにすると思う」
ハルナは黙った。
シグレは続ける。
「カリンは、ボクに褒められたくてトラブルシューターになったのかもしれない。でも、今はもう、それだけじゃない。あの子、自分で怒ってる」
「自分で怒ってる、ですか」
「うん。それは大事だよ」
ハルナは、窓の外を見た。
カリンの姿はもう見えない。
「無事に帰ってきますかね」
「帰ってくるよ」
シグレは言った。
少しだけ、いつもより強く。
「帰ってきてもらわないと、褒められないからねぇ」
ハルナは小さく笑った。
「では、帰ってきた時のために、お風呂をまた沸かす準備をしておきます」
「下水道じゃなければいいねぇ」
「本当にそうです」
*
カリンは夜の帝都を歩いていた。
ハルナから渡された布袋を肩にかけ、シグレからもらった魔石を手の中で転がす。髪は乾いている。服は簡易のものだが、清潔だった。泥は落ちた。臭いも消えた。身体の痛みは残っている。けれど、足取りは軽い。
ホウジュ区の夜風が頬を撫でる。
商店街のシャッターには魔導広告の光が反射し、路地裏からは屋台の湯気が上がり、遠くでは空中車両の走る音がする。帝都エデンは今日も眠らない。誰かが泣いていても、誰かの名前が消えかけていても、企業の地下で魂の輪郭が商品にされかけていても、街は平然と明かりを灯し続ける。
カリンはシグレの魔石を握った。
兄さまに褒められたい。
それは今も変わらない。
シグレが笑って「お疲れさま、カリン」と言ってくれたら、たぶん自分は簡単に機嫌を直す。泥まみれでも、服が破れても、虫に追われても、少しくらいは許せる気がする。
でも。
それだけでは、もう足りない。
マモンカンパニーの地下にあった、名前のない人形たち。
アリスに似た顔。
ゲイツの声。
必要なのは、魂の形をした制御装置です。
あの言葉を、見なかったことにはできない。
カリンは小さく呟いた。
「兄さまに褒められるために始めた仕事だけどさ」
夜風に、薔薇の香りが少しだけ混じる。
「今は、ボクがやりたいからやってるんだよ」
彼は顔を上げた。
旧魔導ショップ街の方角に、古い街灯が並んでいる。その先に、マナの屋敷がある。きっとアリスもいる。アリスなら、『反逆者』の記録構造について何か言えるかもしれない。あるいは、何も言わずに「カリン様、まずは服装の修復が必要でございます」と言うかもしれない。
それはそれで、少し楽しみだった。
カリンは歩き出した。
氷の花は、まだ折れていない。
泥にまみれても、虫に追われても、兄さまに甘えたくても。
夜に咲く花は、自分で次の場所を選ぶ。




