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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
6/12

第6話 大下水道のリヴァイアサン

 赤い非常灯が、地下実験区画を血の色に染めていた。


 マモンカンパニー本社の最深部。地上の白く清潔なロビーとは似ても似つかない、廃棄された実験の墓場。そこには、壊れた機械人形の腕、顔だけになった受付用人形、制御核の割れたキリングドール、妖物の臓器標本、魔導炉廃液を吸った黒い金属片、用途不明の管、名札のない人形たちが散乱していた。


 その奥で、巨大な処理生物が身体を持ち上げる。


 企業廃棄物と妖物と機械人形の残骸が混ざり合った、醜い塊だった。金属製の作業アームが節足のように床を掻き、ぬめる肉質の触手が配管に絡み、廃棄された人形の顔がいくつも胴体の表面に埋まっている。顔の一つが口を開けた。声は出ない。代わりに、黒い液体が顎を伝って落ちた。


 カリンは大鎌を肩に担いだまま、少しだけ眉を寄せた。


「うわぁ」


 率直な感想だった。


「キリングドールの方がまだ清潔だったねぇ」


 処理生物は答えない。


 答えるための口はたくさんあるのに、言葉はない。あるのは、喰うための器官と、廃棄物を処理するための命令だけだ。


 カリンはその事実に、ほんの少しだけ苛立った。


 ここには、名前のないものが多すぎる。


 廃棄済。処理待ち。人格不適合。所有者記録なし。実験失敗。用途不明。名札のない人形。そういうラベルばかりが、壁にも床にも、ケースにも貼られている。ラベルはある。だが、名前はない。


 アリスの顔に似た廃棄人形の頭部が、非常灯の赤を受けてこちらを見ていた。


 似ているだけだ。


 アリスではない。


 それでも、カリンは胸の奥が不快に軋むのを感じた。


「ごめんね。今は供養とかできないから」


 カリンは小さく呟いた。


「せめて、これ以上汚くしないように壊すね」


 処理生物が跳ねた。


 巨体に似合わない速度だった。作業アームが床を叩き、ぬめる胴体が前へ滑る。顔の群れが一斉に開き、黒い廃液を吐いた。


 カリンは横へ跳ぶ。


 黒い液体が床に落ちた瞬間、金属床が泡立って溶けた。酸でもあり、呪詛でもあり、企業秘密でもある何か。まともに浴びれば、ドレスどころか肌も骨も魔導回路も無事では済まない。


「やだやだやだ! 服どころの話じゃない!」


 カリンは大鎌を振るった。


 刃が処理生物の触手を切断する。だが、切られた触手は床で跳ね、別の廃棄アームを巻き込み、また胴体へ戻ろうとした。再生ではない。吸着だ。廃棄物同士が、互いを補修部品として使っている。


 カリンは顔をしかめた。


「会社みたいな身体してるね。使えそうなものは全部くっつけるんだ」


 作業アームが上から振り下ろされる。


 カリンは大鎌の柄で受けた。衝撃が腕に響く。見た目は華奢な彼だが、ただの少年ではない。足を踏ん張り、柄を滑らせ、アームの力を横へ逃がす。床が砕け、廃液が跳ねる。


 その廃液が、スカートの裾に一滴ついた。


 じゅ、と音がした。


 黒い布に、小さな穴が空く。


 カリンの表情が凍った。


「……今」


 声が低くなる。


「ボクの服、溶かした?」


 処理生物が、また唸る。


 カリンは笑った。


 その笑顔は可愛らしかった。


 だが、目が怖かった。


「高かったんだよ、それ」


 大鎌の刃が、赤い非常灯を反射して赤黒く光る。


 次の瞬間、カリンは処理生物の懐へ飛び込んでいた。速い。軽い。壁を蹴り、配管を足場にし、天井から垂れたケーブルを掴んで身体を反転させる。戦闘というより、舞いだった。黒いドレスの裾が花びらのように翻り、その中心で銀の刃が円を描く。


 一撃で作業アームを落とす。


 二撃で触手の束を裂く。


 三撃で胴体に埋まった制御核らしきものを抉る。


 だが、処理生物は止まらない。


 奥にあるのは一つの核ではない。廃棄された複数の機械人形の制御核、妖物の本能、企業製処理プログラム、魔導炉廃液に溶けた何か。それらが混ざっている。壊しても、別の核が機能を引き継ぐ。


「しつこい」


 カリンは大鎌を振り上げた。


 その時、床が揺れた。


 最初は、処理生物の突進かと思った。


 違う。


 もっと下からだ。


 地下深くから、帝都そのものが身じろぎしたような低い振動が伝わってきた。


 マモンカンパニーの廃棄実験区画の床が、細かく震える。配管から蒸気が噴き、壁の警告灯が一斉に点滅する。処理生物も一瞬動きを止めた。何かを恐れるように、胴体の顔がいくつも下を向く。


 カリンは眉をひそめた。


「何?」


 次の瞬間、床が抜けた。


 処理生物の巨体が沈む。


 カリンも足場を失った。


「ちょっ――」


 言い終える前に、地下実験区画の床ごと、彼はさらに下へ落ちた。


     *


 落下した先は、水だった。


 正確には、水と呼びたくない液体だった。


 どぶん、と嫌な音を立てて、カリンの身体が黒い水路へ叩き込まれる。冷たい。ぬるい。臭い。重い。何かが服に絡む。髪が濡れる。ブーツの中に水が入る。思わず口を開きかけ、すんでのところで閉じる。


 絶対に飲みたくない。


 カリンは反射的に水面へ浮上した。


「ぷはっ……!」


 空気を吸った瞬間、後悔した。


 臭い。


 ひどい。


 薬品、腐敗、泥、下水、魔導炉廃熱、企業廃棄物、妖物の粘液。それらが全部まとめて鼻を殴ってくる。カリンは片手で鼻を押さえた。


「くっさ……!」


 声が裏返る。


 周囲は巨大な地下水路だった。


 天井は高い。だが、暗い。壁には埋め込み式の古い魔導灯が点々と並んでいるが、その半分以上は点滅しているだけだった。水路の両側には細い点検通路があり、ところどころに錆びた手すりや梯子がある。頭上には太い排熱管が何本も走り、時折、白い蒸気を吐いた。


 帝都エデンの大下水道。


 ただの排水施設ではない。


 ヨムルンガルド結界の排魔気ライン。


 魔導炉の廃熱経路。


 企業が表に出せない廃棄物を流す違法排出路。


 妖物の繁殖地。


 都市の胃袋であり、腸であり、誰も見たがらない傷口だった。


 カリンはどうにか点検通路へ這い上がった。


 黒いドレスが水を吸って重くなっている。レースは汚れ、リボンはしおれ、ブーツはぐしょぐしょ。髪も濡れて頬に張り付いている。薔薇の香は下水の臭いに負けかけていた。


 彼はしばらく無言で立っていた。


 そして、震える声で呟いた。


「……帰りたい」


 だが、帰り道はない。


 天井を見上げると、落ちてきた穴はすでに閉じかけていた。マモンカンパニーの廃棄区画から流れ込んできた瓦礫と処理生物の残骸が、水路の一部を塞いでいる。上へ戻るには、あのぬめる黒い壁を登る必要がある。


 絶対に嫌だ。


 カリンは端末を取り出した。


 画面は黒い。


 まだ通信遮断が続いている。


「シンくん、つながらない。兄さま、つながらない。アリスちゃん、つながらない。マナちゃんも……うん、全部だめ」


 カリンは端末をしまった。


 そして、スカートの裾を見た。


 溶けた穴。


 下水の染み。


 廃液の汚れ。


 表情がじわじわと崩れる。


「この服、まだ二回しか着てないのに……」


 その時、足元で何かが動いた。


 カリンは固まった。


 点検通路の端、排水溝の隙間から、黒い脚が一本出ていた。


 細い。


 節がある。


 さらに一本。


 さらに一本。


 ぬめった甲殻を持つ、巨大な虫系妖物が、排水溝の奥からゆっくり這い出してくる。体長は一メートル半ほど。胴体はゴキブリとムカデと甲虫を雑に混ぜたような形で、背中には濡れた羽根が畳まれている。触角が震え、口元から白い泡が落ちる。


 カリンの顔から血の気が引いた。


「……」


 虫系妖物は、触角を揺らした。


 カリンも、わずかに震えた。


 次の瞬間、虫が飛んだ。


「無理無理無理無理無理っ!」


 カリンは叫んだ。


 その声は、大下水道の壁に反響し、何本もの水路を駆け抜けた。


「これは仕事じゃない! 拷問!」


 大鎌を出す。


 反射的に出す。


 そして、虫が刃に当たる寸前で、カリンは大鎌を消した。


「やだ! 鎌が汚れる!」


 結果、虫がさらに近づく。


「もっとやだぁ!」


 カリンは全力で逃げた。


 点検通路を走る。足元が濡れて滑る。ブーツが水を吸って重い。背後で虫が羽音を立てる。羽音。羽音がする。虫の羽音。カリンの背筋に寒気が走る。


 人間相手なら笑える。


 妖物相手でも、獣型なら平気だ。


 機械人形なら壊せる。


 だが、虫は別だった。


 足が多い。動きが読めない。何を考えているのかわからない。そもそも考えているのかもわからない。見た目が無理。音が無理。近づくのが無理。


 カリンは逃げながら、小型の鎌をいくつも投げた。


 ただし、直撃させない。進路を塞ぐように壁へ突き立て、魔導ワイヤーで虫を絡め取る。虫は暴れ、粘液を撒き散らした。


「やだやだ! その鎌、もう使わない!」


 彼は本気で泣きそうだった。


 その叫びに反応したのか、別の排水孔からさらに虫が出てくる。


 一匹。


 二匹。


 五匹。


 十匹。


「増えたぁ!」


 カリンは点検通路の手すりを蹴り、水路を飛び越えた。向こう岸の壁に足をつき、配管を蹴って上へ逃げる。虫たちは水路へ落ちたが、何匹かは壁を登ってくる。濡れた甲殻が魔導灯を反射し、黒く光った。


 カリンは涙目で言った。


「ゲイツ、絶対許さない。絶対許さないからね。あの白い床、全部泥水で掃除してやる」


 怒りの方向がおかしくなっている。


 それでも足は止めない。


 逃げるうちに、カリンは本来の水路から外れていった。古い補修用通路。封鎖された排熱管。企業の違法排出路。用途不明の狭い穴。彼は一番虫の少なそうな場所を選んでいるつもりだったが、結果として大下水道のさらに深部へ進んでいた。


 やがて、通路が途切れた。


 目の前に、巨大な縦穴が現れる。


 古い排水塔だった。


 円筒形の空間が上下へ伸びている。中央には黒い水が渦を巻き、周囲には螺旋状の点検階段が残っていた。だが、階段の半分は崩れ、手すりは錆び、壁には無数の穴が空いている。穴の内側は暗い。何かの巣のように見える。


 カリンは息を整えた。


「……もう虫いない?」


 静かだった。


 羽音も、脚音もない。


 ほっとした、その時。


 水面が盛り上がった。


 低い地鳴りがした。


 排水塔全体が揺れる。


 黒い水の下で、何か巨大なものが動いた。


 カリンの表情が固まる。


「……今度は何?」


 水面が爆ぜた。


 巨大な頭部が飛び出す。


 蛇。


 いや、蛇と呼ぶには大きすぎる。


 下水とは不釣り合いなほど、美しい鱗を持っていた。黒い水をまとってなお、半透明の鱗は青緑の光を放ち、ところどころに魔導炉廃熱の赤が走っている。長い二本の髭が空気中を探るように動き、額には妖物化した魔導器官らしき結晶が埋まっていた。


 大海蛇。


 リヴァイアサン。


 帝都の大下水道に棲む災害級妖物。


 旧い都市伝説では、全長六十メートルから百メートル。実際には個体差があり、大きなものは地下水路の複数区画をまたいで棲む。魔導炉の廃熱、ヨムルンガルド結界の排魔気、企業の違法廃棄物、下水妖物を喰って成長する。動くたびに、地上では小さな地震が起きる。


 カリンは、リヴァイアサンと目が合った。


 正確には、リヴァイアサンの巨大な瞳が、カリンの濡れたドレスに付着した廃棄区画の粘液へ向いた。


 マモンカンパニーの処理生物の粘液。


 リヴァイアサンは、それに反応した。


「……あ」


 リヴァイアサンが口を開けた。


 牙が並ぶ。


 その口の奥から、腐った海と魔導炉の熱を混ぜたような息が吹きつける。


 カリンは一歩下がった。


「これ、ボクが悪いんじゃないよね?」


 リヴァイアサンが吼えた。


 大下水道全体が震えた。


     *


 同じ頃、地上では小規模な異常が起きていた。


 ミナト区の港湾クレーンがぎしりと揺れ、作業員たちが空を見上げる。


 ホウジュ区地下鉄の一部区間で、車両が緊急停止する。


 ツインタワー西タワーの展望カフェでは、窓際の水入りグラスがわずかに波打った。


 マモンカンパニー本社の広報部は、即座に定型文を発表する。


『弊社周辺にて検知された振動は、地下設備の点検作業に伴うものです。周辺地域の皆様にはご心配をおかけいたしますが、安全上の問題はございません』


 もちろん、嘘だった。


     *


 大下水道の中で、カリンはリヴァイアサンに追われていた。


「なんでボクなのぉ!」


 叫びながら、彼は排水塔の螺旋階段を駆け上がる。


 背後で水が爆発する。リヴァイアサンの頭部が階段へ突っ込む。錆びた鉄骨が砕け、コンクリート片が飛び散る。カリンは跳ぶ。階段の残骸を足場にし、壁に空いた古い点検孔へ飛び込む。


 狭い。


 暗い。


 臭い。


 服が擦れる。


 膝が汚れる。


 最悪だった。


 だが、リヴァイアサンの巨体は入ってこられない。


 カリンは四つん這いで穴の中を進んだ。


「やだ。やだやだ。これ、絶対何かの巣だよね。違うよね。違うって言って。誰か言って」


 誰も言ってくれない。


 通信はまだ繋がらない。


 穴の中は真っ暗だった。手探りで進むしかない。コンクリートの表面はざらざらしている。ところどころ、ぬめりがある。考えたくない。何のぬめりか考えたら終わる。


 カリンはできるだけ無心で進んだ。


 その手に、ぶよりとしたものが触れた。


 柔らかい。


 弾力がある。


 脂肪の塊のような感触。


 そして、それが動いた。


「きゃああああああっ!」


 大下水道の狭い穴の中に、カリンの悲鳴がこだました。


 彼は反射的に後退した。


 ただの後退ではない。


 四つん這いのまま、信じられない速度で後ろへ戻った。人類がもし「後ろ向きハイハイ」の競技を正式に採用していたなら、その瞬間のカリンは間違いなく世界記録を更新していた。


 出口の光が見える。


 カリンは穴から飛び出した。


 両手を上げる。


「生還!」


 直後、足元の床が揺れた。


 リヴァイアサンが戻ってきた。


「生還じゃなかった!」


 カリンは泣きそうになりながら走り出す。


 後ろの穴から、白く長い虫がゆっくり顔を出した。


 細長い身体に、無数のこぶ。


 巨大回虫コブダラケ。


 下水道の壁に溶解液で穴を空け、そこに巣を作る妖物である。


 カリンは見てしまった。


 見なければよかった。


「無理! それも無理!」


 コブダラケが口を開ける。


 溶解液を吐く。


 カリンは横へ跳んだ。液体が壁を溶かし、白い煙を上げる。そこへ、リヴァイアサンの尾が水路を叩いた。水しぶきが上がり、汚染された黒い水が通路へぶちまけられる。


 カリンは大鎌を出した。


 そして、迷った。


 リヴァイアサンに使うならまだいい。


 だが、コブダラケに使った鎌は、もう二度と使いたくない。


「……ごめん、鎌」


 カリンは一本、予備の大鎌を取り出した。


 自分でも悲痛な顔になる。


「君のこと、忘れないから」


 大鎌を振るう。


 刃がコブダラケの身体を切断する。白い体液が飛ぶ。カリンは全力で顔を背けた。見ない。絶対見ない。切った鎌も見ない。


 その間に、リヴァイアサンが迫る。


 カリンはコブダラケを切った鎌を、迷わず投げ捨てた。


「さようなら!」


 大鎌は下水へ落ちていった。


 リヴァイアサンの頭部が突っ込んでくる。


 カリンは別の鎌を出す。今度はリヴァイアサンの髭を狙う。刃が二本髭の一本を切り裂き、巨大海蛇が怒りの咆哮を上げた。水路全体が揺れる。カリンはその反動を利用して、排熱管の上へ跳び移った。


 足元の管が熱い。


 靴底越しにも熱が伝わる。


 だが、立ち止まれば喰われる。


 カリンは走った。


 狭い管路。


 古い排水塔。


 魔導炉の排熱蒸気。


 巨大回虫コブダラケの巣。


 汚染された水路。


 壊れたキリングドールの残骸。


 そのすべてを抜けていく。


 途中、マモンカンパニー製のキリングドールが三体、通路の奥で待ち構えていた。昨日カリンを追っていた黒服たちと同型。だが、ところどころに下水の錆と廃液がつき、目の光は不安定に瞬いている。おそらく、地下経路からカリンを追っていた個体か、廃棄区画から落ちてきた予備機だ。


 カリンは叫んだ。


「今それどころじゃない!」


 黒服たちは答えない。


 命令通り、カリンへ向かってくる。


 背後からは、リヴァイアサン。


 前方からは、キリングドール。


 足元は汚水。


 天井からは排熱蒸気。


 横の壁には、コブダラケの巣穴。


 カリンは一瞬だけ、本気で空を見たくなった。


「……最悪」


 言ってから、笑った。


 笑うしかなかった。


 彼は大鎌を肩に担ぎ直し、前方のキリングドールたちを見た。


「ねぇ、君たち」


 黒服たちは無言で刃を展開する。


「まだボクを追う命令、生きてるんだよね?」


 返事はない。


 だが、三体は確実にカリンを標的として認識している。


 カリンはにこりと笑った。


「じゃあ、鬼ごっこ再開」


 彼は横へ跳んだ。


 キリングドールたちが追う。


 カリンはあえて、リヴァイアサンの進路へ向かって走った。巨大海蛇の頭部が水路から飛び出す。カリンは直前で壁を蹴り、上へ跳ぶ。キリングドールたちは命令通り、そのまま突っ込む。


 一体目がリヴァイアサンの顎に挟まれた。


 金属が砕ける音。


 二体目が尾に弾かれ、壁へ叩きつけられる。


 三体目は回避しようとしたが、カリンが投げた小鎌のワイヤーで足を取られた。リヴァイアサンの巨体に巻き込まれ、黒い水の中へ消える。


「はい、一名様ご案内」


 カリンは排熱管のバルブへ大鎌を叩きつけた。


 火花。


 蒸気。


 高圧の白い排熱蒸気が、水路へ向かって噴き出した。


 リヴァイアサンの頭部に直撃する。


 巨大海蛇が悲鳴のような咆哮を上げた。美しい鱗が白く曇り、黒い水が沸騰する。カリンは顔を腕で覆いながら、蒸気の圧を利用して反対側の通路へ飛ぶ。


 リヴァイアサンは暴れた。


 壁を砕き、排熱管を引き千切り、キリングドールの残骸を飲み込む。大下水道全体が震えた。地上では、また小さな地震として観測されるだろう。マモンカンパニーはまた「設備点検」と発表するかもしれない。


 カリンは息を切らしながら、通路の先へ走った。


 出口が見えた。


 古い点検用昇降口。


 梯子は半分錆びている。


 だが、上へ続いている。


 カリンは迷わず掴んだ。


 背後で、リヴァイアサンが再びこちらを向く。


 蒸気で怯んだだけで、倒れてはいない。


「しつこい!」


 カリンは梯子を駆け上がった。


 普通の人間なら、濡れた鉄梯子を駆け上がることなどできない。だが、彼は軽い。速い。濡れたブーツでも滑らないよう、足場を選ぶ。背後で水しぶきが上がる。リヴァイアサンの頭が昇降口へ突っ込む。


 狭い。


 巨体は入れない。


 だが、顎だけは届く。


 牙がカリンの足元を掠めた。


 ブーツのリボンが一本切れる。


 カリンの顔が怒りで固まった。


「靴まで!」


 彼は最後の予備大鎌を取り出し、昇降口の壁へ叩き込んだ。


 狙いはリヴァイアサンではない。


 壁。


 古いコンクリート。


 排熱管の支持部。


 そこを壊す。


 大鎌の刃が壁を裂く。支えを失った排熱管が崩れ、リヴァイアサンの頭上へ落ちる。さらに高圧蒸気が噴き出し、昇降口全体が白く染まった。


 リヴァイアサンが怯む。


 カリンはその隙に、地上へ向かって最後の数メートルを駆け上がった。


 重い鉄蓋を蹴り上げる。


 昼とも夜ともつかない光が差し込む。


 カリンは地上へ転がり出た。


     *


 そこは、ミナト区とホウジュ区の境に近い古い排水管理施設の裏手だった。


 使われなくなったコンクリートの建物。錆びたフェンス。雑草。遠くには港湾クレーン。さらにその向こうに、帝都の高層ビル群が見える。空は夕暮れに染まり始めていた。


 カリンは地面に仰向けになった。


 全身泥まみれ。


 髪はぐちゃぐちゃ。


 黒いドレスはボロボロ。


 レースは破れ、裾は溶け、ブーツは水を含み、香の小瓶はいくつか割れている。頬には小さな擦り傷。腕にも、膝にも、細かい傷がある。大鎌のストックもかなり減った。虫を切った鎌はもう絶対に回収しない。リヴァイアサンに使った鎌も、できれば触りたくない。


 カリンはしばらく空を見ていた。


 そして、かすれた声で言った。


「……お風呂」


 何よりも先に、それだった。


 端末が震えた。


 通信遮断が切れたらしい。


 画面には、シグレの名前が表示されている。


 カリンは一瞬迷ってから、通話を受けた。


『カリン? 大丈夫?』


 シグレの声だった。


 いつもの眠たげな声。


 けれど、その奥に心配があった。


 カリンの胸の奥が、緩んだ。


 緩んでしまった。


「兄さまぁ……」


 声が震える。


「ボク、もう虫は嫌ぁ……」


 通信の向こうで、シグレが黙った。


 たぶん、どう返すべきか考えている。


『……虫?』


「虫。大きいの。足がいっぱいで、羽があって、巣があって、ぶよぶよして、もう本当に無理。あとリヴァイアサン。あと下水。あと服。あと靴。あとゲイツ」


『情報量が多いねぇ』


「兄さま、迎えに来てぇ……」


 言ってしまった。


 言った瞬間、カリンは目を閉じた。


 シグレは来るだろう。


 きっと来てくれる。


 面倒くさいと言いながら、ついてないと言いながら、濡れたタオルと替えの上着くらい持って来てくれる。ハルナに怒られながら、店を閉めてでも。


 それを想像しただけで、泣きたくなるくらい安心した。


 だから、カリンは自分で通信を切った。


 ぷつり。


 シグレの声が途切れる。


 夕暮れの排水施設に、また静けさが戻った。


 カリンは端末を握ったまま、しばらく動かなかった。


 泥まみれの手。


 割れた爪。


 濡れたリボン。


 ボロボロの服。


 ひどい匂い。


 最悪だった。


 でも、まだ終わっていない。


 『反逆者』はマモンカンパニーにある。


 ゲイツは魂の輪郭を兵器にしようとしている。


 廃棄実験区画には、名前のない人形たちが捨てられていた。


 アリスに似た顔もあった。


 カリンはゆっくり起き上がった。


 端末の画面には、シグレからの着信が再び表示されている。


 彼は少しだけ笑った。


「……でも、まだ帰れない」


 声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「これは、ボクの仕事だから」


 カリンは立ち上がる。


 膝が痛む。


 服は重い。


 髪は汚れている。


 臭い。


 気持ち悪い。


 虫のことを思い出すとまだ泣きそうになる。


 それでも、彼は歩き出した。


 夕暮れの帝都で、泥まみれの氷の花が、もう一度夜へ向かう。


 端末が三度震えた。


 今度はシンからだった。


『生きているか』


 カリンは短く返信した。


『生きてる。請求書にクリーニング代、全部乗せる』


 すぐに返事が来た。


『マモン宛てで作っておく』


 カリンは少し笑った。


 そして、港湾区の奥にそびえる白いビル――マモンカンパニー本社を睨んだ。


 あの清潔な建物の下に、名前のないものたちが捨てられている。


 それを見てしまった。


 なら、もう見なかったことにはできない。


 カリンは濡れた髪を手で払った。


「待ってなよ、ゲイツ」


 甘い声に、冷たい刃が混じる。


「次は、ボクがそっちを掃除してあげる」

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