第6話 大下水道のリヴァイアサン
赤い非常灯が、地下実験区画を血の色に染めていた。
マモンカンパニー本社の最深部。地上の白く清潔なロビーとは似ても似つかない、廃棄された実験の墓場。そこには、壊れた機械人形の腕、顔だけになった受付用人形、制御核の割れたキリングドール、妖物の臓器標本、魔導炉廃液を吸った黒い金属片、用途不明の管、名札のない人形たちが散乱していた。
その奥で、巨大な処理生物が身体を持ち上げる。
企業廃棄物と妖物と機械人形の残骸が混ざり合った、醜い塊だった。金属製の作業アームが節足のように床を掻き、ぬめる肉質の触手が配管に絡み、廃棄された人形の顔がいくつも胴体の表面に埋まっている。顔の一つが口を開けた。声は出ない。代わりに、黒い液体が顎を伝って落ちた。
カリンは大鎌を肩に担いだまま、少しだけ眉を寄せた。
「うわぁ」
率直な感想だった。
「キリングドールの方がまだ清潔だったねぇ」
処理生物は答えない。
答えるための口はたくさんあるのに、言葉はない。あるのは、喰うための器官と、廃棄物を処理するための命令だけだ。
カリンはその事実に、ほんの少しだけ苛立った。
ここには、名前のないものが多すぎる。
廃棄済。処理待ち。人格不適合。所有者記録なし。実験失敗。用途不明。名札のない人形。そういうラベルばかりが、壁にも床にも、ケースにも貼られている。ラベルはある。だが、名前はない。
アリスの顔に似た廃棄人形の頭部が、非常灯の赤を受けてこちらを見ていた。
似ているだけだ。
アリスではない。
それでも、カリンは胸の奥が不快に軋むのを感じた。
「ごめんね。今は供養とかできないから」
カリンは小さく呟いた。
「せめて、これ以上汚くしないように壊すね」
処理生物が跳ねた。
巨体に似合わない速度だった。作業アームが床を叩き、ぬめる胴体が前へ滑る。顔の群れが一斉に開き、黒い廃液を吐いた。
カリンは横へ跳ぶ。
黒い液体が床に落ちた瞬間、金属床が泡立って溶けた。酸でもあり、呪詛でもあり、企業秘密でもある何か。まともに浴びれば、ドレスどころか肌も骨も魔導回路も無事では済まない。
「やだやだやだ! 服どころの話じゃない!」
カリンは大鎌を振るった。
刃が処理生物の触手を切断する。だが、切られた触手は床で跳ね、別の廃棄アームを巻き込み、また胴体へ戻ろうとした。再生ではない。吸着だ。廃棄物同士が、互いを補修部品として使っている。
カリンは顔をしかめた。
「会社みたいな身体してるね。使えそうなものは全部くっつけるんだ」
作業アームが上から振り下ろされる。
カリンは大鎌の柄で受けた。衝撃が腕に響く。見た目は華奢な彼だが、ただの少年ではない。足を踏ん張り、柄を滑らせ、アームの力を横へ逃がす。床が砕け、廃液が跳ねる。
その廃液が、スカートの裾に一滴ついた。
じゅ、と音がした。
黒い布に、小さな穴が空く。
カリンの表情が凍った。
「……今」
声が低くなる。
「ボクの服、溶かした?」
処理生物が、また唸る。
カリンは笑った。
その笑顔は可愛らしかった。
だが、目が怖かった。
「高かったんだよ、それ」
大鎌の刃が、赤い非常灯を反射して赤黒く光る。
次の瞬間、カリンは処理生物の懐へ飛び込んでいた。速い。軽い。壁を蹴り、配管を足場にし、天井から垂れたケーブルを掴んで身体を反転させる。戦闘というより、舞いだった。黒いドレスの裾が花びらのように翻り、その中心で銀の刃が円を描く。
一撃で作業アームを落とす。
二撃で触手の束を裂く。
三撃で胴体に埋まった制御核らしきものを抉る。
だが、処理生物は止まらない。
奥にあるのは一つの核ではない。廃棄された複数の機械人形の制御核、妖物の本能、企業製処理プログラム、魔導炉廃液に溶けた何か。それらが混ざっている。壊しても、別の核が機能を引き継ぐ。
「しつこい」
カリンは大鎌を振り上げた。
その時、床が揺れた。
最初は、処理生物の突進かと思った。
違う。
もっと下からだ。
地下深くから、帝都そのものが身じろぎしたような低い振動が伝わってきた。
マモンカンパニーの廃棄実験区画の床が、細かく震える。配管から蒸気が噴き、壁の警告灯が一斉に点滅する。処理生物も一瞬動きを止めた。何かを恐れるように、胴体の顔がいくつも下を向く。
カリンは眉をひそめた。
「何?」
次の瞬間、床が抜けた。
処理生物の巨体が沈む。
カリンも足場を失った。
「ちょっ――」
言い終える前に、地下実験区画の床ごと、彼はさらに下へ落ちた。
*
落下した先は、水だった。
正確には、水と呼びたくない液体だった。
どぶん、と嫌な音を立てて、カリンの身体が黒い水路へ叩き込まれる。冷たい。ぬるい。臭い。重い。何かが服に絡む。髪が濡れる。ブーツの中に水が入る。思わず口を開きかけ、すんでのところで閉じる。
絶対に飲みたくない。
カリンは反射的に水面へ浮上した。
「ぷはっ……!」
空気を吸った瞬間、後悔した。
臭い。
ひどい。
薬品、腐敗、泥、下水、魔導炉廃熱、企業廃棄物、妖物の粘液。それらが全部まとめて鼻を殴ってくる。カリンは片手で鼻を押さえた。
「くっさ……!」
声が裏返る。
周囲は巨大な地下水路だった。
天井は高い。だが、暗い。壁には埋め込み式の古い魔導灯が点々と並んでいるが、その半分以上は点滅しているだけだった。水路の両側には細い点検通路があり、ところどころに錆びた手すりや梯子がある。頭上には太い排熱管が何本も走り、時折、白い蒸気を吐いた。
帝都エデンの大下水道。
ただの排水施設ではない。
ヨムルンガルド結界の排魔気ライン。
魔導炉の廃熱経路。
企業が表に出せない廃棄物を流す違法排出路。
妖物の繁殖地。
都市の胃袋であり、腸であり、誰も見たがらない傷口だった。
カリンはどうにか点検通路へ這い上がった。
黒いドレスが水を吸って重くなっている。レースは汚れ、リボンはしおれ、ブーツはぐしょぐしょ。髪も濡れて頬に張り付いている。薔薇の香は下水の臭いに負けかけていた。
彼はしばらく無言で立っていた。
そして、震える声で呟いた。
「……帰りたい」
だが、帰り道はない。
天井を見上げると、落ちてきた穴はすでに閉じかけていた。マモンカンパニーの廃棄区画から流れ込んできた瓦礫と処理生物の残骸が、水路の一部を塞いでいる。上へ戻るには、あのぬめる黒い壁を登る必要がある。
絶対に嫌だ。
カリンは端末を取り出した。
画面は黒い。
まだ通信遮断が続いている。
「シンくん、つながらない。兄さま、つながらない。アリスちゃん、つながらない。マナちゃんも……うん、全部だめ」
カリンは端末をしまった。
そして、スカートの裾を見た。
溶けた穴。
下水の染み。
廃液の汚れ。
表情がじわじわと崩れる。
「この服、まだ二回しか着てないのに……」
その時、足元で何かが動いた。
カリンは固まった。
点検通路の端、排水溝の隙間から、黒い脚が一本出ていた。
細い。
節がある。
さらに一本。
さらに一本。
ぬめった甲殻を持つ、巨大な虫系妖物が、排水溝の奥からゆっくり這い出してくる。体長は一メートル半ほど。胴体はゴキブリとムカデと甲虫を雑に混ぜたような形で、背中には濡れた羽根が畳まれている。触角が震え、口元から白い泡が落ちる。
カリンの顔から血の気が引いた。
「……」
虫系妖物は、触角を揺らした。
カリンも、わずかに震えた。
次の瞬間、虫が飛んだ。
「無理無理無理無理無理っ!」
カリンは叫んだ。
その声は、大下水道の壁に反響し、何本もの水路を駆け抜けた。
「これは仕事じゃない! 拷問!」
大鎌を出す。
反射的に出す。
そして、虫が刃に当たる寸前で、カリンは大鎌を消した。
「やだ! 鎌が汚れる!」
結果、虫がさらに近づく。
「もっとやだぁ!」
カリンは全力で逃げた。
点検通路を走る。足元が濡れて滑る。ブーツが水を吸って重い。背後で虫が羽音を立てる。羽音。羽音がする。虫の羽音。カリンの背筋に寒気が走る。
人間相手なら笑える。
妖物相手でも、獣型なら平気だ。
機械人形なら壊せる。
だが、虫は別だった。
足が多い。動きが読めない。何を考えているのかわからない。そもそも考えているのかもわからない。見た目が無理。音が無理。近づくのが無理。
カリンは逃げながら、小型の鎌をいくつも投げた。
ただし、直撃させない。進路を塞ぐように壁へ突き立て、魔導ワイヤーで虫を絡め取る。虫は暴れ、粘液を撒き散らした。
「やだやだ! その鎌、もう使わない!」
彼は本気で泣きそうだった。
その叫びに反応したのか、別の排水孔からさらに虫が出てくる。
一匹。
二匹。
五匹。
十匹。
「増えたぁ!」
カリンは点検通路の手すりを蹴り、水路を飛び越えた。向こう岸の壁に足をつき、配管を蹴って上へ逃げる。虫たちは水路へ落ちたが、何匹かは壁を登ってくる。濡れた甲殻が魔導灯を反射し、黒く光った。
カリンは涙目で言った。
「ゲイツ、絶対許さない。絶対許さないからね。あの白い床、全部泥水で掃除してやる」
怒りの方向がおかしくなっている。
それでも足は止めない。
逃げるうちに、カリンは本来の水路から外れていった。古い補修用通路。封鎖された排熱管。企業の違法排出路。用途不明の狭い穴。彼は一番虫の少なそうな場所を選んでいるつもりだったが、結果として大下水道のさらに深部へ進んでいた。
やがて、通路が途切れた。
目の前に、巨大な縦穴が現れる。
古い排水塔だった。
円筒形の空間が上下へ伸びている。中央には黒い水が渦を巻き、周囲には螺旋状の点検階段が残っていた。だが、階段の半分は崩れ、手すりは錆び、壁には無数の穴が空いている。穴の内側は暗い。何かの巣のように見える。
カリンは息を整えた。
「……もう虫いない?」
静かだった。
羽音も、脚音もない。
ほっとした、その時。
水面が盛り上がった。
低い地鳴りがした。
排水塔全体が揺れる。
黒い水の下で、何か巨大なものが動いた。
カリンの表情が固まる。
「……今度は何?」
水面が爆ぜた。
巨大な頭部が飛び出す。
蛇。
いや、蛇と呼ぶには大きすぎる。
下水とは不釣り合いなほど、美しい鱗を持っていた。黒い水をまとってなお、半透明の鱗は青緑の光を放ち、ところどころに魔導炉廃熱の赤が走っている。長い二本の髭が空気中を探るように動き、額には妖物化した魔導器官らしき結晶が埋まっていた。
大海蛇。
リヴァイアサン。
帝都の大下水道に棲む災害級妖物。
旧い都市伝説では、全長六十メートルから百メートル。実際には個体差があり、大きなものは地下水路の複数区画をまたいで棲む。魔導炉の廃熱、ヨムルンガルド結界の排魔気、企業の違法廃棄物、下水妖物を喰って成長する。動くたびに、地上では小さな地震が起きる。
カリンは、リヴァイアサンと目が合った。
正確には、リヴァイアサンの巨大な瞳が、カリンの濡れたドレスに付着した廃棄区画の粘液へ向いた。
マモンカンパニーの処理生物の粘液。
リヴァイアサンは、それに反応した。
「……あ」
リヴァイアサンが口を開けた。
牙が並ぶ。
その口の奥から、腐った海と魔導炉の熱を混ぜたような息が吹きつける。
カリンは一歩下がった。
「これ、ボクが悪いんじゃないよね?」
リヴァイアサンが吼えた。
大下水道全体が震えた。
*
同じ頃、地上では小規模な異常が起きていた。
ミナト区の港湾クレーンがぎしりと揺れ、作業員たちが空を見上げる。
ホウジュ区地下鉄の一部区間で、車両が緊急停止する。
ツインタワー西タワーの展望カフェでは、窓際の水入りグラスがわずかに波打った。
マモンカンパニー本社の広報部は、即座に定型文を発表する。
『弊社周辺にて検知された振動は、地下設備の点検作業に伴うものです。周辺地域の皆様にはご心配をおかけいたしますが、安全上の問題はございません』
もちろん、嘘だった。
*
大下水道の中で、カリンはリヴァイアサンに追われていた。
「なんでボクなのぉ!」
叫びながら、彼は排水塔の螺旋階段を駆け上がる。
背後で水が爆発する。リヴァイアサンの頭部が階段へ突っ込む。錆びた鉄骨が砕け、コンクリート片が飛び散る。カリンは跳ぶ。階段の残骸を足場にし、壁に空いた古い点検孔へ飛び込む。
狭い。
暗い。
臭い。
服が擦れる。
膝が汚れる。
最悪だった。
だが、リヴァイアサンの巨体は入ってこられない。
カリンは四つん這いで穴の中を進んだ。
「やだ。やだやだ。これ、絶対何かの巣だよね。違うよね。違うって言って。誰か言って」
誰も言ってくれない。
通信はまだ繋がらない。
穴の中は真っ暗だった。手探りで進むしかない。コンクリートの表面はざらざらしている。ところどころ、ぬめりがある。考えたくない。何のぬめりか考えたら終わる。
カリンはできるだけ無心で進んだ。
その手に、ぶよりとしたものが触れた。
柔らかい。
弾力がある。
脂肪の塊のような感触。
そして、それが動いた。
「きゃああああああっ!」
大下水道の狭い穴の中に、カリンの悲鳴がこだました。
彼は反射的に後退した。
ただの後退ではない。
四つん這いのまま、信じられない速度で後ろへ戻った。人類がもし「後ろ向きハイハイ」の競技を正式に採用していたなら、その瞬間のカリンは間違いなく世界記録を更新していた。
出口の光が見える。
カリンは穴から飛び出した。
両手を上げる。
「生還!」
直後、足元の床が揺れた。
リヴァイアサンが戻ってきた。
「生還じゃなかった!」
カリンは泣きそうになりながら走り出す。
後ろの穴から、白く長い虫がゆっくり顔を出した。
細長い身体に、無数のこぶ。
巨大回虫コブダラケ。
下水道の壁に溶解液で穴を空け、そこに巣を作る妖物である。
カリンは見てしまった。
見なければよかった。
「無理! それも無理!」
コブダラケが口を開ける。
溶解液を吐く。
カリンは横へ跳んだ。液体が壁を溶かし、白い煙を上げる。そこへ、リヴァイアサンの尾が水路を叩いた。水しぶきが上がり、汚染された黒い水が通路へぶちまけられる。
カリンは大鎌を出した。
そして、迷った。
リヴァイアサンに使うならまだいい。
だが、コブダラケに使った鎌は、もう二度と使いたくない。
「……ごめん、鎌」
カリンは一本、予備の大鎌を取り出した。
自分でも悲痛な顔になる。
「君のこと、忘れないから」
大鎌を振るう。
刃がコブダラケの身体を切断する。白い体液が飛ぶ。カリンは全力で顔を背けた。見ない。絶対見ない。切った鎌も見ない。
その間に、リヴァイアサンが迫る。
カリンはコブダラケを切った鎌を、迷わず投げ捨てた。
「さようなら!」
大鎌は下水へ落ちていった。
リヴァイアサンの頭部が突っ込んでくる。
カリンは別の鎌を出す。今度はリヴァイアサンの髭を狙う。刃が二本髭の一本を切り裂き、巨大海蛇が怒りの咆哮を上げた。水路全体が揺れる。カリンはその反動を利用して、排熱管の上へ跳び移った。
足元の管が熱い。
靴底越しにも熱が伝わる。
だが、立ち止まれば喰われる。
カリンは走った。
狭い管路。
古い排水塔。
魔導炉の排熱蒸気。
巨大回虫コブダラケの巣。
汚染された水路。
壊れたキリングドールの残骸。
そのすべてを抜けていく。
途中、マモンカンパニー製のキリングドールが三体、通路の奥で待ち構えていた。昨日カリンを追っていた黒服たちと同型。だが、ところどころに下水の錆と廃液がつき、目の光は不安定に瞬いている。おそらく、地下経路からカリンを追っていた個体か、廃棄区画から落ちてきた予備機だ。
カリンは叫んだ。
「今それどころじゃない!」
黒服たちは答えない。
命令通り、カリンへ向かってくる。
背後からは、リヴァイアサン。
前方からは、キリングドール。
足元は汚水。
天井からは排熱蒸気。
横の壁には、コブダラケの巣穴。
カリンは一瞬だけ、本気で空を見たくなった。
「……最悪」
言ってから、笑った。
笑うしかなかった。
彼は大鎌を肩に担ぎ直し、前方のキリングドールたちを見た。
「ねぇ、君たち」
黒服たちは無言で刃を展開する。
「まだボクを追う命令、生きてるんだよね?」
返事はない。
だが、三体は確実にカリンを標的として認識している。
カリンはにこりと笑った。
「じゃあ、鬼ごっこ再開」
彼は横へ跳んだ。
キリングドールたちが追う。
カリンはあえて、リヴァイアサンの進路へ向かって走った。巨大海蛇の頭部が水路から飛び出す。カリンは直前で壁を蹴り、上へ跳ぶ。キリングドールたちは命令通り、そのまま突っ込む。
一体目がリヴァイアサンの顎に挟まれた。
金属が砕ける音。
二体目が尾に弾かれ、壁へ叩きつけられる。
三体目は回避しようとしたが、カリンが投げた小鎌のワイヤーで足を取られた。リヴァイアサンの巨体に巻き込まれ、黒い水の中へ消える。
「はい、一名様ご案内」
カリンは排熱管のバルブへ大鎌を叩きつけた。
火花。
蒸気。
高圧の白い排熱蒸気が、水路へ向かって噴き出した。
リヴァイアサンの頭部に直撃する。
巨大海蛇が悲鳴のような咆哮を上げた。美しい鱗が白く曇り、黒い水が沸騰する。カリンは顔を腕で覆いながら、蒸気の圧を利用して反対側の通路へ飛ぶ。
リヴァイアサンは暴れた。
壁を砕き、排熱管を引き千切り、キリングドールの残骸を飲み込む。大下水道全体が震えた。地上では、また小さな地震として観測されるだろう。マモンカンパニーはまた「設備点検」と発表するかもしれない。
カリンは息を切らしながら、通路の先へ走った。
出口が見えた。
古い点検用昇降口。
梯子は半分錆びている。
だが、上へ続いている。
カリンは迷わず掴んだ。
背後で、リヴァイアサンが再びこちらを向く。
蒸気で怯んだだけで、倒れてはいない。
「しつこい!」
カリンは梯子を駆け上がった。
普通の人間なら、濡れた鉄梯子を駆け上がることなどできない。だが、彼は軽い。速い。濡れたブーツでも滑らないよう、足場を選ぶ。背後で水しぶきが上がる。リヴァイアサンの頭が昇降口へ突っ込む。
狭い。
巨体は入れない。
だが、顎だけは届く。
牙がカリンの足元を掠めた。
ブーツのリボンが一本切れる。
カリンの顔が怒りで固まった。
「靴まで!」
彼は最後の予備大鎌を取り出し、昇降口の壁へ叩き込んだ。
狙いはリヴァイアサンではない。
壁。
古いコンクリート。
排熱管の支持部。
そこを壊す。
大鎌の刃が壁を裂く。支えを失った排熱管が崩れ、リヴァイアサンの頭上へ落ちる。さらに高圧蒸気が噴き出し、昇降口全体が白く染まった。
リヴァイアサンが怯む。
カリンはその隙に、地上へ向かって最後の数メートルを駆け上がった。
重い鉄蓋を蹴り上げる。
昼とも夜ともつかない光が差し込む。
カリンは地上へ転がり出た。
*
そこは、ミナト区とホウジュ区の境に近い古い排水管理施設の裏手だった。
使われなくなったコンクリートの建物。錆びたフェンス。雑草。遠くには港湾クレーン。さらにその向こうに、帝都の高層ビル群が見える。空は夕暮れに染まり始めていた。
カリンは地面に仰向けになった。
全身泥まみれ。
髪はぐちゃぐちゃ。
黒いドレスはボロボロ。
レースは破れ、裾は溶け、ブーツは水を含み、香の小瓶はいくつか割れている。頬には小さな擦り傷。腕にも、膝にも、細かい傷がある。大鎌のストックもかなり減った。虫を切った鎌はもう絶対に回収しない。リヴァイアサンに使った鎌も、できれば触りたくない。
カリンはしばらく空を見ていた。
そして、かすれた声で言った。
「……お風呂」
何よりも先に、それだった。
端末が震えた。
通信遮断が切れたらしい。
画面には、シグレの名前が表示されている。
カリンは一瞬迷ってから、通話を受けた。
『カリン? 大丈夫?』
シグレの声だった。
いつもの眠たげな声。
けれど、その奥に心配があった。
カリンの胸の奥が、緩んだ。
緩んでしまった。
「兄さまぁ……」
声が震える。
「ボク、もう虫は嫌ぁ……」
通信の向こうで、シグレが黙った。
たぶん、どう返すべきか考えている。
『……虫?』
「虫。大きいの。足がいっぱいで、羽があって、巣があって、ぶよぶよして、もう本当に無理。あとリヴァイアサン。あと下水。あと服。あと靴。あとゲイツ」
『情報量が多いねぇ』
「兄さま、迎えに来てぇ……」
言ってしまった。
言った瞬間、カリンは目を閉じた。
シグレは来るだろう。
きっと来てくれる。
面倒くさいと言いながら、ついてないと言いながら、濡れたタオルと替えの上着くらい持って来てくれる。ハルナに怒られながら、店を閉めてでも。
それを想像しただけで、泣きたくなるくらい安心した。
だから、カリンは自分で通信を切った。
ぷつり。
シグレの声が途切れる。
夕暮れの排水施設に、また静けさが戻った。
カリンは端末を握ったまま、しばらく動かなかった。
泥まみれの手。
割れた爪。
濡れたリボン。
ボロボロの服。
ひどい匂い。
最悪だった。
でも、まだ終わっていない。
『反逆者』はマモンカンパニーにある。
ゲイツは魂の輪郭を兵器にしようとしている。
廃棄実験区画には、名前のない人形たちが捨てられていた。
アリスに似た顔もあった。
カリンはゆっくり起き上がった。
端末の画面には、シグレからの着信が再び表示されている。
彼は少しだけ笑った。
「……でも、まだ帰れない」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「これは、ボクの仕事だから」
カリンは立ち上がる。
膝が痛む。
服は重い。
髪は汚れている。
臭い。
気持ち悪い。
虫のことを思い出すとまだ泣きそうになる。
それでも、彼は歩き出した。
夕暮れの帝都で、泥まみれの氷の花が、もう一度夜へ向かう。
端末が三度震えた。
今度はシンからだった。
『生きているか』
カリンは短く返信した。
『生きてる。請求書にクリーニング代、全部乗せる』
すぐに返事が来た。
『マモン宛てで作っておく』
カリンは少し笑った。
そして、港湾区の奥にそびえる白いビル――マモンカンパニー本社を睨んだ。
あの清潔な建物の下に、名前のないものたちが捨てられている。
それを見てしまった。
なら、もう見なかったことにはできない。
カリンは濡れた髪を手で払った。
「待ってなよ、ゲイツ」
甘い声に、冷たい刃が混じる。
「次は、ボクがそっちを掃除してあげる」




