第5話 マモンカンパニー
マモンカンパニー本社ビルは、ミナト区の海沿いに建っていた。
帝都エデンの南側。港湾倉庫街と高層オフィス街の境界に近い一角である。少し歩けば、違法魔導具の部品を積んだコンテナが並ぶ倉庫群があり、夜になれば正体不明のトラックが無灯火で出入りする。さらに海側へ行けば、外部国家との貿易船が停泊する埠頭があり、帝都政府の監視ドローンと民間警備会社の無人艇が、互いに見て見ぬふりをしながら巡回している。
そんな場所に建っているにもかかわらず、マモンカンパニー本社は異様なほど清潔だった。
白いビルである。
ガラスと白い外壁で構成された、細く、背の高い建物。外観は鋭利な刃物のように整っていて、無駄な装飾がない。入口前の広場には噴水があり、透明な水が規則正しく弧を描いている。植え込みの葉はすべて同じ高さに剪定され、歩道のタイルには一点の染みもなかった。
汚れがない。
人の気配はあるのに、生活の匂いがない。
ツインタワー西タワーのような明るい商業施設とも違う。東タワーのような裏社会の雑多な圧もない。ここには、血の匂いも、汗の匂いも、金の匂いも、欲望の匂いもない。
だからこそ、気味が悪かった。
カリンは本社ビルの前で、しばらく立ち止まっていた。
黒いワンピースに白いレース。首元には銀の薔薇飾り。手には黒い小さなバッグ。髪は綺麗に整え直し、昨日裂かれたドレスの代わりに、動きやすさと可憐さを両立した服を選んでいる。足元は編み上げブーツ。見た目だけなら、少し気合いを入れて外出してきた美少女にも見える。
ただし、バッグの中には香の小瓶が複数本。スカートの内側には短い小鎌。背後の異空間には、いつもの大鎌が控えている。
カリンは首を傾げた。
「……綺麗すぎて、逆に掃除したくないねぇ」
隣の道路を走っていたタクシーが、軽く縁石に乗り上げた。
運転手がこちらを見ていたせいだ。
カリンは営業スマイルで手を振った。
タクシーは慌てて走り去った。
端末が震える。
シンからの通信だった。
『本当に正面から入るのか』
「うん」
『相手が招待状を出していない以上、正面玄関は罠だぞ』
「裏口も罠でしょ?」
『それはそうだ』
「じゃあ、綺麗な罠から入った方が服が汚れなくていいかなって」
『判断基準がおかしい』
「大事だよぉ」
カリンは本社ビルの自動扉へ向かって歩き出した。
扉の前に立つと、透明な魔導膜が淡く光った。身体認証、武器検知、魔導反応測定、香料成分分析、体温、心拍、表情筋、声帯振動履歴。表向きは来客管理システムとされているが、実際には簡易的な尋問装置に近い。
シンの声が耳元で言う。
『三秒後、香料検知が君の薔薇を拾う』
「困る?」
『普通なら困る。だが、私は君の香を高級フレグランスの試供品として偽装しておいた』
「シンくん、仕事が細かい」
『その分、請求も細かい』
「やっぱり嫌い」
魔導膜がカリンの身体を通過した。
警告音は鳴らない。
自動扉が開いた。
中へ入ると、冷たい空気が肌を撫でた。
ロビーは広かった。
床は白い石材で、鏡のように磨かれている。天井は高く、光源が見えないほど均一な照明が満ちていた。壁には企業理念が掲げられている。
『安全を、次の段階へ』
『知性を、管理可能な資産へ』
『未来の命に、企業品質を』
カリンは最後の一文を見て、眉をひそめた。
「企業品質の命って、やだなぁ」
受付カウンターには、人間の女性が座っていた。
いや、人間に見える女性だった。
肌は自然。表情も自然。声も自然。だが、首筋の奥に小さな識別灯がある。機械人形だ。高級受付用の自律人形。ツインタワーで見かける案内用よりも、ずっと精巧に作られている。
受付人形は完璧な角度で微笑んだ。
「マモンカンパニーへようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「ゲイツ社長に会いに来たの」
「お約束はございますか」
「ないよぉ」
「恐れ入りますが、社長への面会は完全予約制でございます」
カリンはにこりと笑った。
「氷の花が来たって言えば、通してくれると思うよ」
受付人形の瞳が一瞬だけ光った。
内部で情報検索が走る。カリンの顔、裏社会の通り名、ツインタワー清掃員としての表記録、トラブルシューターとしての非公式情報、昨夜から今朝にかけてのキリングドール交戦記録。そのすべてが、どこかのサーバーで照合された。
受付人形の笑顔は変わらない。
「確認いたします」
間。
長くはない。
だが、その一秒半の間に、ロビー全体の空気が変わった。
壁際の警備員たちが視線を動かす。警備員といっても、全員が人間とは限らない。スーツの下に強化外骨格を着込んでいる者もいれば、完全な機械人形を人間風に偽装したものもいる。天井の監視ドローンは動かない。動かないからこそ、こちらを見ていることがわかる。
カリンは笑顔のまま、受付カウンターに肘をついた。
「綺麗なロビーだね」
「ありがとうございます。弊社では、来訪者様に安心と信頼を感じていただける空間設計を心がけております」
「暴力の匂いがしないねぇ」
「弊社は法令遵守を徹底しております」
「そういう会社ほど、地下が広いんだよね」
受付人形は答えなかった。
代わりに、奥のエレベーターホールへ続く扉が開いた。
白いスーツを着た女性が一人、静かに歩いてくる。
秘書だ。
年齢は三十代前後に見える。黒髪をきっちりまとめ、眼鏡をかけ、手には薄いタブレット端末を持っている。人間か機械人形か、一見しただけでは判別しにくい。ただ、歩く速度と目線の動かし方は、人間のそれに近かった。
「カリン様ですね」
「様づけされると、ちょっとくすぐったいね」
「社長がお待ちです」
「予約してないけど?」
「社長は、あなたがいらっしゃる可能性を高く見積もっておりました」
「へぇ」
カリンは少しだけ目を細めた。
「昨日の黒服ちゃんたち、やっぱり招待状だった?」
秘書は表情を変えなかった。
「詳細は社長より直接ご説明いたします」
「説明で済むといいねぇ」
カリンは受付から離れ、秘書の後に続いた。
シンの声が通信に入る。
『内部通信が濃い。かなりの階層で監視されている』
「どこが死角?」
『今のところない』
「使えない情報屋」
『死角がないという情報に料金が発生する』
「請求書、捨てるね」
『それは犯罪だ』
「こっちは今から企業犯罪の巣に行くんだから、細かいこと言わないで」
秘書がちらりとこちらを見た。
「通信をなさっているのですか」
「ひとりごとだよぉ」
「弊社では、社内機密保護のため外部通信を制限しております」
「そうなんだ」
カリンは笑った。
「じゃあ、今のうちに喋っとこ」
エレベーターに乗る。
扉が閉まる。
表示は地下へ向かった。
地上の社長室ではない。
地下。
カリンは小さく息を吐いた。
企業の本性は、たいてい地下にある。
*
エレベーターが止まった先は、社長室と呼ぶにはあまりに殺風景な空間だった。
白い部屋である。
広いが、家具は少ない。中央に白いデスク。背後に大きな透明パネル。その向こうには、地下研究区画の一部が見えている。人影が動き、機械人形の骨格が吊られ、透明な筒の中で青白い制御核が回転している。
床も壁も天井も白い。
ただし、よく見ると、壁には無数の細い溝が走っている。収納式の棚、格納式の防壁、魔導兵装の射出口、もしくは何かを閉じ込めるための可動式結界。何もないのではない。何も見せていないだけだ。
デスクの向こうに、少年が座っていた。
外見は十歳前後に見える。
薄い金髪。白い肌。大きな瞳。仕立ての良い白いスーツ。椅子が大きすぎるせいで、なおさら子どもに見える。だが、その背筋は不自然なほどまっすぐで、指を組む仕草は大人びていた。天才少年社長。メディアが好んで使う表現そのものだ。
マモンカンパニー代表取締役。
ゲイツ。
彼はカリンを見るなり、嬉しそうに微笑んだ。
「遅かったですね、カリンさん」
「道が混んでて」
「昨日は弊社の警備機械人形がお世話になりました」
「お世話した覚えないけど。何体か壊した覚えはあるよぉ」
「ええ。見事でした」
ゲイツは手元の端末を操作した。
空中に複数の映像が浮かぶ。
東タワー四十六階の外壁戦。ファーストフード店前。搬入口の路地。高架道路。ホウジュ区の雑貨店近くでの四体目との戦闘。
カリンが大鎌を振るう姿が、角度を変えて再生される。
カリンは顔をしかめた。
「盗撮じゃん」
「戦闘データです」
「言い方変えただけで気持ち悪さは同じだよ」
「ですが、美しい」
ゲイツは心からそう思っているように言った。
「カリンさんですよね。氷の花。実物は映像より綺麗ですね。研究部が欲しがるのもわかります」
カリンは笑った。
甘い笑顔だった。
だが、目は笑っていない。
「ボク、非売品だよぉ」
「残念です。弊社の美術部門なら高く評価しますよ」
「美術品にされる趣味はないかな」
「では、戦闘資産として」
「もっとない」
ゲイツはくすくす笑った。
子どもの笑い方だった。
だが、カリンはその笑いに苛立った。子どもが無邪気に蟻を潰す時のような、悪意のない残酷さがある。悪いことをしている自覚がないのではない。悪いことをしているかどうかを、利益計算の欄にしか置いていない。
「黒服ちゃんたちは、君の差し金だよね」
「キリングドールのことですね。旧式機を少し改修しました。あなたに通じるかどうかは期待していませんでしたが、データは十分取れました」
「人の車、弾き飛ばしてたけど?」
「安全膜が展開されました。死者は出ていません」
「出なきゃいいって話?」
「企業リスクとしては、出ない方が良いですね」
カリンの指が、わずかに動いた。
空間の奥で大鎌が反応する。
ゲイツはそれに気づいているように、楽しげに目を細めた。
「ここで僕を斬りますか?」
「斬っていいならね」
「おすすめはしません。この部屋には、あなたの香を分解する空調、異空間武装の展開遅延結界、対トラブルシューター用の非致死性制圧装置、それから社長死亡時に発動する証拠消去システムがあります」
「ずいぶん怖がりなんだねぇ」
「経営者ですから」
「経営者って便利な言葉だね」
「トラブルシューターも便利な言葉でしょう。殺し、回収、脅迫、証拠隠滅、怪異処理。すべて『仕事』で済ませられる」
カリンの笑みが少しだけ薄くなった。
「ボクの仕事と、君の商売を一緒にしないで」
「違いますか?」
「違うね」
「では、どこが?」
ゲイツは無邪気に問いかける。
本当に興味があるようだった。
カリンは少しだけ考えた。
答えは簡単ではない。
自分だって綺麗な仕事だけをしているわけではない。依頼人が「殺していい」と言えば殺すこともある。脅すし、斬るし、壊すし、見逃す。氷の花と呼ばれる理由は、優しいからではない。
それでも、ゲイツとは違う。
違うと、思いたかった。
「ボクは、相手の名前くらい見るよ」
カリンは言った。
「君たちは、名前を番号にして、魂を部品にして、都合が悪くなったら記録から消すでしょ」
ゲイツの笑みが、ほんの少し深くなった。
「やはり、あなたは面白い」
「褒めなくていいよ。気持ち悪いから」
「では、見ますか?」
「何を」
「あなたが探している絵です」
ゲイツが指を鳴らした。
部屋の背後にあった透明パネルが、音もなく左右へ開く。
その奥に、別の空間が現れた。
白い研究室。
中央に、ひとつの台座。
そこに、絵が置かれていた。
『反逆者』。
帝都美術館地下封印庫から消えた、あの絵。
白い布をまとった中性的な天使。黒にも白にも見える翼。金色の髪。こちらへ伸ばされた右手。微笑んでいるようで、泣いているようにも見える唇。
カリンは息を止めた。
絵は、美しかった。
怖いほどに。
第1話の礼拝堂で見た影や声とは違う。現物はもっと静かで、もっと深い。見る者を引き込むのではなく、見る者の中にある何かを、絵の側へ映し返すようだった。
カリンには、一瞬、その顔が自分に似て見えた。
白い肌。
中性的な輪郭。
誰かが勝手に意味を貼りつけた美しさ。
男とも女とも、天使とも悪魔とも、被害者とも加害者とも決められない顔。
カリンは瞬きをした。
次の瞬間には、絵はただの天使の肖像へ戻っていた。
ゲイツが満足げに言う。
「見る者によって印象が変わります。天使に見える者もいる。悪魔に見える者もいる。恋人に見える者も、母に見える者も、処刑人に見える者もいる。面白いでしょう?」
「悪趣味」
「高性能と言ってください」
「言わない」
カリンは台座へ近づきかけた。
秘書が一歩動く。
警備システムが淡く光る。
ゲイツが手を上げると、それらは止まった。
「大丈夫です。彼は今、出られません」
「彼?」
「便宜上です。性別は不明。個体名も不明。記録上の名称は『反逆者』」
絵の中の天使の目が、一瞬だけ細くなった気がした。
カリンはそれを見逃さなかった。
「その名前、嫌がってるよ」
「名前は嫌がるものではなく、運用するものです」
「最低」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
ゲイツは端末を操作した。
絵の周囲に複数の測定値が浮かぶ。
魂格輪郭。
人格記録層。
封印残存率。
ソエル由来反応。
名前欠損率。
媒体自律性。
「『反逆者』は、通常の人格データではありません。機械人形に搭載される人工人格とはまるで違う。これは、魂の輪郭です」
「魂の輪郭?」
「はい。魂そのものを取り出すことは難しい。ですが、魂が世界に触れる形、記録に残る形、命令に抵抗する形、名前と結びつく形は観測できます。この絵は、それを保持している」
ゲイツの声に熱が混じる。
「上位存在の記録。人間の宗教が天使、悪魔、堕天使と呼んだものの残響。ソエル由来存在の人格形状。これを制御核へ転写できれば、機械人形は次の段階へ進めます」
カリンの表情が硬くなる。
「次の段階?」
「命令だけで動くキリングドールは、もう古い。命令を理解し、状況を判断し、恐怖を学習し、忠誠を保持する兵器が必要です。戦場で逃げない。主人を疑わない。破壊されても任務を続行する。けれど、単なる機械ではなく、自律的に戦術を選択する」
「それ、兵器っていうより奴隷じゃない?」
「所有権が明確なら、管理可能な資産です」
カリンの喉の奥に、吐き気が込み上げた。
昨夜から何度も見た黒服の目。
誰にも名前を呼ばれていない機械人形。
それと、アリスの顔が重なる。
アリスは違う。
アリスは、機械人形だ。
人間ではない。
だが、ただの道具でもない。
誰かの代用品として作られ、自分を失いかけ、それでも「アリス零式」として立った存在だ。彼女は命令だけで動く人形ではない。彼女は悩み、怒り、選び、時々とんでもなく物騒な判断を真面目に実行しようとする。
カリンは、アリスが静かに言った声を思い出す。
わたくしは、誰かの代わりなのでしょうか。
それを、この少年は商品にしようとしている。
「それ、アリスちゃんみたいなのを作りたいってこと?」
カリンの声は低かった。
ゲイツは即答した。
「いいえ」
迷いのない否定。
「アリス零式のような面倒な人格は不要です。自分の存在理由に悩み、命令を疑い、創造主に反発し、守るべき対象を自分で選ぶような機械人形は、兵器としては不安定すぎる」
カリンの指先が冷える。
ゲイツは微笑んだ。
「必要なのは、魂の形をした制御装置です」
白い研究室が、少し歪んで見えた。
清潔な床。
整った計測機器。
白い服の研究員。
台座の上の絵。
そのすべてが、急に汚らしく見えた。
カリンは笑った。
甘く、可愛く。
けれど、その一人称は静かに変わった。
「私、そういうの嫌い」
ゲイツの目が輝く。
「怒りましたか?」
「うん」
「美しいですね」
「黙れ」
大鎌が現れた。
空間が裂け、黒い柄がカリンの手に収まる。銀色の刃が白い研究室の光を切り裂く。秘書が動く。警備システムが起動する。天井の溝から小型銃座が出る。
それより早く、カリンは踏み込んだ。
狙うのはゲイツではない。
台座。
『反逆者』を固定している封印フレーム。
しかし、刃が届く寸前、床が光った。
白い床に刻まれていた薄い溝が、一斉に青白く輝く。
魔法陣。
いや、企業ロゴと封印術式と輸送用格納陣を重ねた、ひどく醜い魔法陣。
カリンの足元が沈んだ。
「っ……!」
重力が消える。
床が開くのではない。
空間そのものが、彼の足元だけを下へ折り畳んだ。
カリンは大鎌を横へ振り、壁に刃を引っかけようとする。だが、刃が触れた空間が滑った。異空間武装の干渉を受け流す結界。さっきゲイツが言っていた、展開遅延結界の応用だ。
ゲイツが笑っている。
「氷の花が、どこまで壊れずに咲けるか。見せてください」
「ゲイツ!」
カリンが叫ぶ。
ゲイツは白いデスクの前に立ち、礼儀正しく一礼した。
「第二実験区画へようこそ」
視界が反転する。
白い部屋が遠ざかる。
カリンの身体は、真っ逆さまに地下へ落ちた。
*
落下は長かった。
実際の距離はわからない。数階分かもしれないし、空間を折られてもっと深く落とされたのかもしれない。光が消え、白い壁が消え、冷たい風が耳元を裂く。カリンは体勢を整えようとしたが、空間に微細な乱流がある。通常の落下ではない。魔導的に姿勢制御を邪魔されている。
彼は舌打ちした。
「ほんと、嫌な会社」
大鎌をいったん消す。
両手を空ける。
腰の小瓶を一本抜き、下方へ投げた。
瓶が割れる。
薔薇の香が爆ぜる。
香は空気の流れを可視化し、落下経路の歪みを淡い桃色に染めた。カリンはその流れを見て、身体をひねる。足元に薄い足場を作り、蹴る。もう一度蹴る。落下速度を殺す。
着地。
完全ではない。
膝に衝撃が走り、ブーツの踵が床を削る。床はぬめっていた。白いロビーや研究室とは違う、黒く湿った金属床。カリンは片手をつき、すぐに立ち上がった。
匂いがひどかった。
薬品。
油。
腐敗。
魔導炉廃液。
焦げた肉に似た何か。
そして、古い血。
清潔な本社ビルの地下に、こんな場所がある。
カリンはゆっくり周囲を見回した。
広い空間だった。
天井は高く、剥き出しの配管が何本も走っている。壁には巨大な廃棄ダクト。床には排水溝。照明はところどころ切れ、青白い非常灯だけが点いている。通路の左右には、透明なケースや金属ラックが並び、その中に壊れた機械人形の部品、妖物の標本、割れた制御核、名前のない人形の頭部が無造作に置かれていた。
廃棄実験区画。
ゲイツはそう呼んだ。
正確な名前は知らない。
だが、何をする場所かはわかる。
失敗したものを捨てる場所だ。
カリンは足元に転がっていた何かを見た。
機械人形の腕だった。
少女型の細い腕。指先は人間のように作られているが、手首から先の外装が剥がれ、中の魔導回路が露出している。腕には小さなタグがついていた。
『試作人格核不適合』
『廃棄済』
名前はない。
別のケースには、顔が並んでいた。
男型、女型、子ども型、老人型。整いすぎた顔。未完成の顔。表情を作る途中で止まった顔。目だけ開いたもの。口元だけ笑っているもの。
その中に、金色の髪を持つ少女型の顔があった。
カリンの足が止まる。
アリスに似ていた。
もちろん、違う。造形も質もまるで違う。アリスのような精密さも、静かな気配もない。これはもっと粗い。美しいものを雑に真似た失敗作だ。
それでも、一瞬、アリスの顔に見えた。
カリンの胸が、冷たくなる。
「……悪趣味」
声が低く落ちた。
通信端末を取り出す。
圏外。
いや、圏外ではない。信号はある。だが、どこにも繋がらない。シンへの通信も、シグレへの通信も、アリスへの連絡先も、すべて黒いノイズに飲まれている。
画面に一瞬だけ文字が出る。
『反逆者』
カリンは端末を睨んだ。
「君もいるの?」
返事はない。
ただ、遠くのダクトの奥で、何かが動く音がした。
重い。
濡れている。
金属を引きずるような音。
カリンは端末をしまい、大鎌を取り出した。
空間が裂け、黒い柄が手に収まる。
周囲の廃棄人形たちが、その刃の光を受けて、まるで一斉にこちらを見たように見えた。
もちろん、動かない。
ただの廃棄物だ。
ただの部品だ。
ただの失敗作だ。
そう呼ぶことが、ひどく嫌だった。
通路の奥から、巨大な影が這い出した。
最初に見えたのは、脚だった。
いや、脚と呼ぶべきかもわからない。金属製の作業アーム、妖物の節足、廃棄された機械人形の脚部、ぬめる肉質の触手。それらが無理やり束ねられ、一本の肢のように動いている。次に、胴体。企業廃棄物と妖物の肉と、壊れた機械人形の外装と、魔導炉廃液を吸った黒い塊が融合していた。
キリングドールではない。
兵器として整えられていない。
これは、処理生物だ。
廃棄物を喰い、失敗作を潰し、証拠を飲み込み、地下の汚れをさらに深い場所へ押し流すためのもの。
企業の胃袋。
そいつの胴体に、いくつもの顔が埋まっていた。
機械人形の顔。
妖物の目。
人間に似た口。
そのすべてが、別々のタイミングで開いた。
声は出ない。
ただ、排水溝の奥から、ひどく低い唸りが響く。
カリンは一歩下がった。
足元の床が、ぬるりと滑る。
背後の壁には、廃棄タグが大量に貼られていた。
『名称不明』
『人格不適合』
『所有者記録なし』
『回収不能』
『処理待ち』
『処理済』
『名前なし』
カリンの手に、力が入る。
シンにもつながらない。
シグレにもつながらない。
アリスにも、マナにも、誰にもつながらない。
白い本社ビルの底で、彼はひとりだった。
けれど、カリンは笑った。
黒いドレスの裾を軽く払う。
大鎌を肩に担ぐ。
薔薇の香を一滴、足元へ落とす。
甘い香りが、腐臭と薬品臭の中へかすかに広がった。
「……はいはい」
巨大な処理生物が、ゆっくりと身体を持ち上げる。
廃棄人形の顔が、黒い塊の表面で歪んだ。
カリンは刃を構えた。
「ここからが、お仕事ってわけね」
次の瞬間、地下実験区画の非常灯が一斉に赤く染まった。




