第4話 反逆者の行方
翌日の帝都公園は、何事もなかったように晴れていた。
帝都エデンの空はいつも薄く光っている。空気中に漂う魔導炉の粒子光が、朝の陽射しに混じって淡い金色を帯び、木々の葉を透かして地面に揺れる。公園の中央には人工湖があり、その向こうにメビウス時計台の細い影が見えた。遠くミヤ区の夢殿は、昼の光の中では夜ほど神々しくはない。ただ、そこにあるという事実だけで、帝都全域を黙らせるような重さを持っている。
エデン公園は、帝都の市民にとって憩いの場だった。
休日でもないのに、ベンチには老人が座り、芝生では子どもたちが小型飛行ドローンを飛ばし、若いカップルが女帝ヌルを模した白い噴水像の前で写真を撮っている。売店では聖ステラ祭限定味のアイスが先行販売され、屋台型の移動カフェからは焼き菓子の匂いが漂っていた。
その平和な景色の中で、カリンはベンチに座っていた。
黒い日傘を差し、白いブラウスに黒いリボン、膝上のフリルスカート、編み上げブーツ。昨日の追撃戦で破れたドレスとは別の服だった。予備の衣装である。予備といっても、カリンにとっては戦闘用でもあり外出用でもあり、自分の輪郭を整えるための大切な装いである。だから、昨夜キリングドールに自宅の衣装部屋を荒らされかけた時は、さすがに本気で怒った。
結論から言うと、衣装部屋は無事だった。
完全に無事ではない。玄関ドアは壊れ、廊下の壁に刃物の跡が残り、予備の大鎌が二本ほど欠け、香の棚がひとつ割れた。だが、服は守った。正確には、四体目のキリングドールが衣装ケースへ手を伸ばした瞬間、カリンがその腕を肘から先ごと落とした。
その後のことは、あまり思い出したくない。
ハルナに見られなかったのは幸いだった。見られていたら「カリンさん、また近所迷惑な戦闘をして!」と叱られたに違いない。シグレに見られていたら、たぶん眠たげな顔で「カリン、後片付けは自分でしてねぇ」と言われたに違いない。
そして今、そのシグレを待っている。
カリンは膝の上で端末をいじりながら、アイス売店のメニューを眺めていた。
抹茶。チョコ。ストロベリー。黒胡麻。聖ステラ祭限定、女帝の白桃ミルク。ワルキューレ・ブルーソーダ。闇の子ブラックチョコレート。
「……闇の子味って、怒られないのかなぁ」
小さく呟く。
売店のポップには、黒いアイスを持った可愛いマスコットが描かれている。商魂たくましい。帝都の市民は、封印された神格さえ味にする。そういうところが強いのか鈍いのか、カリンには時々わからない。
昼の公園は、昨夜の戦闘の匂いを消してくれる。
だが、完全には消えない。
黒服のキリングドールたち。
命令だけで動く人形。
カリンの名を排除対象として認識していた制御核。
そして、あの男の口から漏れた声。
私は反逆者ではない。
カリンは日傘の柄を指で回した。
あの声が耳に残っている。
悲鳴ではない。脅しでもない。怒りでも、たぶん、完全な憎しみでもなかった。ただ、自分ではない名前で呼ばれ続けた者の、疲れ切った否定。
それが、妙に引っかかっている。
「おーい」
間延びした声がした。
カリンは顔を上げた。
木陰の向こうから、黒いロングコートを着た青年が歩いてくる。昼の公園には、あまり似合わない格好だった。細身で、白い肌。眠たげな目。性別の境界を曖昧にするほど整った顔立ち。人混みの中にいても、そこだけ少し現実感が薄くなるような、不思議な美しさがある。
シグレ。
ホウジュ区で小さな雑貨店を営む青年であり、帝都では「帝都の天使」と呼ばれるトラブルシューター。
そして、カリンが「兄さま」と呼ぶ相手だった。
カリンはぱっと顔を輝かせた。
「兄さま!」
日傘を閉じるのも忘れて駆け出す。
そして、シグレの腕に抱きついた。
周囲の視線が一斉に集まった。
散歩中の老人が目を丸くし、売店に並んでいた女子高生たちが小さく悲鳴を上げ、ベンチに座っていたカップルが互いの顔を見る。見た目だけなら、眠たげな美青年と、黒い日傘を持った可憐な少女の逢瀬に見えなくもない。
ただし、事情を知る者からすれば、これは帝都の天使と氷の花という、かなり厄介な組み合わせだった。
シグレは腕に絡みつくカリンを見下ろして、ゆるくため息をついた。
「カリン、歩きにくい」
「兄さまが来るの遅いんだもん」
「約束の時間ちょうどだよねぇ」
「ボクが待ってたから遅いの」
「理屈が強いねぇ」
シグレは困ったように笑った。
カリンはその腕から離れず、むしろ少し体重を預ける。シグレは慣れているのか、完全に拒絶はしない。ただ、どうしたものかなぁ、という顔をしている。
「で」
シグレは周囲を見回した。
「相談があるって言ったよね?」
「うん。あるよ」
「この状況、相談っていうよりデートっぽく見えるんだけど」
「デートじゃないの?」
「違うと思うなぁ」
「じゃあ、相談デート」
「新しい言葉を作らないで」
カリンはシグレの腕を引っ張り、アイス売店へ向かった。
売店の前には、数人の客が並んでいる。看板には、女帝義体を模した可愛らしいマスコットがアイスを掲げている。本人が見たらどう思うだろうか。たぶん、興味なさそうに「人の子って、ほんと何でも食べ物にするよね」と言うかもしれない。
「兄さま、抹茶とチョコ、どっちがいい?」
「相談があるって言ったよね?」
「相談しながらアイス食べればいいじゃん」
「ボク、朝ごはん食べてきたんだけど」
「アイスは別腹だよ」
「それ、カリンの理屈だよねぇ」
シグレが眠たげに言うと、売店の店員が二人を交互に見て、微妙な笑顔を浮かべた。
「ご注文は?」
カリンは即答した。
「抹茶とチョコと女帝の白桃ミルクと、あと闇の子ブラックチョコ」
シグレが横から言う。
「多くない?」
「兄さまと半分こするから大丈夫」
「ボク、半分こに同意したかなぁ」
「じゃあ今した」
「してないねぇ」
店員は、笑っていいのか判断に困っている顔で注文を打った。
周囲では、通行人たちがちらちらと二人を見ている。何人かはスマホ型魔導端末を構えかけ、すぐにやめた。帝都の天使と氷の花の写真を勝手に撮る勇気はないらしい。賢明だった。
カリンはアイスを受け取り、近くのベンチへ戻った。
シグレは結局、抹茶を持たされている。
「で、何があったの?」
シグレがアイスをひと口食べてから聞いた。
カリンはチョコを舐めながら、軽い調子で答える。
「美術館の地下封印庫から、絵が盗まれたの」
「それ、軽い言い方で済む話かなぁ」
「題名は『反逆者』。ソエル由来の人格記録媒体らしいよ。シンくんが言ってた」
シグレの手が止まった。
眠たげだった目が、少しだけ細くなる。
「ソエル由来?」
「うん。天使か悪魔か堕天使か、そういうやつ。絵の中に閉じ込められてるっぽい」
「盗んだのは?」
「マフィアの下っ端。というか、下っ端たち。だけど、本人たちも誰に頼まれたのかよく覚えてない。名前を半分喰われてた」
「名前を?」
「うん。身分証から名前だけ消えかけてた。美術館の警備員も記録から消えたみたい。シンくんが言うには、記録の捕食だって」
シグレは黙った。
公園の明るさの中で、その沈黙だけが少し冷たく見えた。
シグレは、帝都の深部を知っている。
死都東京。裁きの門。タルタロス。ワルキューレ第九位ノイン。シオンの人柱。女帝ヌルとセーフィエルの対立。アリスが誰かの代用品として作られたこと。そして、シグレ自身がシオン=ノインの残響を背負っていること。
カリンはその全てを細かく知っているわけではない。
だが、シグレが時々、遠いものを見る目をすることは知っていた。
今も、その目だった。
「兄さま?」
カリンが呼ぶと、シグレは小さく瞬きをした。
「うん。ごめん。聞いてる」
「顔、怖いよ」
「そう?」
「ちょっとだけ。眠い天使じゃなくて、仕事中の天使」
「それは嫌だなぁ」
シグレはアイスをもう一口食べた。
そして、ゆっくり言った。
「その絵、たぶんただの悪魔じゃないよ」
「ただの悪魔っていうのも、だいぶ嫌だけど」
「誰かが悪魔って名前を貼ったものかもしれない」
カリンは首を傾げた。
「兄さま、たまに難しいこと言うよねぇ」
「そうかなぁ」
「うん。もっと簡単に言って」
シグレは少し考えた。
「たとえばさ」
「うん」
「カリンが、誰かに勝手に『化け物』って呼ばれて、その名前で書類に登録されて、その名前で閉じ込められて、その名前で何年も何十年も扱われたら、どう思う?」
カリンの笑顔が、ほんの少し止まった。
チョコアイスの表面が、陽射しで溶けていく。
「……嫌だね」
「うん」
「すごく嫌」
「その絵の中のものも、そうかもしれない」
風が吹いた。
公園の木々がざわめき、遠くの噴水が光を弾いた。子どもたちが笑っている。売店では相変わらず女帝の白桃ミルクが売れている。昼の帝都は平和そうに見える。
それなのに、カリンの耳には、またあの声が聞こえた気がした。
私は反逆者ではない。
「でも」
カリンはアイスを舐めた。
「名前が嫌だからって、人の名前を喰っていいわけじゃないでしょ」
「うん。そうだね」
「絵が被害者でも、今は加害者かもしれない」
「それもそう」
「だから、ボクが捕まえる」
シグレはカリンを見た。
「一人で?」
「一人じゃないよ。シンくんは使うし、依頼人もいるし、必要ならマナちゃんにも聞くし」
「ボクは?」
「兄さまは、今日はアイス食べる係」
「それ、必要な係?」
「すごく必要」
シグレは困ったように笑った。
「カリン」
「何?」
「本当に危なくなったら、呼んでね」
カリンは一瞬、嬉しそうな顔をした。
けれど、すぐにいつもの甘い笑顔に戻す。
「兄さま、ボクのこと心配してくれてるの?」
「そりゃするよ。昨日、うちの店の前にキリングドール落ちてきたし」
「でも、店には傷つけなかったでしょ」
「看板が揺れて、ハルナがすごく怒ってた」
「え、ハルナちゃん怒ってた?」
「うん。『カリンさんは今度来たら掃除を手伝ってもらいます』って」
「それは怖い」
カリンは真剣に震えた。
シグレはおかしそうに笑う。
その笑顔を見て、カリンの胸の奥が少しだけ温かくなる。
シグレは自分をシオンではなくシグレとして選んだ人だ。誰かの残響を背負いながら、自分で立っている人だ。だから、カリンは憧れた。自分もそうありたいと、どこかで思っている。
他人が貼った名前ではなく、自分で選んだ名前で。
氷の花でも、清掃員でも、弟分でも、男でも、女のようでも。
全部持ったまま、カリンとして。
端末が鳴った。
シンからだった。
カリンは画面を見て、ため息をついた。
「お仕事だ」
シグレが抹茶アイスを食べ終えながら言う。
「場所?」
「ホウジュ区南端。海沿いの住宅街。昨夜の実行犯っぽい男が、女の人と潜伏中」
「行くの?」
「行く」
「気をつけて」
「兄さま、ついて来る?」
カリンはわざと甘えるように聞いた。
シグレは少しだけ考えて、首を横に振った。
「行かない。これはカリンの仕事でしょ」
カリンは小さく目を見開いた。
それから、笑った。
「うん」
その返事は、いつもより少しだけ静かだった。
「ボクの仕事」
*
海沿いの住宅街は、ホウジュ区の中でも古い地区だった。
高層ビルの影から外れ、港湾施設へ向かう道路と、昔ながらの低層住宅が混ざっている。魔導広告の光は少なく、代わりに古い街灯が狭い道を照らしていた。潮の匂いがする。遠くにはミナト区のクレーン群が見え、昼の残光を受けて黒い骨のように立っている。
シンが送ってきた住所は、三階建ての古いアパートだった。
外壁はくすんだ灰色。階段の手すりは錆び、郵便受けには何枚もの広告チラシが突っ込まれている。住人は多くないらしい。二階の一室だけ、カーテンの隙間から明かりが漏れていた。
カリンは路地の角で立ち止まり、端末を確認する。
『対象は二〇三号室。偽名で契約。女が一名同居。男は昨夜以降、外出記録なし』
シンのメッセージに続き、補足が入る。
『男の記録に欠落あり。女の記録は正常。巻き込まれの可能性が高い』
カリンは端末を閉じた。
「正常な人がいるなら、壊し方考えないとねぇ」
声は軽いが、目は冷たい。
階段を上がる。
足音を消す。
二〇三号室の前で止まる。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「ねぇ、病院に行こうよ」
女性の声だった。
「いい。大丈夫だ」
男の声。
「大丈夫じゃないよ。昨日から変だよ。自分の名前、何度も確認してるし、寝言で知らない会社の名前言ってるし、さっきだって私のこと、誰だっけって――」
「やめろ」
「やめない。何かあったんでしょ? 仕事? また危ないことに関わったの?」
「知らない」
「知らないって何? 自分のことでしょ」
「知らないんだよ!」
男の声が荒くなる。
部屋の中で何かが倒れる音。
カリンは小さく息を吐いた。
突入する理由は十分だった。
彼は一歩下がる。
ブーツの踵を軽く上げる。
そして、ドアを蹴破った。
派手な音が狭い廊下に響いた。
安物の鍵は一撃で吹き飛び、扉は内側へ倒れ込む。部屋の中にいた男女が同時に悲鳴を上げた。男はソファの前で立ち上がりかけていた。年齢は三十代前半。薄い髭、くたびれたシャツ、血走った目。女は台所の近くに立っており、手にマグカップを持っていた。驚きでカップを落とし、床で割れる。
カリンは壊れたドアの上を踏んで入った。
「こんにちはぁ」
笑顔。
場違いなくらい可愛い声。
「ちょっとお話聞かせてね」
男の顔が引きつった。
「おまえ……」
「知ってる?」
「知らない。知らないけど……」
男は頭を押さえた。
「黒い……花……」
「氷の花。惜しいね」
カリンはにこりと笑う。
女は震えながら言った。
「あ、あなた、誰ですか? 警察?」
「違うよぉ。警察だったらドア蹴らないでしょ?」
「蹴りますよ! 帝都警察、わりと蹴りますよ!」
「そうなの? じゃあ、違いは可愛さかな」
女は混乱した顔をした。
その間に、男が窓へ走ろうとする。
カリンは見ていないように見えて、見ていた。
黒いリボンが揺れる。
次の瞬間、カリンの手から伸びた小さな鎌が、男の足元の床に突き刺さった。魔導ワイヤーが展開し、男の足首を絡め取る。
男は派手に転倒した。
「ぐっ……!」
「逃げないでね。二階から落ちると痛いよ」
カリンは男の背中に膝を乗せ、腕を取った。
関節を極める。
強すぎず、弱すぎず。逃げられないが、壊れない程度の圧。彼は男を生かして連れていくつもりだった。依頼人もシンも、この男が持っている情報を欲しがっている。
女が叫ぶ。
「やめて! その人、病気なんです! 昨日からおかしくて、名前も――」
カリンは女の方を見た。
「君、名前言える?」
「え?」
「自分の名前」
女は困惑しながらも答えた。
「……ミオ。佐伯ミオ」
「彼の名前は?」
女は男を見た。
「……リョウジ。黒田リョウジ」
男がうめいた。
「違う」
女の顔が強張る。
「違わないよ。リョウジでしょ。あなた、黒田リョウジでしょ」
「違う。いや、そうだ。そうだった。俺は……俺は、黒田……」
男は言葉に詰まった。
自分の名前を言おうとするたび、喉の奥で音が崩れていく。黒田リョウジ。そのはずだ。女が呼んでいる。賃貸契約にも、偽造身分証にも、その名がある。だが、本人の内側から、その名が剥がれかけている。
カリンは男の背に膝を置いたまま、静かに言った。
「リョウジくん。昨日、帝都美術館の地下封印庫に入ったね」
「知らない」
「嘘」
「知らないんだ!」
「じゃあ、何を運んだかは?」
「知らない!」
「額縁?」
男の身体が震えた。
「絵?」
さらに震える。
「題名は『反逆者』」
男が悲鳴を上げた。
「やめろ!」
部屋の照明が一瞬ちらつく。
窓の外の影が、不自然に揺れた。
女――ミオが怯えて後ずさる。
カリンは男の首筋へ指を添えた。薔薇の香りが薄く広がる。強すぎない。意識を完全に落とすのではなく、固まった記憶の蓋を少しだけ緩める濃度。
「誰に頼まれたの?」
「知らない」
「誰が扉を開けた?」
「知らない」
「誰に渡した?」
「知らない」
「マモンカンパニー」
男の呼吸が止まった。
カリンは目を細める。
「覚えてるね」
男は涙を流していた。
「違う。俺は、そこに行った。行った気がする。倉庫。白い車。黒い箱。いや、違う。地下。エレベーター。子供みたいな声……」
「子供?」
「社長……いや、違う。ガキじゃない。あれは……」
男は歯を食いしばった。
「マモンカンパニー……本社地下……絵を渡した。金を受け取った。だけど、俺は盗んでない」
「封印庫に入ったんでしょ?」
「入った。だが、盗んだんじゃない」
カリンの動きが止まる。
「どういう意味?」
男は震えながら言った。
「あの絵が……扉を開けたんだ」
部屋の空気が冷えた。
ミオは何を言っているのかわからない顔で男を見ている。カリンは、わかりたくなかった。
男は続けた。
「俺は言われた場所に行っただけだ。鍵なんて持ってない。認証文も知らない。だけど、扉が開いた。中に入れた。絵があった。俺はケースに入れた。違う。違うんだ。俺が入れたんじゃない。あいつが、自分で……」
「自分で?」
「あいつが、額縁の中から、俺を見てた。俺の名前を呼んだ。いや、呼んでない。俺の名前を……持っていった」
カリンは、シグレの言葉を思い出した。
誰かが悪魔って名前を貼ったものかもしれない。
勝手にそう呼ばれ、そう記録され、そう閉じ込められたもの。
そして今、その絵は、自分を外へ運ばせている。
「『反逆者』は今どこ?」
カリンが聞く。
男は唇を震わせた。
「マモンカンパニー本社地下。研究区画。俺が知ってるのはそれだけだ。本当に、それだけなんだ」
「買った人間の名前は?」
「わからない。契約書には、会社名しかなかった。マモンカンパニー。受け取り担当は……ゲイツ……」
カリンの眉が動いた。
「ゲイツ?」
「社長……たぶん。子供みたいな声で笑ってた。絵を見て、言ったんだ」
「何て?」
男は目を見開いた。
その瞳に、恐怖が戻る。
「これで、魂の形がわかるって」
ミオが口元を押さえた。
カリンは男の腕を縛り上げた。魔導ワイヤーで手首と足首を固定する。男は抵抗しなかった。もう抵抗する力も残っていないようだった。
ミオが震える声で言う。
「連れて行くんですか」
「うん」
「この人、死ぬんですか」
カリンは少しだけ黙った。
依頼人のマフィアは、生死を問わないと言っていた。マモンカンパニーが絡む以上、男を生かしておけば狙われる可能性は高い。名前を喰われている状態で、どこまで助かるかもわからない。
けれど、カリンは即答しなかった。
代わりに、ミオへ小さな香袋を投げた。
「それ、持ってて」
「これは?」
「眠れる香。あと、悪い夢を少しだけ薄める。君まで名前を持っていかれない保証にはならないけど、何もないよりはマシ」
「どうして……」
「巻き込まれただけの人を放っておくと、後味悪いから」
ミオは香袋を握りしめた。
カリンは男を肩に担ぎ上げる。
見た目からは想像できない力だった。ミオが目を丸くする。
「あなた……いったい」
「ただの清掃員だよぉ」
「嘘ですよね」
「うん」
カリンは笑った。
「でも、表の仕事はちゃんとしてるよ」
*
男――黒田リョウジは、その日の夕方にはミナト区の礼拝堂へ引き渡された。
第1話の夜と同じ、女帝像のある古い礼拝堂。マフィアのボスは、前よりも深い皺を刻んだ顔でカリンを迎えた。報告を聞く間、彼は一度も女帝像から完全に目を離さなかった。
「マモンカンパニーか」
ボスの声は重かった。
「うん。本社地下。ゲイツ社長の名前も出たよ」
「子供社長め」
「知ってるの?」
「知らん方が不自然だ。表では天才経営者、裏では金になるものなら魂でも標本でも買う悪魔だ。いや、悪魔に失礼かもしれんな」
「帝都っぽいねぇ」
カリンは礼拝堂の柱にもたれた。
黒田リョウジは床に座らされている。手足は縛られ、頭を垂れていた。意識はある。だが、目は焦点を結んでいない。時折、小さく自分の名前を呟こうとして失敗する。
ボスは部下に命じた。
「こいつを奥へ。殺すな。まだ使える」
カリンは片眉を上げる。
「生かすんだ」
「女帝陛下の所有物に手を出した罪は軽くない。だが、今は殺すより情報を吐かせる方が先だ」
「優しいねぇ」
「優しさではない。恐怖だ」
ボスは短く言った。
「夢殿に知られる前に、我々で落とし前をつける必要がある」
部下たちが黒田リョウジを立たせようとした。
その時、礼拝堂の灯りが揺れた。
カリンはすぐに動いた。
腰を落とす。
右手を少し開く。
空間の奥で、大鎌の柄が指に触れる。
黒田リョウジの身体が、びくりと跳ねた。
影が伸びる。
床に落ちていた影が、壁へ這い上がる。前回と同じ。いや、前回より濃い。黒い翼が、女帝像の背後の光輪を覆うように広がった。
部下たちが銃を構える。
ボスが叫ぶ。
「撃つな!」
黒田リョウジの口が開いた。
声が出る。
彼のものではない声。
「私を売ったのは、おまえたちではない」
礼拝堂の空気が震える。
カリンは壁の影を見上げた。
影の翼は、ゆっくりと羽ばたくように揺れている。
「おまえたちは、額縁を運んだだけだ」
その声は、責めているようでいて、どこか違った。
まるで、事実を訂正しているだけのようだった。
売ったのではない。
盗んだのでもない。
運んだだけ。
それはつまり、『反逆者』自身が動いているということだ。
カリンは初めて、はっきりとそう確信した。
絵は、誰かに盗まれたのではない。
自分で、外へ出るために人間を使っている。
影の翼が、カリンの方へ向いた。
目はない。
顔もない。
だが、見られているとわかった。
声がもう一度、低く響く。
「私を、描くな」
それだけ言って、影は崩れた。
黒田リョウジは糸が切れたように倒れ込む。部下たちが慌てて支える。礼拝堂には、女帝像の光だけが残った。
ボスは汗を拭った。
「今のは……」
「絵の声」
カリンは短く答えた。
「反逆者って名前、嫌いみたい」
ボスは何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
女帝所有の封印物が、自分たちの礼拝堂で、女帝像の光を遮りながら「私を描くな」と言ったのだ。女帝信仰を持つ裏社会の男にとって、それは銃撃や拷問よりずっと重い出来事だった。
カリンは礼拝堂を出た。
外はもう夕暮れだった。
ミナト区の空に赤い光が差し、港湾クレーンの影が長く伸びている。遠くで船の汽笛が鳴った。帝都の街は、また夜へ向かっていく。
カリンは端末を取り出し、シンに短いメッセージを送った。
『マモン本社地下。ゲイツ。絵は自分で動いてる』
すぐに返信が来る。
『最悪だな』
カリンは笑った。
『知ってる』
そして、もう一通。
シグレ宛ての画面を開く。
文章を打つ。
『兄さま、やっぱりただの悪魔じゃなさそう』
送信しようとして、少し迷った。
最後に、絵文字の代わりにアイスのスタンプを一つ添えた。
送信。
すぐに既読がついた。
シグレからの返信は短かった。
『気をつけてねぇ』
カリンは端末を見つめ、少しだけ笑った。
「うん」
声は、誰に聞かせるでもなく夜気に溶けた。
*
その夜。
マモンカンパニー本社地下。
そこは、帝都のどの地図にも正確には記載されていない空間だった。地上の本社ビルは、ガラスと白い外壁を組み合わせた清潔な高層建築である。受付には観葉植物が置かれ、壁には企業理念が掲げられ、来客用ロビーでは若い社員たちが笑顔で働いている。
だが、その地下には、別の会社がある。
白い照明。
無菌室のような廊下。
厚い隔壁。
魔導炉から分岐した専用エネルギーライン。
機械人形の骨格が吊るされた作業室。
透明な筒の中に浮かぶ制御核。
封印術式と企業ロゴが同じ壁に刻まれた、異様に清潔な研究区画。
その最奥に、『反逆者』は置かれていた。
帝都美術館にあった時と同じ額縁。
だが、絵の中の天使は、もはや胸に手を当ててはいない。
白い右手は、額縁の内側からこちらへ伸びている。指先はまだ絵の外へ出ていない。だが、現実の空気に触れようとしているように見える。瞳は微笑んでいる。けれど、その微笑みは、見る者によって意味を変える。
哀れみ。
怒り。
嘲笑。
あるいは、期待。
絵の前に、小柄な人物が立っていた。
少年のような外見だった。
整った顔立ち。薄い金髪。高価な白いスーツ。手には透明なタブレット端末。年齢は十代前半に見える。だが、その目には子どもの無邪気さとは別の、冷たく計算された光がある。
マモンカンパニー代表取締役。
ゲイツ。
彼は絵を見上げ、うっとりと微笑んだ。
「素晴らしい」
周囲には研究員たちが控えている。誰も大きな声を出さない。誰も絵に近づきすぎない。だが、彼らの視線は熱を帯びていた。科学者の目。商人の目。信仰者の目。あるいは、盗人の目。
ゲイツは端末に指を滑らせた。
絵の周囲に、いくつもの測定値が表示される。
人格層反応。
魂格輪郭。
ソエル由来記録密度。
封印術式残存率。
名前欠損率。
媒体自律性。
ゲイツは笑った。
「魂の輪郭。人格の保存。上位存在の記録」
彼の声は、子どものように高い。
けれど、その言葉は子どものものではなかった。
「これが量産できたら、機械人形産業は次の段階へ進める」
研究員の一人が不安げに言った。
「社長、媒体の自律性が想定より高すぎます。現段階で転写実験へ進むのは危険です」
「危険?」
ゲイツは振り返った。
穏やかな笑顔。
研究員は黙り込む。
「危険だから価値があるんです。安全な魂なんて、つまらないでしょう?」
「しかし、帝都美術館側の記録消失が想定以上に広がっています。名前の捕食現象も――」
「捕食ではありません」
ゲイツは楽しそうに言った。
「適応です。不要なラベルを剥がしているだけですよ」
彼は再び絵を見た。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
絵の中の天使は答えなかった。
ただ、微笑んでいた。
その白い指先が、ほんの少しだけ額縁の外へ近づく。
研究室の照明が、一瞬だけ暗くなる。
誰かの名札から、文字が一画だけ欠けた。
ゲイツはそれに気づかないふりをした。
「反逆者」
彼は、わざとその題名で呼んだ。
「あなたの形を、僕たちにください」
絵の中の天使は、やはり微笑んでいる。
だが、その瞳の奥で、暗い羽根の影がゆっくりと開き始めていた。




