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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
3/12

第3話 キリングドール

 ガラスに走った亀裂は、花のようだった。


 東タワー四十六階。情報屋シンのオフィス。その細い窓の向こうで、黒服の男型機械人形が腕を振り下ろした瞬間、強化ガラスの表面に白い線が広がった。普通のガラスなら一撃で砕けていただろう。だが、ツインタワー東タワーの窓は、ただの建材ではない。防弾、防爆、防呪、防刃、防蟲、そして利用者の都合により「何が飛んできても、ある程度は見なかったことにする」ための魔導膜まで重ねられている。


 それでも、亀裂は入った。


 カリンは振り返りながら、ため息をついた。


「シンくん」


「何だ」


「この窓、高い?」


「私に聞くな。テナント契約上、外壁損傷は管理会社と加害者の責任だ」


「じゃあ安心だね」


「安心ではない。ここは四十六階だ」


「落ちても可愛く着地するから大丈夫」


「君のその自信はどこの保険会社が引き受けているんだ」


 黒服の機械人形が、もう一度腕を振り上げた。


 腕部装甲が刃物のように展開している。人間の手の形を模してはいるが、指先に当たる部分はすでに五枚の刃へ変形していた。顔は整っている。黒い髪、白い肌、無表情な目。遠くから見れば、執事か企業警備員にも見えるだろう。だが、目が死んでいた。瞳孔の奥に、誰かを見ている温度がない。


 人形だ。


 それも、アリスのような人形ではない。


 カリンは窓越しにその目を見て、すぐに判断した。


 人格核がない。


 少なくとも、表層にはない。


「シンくん、これ、どこの子?」


「マモンカンパニー製旧式戦闘機械人形。型式はおそらくMMD-07。民間警備用として登録されていた機体を、違法改造している」


「名前は?」


「登録番号ならある」


「それ、名前じゃないよ」


 機械人形の二撃目が窓に入った。


 白い亀裂が一気に広がり、魔導膜が青白く発光する。シンのモニターがいくつか警告を出した。部屋の照明が一瞬だけ落ち、床に這うケーブルがびくりと跳ねる。


 シンは椅子ごと後ろへ下がった。


「入ってくるぞ」


「入れないでよぉ」


「私は情報屋であって窓屋ではない」


「じゃあ、今度から窓屋さんの連絡先も売って」


「今この状況で買うのか」


「あとで請求書に入れといて」


 カリンは笑いながら、スカートの裾を片手で軽く払った。


 次の瞬間、彼の右手に巨大な大鎌が現れた。


 どこから出したのか、見ていたシンにもわからない。空間が花びらのようにめくれ、その内側から黒い柄が滑り出す。銀色の刃は、部屋のモニター光を受けて冷たく輝いた。


 機械人形の三撃目。


 ガラスが破れる。


 破片が部屋へ散るより先に、カリンは踏み込んだ。


 風が逆流する。四十六階の外気が部屋へ流れ込み、書類と紙袋と古い請求書を舞い上げた。機械人形は窓枠を蹴り、室内へ侵入しようとする。その胸元に、カリンの大鎌の柄が叩き込まれた。


 刃ではない。


 柄だ。


 カリンは殺すのではなく、まず押し返した。


 黒服の機械人形が窓の外へ弾き出される。だが、落ちない。外壁に両足を固定し、四つん這いの虫のような姿勢でガラス面に張り付いた。


 カリンは窓枠へ足をかけた。


「やだ。壁走るタイプ」


「君も似たようなことをするだろう」


「ボクは可愛いからいいの」


 そう言って、カリンは窓の外へ飛び出した。


 東タワー四十六階の外壁。


 地上は遥か下。高架道路を流れる車両は玩具のように小さく、空中連絡通路を渡る人々のざわめきはここまで届かない。風が強い。髪が乱れ、スカートが跳ね、黒いリボンが空に流れる。


 カリンは外壁の細い縁を蹴った。


 機械人形が刃を振る。


 カリンは体を倒し、刃をかわしながらガラス壁に片手をつく。ブーツの底に仕込まれた小さな魔導滑り止めが一瞬だけ光り、彼の身体を垂直の壁に固定した。次の瞬間には、もう横へ跳んでいる。風を切る。大鎌が半円を描く。刃が機械人形の右肩を掠め、黒い外装を裂いた。


 火花が散った。


 人間の血ではない。


 魔導回路の青い光が、肩の裂け目から漏れる。


「うん。やっぱり古い型だね」


 カリンは微笑んだ。


「関節、素直」


 機械人形は答えない。


 代わりに、左腕を変形させた。腕の内側から短い銃身が出る。カリンは目を細め、壁を蹴って上へ跳んだ。直後、さっきまで彼がいたガラス面に、無音の弾丸が三発突き刺さる。防音型の魔導弾。対人制圧用ではなく、暗殺用に近い。


「シンくん」


 カリンは外壁を蹴りながら、通信越しに言った。


「これ、民間警備用って言った?」


『登録上はな』


「嘘つき」


『登録が嘘をついている。私は嘘を伝えているだけだ』


「同罪だよぉ」


 カリンは大鎌の刃を回転させ、機械人形の銃腕へ叩きつけた。銃身が歪む。機械人形は即座に腕を切り離した。自ら損傷部を捨て、残った右腕の刃でカリンの首を狙う。


 速い。


 旧式とはいえ、改造されている。


 カリンは首を傾けてかわす。刃が黒髪を数本切った。


 その瞬間、カリンの目から笑みが消えた。


「あ」


 声は軽い。


 だが、温度が下がった。


「髪、切ったね」


 機械人形は反応しない。


 カリンの口元だけが、にこりと笑った。


「弁償、できる?」


 次の一撃は、優雅だった。


 大鎌が花弁のように回る。刃は機械人形の首を狙わない。肩、肘、腰、膝。人間なら致命傷にはならない位置。けれど機械人形にとっては、駆動を奪う関節部。カリンは踊るように外壁を蹴り、黒服の周囲を回り込みながら、精密に斬った。


 右膝。


 左肩。


 腰部補助軸。


 首裏の制御補助ケーブル。


 機械人形の動きが乱れる。


 カリンは最後に柄尻を胸部中央へ打ち込んだ。そこには制御核を保護する装甲がある。完全には砕かない。ひびを入れるだけ。


 黒服の機械人形は壁面から剥がれた。


 落下する。


 地上へ向かって黒い点になっていく。


「シンくん、下、人いない?」


『緊急退避誘導を入れた。だが、今の落下物を合法的に説明する文面が見つからない』


「外壁清掃中の部品落下でいいんじゃない?」


『君の清掃会社に怒られるぞ』


「それは困る」


 機械人形は地上へ落ちる寸前、背面から小型の制動翼を展開した。完全な飛行ではない。落下速度を殺し、近くのビル壁に着地するための装置だ。黒服は地上十階ほどの外壁に張り付き、そのまま路地へ消えた。


 カリンは口を尖らせた。


「あ、逃げた」


『追うか?』


「追う。……と言いたいところだけど」


 カリンは割れた窓から室内へ戻った。


 風でめちゃくちゃになったシンのオフィスを見回す。紙資料が散乱し、モニターが二つ落ち、なぜかかぼちゃ公爵の動画だけが無事に再生されていた。


 シンは無表情でその画面を閉じた。


「君が来ると、部屋が荒れる」


「黒服くんのせいでしょ」


「君が客を連れてきた」


「ひどい」


 カリンは割れた窓の縁に腰かけたまま、外を見下ろした。


 黒服の反応は消えかけている。


 逃がした。


 ただし、完全には逃げていない。あれは偵察か、一体目の試験投入だ。カリンの戦闘データを取りに来た可能性もある。命令は単純だった。侵入、攻撃、反応記録、離脱。キリングドールというにはまだ遠慮がある。


 あるいは、本命は別にいる。


 カリンは大鎌を消した。


「お腹すいた」


 シンが振り返る。


「今の流れで?」


「戦うと糖分使うんだよぉ」


「では、私のオフィスの窓を破った戦闘機械人形については?」


「逃げたし。シンくん、追跡お願い」


「料金は?」


「請求書に入れといて。あと、窓屋さんも」


「君は私を便利屋だと思っているな」


「うん」


「即答か」


 カリンは笑い、割れた窓枠から室内へ降りた。


 黒いドレスの裾を整え、髪の切れた部分を指で摘まむ。ほんの数本だ。だが、彼にとっては重要だった。髪も服も爪も香りも、すべて自分を作るものだ。他人が勝手に切っていいものではない。


「髪の弁償も追加で」


「誰に請求する気だ」


「マモンカンパニー」


「それは楽しそうだ」


「でしょ?」


 カリンはそう言って、オフィスを出た。


     *


 昼のツインタワー周辺は、いつも混んでいる。


 西タワーの地下フードコート、東タワーのビジネスロビー、空中連絡通路のカフェ、屋外広場のキッチンカー。人々は食べ、喋り、笑い、買い物をし、写真を撮り、仕事の電話をし、帝都の昼を消費していた。ついさっき四十六階の窓が破られたことなど、ほとんどの客は知らない。館内放送は「一部エリアで設備点検を実施しております」とだけ告げ、東タワーの警備員たちは無表情に動線を変えている。


 帝都では、異常は速やかに日常へ梱包される。


 カリンはその梱包された日常の中に、何食わぬ顔で紛れ込んだ。


 場所は西タワー地下二階のファーストフード店。


 店名は『ハッピー・マギ・バーガー』。


 黄色と赤を基調にした明るい内装。入口では、魔導マスコットの「マギポン」がゆらゆら踊っている。丸い身体に三角帽子、星形の杖、なぜかやたらリアルな目をした奇妙なキャラクターだ。子どもには人気があるらしいが、大人が夜中に一人で見たら少し怖い。


 カリンはトレーを持って、窓際の席に座った。


 トレーの上には、期間限定ストロベリーシェイク、ポテトのLサイズ、チーズ入りナゲット、甘いソースのかかったミニパンケーキ、そして子ども向けセットの小さな箱がある。


 セット箱には、踊るマギポンが描かれていた。


 カリンは箱を開けた。


 中から、小さなマギポン人形が出てきた。押すと喋るタイプらしい。


 試しに押してみる。


『マギポンだポン! 女帝さまもにっこりポン!』


 カリンは無言で箱に戻した。


「……いらない」


 近くの席にいた子どもが、じっと見ていた。


 カリンはマギポン人形を差し出した。


「いる?」


 子どもの顔が輝く。


「いいの?」


「うん。ボクより君の方が似合う」


「ありがとう、おねえちゃん!」


 母親がまたしても慌てる。


「あっ、すみません、えっと……」


 カリンはにこりと笑った。


「いいよぉ。マギポン、大事にしてね」


 子どもは嬉しそうに頷き、母親に連れられて席へ戻っていく。


 カリンはポテトを一本つまんだ。


 しょっぱい。


 おいしい。


 さっきまで外壁で戦闘機械人形と斬り合っていたとは思えないほど、ポテトは普通においしかった。


 普通というものは、たぶん偉大だ。


 帝都ではなおさら。


 カリンはシェイクを飲みながら、端末を開いた。シンからの追跡データが流れている。マモンカンパニー製旧式戦闘機械人形。型式MMD-07。登録上は廃棄済み。実際には複数の機体が生きている可能性。装備は暗殺用に改造。外壁移動機能。低空制動翼。視覚共有機能の疑い。


 カリンは眉をひそめた。


「視覚共有ねぇ」


 嫌な感じだ。


 一体目はカリンを殺しに来たというより、見に来た。動きを見て、香を浴び、武器を確認し、戦闘反応を記録して逃げた。あれが単独の敵ではなく、共有端末の一つにすぎないなら、次に来る機体はもっと厄介になる。


 カリンはチーズナゲットにソースをつけた。


 甘い。


 おいしい。


 そして、店内の注文番号表示端末が、一瞬だけ乱れた。


 通常は、受け取り待ちの番号が表示される。


『102』

『103』

『104』


 その数字列の中に、文字が混ざった。


『反逆者』


 カリンの手が止まった。


 表示は一瞬だった。


 すぐに何事もなかったように『105』へ切り替わる。店員も客も気づいていない。子どもはマギポン人形を鳴らして笑っている。厨房では油の跳ねる音がして、若い店員が「ポテト入りました」と声を上げている。


 カリンだけが、画面を見ていた。


 その時、店外で轟音がした。


 ガラス越しに、車が横滑りするのが見えた。


 自動運転車両が一台、車道を斜めに弾き飛ばされ、歩道の安全ポールに激突する。魔導安全膜が展開し、中の乗客は保護されたようだが、衝撃で周囲の人々が悲鳴を上げた。さらに、後続の配送バイクが急停止し、空中宅配ドローンが制御を乱して店の看板にぶつかる。


 そして、黒服の男が車道の真ん中を歩いてきた。


 人間ではない。


 さっきの機体と同型。


 だが、胸部装甲の傷はない。別個体だ。


 黒服の機械人形は、周囲の混乱を気にしなかった。人々が逃げる。警備ドローンが警告を発する。車両の自動制御が緊急回避する。だが、機械人形はただ一直線に店へ向かってくる。


 死んだ目で、カリンを見ている。


 カリンはシェイクのカップを置いた。


「……まだ食べてる途中なんだけどなぁ」


 店内の客が騒ぎ始める。


「何、事故?」


「警備員?」


「違う、あれ人形じゃない?」


「逃げろ!」


 母親が子どもを抱き上げる。子どもはマギポン人形を握りしめたまま、泣きそうな顔でカリンを見た。


 カリンは笑って手を振った。


「大丈夫。ポテト食べ終わる前に戻るから」


 もちろん、戻れる保証はない。


 だが、そう言う方が可愛い。


 カリンは立ち上がり、トレーを片手で持ったまま、店の出口へ向かった。


 店員が震える声で言う。


「あ、あの、お客様、危険ですので店内へ――」


「避難誘導してね。あと、これ下げないで。戻ってくるから」


「え?」


「ポテト、まだ残ってるの」


 カリンは真顔でそう言い、店外へ出た。


     *


 黒服の機械人形は、歩道へ上がった。


 警備ドローンが近づく。


『警告。歩行者区域における危険行為を確認。識別情報を提示してください』


 黒服は答えない。


 右腕が動いた。


 刃が閃く。


 警備ドローンが真っ二つに割れ、火花を散らして落下した。


 周囲の悲鳴が大きくなる。


 カリンは機械人形の正面に立った。


 手にはまだポテトが一本ある。


「ねぇ」


 カリンはポテトを食べながら言った。


「ここ、人多いんだけど」


 黒服は無言で前へ出る。


 カリンはため息をついた。


「会話できないタイプ、ほんと嫌い」


 右腕の刃が振るわれる。


 カリンは横へ跳んだ。足元のタイルが裂ける。切断面が滑らかすぎて、逆に怖い。刃物というより、高周波魔導ブレードだ。一般人が触れれば、骨ごと断たれる。


 カリンは周囲を見た。


 逃げ遅れた客がいる。車道側には事故車。店内には子ども。西タワー地下入口には人が流れ込んでいる。ここで本格的に戦えば、被害が出る。


 カリンは黒服に向かって笑った。


「こっちだよぉ」


 彼は歩道の手すりを蹴り、裏手の搬入口方面へ走った。


 黒服が追う。


 カリンは速い。


 だが、機械人形も速かった。


 人間の歩幅ではない。膝関節が不自然な角度で沈み込み、次の瞬間には車一台分を跳ぶ。壁を蹴り、看板を掴み、横断デッキの裏へ張り付く。見た目は人間の形をしているのに、動きは虫か獣に近い。


 カリンは顔をしかめた。


「やっぱり壁走るんだ。流行ってるの?」


 搬入口の奥に狭い路地がある。


 ツインタワー西側の華やかな正面からは見えない、搬入業者と清掃員と裏社会の使い走りが使う細い道。ゴミ箱、古い配管、空調設備、非常階段。一般客はいない。


 カリンはそこへ飛び込んだ。


 黒服も続く。


 路地に入った瞬間、カリンは反転した。


 右手に大鎌。


 刃が横薙ぎに走る。


 黒服は避けない。


 左腕を盾のように差し出し、刃を受けた。外装が裂け、魔導回路が露出する。それでも止まらない。右腕の刃がカリンの腹部を狙う。


 カリンは大鎌の柄で刃を受け、身体をひねった。


 黒いドレスの裾が舞う。


 刃が布を掠めた。


 薄いレースが一部切れる。


 カリンの目が据わった。


「服」


 声が低くなる。


「切ったね」


 黒服は反応しない。


「君たち、髪とか服とか、そういう大事なものを狙う仕様なの?」


 返事はない。


 カリンは舌打ちした。


「つまんない子」


 彼は大鎌を振るった。


 一撃目で右膝の関節を砕く。二撃目で左肩の駆動軸を割る。三撃目で首裏の外装を剥がす。黒服は片膝をついたが、即座に胸部装甲を開いた。内側から小型の魔導弾発射管が現れる。


 カリンは目を細めた。


「近距離でそれ?」


 発射。


 カリンは避けない。


 大鎌の刃を盾のように立てる。魔導弾が刃に当たり、青い火花を散らして弾かれた。衝撃でカリンの身体が後ろへ滑る。ブーツの踵が路面を削った。


 黒服はさらに撃つ。


 カリンは大鎌を回し、弾を逸らしながら踏み込む。


 踊るように。


 軽く。


 美しく。


 黒い花が、狭い路地で回る。


 だが、戦闘は優雅なだけではない。大鎌の刃が黒服の胸部装甲を割り、制御核の一部を露出させる。そこに、カリンは指先を伸ばした。


 制御核を抜く。


 黒服の身体が一瞬停止した。


 カリンはその隙に、核を覗き込む。


 そこに人格核はなかった。


 命令文だけがある。


 対象識別。


 KARIN。


 排除。


 反応記録。


 共有。


 再試行。


 カリンの顔から、冗談めいた表情が消えた。


「アリスちゃんとは、全然違うね」


 声は、先ほどより静かだった。


「君、誰にも名前を呼ばれてないでしょ」


 黒服の残った腕が動いた。


 停止したふり。


 カリンは即座に首を傾ける。刃が頬を掠め、薄く皮膚を切った。赤い血が一筋流れる。


 カリンは目を細めた。


「なるほど。学習するんだ」


 黒服の背後、路地の入り口に影が二つ現れた。


 二体目。


 三体目。


 同型の黒服機械人形。


 カリンは頬の血を指で拭った。


 指先の赤を見て、笑う。


「一体目でボクの動きを見て、二体目で香を分析して、三体目で攻撃パターン共有?」


 黒服たちは答えない。


 だが、目の奥に微かな光が走った。


 視覚情報を共有している。


 カリンの薔薇の香は、通常の人間や妖物相手なら有効だ。興奮を抑え、判断を鈍らせ、幻覚を誘い、時に自白を促す。だが、この機械人形たちは香の成分を分析し、吸気量を絞り、必要なセンサーだけで動いている。


 可愛げがない。


 カリンは心底嫌そうに言った。


「機械って、ほんと空気読まないよねぇ」


 右から一体。


 左から一体。


 正面の損傷機体が、膝を壊されたまま地面を這ってくる。


 カリンは後退した。


 狭い路地で三体相手は不利だ。大鎌を振るう空間も限られる。人通りの少ない場所へ誘導したのは正解だが、閉じ込められるのはまずい。


 なら、動く。


 カリンは非常階段へ跳んだ。


 壁を蹴り、手すりを踏み、二階、三階、四階へ一気に上がる。黒服たちも追う。人間の形をしたものが、壁面を虫のように這い上がってくる光景は、昼の帝都にはひどく似合わない。


 カリンは非常階段の踊り場から隣のビル屋上へ跳び移った。


 その途中で、下の路地に止まっていた大型バイクが目に入る。


 配送業者のものではない。黒い車体。魔導エンジン搭載。盗難防止の結界タグ付き。持ち主はおそらく、東タワーの裏テナントの誰かだ。


 カリンは空中で考えた。


 借りよう。


 返せるかはわからない。


 着地と同時に、屋上から反対側の非常階段へ滑り降りる。黒服たちが追ってくるより早く、カリンは地上へ戻り、バイクの前に立った。


 結界タグが警告音を発する。


『所有者認証を確認できません。盗難防止結界を起動します』


「ごめんねぇ、緊急事態」


 カリンは香の小瓶を一滴、タグに落とした。


 薔薇の香りがふわりと広がる。


 魔導タグの警告音が、なぜか少し眠そうに低くなった。


『……所有者……認証……確認……したような気がします……』


「いい子」


 カリンはバイクにまたがり、エンジンを起動した。


 黒服三体が、路地の奥から現れる。


 カリンは笑って手を振った。


「鬼ごっこしよっか」


 アクセルを開く。


 魔導エンジンが吠えた。


     *


 ツインタワー周辺からホウジュ区方面へ向かう高架道路は、昼下がりでも交通量が多い。


 自動運転車両、企業用リムジン、配送トラック、観光バス、個人所有の魔導バイク。道路脇には空中歩道が走り、頭上には魔導広告がいくつも重なっている。女帝ヌルの聖ステラ祭告知、最新型家庭用機械人形の広告、マモンカンパニー系列の警備システム宣伝、ファーストフード店のマギポンキャンペーン。


 その高架道路へ、カリンは大型バイクで飛び出した。


 後方で、黒服の機械人形たちが車道へ降りてくる。


 一体は走る。


 一体は壁を使う。


 一体は車の屋根を踏み台にする。


 悲鳴とクラクションが連鎖した。


 自動運転車両が緊急回避を始める。だが、キリングドールたちは気にしない。進路上の車を蹴り、跳び、時には横転させる。安全膜が展開し、乗客を守る。だが車体は破損し、道路には破片が散る。


 カリンは後ろを見て顔を引きつらせた。


「ちょっと! 一般車両に当たってる!」


 もちろん、答えはない。


 カリンは端末を起動し、シンへ接続した。


「シンくん! 交通整理!」


『君は私を何だと思っている』


「便利な人」


『即答するな』


「後ろの子たち、一般車両を弾き飛ばしてる! このままだと死人出る!」


『すでに交通管制へ偽装緊急命令を流している。三十秒後、前方二キロの一般車両を迂回させる』


「ありがと。料金は?」


『命の値段に比べれば安い』


「シンくんがまともなこと言うと不安になるねぇ」


『私もだ』


 前方の信号が一斉に青から赤へ変わり、誘導表示が切り替わる。一般車両が次々と側道へ流されていく。高架道路の中央車線が空き始めた。


 カリンはさらに加速した。


 風が黒髪を後ろへ流す。ドレスの裾が暴れる。大鎌は片手に出していない。今は両手でハンドルを握る必要がある。追撃戦で大鎌を振るえば、周囲の被害が増える。


 だが、後ろの機械人形は待ってくれない。


 一体が高架道路の側壁を走り、カリンの横へ並んだ。右腕の刃が展開する。カリンはバイクを倒すように傾け、車線を変えた。刃がミラーを斬り落とす。


「借り物なのにぃ!」


 怒るポイントはそこだった。


 カリンは左手でハンドルを握り、右手を軽く振った。


 空間が開き、小型の鎌が出る。


 大鎌ではない。投擲用の短い鎌。彼はそれを横へ投げた。鎌は回転しながら飛び、側壁を走る機械人形の足首へ絡む。魔導ワイヤーが展開し、足を取る。


 黒服が体勢を崩した。


 直後、後続の配送トラックの上へ落ちる。


 トラックの安全膜が展開し、黒服を弾いた。機械人形は空中で回転しながら、道路脇の魔導広告へ突っ込む。広告画面が砕け、巨大なマギポンの顔がノイズ混じりに笑った。


『マギポンだポ――』


 爆発。


 カリンは顔をしかめた。


「マギポン、ごめん」


 残り二体。


 今度は一体が前方の歩道橋へ跳び上がった。


 カリンの進路上だ。


 黒服は歩道橋の手すりに立ち、両腕を広げた。腕部装甲が開く。魔導弾発射管がいくつも覗く。


「それ、ほんとに民間警備用?」


『登録上はな』


「もうその言い訳聞き飽きた!」


 発射。


 青白い弾丸が雨のように降る。


 カリンはバイクを蛇行させた。高架道路の路面に弾丸が刺さり、遅れて小爆発を起こす。衝撃波で車体が揺れる。カリンは歯を食いしばり、歩道橋の真下へ突っ込んだ。


 黒服が飛び降りる。


 上から刃が降ってくる。


 カリンは直前でバイクを横滑りさせた。火花が散る。刃が彼の肩口を掠め、黒いドレスの袖が裂けた。


 カリンの目が据わる。


「また服」


 バイクが体勢を立て直す。


 カリンは片手を離し、空間から大鎌を抜いた。


 走行中のバイクの上で、巨大な鎌を構える。


 無茶だ。


 普通なら転倒する。


 だが、カリンの身体は軽く、重心の移動は舞うように滑らかだった。彼は片足でステップを踏み、車体の傾きと遠心力を利用して大鎌を振るった。


 刃が黒服の胸を裂く。


 制御核に届く寸前で止める。


 黒服は後方へ吹き飛び、路面を転がった。そこへ、三体目が跳びかかる。


 三体目はさっきの二体より速かった。


 学習している。


 カリンの鎌の軌道を読んでいる。


 大鎌を引き戻すより早く、三体目の刃がカリンの首へ迫る。


 カリンは笑った。


「読めると思った?」


 大鎌を捨てる。


 いや、消す。


 刃が空間へ飲まれた瞬間、機械人形の予測が空振りする。カリンは車体の上で身を低くし、黒服の懐へ滑り込んだ。右手に、今度は短いナイフのような小鎌。


 首裏。


 制御補助線。


 一閃。


 黒服の身体が硬直する。


 カリンはその胸を蹴り、道路脇へ弾き飛ばした。


 三体目は高架の柵を越え、下の工事用足場へ落ちた。爆発はしない。壊れ切ってもいないだろう。だが、しばらくは動けない。


 カリンはバイクのハンドルを握り直した。


 息が上がっている。


 笑ってはいる。


 だが、本気で焦ってもいた。


「こんなの、清掃会社の労災で落ちるかなぁ!?」


『その場合、申請書の職務内容欄には何と書くつもりだ』


「外壁清掃後、違法機械人形三体に追われて高架道路で戦闘」


『却下だな』


「ひどい!」


『正直に書くな。せめて転倒にしておけ』


「転倒でドレス三ヶ所裂ける?」


『君ならあり得る』


「シンくん、あとで一発殴る」


 シンの返事はない。


 代わりに、通信に警告音が入った。


『カリン。まだ終わっていない』


「知ってる。何体?」


『信号は消えた。だが、共有回線に残滓がある。少なくとも、もう一体が別経路で動いている』


「場所は?」


『追っている。だが、隠蔽が強い』


「マモン、嫌いになりそう」


『今までは好きだったのか?』


「もともと嫌い」


 カリンはバイクをホウジュ区方面へ走らせた。


     *


 ホウジュ区に入ると、空気が少し変わる。


 ツインタワー周辺の硬いガラスと金属の匂いが薄れ、古い商店街、雑居ビル、飲食店、骨董屋、魔導具店、裏路地の屋台、夜になると開く怪しい店々の気配が混ざってくる。帝都の中でも、ホウジュ区は日常と裏社会の境界が近い場所だった。


 カリンは高架を降り、細い道へ入った。


 追撃反応はない。


 黒服たちは撒いた。


 少なくとも、今は。


 借りた大型バイクは、ミラーが片方なく、車体の側面に焦げ跡があり、シートにも傷がついている。持ち主には悪いが、返す時に何かしら説明を考える必要がある。いや、シンに請求先をマモンカンパニーへ偽装してもらえばいい。


 カリンはそんなことを考えながら、ふと見慣れた通りへ出た。


 そこに、小さな雑貨店がある。


 夜には少し早い時間だが、店の表の看板は半分閉じかけていた。古びた木の扉。窓辺に並ぶ妙な置物。使い道のわからない魔導具。誰が買うのかわからない骨董品。入口横には、ハルナが書いたと思われる手書きの札がある。


『本日、店長が眠そうなので早めに閉めるかもしれません』


 シグレの店だった。


 カリンはバイクを少し離れた場所に止めた。


 胸の奥が、ふっと緩む。


 兄さま。


 そう呼びたくなる。


 シグレは本編の事件を越えた後も、相変わらず眠たげで、面倒くさがりで、でも誰かが傷つくと放っておけない。カリンにとっては憧れで、帰る場所で、自分がトラブルシューターになった理由の一つでもある。


 今、店に入れば、シグレはたぶん嫌そうな顔をする。


「はぁ……また面倒なことになってるねぇ」


 そんな声が、簡単に想像できた。


 ハルナはきっと怒る。


「カリンさん、また服ボロボロじゃないですか! 店に血を落とさないでください!」


 それも、少しだけ聞きたかった。


 カリンは端末を取り出した。


 シグレの名前が表示される。


 指が、通話ボタンの上で止まる。


 黒服の機械人形。マモンカンパニー。名前を喰う絵。反逆者ではないと叫ぶ声。確かに面倒だ。危険だ。シグレに相談すれば、彼はたぶん動いてくれる。面倒だと言いながら、結局はついてきてくれる。


 だから、今は押さない。


「兄さまに頼るほどじゃない」


 カリンは小さく呟いた。


 少し間を置いて、笑う。


「……まだ、ね」


 端末を閉じる。


 その瞬間、空が鳴った。


 風切り音。


 上から何かが落ちてくる。


 カリンは反射的にバイクから飛び退いた。


 次の瞬間、道路に黒い影が落下した。


 舗装が砕ける。


 衝撃でバイクが横倒しになり、近くの自販機が警告音を鳴らす。通りの向こうで数人の歩行者が悲鳴を上げた。雑貨店の窓が震え、中の置物がいくつか倒れる音がした。


 落ちてきたのは、四体目のキリングドールだった。


 黒服。


 男型。


 無表情。


 だが、今までの個体とは少し違った。


 胸部に追加装甲。背面に展開式の制動翼。両腕には刃と銃身の複合兵装。脚部には壁面走行用の爪。顔は同じなのに、目の奥の光がより冷たく、より鋭い。


 学習した個体。


 カリンは舌打ちした。


「また来た」


 黒服はカリンを見ていなかった。


 その視線は、通りの奥へ向いている。


 カリンの自宅がある方向。


 彼の衣装、香、大鎌、予備装備、仕事用の記録、表の清掃員としての生活と裏の氷の花としての生活が、ごちゃ混ぜに詰まった場所。


 カリンは一瞬で理解した。


 こいつは自分を殺しに来たのではない。


 自分の帰る場所を潰しに来た。


 あるいは、自分の名前を支えているものを壊しに来た。


 黒服が跳んだ。


 カリンの自宅方面へ。


 カリンは倒れたバイクを蹴り起こし、無理やりエンジンをかけた。傷だらけの車体が唸る。


「服、取りに帰りたいだけなのにぃ」


 声は甘い。


 だが、その目はもう笑っていなかった。


 カリンはアクセルを全開にした。


 黒い花が、ホウジュ区の夕暮れへ駆け出した。

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