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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
2/12

第2話 ツインタワーの窓辺

 朝になっても、帝都エデンの空は完全には明るくならない。


 太陽は昇る。雲の切れ目から光は落ちる。ホウジュ区のビル街にも、ミナト区の倉庫群にも、カミハラ区の研究棟群にも、平等に朝は来る。だが、帝都の空にはいつも、魔導炉の薄い粒子光が滲んでいた。透明な蛇が都市全体を巻いているように、ヨムルンガルド結界の外縁が高層ビルの上で淡く揺れている。市民の多くはそれを気にしない。空気に色があることも、夜中に夢殿の光が雲を染めることも、死都東京方面の空だけが少し暗いことも、帝都で生まれた世代にとっては日常だった。


 ホウジュ区の中心にそびえるツインタワーもまた、そんな帝都の日常を象徴する建物だった。


 二本の塔は、まるで都市の表と裏をそのまま縦に伸ばしたように並んでいる。西タワーは一般商業施設。巨大な吹き抜け、百貨店、服飾店、魔導家電売場、映画館、展望レストラン、子ども向けの女帝ヌル記念ショップ。休日ともなれば家族連れと観光客で溢れ、館内放送は季節限定スイーツと魔導玩具の宣伝を繰り返す。白く磨かれた床には昼の光が反射し、空中庭園には人工の小鳥型ドローンが飛び、店員たちは笑顔で客を迎える。


 その隣に立つ東タワーは、少し違う。


 外見は西タワーと同じだ。鏡のようなガラス外壁。空へ伸びる細いシルエット。空中連絡通路で西タワーと接続され、地下では商業フロアともつながっている。観光案内パンフレットには「ビジネスオフィス棟」と書かれている。実際、弁護士事務所、企業コンサル、魔導保険会社、警備会社、研究機関の出張窓口なども入っている。


 だが、帝都の夜を知る者は、東タワーを別の名前で呼ぶ。


 裏社会の縦穴。


 合法と違法の境界線。


 表通りから空中連絡通路一本で渡れる、帝都の深い場所。


 そんなツインタワー西タワーの外壁、地上百八十メートルの高さに、カリンはいた。


「はぁい、危ないですから窓から身を乗り出さないでくださいねぇ」


 安全ワイヤーに吊られた外壁清掃用ゴンドラの上で、カリンはにこやかに手を振った。


 白い清掃会社の制服。胸には清掃業者のロゴ。腰には安全ベルト。足元には洗浄液のタンクと魔導ワイパー。髪は仕事用に緩く結ばれており、夜の黒いドレス姿とはまるで違う。だが、制服姿でも彼の美貌は隠れなかった。むしろ清潔な白い作業服が、陶器のような肌と黒髪を際立たせている。


 西タワー二十七階、展望カフェの窓際には、すでに人だかりができていた。


「来た! カリンくん来た!」


「今日、こっち側の外壁清掃だって!」


「やば、近い、近い!」


「手振って! 手振ってくれた!」


「待って、動画撮っていいの? 怒られる?」


「店員さん、あの子いつまでいますか!?」


 悲鳴のような歓声が、分厚い強化ガラス越しにも聞こえてくる。


 カリンは魔導ワイパーで窓を拭きながら、営業スマイルを崩さずにもう一度手を振った。


 窓の向こうで、女子高生らしい二人組が顔を真っ赤にしてしゃがみ込む。隣のテーブルでは、年配の女性が胸を押さえながら「尊い」と呟いていた。男性客の何人かも、見てはいけないものを見てしまったような顔でカリンを見上げている。カフェのスタッフは慣れているらしく、窓際に集まる客へ「通路を塞がないでください」と淡々と声をかけていた。


 カリンは心の中でぼやいた。


 ボク、掃除してるんだけどなぁ。


 もちろん、嫌ではない。


 注目されることに慣れている。見られることも、可愛いと言われることも、美しいと言われることも、彼にとっては日常の一部だ。女装をしていなくても、清掃員の制服でも、血に濡れていなくても、カリンは人の視線を集める。帝都の裏社会で「氷の花」と呼ばれる彼は、昼のツインタワーでは「窓辺の天使」と呼ばれていた。


 ただ、問題は、これが清掃業務だということだった。


 窓は汚れる。雨粒の跡、排気粒子、魔導広告の微細なインク、鳥型ドローンの羽ばたきで付着した油膜。高層階の外壁清掃は危険で、手間がかかり、意外と繊細な仕事だ。だというのに、西タワー管理部はいつの間にか、カリンの外壁清掃日を館内イベントのように扱い始めていた。


 今日も、館内案内アプリの通知にこう出ていたらしい。


『本日十二時より、西タワー南面外壁清掃を実施します。安全確保のため窓際では係員の指示に従ってください』


 それ自体は普通だ。


 問題は、その下に小さく添えられていた文面だった。


『担当作業員:カリン』


 担当作業員の名前を告知する必要がどこにあるのか。


 カリンは営業スマイルのまま、魔導ワイパーを動かす。


 ワイパーがガラスに触れるたび、薄い魔導膜が汚れを浮かせ、水滴が細かな光になって弾けた。高所を吹き抜ける風が、白い制服の裾を揺らす。足元のずっと下には、人と車と配送ドローンが蟻のように動いている。少し遠くにはホウジュ区の高層群。そのさらに向こうに、ミヤ区の夢殿の尖塔が見えた。


 あの夜から、まだ半日も経っていない。


 帝都美術館地下封印庫から『反逆者』が消えた。


 名前を喰われた男をマフィアへ引き渡した。


 男の影が翼になり、彼ではない声で言った。


 私は反逆者ではない。


 カリンはワイパーを止めそうになった。


 慌てて手を動かす。


 今は仕事中だ。表の仕事。ちゃんと窓を拭く。汚れを残すと主任に怒られる。主任はカリンが裏で何をしているか薄々知っているくせに、清掃の仕上がりにはやたら厳しい。曰く、「裏の仕事は知らないけど、こっちの仕事で手を抜いたら許さないよ」。帝都の清掃員は強い。


 カリンは二十七階の窓を磨き終えると、ゴンドラを少し下げた。


 窓の向こうで、幼い少女が母親に抱き上げられて手を振っている。


 カリンは笑顔で手を振り返した。


 少女はきらきらした目で叫んだ。


「おねえちゃん、かわいい!」


 母親が慌てて少女の口を塞ぐ。


「あっ、ご、ごめんなさい、あの、男の子……? えっと……」


 ガラス越しなので声は曖昧だが、口の動きでだいたいわかる。


 カリンは笑った。


 男の子でも女の子でも、今の彼女にとっては大きな問題ではない。少なくとも、この昼の窓辺では。


 彼は指先で投げキスをした。


 少女が大喜びし、母親が赤くなり、近くにいたカップルの男性がなぜか目を逸らす。


「カリンちゃーん!」


 下の階から声がした。


 ゴンドラが二十五階付近まで降りると、窓の内側に清掃会社の先輩女性たちが集まっていた。カリンが「おばちゃんたち」と呼んでいる、強く、明るく、噂好きで、帝都のちょっとした怪異よりよほど頼もしい人々である。


「休憩だよ、休憩!」


「水分取んな! 熱中症になるからね!」


「今日もすごい人だかりだったわよ。管理部、絶対これ狙ってるわね」


「カリンちゃん、こっち向いて! あ、だめだめ、仕事中に写真はまずいわね。でも記念に一枚だけ」


「主任に怒られるよぉ」


 カリンは苦笑しながら、ゴンドラを専用のメンテナンススペースへ戻した。


 西タワー二十五階の外壁清掃用デッキ。一般客は入れないが、館内の明るさと空調の快適さはそのままだ。カリンが安全ベルトを外すと、先輩女性の一人がすぐに冷えたスポーツドリンクを差し出した。


「はい、飲みな」


「ありがと、ミツエさん」


「顔色いいわね。昨日、ちゃんと寝た?」


「寝たよぉ」


 嘘だった。


 昨夜は寝ていない。帝都美術館、裏路地、ミナト区の礼拝堂、その後のシンとの追加確認。帰宅したのは夜明け前で、シャワーを浴びて制服へ着替え、そのまま出勤した。肌の調子がよく見えるのは、魔導化粧と体力回復香のおかげだ。


 だが、そんなことを言えばミツエに叱られる。


 案の定、ミツエはカリンの目元をじっと見た。


「嘘ついてる顔だね」


「えー、ひどい」


「あたしら、何年この仕事やってると思ってるの。疲れてる作業員の顔くらいわかるわよ」


「ボク、可愛いから疲れてても目立たないんだよ」


「そういうこと言う元気があるなら大丈夫かね」


 ミツエは呆れながら、カリンの汗を拭くためのタオルを差し出した。


 カリンはそれを受け取り、額と首筋を軽く拭いた。白いタオルに、ほんの少し薔薇の香りが移る。


 その瞬間、背後にいた別の先輩が、何気ない動作でそのタオルを回収しようとした。


 カリンは笑顔のまま、ひょいとタオルをかわした。


「だめ」


「ちっ」


「今、舌打ちしたよね?」


「してないしてない」


「使い終わったタオルは洗濯袋へ。個人保管は禁止でーす」


「カリンちゃんが使ったやつは御利益ありそうなのに」


「ないよぉ。洗わないと雑菌が湧くだけ」


 別の女性が、今度はカリンの飲み終えた紙コップへ手を伸ばす。


 カリンはすぐに紙コップを潰し、近くの分別ゴミ箱へ投げ入れた。紙コップは綺麗な放物線を描き、可燃表示の魔導蓋へ吸い込まれる。


「はい、処分完了」


「あー!」


「回収しないでね。前にボクの紙コップがロッカーに飾られてた時、さすがに怖かったんだから」


「あれは違うのよ、魔除け」


「ボクの唇ついた紙コップを魔除けにしないで」


 デッキ内に笑いが起きる。


 カリンも笑った。


 昨夜、男の名前が身分証から消えた時とは別人のような笑顔だった。のほほんとしていて、少し抜けていて、愛嬌がある。清掃員たちに囲まれている彼は、裏路地で男の喉元に大鎌を添えていた「氷の花」ではない。


 けれど、完全に別人でもない。


 カリンはどちらもカリンだった。


 可愛く手を振る清掃員も、薔薇の香で尋問するトラブルシューターも、シグレを兄さまと呼んで甘える弟分も、黒いドレスで夜の帝都を歩く男も、その境界のすべてを彼は自分のものとして持っている。


「そういえばさ」


 ミツエが声を潜めた。


「昨日の夜、帝都美術館の方で何かあったって本当?」


 カリンはスポーツドリンクを飲む手を止めた。


 先輩女性たちの目が、一斉にこちらを向く。


 清掃員の情報網は侮れない。ビルの裏、バックヤード、搬入口、職員通路、休憩室。公式発表より早く、街の空気の変化を掴むのは、しばしばこういう人々だ。


「何かって?」


「夜間封鎖がかかったって。美術館関係の清掃業者が今朝、急に出入り禁止になったらしいよ」


「警備員が一人消えたって話もあるわ」


「でも、そんな人は最初からいなかったって言う人もいるのよ。気味悪いったらないわねぇ」


「女帝様の収蔵品に何かあったんじゃないかって」


 ミツエたちは噂話の口調をしているが、その奥には不安があった。


 帝都の市民は、怪異に慣れている。


 慣れているだけで、怖くないわけではない。


 カリンは笑った。


「ボク、ただの清掃員だよぉ。美術館の地下のことなんて知らない」


「その『ただの清掃員』が、一番いろいろ知ってそうな顔してるんだよねぇ」


「ミツエさん、ドラマ見すぎ」


「あんたの人生の方がドラマより派手だわ」


「えー、平凡なのに」


 全員が同時に「どこが」と言った。


 カリンはくすくす笑った。


 だが、胸の奥では、あの声がまだ残っている。


 私は反逆者ではない。


 もし、清掃員たちの噂がすでにここまで来ているなら、帝都の裏社会にはもっと早く広まっている。美術館の封印庫。消えた警備員。女帝所有の危険美術品。マフィアの下っ端。マモンカンパニーの名。すべてが半日も経たないうちに、都市のどこかで別の意味を持ち始める。


 カリンは空になったスポーツドリンクのボトルをゴミ箱へ入れた。


「午後の分、終わらせたら上がっていい?」


 ミツエが眉を上げる。


「また裏の仕事?」


「やだなぁ。おしゃれしてお出かけ」


「その言い方の時は、だいたい危ないんだよ」


「大丈夫。ボク、可愛いから」


「それでどうにかなる世界なら、帝都警察はいらないわ」


 カリンは笑いながら、再び安全ベルトを装着した。


     *


 午後三時を過ぎる頃、ツインタワー西タワーの外壁は、南面から東面にかけて見事に磨き上げられていた。


 ガラスには雲が映り、空中交通路を行き交う車両が銀色の魚のように流れていく。魔導広告の色も昼の光では柔らかく、夜の毒々しさはない。西タワーの空中庭園では、観光客たちが記念撮影をし、子ども向けの女帝ヌル人形が自動音声で「帝都の民よ、今日も健やかに」と言っている。あまりにも可愛い声なので、本物の女帝を知る者が聞けば顔を引きつらせるかもしれない。


 カリンは清掃員用更衣室に戻った。


 白い制服を脱ぐ。汗を拭き、顔を整え、髪をほどく。ロッカーの中には、仕事用の替え制服、清掃用手袋、香の小瓶、非常用の短刃、そして黒い衣装が収められていた。


 今日選んだのは、黒のゴスロリだった。


 胸元は控えめに詰まり、袖口には白いレース。スカートは動きやすい丈だが、膝上で揺れるたびに薄い布が花弁のように重なる。足元は黒い編み上げブーツ。腰には細いベルト。手袋は黒。首元には小さな銀の薔薇飾り。


 鏡の前で、カリンはリボンの位置を直した。


 清掃員のカリンが消え、氷の花カリンが戻ってくる。


 だが、彼は別人に変わるわけではない。


 服を替えただけ。


 姿を選び直しただけ。


「よし。今日も可愛い」


 自分でそう言って、満足げに頷く。


 更衣室を出ると、清掃会社の主任と鉢合わせた。


 五十代の女性で、鋭い目をした人だった。ツインタワー西タワーの清掃を仕切る彼女は、汚れ、サボり、危険行為、そしてカリンの妙な副業に対して、すべて同じくらい厳しい。


 主任はカリンの服装を上から下まで見た。


「その格好で東へ行くのかい」


「うん。お出かけ」


「血をつけて帰ってくるんじゃないよ。前に洗面台で手袋洗ってたろ」


「あれはケチャップ」


「ケチャップが魔導検査で陽性出るか」


「帝都のケチャップ、進化してるから」


「舐めたこと言うんじゃないよ」


 主任はため息をつき、カリンの胸元に清掃会社の予備バッジを軽く押し当てた。


「何かあったら、西タワーの清掃員としてじゃなく、個人でやりな」


「わかってるよぉ」


「それと」


「うん?」


「外壁、今日は綺麗だった。二十七階の南面、拭き残しなし」


 カリンはぱっと笑った。


「ほんと?」


「仕事は褒めてやる。ほら、行きな。東は空気が悪いから、長居するんじゃないよ」


「はぁい」


 カリンは手を振って、従業員通路から一般フロアへ出た。


 西タワー三十五階。


 高級ブランド店と展望ラウンジのあるフロアだ。清掃員姿ではなく黒いドレス姿で現れたカリンに、通行人の視線が一斉に集まる。午前中に外壁清掃を見ていた客の何人かは、すぐに気づいたらしい。


「あれ、さっきの窓の……」


「え、私服? かわい……」


「男の子なの? 女の子なの?」


「どっちでもよくない? 顔が強い」


 カリンは聞こえないふりをした。


 実際、どちらでもよかった。


 自分が男か女か、どちらに見えるか、どう呼ばれるか。そういう視線に全く傷つかないわけではない。苛立つ日もある。面倒な日もある。踏み込みすぎる相手には容赦しない。けれど、少なくとも今、通行人の軽いざわめき程度に足を止める気はなかった。


 彼は西タワーの中央吹き抜けを横切り、空中連絡通路へ向かった。


 西タワーと東タワーを結ぶその通路は、全面ガラス張りだった。床も一部が透明になっており、下には地上百メートル以上の空間が見える。観光客に人気の場所で、昼間はよく写真撮影が行われる。西タワー側には花屋、カフェ、女帝グッズの小さな売店が並び、子ども連れの家族や買い物客が行き交っている。


 だが、通路を半分渡ったあたりで、空気が変わる。


 ガラスの向こうに見える景色は同じだ。帝都の高層群。空中車両。魔導広告。遠くの夢殿。けれど、東タワー側へ近づくにつれ、床の輝きは少し落ち、壁の広告は実用的になり、行き交う人間の目つきが変わっていく。


 西タワーでは、買い物袋を持った客が歩く。


 東タワーでは、書類ケースを抱えた弁護士、義手の整備士、黒服の男たち、顔を伏せた依頼人、目だけ笑っていない受付嬢、やたら高級な杖をついた老人、全身をローブで隠した魔導士が歩く。


 空中連絡通路一本。


 それだけで、帝都の表と裏がつながっている。


 カリンは、その境界を当然のように渡った。


 東タワーのエントランスは、西タワーより静かだった。


 天井は高く、床は黒い石材で磨かれ、受付カウンターには無表情な女性型機械人形が座っている。壁の案内板には、一般企業の名前に混じって、妙なテナント名がいくつも並んでいた。


 魔導具鑑定事務所。


 帝都特殊債権回収相談室。


 賞金首仲介組合ホウジュ支部。


 合法魔導兵装取扱店。


 境界事故専門法律事務所。


 失踪者調査室。


 古物商パンデモニウム東塔出張所。


 それから、階数だけが表示され、社名のないフロア。


 カリンがエレベーターホールへ向かうと、周囲の視線が少し変わった。


 西タワーでの視線は、好奇心や好意が多かった。可愛い、綺麗、写真を撮りたい、手を振ってほしい。そんな無害な熱。


 東タワーでの視線は違う。


 値踏み。警戒。好奇。恐怖。欲望。敵意。


 その中に、認識の色が混じる。


 氷の花。


 誰かが小さく呟いた。


 それだけで、道が少し空いた。


 カリンは気づかないふりをして、エレベーターに乗った。


 東タワーのエレベーターは、一般客用とは違う。階数ボタンがすべて表示されているわけではなく、認証タグによって行き先が変わる。カリンが黒い端末をかざすと、表示に「46」が現れた。


 四十六階。


 情報屋シンのオフィスがある階。


 扉が閉まる直前、黒いスーツの男が乗り込もうとした。


 カリンはにこりと笑った。


 男は一瞬固まった。


 次に、表示された行き先を見て顔色を変えた。


「あ、いえ、次で」


 男は乗るのをやめた。


 扉が閉まる。


 カリンは小さく笑った。


「失礼しちゃうなぁ」


 怖がられるのは慣れている。


 けれど、可愛い格好をしている時に怖がられると、少しだけ不満だった。


     *


 東タワー四十六階は、窓が少ない。


 高層階であるにもかかわらず、外の光はほとんど入らない。廊下は薄暗く、壁には古い配線と新しい魔導回路が不規則に走り、ところどころに監視カメラとも魔導眼ともつかないものが埋め込まれている。西タワーの展望フロアが観光客のための空間だとすれば、こちらは都市の胃袋のようだった。飲み込んだ情報を、ゆっくり溶かしている。


 カリンは一番奥の扉の前で立ち止まった。


 プレートには何も書かれていない。


 代わりに、小さな手書きの紙が貼られていた。


『ノック不要。料金前払い。差し入れ歓迎。爆発物不可。カリンの請求書は応相談』


 カリンは眉をひそめた。


「最後の何?」


 扉は勝手に開いた。


 中は、相変わらず混沌としていた。


 部屋の中心に巨大な椅子がある。その椅子には、痩せた青年がだらしなく座っていた。黒髪はぼさぼさ。目の下には隈。片手にはエナジードリンク、もう片方の手には古いゲーム機。頭部と首筋と両腕には無数の細いコードが接続され、床から壁、天井まで伸びる端末群と彼の身体をつないでいる。


 部屋中にモニターがあった。


 帝都の交通情報。裏社会の噂掲示板。帝都警察の公開データ。非公開と思われる監視映像。ツインタワー館内マップ。ミナト区の倉庫リスト。帝都美術館の封印収蔵庫ログ。意味不明な動画広告。なぜか流れている子ども向け料理番組。画面の一つでは、かぼちゃ頭の男が真剣な顔で都市財政について演説している。


 カリンは部屋に入るなり、モニターの一つを指さした。


「シンくん。かぼちゃ男爵、また出てる」


 椅子の青年――シンは、ゲーム機から目を離さずに言った。


「彼は男爵ではない。現在は公爵位を自称している」


「どうでもいいよぉ」


「情報の正確性は大事だ」


「じゃあ、請求書の正確性も大事だよね。昨日の通信、変な動画見せられた分、割引して」


「情報屋の鑑賞環境に対する不当な干渉だ。むしろ精神的損害を請求する」


「ボクが?」


「私が」


「シンくん、たまに本気で殴りたくなる」


「君の場合、たまにではないだろう」


 カリンはソファに腰を下ろした。


 ソファと言っても、資料とケーブルと古い魔導端末の山を横へ押しのけて、ようやく座れる程度の場所だった。カリンは座る前にハンカチを敷き、スカートの裾が床に触れないよう気をつける。


 シンは横目でそれを見た。


「その格好でここに来ると、床の汚さが際立つな」


「掃除してあげようか?」


「清掃料金は?」


「シンくんへの迷惑料込みで高め」


「では汚いままでいい」


「最低」


 軽口を交わしながらも、部屋の空気は重かった。


 モニターの多くが、帝都美術館関連のデータを映している。地下封印庫の見取り図。収蔵番号EM-SOL-1321。『反逆者』の過去画像。空になった額縁。名前を失った警備員の映像。マフィアの下っ端の移動履歴。ミナト区の搬送車両。


 カリンは笑みを消した。


「で、どう?」


 シンはゲーム機を机に置いた。


 その瞬間、彼の目つきが変わった。


 普段の奇人じみた軽さが消え、情報屋の顔になる。帝都中のデータを見て、繋げ、疑い、値段をつける男の顔だ。


「結論から言う。『反逆者』は帝都美術館の収蔵品ではない」


「じゃあ、何?」


「夢殿関連の封印記録物だ。美術館に預けられていたのは、展示でも保管でもない。偽装だな」


 シンが指を動かすと、モニターの一つに古い登録画面が開いた。


『EM-SOL-1321』

『外装分類:宗教画』

『表題:反逆者』

『一般危険度:非公開』

『実分類:ソエル由来人格記録媒体』

『封印階層:第七層』

『閲覧権限:夢殿管理局、女帝政府特別封印課、委託管理者』


 カリンは目を細めた。


「ソエル由来人格記録媒体って、言い方がすでに嫌なんだけど」


「嫌で済めば安い。人間の言葉にすると、天界由来存在の人格、魂、記録、残響、そういったものを絵画形式で封じた媒体だ」


「つまり、絵の中に天使がいるってこと?」


「天使と呼ぶならな。帝都では、神も天使も悪魔も堕天使も、だいたい人類側の雑な分類だ。向こうからすれば、こちらのラベルなど知ったことではないだろう」


「反逆者って題名も?」


「おそらくはラベルだ」


 カリンの脳裏に、昨夜の声が蘇る。


 私は反逆者ではない。


「旧記録では、封印者はヨハン・ファウスト」


 シンが続けた。


「ファウスト?」


「旧時代の大魔導士。史実、伝説、偽史、民間伝承、魔導論文、詐欺師の広告、すべてに名前が出てくる面倒な男だ。本人がどこまで実在したかはともかく、『ファウスト式封印術』は現存する」


「絵を封じたのが、そのファウスト?」


「記録上はそうなっている。ただし、現物の封印式は後世に何度も上書きされている。夢殿、女帝政府、古い魔導師組合、帝都美術館、外部委託企業。封印の上に封印を貼り、記録の上に記録を載せた結果、何が原型かわからない」


「雑」


「帝都の管理体制を一言で表すなら、それだな」


 シンは別の画面を開いた。


 複数の企業名が並んでいる。


 その中の一つに、カリンは見覚えのある名前を見つけた。


 マモンカンパニー。


「出た」


「現在の封印管理者は帝都政府だが、実務の一部は外部企業へ委託されていた。結界点検、額縁の魔導膜補修、温度管理、記録層安定化、輸送保険、警備システム更新。委託先は複数あるが、そのうち一つがマモンカンパニー系列の子会社だ」


「子会社?」


「正式名はマモン・アートセキュリティ。美術品専門警備会社。表向きは文化財保護に熱心な優良企業。裏では封印物の情報を抜いていた疑いがある」


「疑いっていうか、真っ黒じゃん」


「黒にも濃淡がある。今回はかなり濃い」


 カリンはソファの背に寄りかかり、天井を見上げた。


 部屋の天井にもモニターが貼られている。そこには帝都美術館の地下映像が流れていた。名前を失った警備員が、額縁の前で立ち尽くしている。映像のタイムスタンプはある。警備員の輪郭もある。だが、識別情報だけが空白だった。


「その警備員、まだ見つからないの?」


「見つかっていない。映像にはいる。だが、職員一覧にはいない。美術館の同僚に聞くと、『そんな人はいた気がする』と答える者もいれば、『知らない』と答える者もいる。記憶まで削れている可能性がある」


「名前って、そんなに簡単に消えるもの?」


「帝都では、名前は個人情報であり、魔導識別子であり、社会的接続点であり、魂に紐づくタグでもある。普通は簡単には消えない。だからこそ危険だ」


 シンはカリンを見た。


「君も気をつけろ」


「ボク?」


「君の名前は目立つ。氷の花、カリン、清掃員、シグレの弟分、その他いろいろ。表も裏もタグが多い。食われる場所が多いとも言える」


「やだなぁ。ボクの名前、まずそうじゃない?」


「むしろ美味そうだろう。見た目的に」


「それ、褒めてる?」


「情報屋としての客観的評価だ」


「じゃあ請求書から差し引いとくね」


「なぜだ」


 カリンは笑った。


 しかし、その笑みは少しだけ硬かった。


 名前を喰う絵。


 記録から人を消す媒体。


 ソエル由来の人格記録。


 女帝政府の偽装保管。


 マモンカンパニー系列の委託管理。


 どれも面倒だ。どれも嫌な匂いがする。


 そして、その中心にある天使は言った。


 私は反逆者ではない。


 カリンはぽつりと言った。


「ねぇ、シンくん」


「何だ」


「反逆者って、何をしたら反逆者になるの?」


 シンは少しだけ意外そうに見た。


「哲学か?」


「違うよぉ。仕事の話」


「支配者に逆らえば反逆者だ」


「でも、支配者が勝手にそう呼んだだけかもしれないじゃん」


「その場合でも、記録上は反逆者になる」


「嫌だね」


「帝都はそういう街だ。呼ばれた名が、本人より長く残ることがある」


 カリンは黙った。


 それが嫌だと思った。


 理由はうまく言葉にならない。だが、嫌だった。誰かに勝手に名前をつけられること。勝手に役割を決められること。男だ、女だ、美しい、危険だ、弟分だ、氷の花だ。そうした言葉を、彼は時に利用し、時に笑い飛ばし、時に鎌で切り捨ててきた。


 だが、絵の中に閉じ込められた存在はどうだろう。


 反逆者。


 そう描かれたまま、どれだけの時間を封じられていたのか。


 シンがキーボードを叩いた。


 複数の映像が切り替わる。


「盗難の手口だが、不自然な点が多すぎる」


「うん」


「まず、下っ端マフィアが封印庫へ入れるはずがない。魔導鍵、認証文、夢殿管理局の承認、時間帯、警備システムの停止。それらが揃って初めて扉が開く」


「でも開いた」


「誰かが開けた」


「マモン?」


「可能性は高い。だが、マモンだけでは足りない。外部企業が触れる範囲は封印の外縁までだ。収蔵庫の最奥へアクセスするには、美術館内部、委託警備、夢殿側の管理ログ、あるいは絵そのものの干渉が必要になる」


「犯人多くない?」


「だから言っただろう」


 シンは薄く笑った。


「犯人を一人にしたがるのは、探偵小説の悪い癖だ。この街では、犯人は組織で、動機は予算で、凶器は契約書だ」


 カリンは嫌そうな顔をした。


「やだなぁ。殴りにくい」


「君は何でも殴る方向へ持っていくな」


「斬るより平和でしょ?」


「その比較で平和を語るな」


 軽口の途中で、シンの表情が変わった。


 モニターの一つが赤く点滅する。


 カリンもすぐに気づいた。


「何?」


「昨夜の運び屋の居場所がわかった」


「お。さすがシンくん。料金ちょっとだけ払ってあげる」


「全額払え」


「場所は?」


「ミナト区ではない。ホウジュ区南端、海沿いの住宅街。偽名で借りたアパートに潜伏している。女が一人同居。君が昨夜捕まえた男とは別だ。実際に絵を封印庫から出した男の可能性が高い」


「じゃあ、そっちが本命?」


「本命の下っ端だな」


「下っ端ばっかり」


「上は表に出ないから上なんだ」


 カリンは立ち上がった。


 スカートの裾を整え、手袋をはめ直す。


「行ってくる」


「待て」


 シンの声が硬くなった。


 カリンは扉へ向かいかけた足を止める。


「何?」


「妙な信号がある」


 モニターの一つに、ツインタワー周辺の立体地図が表示された。西タワー、東タワー、空中連絡通路、周辺道路、地下搬入口。そこに、一つの赤い点が点滅している。


「それ、何?」


「マモンカンパニー製の旧式戦闘機械人形。民間警備用として登録されていたが、十年前に廃棄済みになっている型だ」


「廃棄済みが歩いてるの?」


「帝都ではよくある」


「嫌なあるあるだね」


「信号は短い。隠蔽がかかっている。だが、さっき一瞬だけ東タワーの外部監視網に引っかかった」


「場所は?」


 シンは地図を拡大した。


 赤い点は、東タワーの外壁近くにあった。


 カリンは眉をひそめる。


「外?」


「外だ」


「何階?」


「四十六階」


 部屋の空気が止まった。


 カリンはゆっくりと窓の方を見た。


 シンのオフィスには大きな窓はない。だが、部屋の奥、資料棚の裏に一枚だけ細いガラス窓がある。外の景色を見るためのものではない。換気と非常時脱出経路を兼ねた、縦長の窓だ。


 そこに、何かが映っていた。


 黒いスーツ。


 男の形。


 無表情な顔。


 人間に似ている。だが、人間ではない。顔の造形は整いすぎていて、肌の質感は微妙に均一で、目だけが死んでいる。片手は窓枠にかかり、片手には刃物のように変形した黒い腕部装甲。外壁に足を固定し、地上百八十メートルの高さで、まるで虫のように張り付いている。


 その姿が、ガラスに映っていた。


 カリンはまだ振り返っていない。


 シンも椅子から立っていない。


 黒服の男型機械人形は、音もなく窓の外で顔を上げた。


 死んだ目が、ガラス越しにカリンの背中を見ていた。


 シンが低く言う。


「カリン」


「うん」


「客だ」


 カリンは小さくため息をついた。


 そして、笑った。


「ボク、今日はもう外壁清掃終わったんだけどなぁ」


 窓の外で、黒服の機械人形の腕が振り上げられた。


 次の瞬間、ガラスに細い亀裂が走った。

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