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トラブルシューター夏凛  作者: 秋月キアラ
堕天使の肖像
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第1話 氷の花は夜に咲く

 帝都エデンの夜は、眠らない。


 旧東京が死都となり、神奈川全域が女帝ヌルの支配する魔導科学都市圏へ再編されてから、帝都の夜は人間のものではなくなった。高層ビルの谷間には魔導広告が流れ、空中交通路を無音の車両が滑り、遠くミヤ区の方角では夢殿の光が雲の底を淡く照らしている。都市全体を巡る魔導炉の鼓動は、地面の下から常に低く響いていた。市民はそれを聞き慣れている。眠る前に空調の音を聞くように、朝になれば信号が切り替わることを疑わないように、彼らは魔導炉の鼓動と女帝の結界を当たり前のものとして受け入れている。


 その光の海から、少しだけ離れた場所に帝都美術館はあった。


 ホウジュ区とミヤ区の境界に近い丘陵地を切り開いて建てられたその施設は、昼間は帝都随一の文化施設として市民に開放されている。死都東京から回収された残存美術、トキオ聖戦以前の日本絵画、女帝降臨以後の魔導芸術、ワルキューレを題材にした巨大彫刻。観光客はガラス張りの正面玄関から入り、女帝ヌルの小さな聖像に一礼してから、学芸員の説明を聞き、売店で複製画や記念メダルを買って帰る。


 だが、美術館の本当の顔は地上にはなかった。


 閉館後、正面ロビーの照明は落ち、掃除用の小型機械人形だけが床を磨く。警備用ドローンが天井付近を巡回し、各展示室の結界が一層ずつ閉じていく。一般客が知る帝都美術館は、そこで終わる。


 その下に、もう一つの美術館がある。


 エレベーターは存在しない。階段も存在しない。いや、あるにはあるが、地上職員のほとんどはその階段を見ることすらできない。権限を持たない者が壁に手を触れても、ただ白い大理石の感触が返るだけだ。だが、特定の魔導鍵を持つ者が、閉館後の西展示棟にある何の変哲もない壁面の前で女帝政府指定の認証文を唱えると、壁は音もなく奥へ沈む。そこに、地下へ続く黒い通路が現れる。


 帝都美術館地下第七封印収蔵庫。


 夢殿が直接管理する危険美術品の保管区域。


 そこには、一般展示できないものが眠っている。


 死都東京から回収された、持ち主の名前を呼ぶ鏡。触れた者の影だけを老いさせる懐中時計。旧東京湾で引き上げられた、まだ海底の夢を見ている人魚の骨。トキオ聖戦以前の宗教画のはずなのに、描かれている天使の翼がワルキューレの兵装形式と一致する絵。古い魔導師が「これは神ではない」とだけ書き残して封じた、銀色の仮面。


 そして、最奥に一枚の肖像画があった。


 題名は『反逆者』。


 縦長の額縁に収められたその絵は、少し離れて見ると古典宗教画に見える。闇の背景。白い布をまとった中性的な天使。肩から背へ落ちる淡い金髪。白にも黒にも見える翼。微笑んでいるのか、泣いているのか判断しにくい唇。右手は胸に当てられ、左手は布の端を握っている。首筋には鎖のような装飾があり、それが天使を美しく見せる飾りなのか、絵の中に縛りつける拘束具なのかは、見る者によって印象が変わる。


 警備員の男は、その絵が嫌いだった。


 嫌いというより、苦手だった。


 勤務で地下収蔵庫を巡回するたび、必ずこの絵の前を通る。通るだけなら問題はない。監視端末に認証キーをかざし、結界値を確認し、封印状態が安定していることを記録する。ただそれだけの作業だ。だが、この絵の前ではいつも、ほんの一瞬、足が止まる。


 見られている。


 そう感じる。


 絵の中の天使は、こちらを見ている。正面を向いた肖像画なのだから当然だ。だが、それだけではない。警備員が右へ移動すれば右へ、左へ移動すれば左へ、天使の視線もわずかに動くような気がする。もちろん錯覚だ。封印収蔵庫は光量が低く、結界層の魔導光が反射するため、絵の表面に揺らぎが生じる。学芸員もそう説明していた。


 だから、今日も彼はいつもどおり端末を掲げた。


「第七封印収蔵庫、午前零時二十七分。巡回確認。収蔵番号EM-SOL-1321。題名『反逆者』。外部結界、安定。内側封印、安定。人格記録層、休眠。……異常なし」


 自分の声が、収蔵庫の壁に吸い込まれていく。


 地下は冷えているはずだった。だが、その夜は妙に暑かった。地上では熱帯夜だとニュースが言っていた。魔導炉の排熱調整に失敗したとか、ヨムルンガルド結界の循環値が微妙に上がっているとか、職員用の掲示板には専門家ぶった誰かの推測が並んでいたが、警備員にはどうでもよかった。夜勤明けに冷えた缶コーヒーを買って帰れれば、それでいい。


 端末の画面に、昨日の記録が表示される。


『右手を胸に当てている。左手は布を握っている。視線に変化なし』


 警備員は何気なく絵を見た。


 そして、息を止めた。


 絵の中の天使の右手が、胸から離れていた。


 白い指先が、こちらへ伸ばされている。


 ほんのわずかだ。額縁から出ているわけではない。絵画の中の構図として、天使の右腕が前に向かって伸びている。ただそれだけだ。だが、昨日の記録とは違う。今まで何度も見てきた絵とも違う。


「……え?」


 警備員は端末を見た。記録を開く。前回画像。前々回画像。過去一週間分の監視画像。すべて同じだ。右手は胸に当てられている。


 では、目の前のこれは何だ。


 端末が小さく鳴った。


 画面上部に赤い表示が出る。


『照合不能』


「照合不能って……何が」


 次の瞬間、収蔵庫の照明が落ちた。


 完全な暗闇ではない。壁に刻まれた封印術式が淡い青白さを残している。だが、監視灯が消え、天井の警備ドローンが停止し、床下の認証ラインも沈黙した。


 警備員は反射的に腰の警棒型魔導具へ手を伸ばした。


 その手が、途中で止まる。


 端末の画面から、自分の名前が消えていた。


 職員認証欄。


 そこには先ほどまで、彼の名前が表示されていたはずだった。勤務番号、所属、権限レベル、健康状態、警備記録。それらは残っている。だが、名前だけが空白になっている。


「……なんだよ、これ」


 声が震えた。


 自分の名前を思い出そうとした。


 思い出せなかった。


 喉が絞られるように縮む。頭の奥で、何かが濡れた布のように引きずり出されていく感覚があった。名字。名前。両親が呼んだ声。小学校の名札。社員証を初めて受け取った日。銀行口座を作るときに書いた署名。その輪郭が、黒い水に溶けていく。


 彼は口を開いた。


「俺は……」


 言葉が続かない。


 俺は、誰だ。


 答えがない。


 警報を鳴らそうとした。だが、端末の警報ボタンには触れられなかった。画面の中に自分の指が映っている。そこにあるはずの指紋認証ラインが、彼を職員として認めていない。


 その時、背後の扉が開いた。


 本来ならありえない。地下第七封印収蔵庫の扉は、夢殿管理局の二重承認がなければ開かない。夜勤の警備員ですら内側巡回中は一時的な閉鎖状態に置かれる。外部から誰かが入ってこられるはずがない。


 だが、扉は開いた。


 入ってきたのは、安物の黒いスーツを着た男だった。


 男は顔に似合わない高級な魔導遮断ゴーグルをつけ、手には平たい運搬ケースを持っていた。動きは慣れていない。警備のプロではない。軍人でも、魔導士でもない。足音が大きく、呼吸が乱れ、額には汗をかいている。


 下っ端。


 警備員は直感した。


 裏社会の下っ端だ。


「お、おい……ここは……」


 声を出そうとした。だが、言葉がうまく出ない。自分が警備員であるという確信まで、少しずつ薄れている。


 侵入者はびくりと肩を跳ねさせた。


「な、なんだよ。いるなんて聞いてねぇぞ」


「ここは……封印……収蔵……」


「知らねぇよ! 俺は運べって言われただけだ!」


「誰に」


 警備員の問いに、侵入者は口を開いた。


 そこで止まった。


「誰に……? え、誰だっけ……いや、違う。俺は、確か……」


 侵入者の顔から血の気が引いた。


 彼もまた、思い出せないのだ。


 雇い主の名を。依頼を受けた場所を。金を渡された相手の顔を。すべてが霧の向こうへ消えていく。ただ、運べという命令だけが残っている。絵を運べ。ケースへ入れろ。指定場所へ届けろ。それだけが、頭の中に釘のように打ち込まれている。


 絵の中の天使が、微笑んだ。


 警備員は見た。


 確かに、絵の中の天使が笑った。


「また、誰かが私を運ぶのか」


 声は収蔵庫全体から聞こえた。男の声にも、女の声にも聞こえる。老人のようでもあり、子供のようでもあった。白い布の擦れる音、羽根が床を撫でる音、遠くの教会で鐘が割れる音。そのすべてが混ざって、一つの言葉になっている。


 侵入者は悲鳴を飲み込み、ケースを開けた。絵に触れる。封印結界が反応しない。いや、反応しないのではない。結界が、自分から手を退けている。


 警備員は止めようとした。


 身体が動かなかった。


 そのかわり、彼は端末を床へ押しつけた。記録用の手動入力画面を開く。名前がなくても、緊急メモなら残せる。そう信じた。指が震える。文字がうまく打てない。だが、打たなければならない。何を。何を伝えればいい。


 絵を盗まれた。


 名前が消える。


 天使が動く。


 違う。


 もっと大事なことがある。


 彼は最後の力で、一語だけ入力した。


『描くな』


 送信。


 端末が暗転した。


 次に明かりが戻った時、収蔵庫の最奥には、額縁だけが残っていた。


 絵は盗まれていた。


 警備員の姿も、記録からは消えていた。


 けれど、防犯カメラの映像には、名前のない男が一人、空になった額縁の前で立ち尽くしている姿だけが残っていた。


     *


 同じ夜。


 帝都の空気は、まだ熱を失っていなかった。


 零時を過ぎてもアスファルトは昼間の温度を吐き続け、ビルの外壁は魔導広告の光を反射し、ホウジュ区の裏通りには油と雨の残り香と、人の欲望が煮詰まったような匂いが漂っていた。表通りでは終電を逃した会社員たちが自動運転タクシーを奪い合い、二十四時間営業の魔導コンビニが人工音声で新作冷菓を宣伝し、空中歩道を渡る若者たちは、遠くの夢殿の光を背景に写真を撮っている。


 その喧騒から一本入った裏路地は、別の街のように静かだった。


 古い雑居ビルの壁面には、消えかけた女帝信仰のステッカーと、賞金首の古い手配書と、違法機械人形修理業者の小さな広告が重なって貼られている。頭上には錆びた非常階段。足元には割れた魔導灯の破片。どこからか水が滴り、路地の奥では小型の清掃ドローンが故障したまま、同じ場所をぐるぐる回っていた。


 そこに、男の身体が叩きつけられた。


 鈍い音が路地に響く。


 だが、すぐ近くを走る高架列車の音が、それを呑み込んだ。


 似合わない高級スーツを着た大柄な男が、壁を背にして尻餅をついている。額から流れる汗は、熱帯夜のせいだけではなかった。彼の目の前には、一輪の花が立っていた。


 黒い花。


 月光を背負った、氷の花。


 歳の頃は十七、八ほどに見える。小柄で、華奢で、白い肌は地下の封印術式の光よりも冷たく見えた。腰まで伸びる黒髪が、路地を抜ける湿った風に揺れる。身にまとっているのは、黒い生地に白いレースを重ねたドレス。袖口には小さなリボン。細い首にはチョーカー。手袋の指先から覗く爪は黒く塗られていた。


 顔立ちは、少年とも少女ともつかない。


 妖艶で、可憐で、清らかで、どこか危うい。


 けれど、彼は男だった。


 少なくとも、帝都の裏社会は彼をそう扱う。


 名前はカリン。


 通り名は、氷の花。


 帝都エデンで活動する一流のトラブルシューター。警察が表に出せない事件、企業が握り潰したい事故、裏社会の揉め事、妖物退治、呪物回収、違法機械人形の処理。報酬さえ積まれれば、彼は笑って現場へ向かう。表向きは清掃会社の清掃員。裏では、帝都の夜に咲く黒薔薇。


 カリンは倒れた男を見下ろし、涼しげな声で言った。


「ねぇ。もう一回聞くね」


 声は甘かった。


 だが、甘さの奥に刃があった。


「帝都美術館の地下封印庫へ入った時、誰に鍵を渡されたの?」


「し、知らねぇ……!」


 男の声は情けなく裏返った。


「知らない?」


「本当に知らねぇんだよ! 俺は、ただ運べって言われただけで……」


「うん。じゃあ二つ目。盗まれた絵の運搬ルート。封印庫からどこへ運んだ?」


「だから知らねぇって!」


「三つ目。依頼者の暗号名」


「知らねぇ!」


「四つ目。消えた警備員の名前」


「知らねぇよ!」


「五つ目。絵を受け取った企業」


「知らねぇって言ってんだろ!」


 カリンは小さく首を傾げた。


 その仕草は可愛らしかった。路地ではなく、昼のツインタワー西タワーで窓の外から手を振っていれば、通行人の何人かは頬を赤らめ、何人かは写真を撮ろうとし、何人かはその場で足を滑らせるかもしれない。


 だが、今、男はその仕草に恐怖しか覚えなかった。


「知らないなら、知らないって言えばよかったのに」


 カリンはゆっくりと歩み寄った。


 男は後ずさろうとしたが、背中は壁に当たっている。逃げ場はない。


「でもね、知らないまま運んだってことは、知ってる人より危ないんだよ」


「危ないって……俺が? なんでだよ! 俺は使いっぱしりだ! 何も聞かされてねぇ! 美術館に入れって言われて、ケースを運べって言われて、指定の車に積めって言われただけだ!」


「うん。だから危ないの」


 カリンがしゃがみ込む。


 男の顔のすぐ近くに、白い指が伸びた。黒い爪が、男の顎を軽く持ち上げる。指先から薔薇の香りがした。甘く、濃く、夜気に溶けるような香り。男の瞳が一瞬ぼやける。


「君、運んだ絵の名前は?」


「……反逆者」


「誰に渡した?」


「だから知らな……」


 男は言いかけて、口を閉じた。


 カリンの目が細くなる。


「今、思い出しかけた?」


「違う。違うんだ。俺は……俺は……」


「じゃあ、君の名前は?」


「は?」


「君の名前」


 男は反射的に答えようとした。


 だが、口が開いただけだった。


 音が出ない。


 喉が震える。舌が動く。唇が形を作ろうとする。だが、そこにあるはずの名前が見つからない。男は急に青ざめた。自分の胸ポケットを探り、革製の身分証ケースを取り出す。そこには確かに顔写真があった。所属組織の偽名も、裏社会で使っている通称も、連絡用の魔導タグもある。


 だが、本人が読もうとした瞬間、文字が滲んだ。


「なんだよ……なんだよ、これ……」


 男の手が震えた。


 カリンは身分証を取り上げた。


 表示はまだ残っている。だが、名前の欄だけが薄い。完全には消えていない。けれど、何かに齧られたように欠けている。


「半分、喰われてるね」


「喰われてるって、何が」


「名前」


「名前って……ふざけんなよ!」


 男が立ち上がろうとした。


 カリンの左手が動いた。


 音はしなかった。


 だが、男の喉元に、いつの間にか大鎌の刃が添えられていた。どこから出したのか、男には見えなかった。黒い柄、銀色の刃。湾曲した刃の縁には、淡い魔導光が走っている。少しでも身じろぎすれば、喉の皮が裂ける位置だった。


 男は硬直した。


「暴れないでね。服が汚れるから」


 カリンは柔らかく笑った。


「それに、ボク今日は、殺すより持って帰る仕事なの」


「持って……帰る?」


「うん。依頼元が、君を欲しがってる。生きてるかどうかは問わないって言われたけど、生きてる方が情報が残ってるかもしれないでしょ?」


「俺は、本当に何も……!」


「うん。わかってる」


 カリンは頷いた。


 その瞬間だけ、声から甘さが消えた。


「君は何も知らない。だから、君の中に何が残ってるか調べる」


 薔薇の香りが強くなった。


 男の瞳が揺れる。意識が薄くなり、体の力が抜けていく。カリンは男の首を絞めるでも、殴るでもなく、ただ香を吸わせているだけだった。だが、男の呼吸は乱れ、記憶の蓋が無理やりこじ開けられるように、目の奥に映像が浮かんでくる。


 地下の白い廊下。


 重たいケース。


 顔の見えない案内人。


 黒塗りの搬送車。


 港湾方面へ向かう高架道路。


 受け渡し場所は、ミナト区の古い倉庫街。


 看板。


 いや、看板ではない。


 車体に貼られた小さな管理ラベル。


 MAMMON。


 男の喉から、掠れた声が漏れた。


「マ……モン……」


 カリンの表情が、ほんの少し変わった。


「マモン?」


「マモン……カンパニー……」


 言い終えた直後、男は意識を失った。


 カリンは大鎌を異空間へしまい、身分証を指先で挟んだまま立ち上がった。男はぐったりと壁にもたれ、口を開けている。命に別状はない。しばらくすれば目を覚ますだろう。ただし、目覚めた時に自分の名前をどこまで覚えているかはわからない。


 カリンはため息をついた。


「マモンカンパニーねぇ」


 言葉にすると、路地の空気が少し重くなった気がした。


 帝都の裏社会に生きる者なら、その名前を知らない者はいない。貿易、電気機械、魔導部品、医療機器、警備システム、機械人形用の制御基板。表向きには巨大複合企業パンデモニウム系列の優良子会社。裏では武器、違法魔導具、実験用妖物、出所不明の人格核まで扱っていると噂される会社。


 噂、というにはあまりに多くの死体が、その社名の周りに積もっている。


 カリンは通信端末を取り出した。


 黒い小型端末の画面に指を滑らせると、いくつもの連絡先が浮かぶ。シグレ。マナ。ハルナ。清掃会社の主任。ツインタワー管理室。アリス。


 カリンは一瞬、シグレの名前に触れかけた。


 すぐに指を止める。


「兄さまに頼るほどじゃないよねぇ」


 そう呟いて、別の名前を選んだ。


 シン。


 数コールもしないうちに通信はつながった。


 だが、聞こえてきたのはシンの声ではなかった。


『帝都の地下を流れる巨大なきゅうり夫人は、なぜ常に左回りなのか。これは都市伝説ではなく、古代農耕魔導と魔導炉排熱循環の密接な関係を示す――』


 カリンは無表情で端末を見た。


「切るよ」


『待て待て待て、今のは情報の海が勝手に流してきた動画広告だ。私の趣味ではない』


「シンくんの趣味じゃない変なものって、この世に存在するの?」


『失礼だな、カリン。私は情報を選り好みしないだけだ。かぼちゃ男爵の都市財政改革論も、きゅうり夫人の地下水脈陰謀論も、等しく帝都を構成するデータの一部だ』


「はいはい。今、仕事中。くだらないこと言ったら料金値切るから」


『今の会話も相談料に含まれる』


「じゃあ切る」


『待て。美術館だろう』


 カリンの目が少し鋭くなった。


 シンの声から、ふざけた色が薄れた。


『帝都美術館地下第七封印収蔵庫。収蔵番号EM-SOL-1321。題名『反逆者』。午前零時二十七分、結界監視システムが一秒未満停止。その後、職員認証記録に欠落が発生。収蔵品一件が消失』


「知ってるなら早く言ってよぉ」


『私は今、君が持っている断片と照合している。そちらの男は?』


「名前を半分喰われてる。『反逆者』を運ばされた下っ端。知ってる情報は少ないけど、マモンカンパニーって言った」


『マモンか。やはり企業案件だな』


「やはり?」


『封印庫の記録が消えた。警備員の勤務記録も消えた。だが、防犯カメラには人影がある。奇妙だろう。記録から消えた人間だけが、映像の中に残っている』


 カリンは倒れている男を見下ろした。


 男は意識を失っている。だが、その顔は苦しげに歪んでいた。夢を見ているのかもしれない。自分の名前を探す夢を。


「消えた警備員、死んだの?」


『死体は確認されていない。だが、勤務表、給与記録、医療記録、住民登録、ツインタワーの買い物履歴、趣味の釣り投稿まで消えかかっている。唯一残っているのは映像だ。名前のない男が、額縁の前に立っている』


「名前だけ消す呪い?」


『呪いというより、記録の捕食だな。名前、履歴、所有情報、関係性。人間を人間としてこの街に固定しているデータを食っている。帝都の情報網に対する食害と言ってもいい』


「絵が盗まれたんじゃないってこと?」


 通信の向こうで、シンが短く息を吐いた。


『カリン。これはただの盗難ではない。絵が盗まれたんじゃない。絵が、自分を運ばせた可能性がある』


 路地の空気が冷えた。


 熱帯夜のはずなのに、カリンの指先に薄い寒気が触れた。大鎌を持った時の冷たさではない。もっと内側の、名前を呼ばれる前の暗がりに触れられたような感覚。


 カリンは笑った。


 笑おうとした。


「やだなぁ、シンくん。絵が自分で歩くわけないじゃん」


『帝都でその発言は死亡フラグだぞ』


「ボクは可愛いから大丈夫」


『可愛さは封印防御値に換算されない』


「じゃあ、請求書に可愛さ割引って書いといて」


『むしろ迷惑料を加算する』


「ケチ」


『褒め言葉として受け取ろう』


 いつもの掛け合い。


 けれど、その下に緊張があることを、カリンもシンもわかっていた。


 カリンは倒れた男の襟首を掴み、軽々と引きずり起こした。小柄な身体に似合わない力だった。男の体重など、濡れた雑巾を持ち上げるのと大差ないように見える。


「依頼元に引き渡す。ついでに正式依頼に切り替えるよ」


『相手は?』


「女帝信仰が濃いマフィアのボス。自分の手下が女帝所有の危険物に手を出したって聞いて、顔面蒼白だった」


『裏社会の信仰心ほど厄介なものはないな』


「帝都っぽいでしょ?」


『ああ。犯罪者が神を恐れ、企業が魂を商品にし、政府が記録を美術品のふりで飾る。実に帝都だ』


 シンの声は皮肉だった。


 カリンは端末を耳から離しかけて、ふと思い出したように聞いた。


「ねぇ、シンくん」


『何だ』


「消えた警備員の名前、まだ拾える?」


 しばらく沈黙があった。


 シンは即答しなかった。


 情報屋が即答しないということは、簡単ではないということだ。


『断片ならある。だが、まだ読めない。見ようとするとノイズが入る』


「そっか」


『なぜ聞く』


「なんとなく」


『君のなんとなくは、だいたい面倒の始まりだ』


「知ってる」


 カリンは通信を切った。


 そして、倒れた男を片手で引きずりながら、路地の出口へ向かった。


     *


 ミナト区の海沿いには、表向きには使われなくなった倉庫がいくつも残っている。


 使われなくなった、というのは役所の書類上の話だ。現実には、それらの倉庫の多くが裏社会の取引所、密輸品の一時保管庫、非合法魔導具の調整場、賞金首の引き渡し場所として使われている。帝都警察も知らないわけではない。だが、すべてを摘発するには人手が足りず、摘発したところで翌日には別の企業名義で貸し出される。


 その夜、カリンが向かったのは、倉庫街の外れにある古い礼拝堂だった。


 トキオ聖戦以前には外国人居留者向けの教会だったらしい。女帝ヌルの支配下に入ってからは、いくつもの宗教施設が形を変えた。この礼拝堂も例外ではない。祭壇には十字架ではなく、白い少女の姿をした女帝ヌルの聖像が置かれている。背後には光輪を模した魔導照明。両脇には、ワルキューレを思わせる翼の装飾。床には古い聖句の上から、帝都政府公認の女帝讃歌が刻まれている。


 その聖堂の奥で、マフィアのボスは待っていた。


 年齢は五十代半ば。背は高く、髪はきっちり撫でつけられ、高価なスーツを着ている。指には宝石の指輪。懐には銃。背後には部下が十数人。全員が武装していた。だが、彼らの銃口はカリンではなく、床に転がされた男へ向いている。


 ボスは、カリンが引きずってきた男を見た瞬間、低く唸った。


「その愚か者が、例の運び屋か」


「たぶんね。名前は半分ないけど」


 カリンは軽く男を床へ転がした。


 男はまだ意識が戻っていない。薔薇の香が効きすぎたのか、それとも名前を喰われた影響か、額には脂汗が浮かんでいる。


 ボスは祭壇の女帝像へ一礼した。


 裏社会の男とは思えない、深く、真剣な礼だった。


「女帝陛下の御前で、このような恥を晒すとはな」


 声には怒りがあった。


 だが、それ以上に恐怖があった。


 カリンはその恐怖をよく知っている。


 帝都の裏社会に生きる者たちは、法律を破る。人を騙す。金を奪う。時に殺す。だが、女帝の所有物に手を出すことだけは別だ。女帝ヌルを本物の神だと信じている者もいれば、ただ圧倒的な権力者として恐れている者もいる。理由は違っても、結果は同じだった。


 帝都では、信仰と犯罪は矛盾しない。


 盗人が祈り、殺し屋が聖像に頭を下げ、マフィアが女帝所有の封印美術品に触れた部下を許せないと怒る。


 それが、帝都エデンの夜だった。


「怒ってるねぇ」


 カリンは祭壇の横に腰かけるような仕草をした。もちろん本当に座りはしない。女帝信仰の濃い場所でそれをやると、銃撃より面倒なことになる。


 ボスはカリンを睨んだ。


「当たり前だ。帝都美術館の地下封印庫にあるものは、すべて女帝政府の管理物だ。あれは我々の手に余る。裏で売る絵画ではない。飾る美術品でもない。祈る対象ですらない。触れてはならんものだ」


「でも、手下が触っちゃった」


「だから貴様を呼んだ」


「ボク、呼ばれた覚えはないけど」


「紹介したのはシンだ」


「ああ、じゃあ料金高いよ」


 ボスの眉が動いた。


「金の話か」


「大事でしょ? ボク、慈善事業じゃないし。あと、可愛い服は高い」


 部下の一人が小さく笑いかけた。


 すぐに別の部下に肘で突かれ、顔を引き締める。


 カリンはその反応に気づいて、にこりと微笑んだ。


 その瞬間、部下の男は顔を赤くした。だが、直後に自分が何に見惚れたのか気づき、青ざめる。


 ボスは懐から一枚の魔導小切手を取り出した。


 祭壇前の長椅子に置く。


 カリンはそれを拾い、金額を見た。


 少しだけ目を丸くする。


「うん、命が軽くなるくらいには高いね」


「それだけの案件だ」


「依頼内容は?」


「『反逆者』を取り戻せ。盗んだ者を突き止めろ。絵を運ばせた者を探せ。必要なら殺して構わない」


「生け捕り指定は?」


「ない」


「女帝政府には?」


「通せない」


 ボスの声が低くなった。


「我々の手下が封印庫に関わったと知られれば、組織ごと消される可能性がある。帝都警察に捕まるだけならまだいい。夢殿が動けば終わりだ。ワルキューレの耳に入れば、我々の名前ごと焼かれる」


「名前ごと、ね」


 カリンは床の男を見た。


「今夜の絵は、それやってくるみたいだよ」


「どういう意味だ」


「この子、自分の名前が言えない。身分証からも消えかけてる。美術館の警備員も記録から消えたって、シンくんが言ってた」


 礼拝堂の空気が固まった。


 ボスの背後にいた部下たちが、互いに顔を見合わせる。銃を握る手が汗ばむ。裏社会の人間は死を恐れない、などというのは嘘だ。彼らは死を知っているからこそ恐れる。まして、自分が死んだことすら記録に残らないかもしれないという恐怖は、銃弾とは別の冷たさを持っていた。


 ボスは女帝像を見上げた。


 像は何も答えない。


 白い少女の姿をした女帝ヌルは、光輪の中で微笑んでいる。人間の祈りにも、犯罪者の恐怖にも、関心がないかのように。


「……カリン」


 ボスが言った。


「その絵は、本当に絵なのか」


「今のところはね」


「今のところ?」


 カリンは肩をすくめた。


「帝都では、絵が最後まで絵だった試しなんて、あんまりないでしょ」


 その時だった。


 床に転がっていた男の身体が、びくりと跳ねた。


 全員の銃口が男へ向く。


 カリンだけは動かなかった。


 男の目が開いている。


 だが、意識が戻ったわけではなかった。瞳孔は開き、焦点は合っていない。口元からは泡のような息が漏れている。胸が上下している。生きている。だが、その身体を動かしているものは、本人ではない。


 礼拝堂の照明が揺れた。


 女帝像の背後の光輪が、一瞬だけ暗くなる。


 床に伸びていた男の影が、壁へ向かって立ち上がった。


 影だけが、身体から剥がれた。


 黒い染みのように壁へ張り付き、そこから左右へ大きく広がる。翼の形だった。鳥の翼ではない。天使の翼でもない。どこか焼け焦げ、ところどころ羽根が欠けた、不完全な翼。


 部下の一人が悲鳴を上げた。


「撃つな」


 ボスが命じる。


 だが、その声にも恐怖が滲んでいた。


 男の口が動いた。


 声が出る。


 それは、男の声ではなかった。


「私は」


 礼拝堂の壁が軋む。


「反逆者ではない」


 その声は静かだった。


 怒っているようでも、悲しんでいるようでもあった。長い時間、同じ言葉を言い続け、誰にも聞かれなかった者の声だった。


 カリンは笑顔を消していた。


 黒い瞳が、壁の翼を見つめる。


 影は一瞬、カリンの方へ手を伸ばすように揺れた。


 その先端が、彼の頬に触れる寸前で止まる。


 薔薇の香りが、ふっと薄くなった。


 次の瞬間、影は崩れた。


 ただの影に戻る。男の身体へ吸い込まれ、礼拝堂の灯りも元に戻る。部下たちはしばらく動けなかった。誰かの歯が鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。


 カリンは床に落ちていた身分証を拾った。


 名前欄は、完全に空白になっていた。


 顔写真は残っている。所属も、偽造された身分も、連絡タグも残っている。だが、名前だけがない。


 カリンはしばらくそれを見ていた。


 ボスが低く問う。


「今のは何だ」


「さあ」


 カリンは身分証を指で弾いた。


「でも、あの絵が盗まれたくなかったわけじゃないってことは、わかったかな」


「どういう意味だ」


「盗まれたんじゃない。運ばせた。シンくんの言った通りかもね」


 カリンは踵を返した。


「どこへ行く」


「お仕事」


「正式に受けるのか」


 カリンは振り返り、にっこり笑った。


 その笑顔は、さっき部下の頬を赤らめたものと同じくらい可愛らしかった。だが、今度は誰も見惚れなかった。彼らは知ってしまったからだ。その笑顔の下に、氷の刃があることを。


「受けるよ。報酬、命が軽くなるくらい高いし」


 そして少しだけ声を低くする。


「それに、名前を喰う絵なんて、放っておくと面倒でしょ」


 カリンは礼拝堂を出た。


 外へ出ると、潮の匂いを含んだ熱い夜風が頬を撫でた。ミナト区の倉庫街の向こうには、帝都のビル群がきらめいている。ツインタワーの二本の影。ホウジュ区のネオン。遠く、夢殿の淡い光。さらにその向こうには、見えない死都東京の黒い空がある。


 帝都エデン。


 女帝の都市。


 封印の都市。


 誰かの名前で成り立つ都市。


 カリンは空を見上げた。


 額にかかる黒髪を、指先で軽く払う。爪の黒い光沢が、月明かりを反射した。


「……めんどくさい仕事になりそうだねぇ」


 声は甘かった。


 けれど、その目は笑っていなかった。


     *


 同じ頃、帝都美術館の地下第七封印収蔵庫では、誰もいないはずの空間に、薄い光が灯っていた。


 盗まれたはずの『反逆者』の額縁。


 その内側は、空白ではなかった。


 白い布をまとった天使の上半身が、絵の外へ滲み出すように浮かんでいる。額縁は空であるはずなのに、そこにはまだ何かが残っている。あるいは、絵の本体が別の場所へ運ばれたことで、封印の外殻だけがここに残されているのかもしれない。


 天使の右手は、もう胸にはなかった。


 額縁の外へ、半分ほど伸びていた。


 その指先が、空中をなぞる。


 まるで、まだ描かれていない自分の名前を探すように。


 収蔵庫の床に落ちた警備端末が、一瞬だけ再起動した。


 画面には、送信済みの一語が残っている。


『描くな』


 その文字の上に、黒い羽根の影が落ちた。


 やがて端末の画面から、その一語すら、ゆっくりと滲んで消え始めた。

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