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第31話・愛と偽りに溶かされて(1)


 *



 髪を湿らせたアレクシスは、湯浴み上がりに違いなかった。

 爽やかな石鹸の薫りはアレクシスのもの。

 彼が好んで纏う香水とは違って、やさしく、あまい。


 ──旦那様、いい匂い……。


 濡れ髪なのはエリアーナも同じだった。

 メイドたちに(かしず)かれ、エリアーナは薔薇の香りの香油を身体中に摺り込まれた。

 甘美なその香りが、アレクシスの鼻腔をくすぐる。


「………………」


 カウチに並んで腰掛けたまま、互いに言葉を発することもなく。

 エリアーナの寝室は、控えめな洋燈のゆらめきに沈んでいる。


 俯きがちなエリアーナの目の端に、アレクシスのすらりと長い膝から下が映る。

 よくこれほど伸びたものだと感心していると──。


「何か、飲む?」


 組まれていた長い足がほどけて、沈黙を破ったアレクシスが手を伸ばす。

 ローテーブルには、脚の高いグラスと高級そうな赤ワイン、水の入った硝子のピッチャー、角切りフルーツの盛り合わせと、二本のフォークがナプキンの上に置かれていた。


 ワインのボトルをつかむと、アレクシスは慣れた手つきでグラスに注いでいく。

 トクトクと軽快な音が耳に心地良く響き、エリアーナの緊張が少しだけほぐれた。


 ──綺麗……。

 朱赤の液体が揺れるのを、エリアーナはぼうっと眺めていた。


 ──アルマ様とも、こうやってお酒を……?


 余計なことを考えるほど、《《この一夜》》を乗り切れないような気がした。

 冷静さを保とうと心がけながら、目の前の風景をただ見つめる。


「少しだけ、晩酌に付き合ってくれ」

 艶やかな声、しなやかな手指の動き──全てがエリアーナの五感を刺激する。


「……はい」


 おぼつかない手で、上質なグラスを持ち上げた。

 薄張りのグラスどうしが触れない程度に近づいて、すっと離れる。


 作法はこれで良かっただろうか。

 父と亡き母に恥をかかせるような振る舞いをしていないだろうか……。


 どうでもいい事を案じていると、甘酸っぱい液体が舌の上にどっと流れ込んだ。

 ごくりと盛大に飲み込めば、喉の奥が熱くなって「こほっ」と咳き込んでしまう。


「ひと息で飲んだのか?!」


 背中をさする手に驚いて顔を上げたとき、今夜初めて、まともにアレクシスの顔を見た。

 宝石のような瞳が薄明かりに煌めいて、エリアーナを心配そうに見つめている。


「あの……私っ……謝らなければいけないことが」

「いいから、水を飲んで」


 グラスを差し出されるが、やんわりと拒否した。


「いえ……平気です。少しくらい酔っていたほうが、正直になれますから」


 頭がくらりと揺らいだが、アレクシスには悟られたくなかった。

 これ以上、余計な心配をかけたくない。


「……エリアーナ?」


 ──俺も酔わねば、冷静ではいられない。


 アレクシスもまた、必死に心を制していた。

 泣き出しそうに見上げるエリアーナの(かんばせ)は美しく、今すぐにでも抱き寄せてしまいそうになる。


「今日のこと……どう説明すれば良いのか……ずっと考えていました」


 アレクシスは睫毛を伏せ、静かに口を開く。


「それより、君に聞きたい事がある。身体に異変を感じたり、おかしなところは無いか?」


「……ぇ」

「君の異能、『王の()』だ。君自身が気付かぬうちに、発現しているかも知れない」


「そんな、あり得ません……!」

「あり得ないとなぜ言い切れる。どうすれば異能が発現するのか、嘘偽りがどのようにわかるのかを、君は知っているのか?」


「それは……知りません。発現の条件も、嘘をどうやって見抜くのかも……。父も母も、私に伝える前に亡くなりましたから」


 アレクシスは渋い顔をして「そうか」と呟き、残っていたワインを自分のグラスになみなみと注ぐ。


「誰かが嘘をついたと、気付いた事は?」

「いいえ。でも異能があれば、嘘はきっとわかります。母がそうでした。……誰かが私の前で堂々と嘘をつけばの話ですが」


 ──エリーの前で、堂々と嘘をつけば?


 アレクシスは、胸の内でその言葉を繰り返した。

 長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳が、縋るように彼を見上げてくる。


「旦那様は……。そんなに私の『異能』が大事なのですか?」


 震える声が夜気よりも儚く響き、潤んだ瞳が頼りなく揺れる。

 異能などなくとも、自分を妻として望んでくれるのか──その答えを求める気持ちは切実で。

 なのにアレクシスは、淡く滲んだ彼女の期待を裏切る言葉を吐こうとしていた。


 否定すれば彼女は救われる。

 だが真実からは遠ざかる。

 アレクシスは意を決めた。腹の奥が焼けるように熱い。


 ──すまない、エリアーナ。


「ああ、そうだ。俺は『王の眼』の異能のために君と婚儀を結んだ。君の異能に望みが無いならば、子を成すまで……異能を受け継ぐのは女だけだと言うのなら、娘が生まれるまでだ」


 言葉と同時に、胸の奥で何かが決壊した。

 グラスの液体を勢いよく飲み干すと、迷いなく彼女を横抱きに抱え上げる。


 驚いたエリアーナが「ぁっ」と小さく声を上げた。

 洋燈のほのかな明かりの下、薄い夜着から覗く彼女の胸の丘陵は、雪のように白く豊かだ。


「不貞など許すものか。君が誰のものなのか、思い知らせてやる」




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