第32話・愛と偽りに溶かされて(2)
薄い膚着に包まれた華奢な身体を軽々と運ぶと、半ば投げるように寝台に置く。
アレクシスの片足を乗せたマットがぎしりと沈んだ。
片手で肩を押される。
あえなく仰向けに倒されたエリアーナは、のしかかるアレクシスの胸板を必死で押し返した。
「旦那様……っ」
エリアーナの抵抗に、アレクシスがしぶしぶといった様子で顔を上げる。
薄灰の瞳がすっと眇められた。
「何だ?」
刺すような威圧感に心臓が縮み、身体が小刻みに震えだす。
「こんな……乱暴なのは、嫌です……」
「その顔はいかにも、物足りないと訴えているように見えるが?」
顔をそらせる暇すらなかった。
指先が頬をなぞったかと思えば、すぐに唇がふさがれた。
心臓が飛び出しそうになる……エリアーナにとっては初めての経験だった。
けれどそれは、熱を押し殺したくちづけで──。
吸い寄せられるような深さも、甘く溶ける温度もない。
冷淡なそれは、ただ形だけ。
無感情に重ねられたはずなのに、抗えない鼓動が早鐘を打つ。
「……どうした、顔が赤いな」
低く冷ややかな声が落ち、感情を感じさせない瞳が眇まる。
けれど間近にあるアレクシスの吐息は、わずかに熱を帯びていた。
本当は強く抱き締めたい。
唇を貪り、耳元で名を呼び続けたい。
だが──そうすれば、彼女の真実は見えないままになる。
込み上げる衝動を奥底に閉じ、冷静さを保ちながら、アレクシスはその瞳で探ろうとしていた。
──これは、ただの確認だ。彼女の異能を確かめるためだけの行為。
そう言い聞かせながらも、胸の中で小さく震えるエリアーナの体温は、柔い棘のように彼の理性を刺激する。
もしも彼女が『この嘘』を見抜いたら。
秘めた想いに気づかれてしまったら……全てが破綻する。
彼女自身の《気づき》ではなく、《異能の力》を知るためには──冷淡に抱かねばならない。
エリアーナを愛しているからこそ、その熱を封じ込めて。
「……旦那様」
か細い声が、張り詰めた沈黙を震わせる。
見上げるエリアーナの瞳は、月明かりを受けてかすかに潤んでいた。
「私は……ただ子を成すための、道具なのでしょうか」
揺れる声色には、怯えと寂しさとがないまぜになっていた。
残酷な問いかけに、胸が潰されそうになる。
「それは……」
言葉を切ったアレクシスは目を眇め、視線を逸らせた。
触れれば壊れてしまいそうな彼女の表情を、これ以上見ていられなかった。
「子を……女児を成せば。私は……要らなくなるのですよね」
小さく震える声に、アレクシスの指先がかすかに動く。
違う、と即座に否定したかった。
だが唇は固く閉ざされ、喉が頑なに凍りつく。
「どう思おうと、構わん」
エリアーナの眦から、透明な雫がひとすじこぼれ落ちた。
鳩尾を抉られるような痛みが走る。心の奥底では「違う」と叫び続けていた。
彼女を守るはずの嘘が、またひとつ、心を傷つけていく──。
「俺は『王の眼』のためだけに、君と婚儀を結んだからな」
その言葉に、エリアーナの眼差しが苦しげに歪む。
けれど──潤んだその眼差しに、「見抜き」が作用した痕跡はなかった。
「……ッ」
アレクシスは心の奥で確信し、密かに深く息を吐く。
──エリーはまだ、真実を暴く眼を持っていない……!
「もう、泣くな」
冷たさを滲ませた声でそう告げながらも、アレクシスの脳裏には焦がれそうな慈愛が溢れていた。
差し伸べた手が頬に触れそうになり……寸前で止まる。
「君の役目はこれからだ。それだけ覚えていろ」
突き放す言葉の羅列が、どれほどエリアーナの心を裂いたかと思うといたたまれない。だが同時に、内心では安堵の波が静かに満ちていく。
王の眼は、まだ芽抜いていない。
まだだ──そう思った瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけていく。
冷たい言葉を放ちながらも、気づけば彼女を優しく抱き寄せていた。
腕に包んだエリアーナの温もりに安堵して、抗えぬ眠意に意識が攫われていく。
「……旦那様……?」
驚いて、声を漏らすエリアーナ。
硬い胸板に頬を押し当てられると、力強い鼓動が耳に届いた。
アレクシスは何も答えず、ただ黙って抱きしめたまま。
やがて彼の呼吸が穏やかになり、翼のような睫毛が閉じていく。
──眠っている……?
すぐそばに、アレクシスの綺麗で穏やかな寝顔があって。
信じられずに見上げたエリアーナの胸に、いっそう戸惑いが募った。
自分は今、優しい腕に抱かれている。
それはまるで、大切な宝物をそっと包みこむようで……。
あれほど冷たい言葉を浴びせながら、どうしてこんなに優しい抱擁を残して眠るのか。
彼の腕の重みは、逃げ場を塞ぐ檻のよう──それでも心のどこかで安らぎを求めてしまう。
──アレクシス様。
私を突き放すのなら、どうか最後まで……。
優しさなんて……残さないで。
胸の奥がきゅうっと軋んで、頬を熱い雫が伝っていく。
その雫が彼の夜着を濡らしても、眠りに落ちた彼は何も知らずに静かな寝息を立てている。
そして少しも眠れぬまま──切なさと苦しみに揺れる宵闇は、静かに更けていった。




