第29話・誤解です、旦那様……!(2)
アレクシスの凛々しい体躯が、大きな影となって見下ろしている。
周囲は木々に覆われて薄暗く、エリアーナは彼の表情を読み取ろうと目を凝らす。
黒々とした影のなかで、アレクシスの瞳は見た事もないほど剣呑な光を宿していた。
「……どういう事だ」
──やっぱり怒ってる……私が、学園に通っていたこと。
「ぁ……の……っ」
何か言わねばと思うのに、喉の奥が詰まってしまう。
──奴は、私の妻に馴れ馴れしく触れたばかりか……あろうことか、妻に……ッ。
怒りの中にも、押さえのきかぬもどかしさと悲しみが胸に潜む。
アレクシスは目を合わせる事さえ辛そうに視線を逸らせた。
レオンがエリアーナの額に口づけるのを見た時、二人の間に分け入ってレオンをぶん殴りたい衝動に駆られた。
だが、毒を飲む思いで衝動を抑え込んだ。
飛び出してしまえば、レオンの動向を探る任務が果たせなくなる。
どんなに口惜しくとも、私情より責務を優先させるしかなかった。
「……奴が、好きなのか」
「ぇ…………?」
再び眼差しが交わる。
失意と悲しみとが入り混じった低い声が、耳朶を打った。
「レオン・ナイトレイとは、どういう関係だ。一体いつから……ッ」
エリアーナは静かに息を吸う。
唇が震える。冷たい汗が背中を伝った。
──レオンといるところを、旦那様に見られていた?!
「好きだなんて、どうしてそんなっ。誤解です、レオンはただの知り合いで……」
「ただの知り合いが額に口づけるのを、君は許すのか」
「そ……それはっ!」
喉が引きつり、声が出ない。鼓動が耳の奥で響いた。
全身に怖気が走る。やはり見られていたのだ。
アレクシスの瞳が、あまりに哀しく揺れるものだから……エリアーナは返す言葉を見失ってしまう。
不本意でもなんでも、レオンにキスされてしまったのは事実だ。
「……君は俺の妻だ」
繊細な指先がエリアーナの顎を持ち上げる。
アレクシスの秀麗な面輪が大写しになり、わずかに開いた愛らしい薔薇の唇を求めた。
──唇と唇が重なる寸前。
弾かれたように、アレクシスは理性を取り戻した。
「……ッ」
緊迫がほどかれ、長い指先がすっと離れていく。
突然に距離を詰められたことで鼓動がどとろき、愛しさと切なさに息が止まる。
「……問い正す気も失せた。今すぐ屋敷に帰れ」
覇気を失った声で呟いて、アレクシスは踵を返す。
エリアーナの想いも知らず、背を向けた外套が夕風に翻った。
「信じてください、私、レオンとは本当に……」
失望を背負った背中が小さくなっていく。
けれど引き止める言葉が見当たらない。今、どんな言い訳ができるだろう。
──旦那、様……っ
嗚咽を漏らしそうになって、両手で口元を押さえた。
力を失った両脚が、土の上に膝をつく。
陽が落ちゆく翳りのなか、知らぬ間に溢れ出した熱い涙が──エリアーナの硬くなった頬に幾筋も伝い落ちた。
*
アレクシスは、夫たりうる行為全てを放棄してきた。
《愛人》を隠れ蓑に想いを秘し、妻の閨を訪れた事もない。
──そんな俺に、エリーを責める資格などない。
いたたまれなくなって背を向けたものの、強く後ろ髪を引かれた。
エリアーナは今頃、何を思い、どんな顔をしているだろう。
──突然くちづけようとした俺に失望しただろうか。
急く足で厩へと向かい、愛馬に飛び乗った。
ヤケになって強く手綱を引けば、美しい白馬は大きく嘶く。蹄は領地と続く山道を駆け出した。
──俺だってエリーを愛してる。誰よりも強く、心から……!
夜風に変じた冷たい風が、火照った頬を撫でる。
言いようのない重みに胸が押しつぶされそうで、気を紛らわせようと、必要以上に馬の足を早めた。
胸にのしかかるのは、初めて感じた猛烈な《嫉妬心》。
「まさか……」
刹那、怖気にも似た《気付き》が脳裏を掠める。
──奴に『愛され』、奴を『愛した』ことで、《王の眼》が開花したのでは──。
レオンの抱擁をエリアーナが受け入れるのを見た。
異能が発現したなら、学園の生徒として辻褄があう。
あの男がエリーの異能を芽吹かせてしまったら、これまでの苦悩は……いったい何だった……?
ふれたいと思う愛しさも、ふれられたいという願いも、全て封印してきたこの想いは……こうも簡単に打ち砕かれてしまうのか。
ましてや相手は疑惑のかかる胡乱な男だ。
奴と関われば、エリアーナの身に危険が及ばぬとも限らない。
馬を走らせながら、心の内で叫ぶ。
──エリーを愛せるのは俺だけだ……!




