第28話・誤解です、旦那様……!(1)
* * *
「髪留めと眼鏡は、いつか……ちゃんと返すから」
額から唇が離れるのと同時に、後頭部がレオンの手のひらで包まれる。
エリアーナの額に彼自身の額をそっと寄せ、レオンが囁いた。
これでは、彼の抱擁を甘んじて受け入れているようにしか見えない──エリアーナの気持ちを除け者にしたままで。
「……っ!」
ドン、と強く、レオンの胸板を突き離す。
嫌悪感と恐怖心が一気に押し寄せ、言葉が出ない。
ただ逃れたくて、必死だった。
「……なに、するの……?」
思い切り、ひっぱたいてやろうと思った。
込み上げる怒りの感情を抑えきれず、平手を高く上げる。
けれど──華奢な手首は、レオンの手に掴まれてしまう。
「驚かせたのなら謝る。だがエリー……俺は、本当に」
蠱惑的なレオンの青い瞳が、今は心許なく揺れている。
そんなレオンが継ごうとした言葉は、突然──甲高い女の声に遮られた。
「レオン……? あなたがレオン・ナイトレイ!? ねぇ、そうでしょう? そうなんでしょう?……『魔術学園の貴公子』見つけた!」
書棚の合間から顔を覗かせた一人の少女が、無遠慮に二人の間に詰め寄った。
長い黒髪を揺らし、ルビーレッドの瞳を輝かせて。
胸の前で手を組んで祈りのポーズを決め込み、少女は満面の笑みを浮かべる。
「想像以上にかっこいい……! やだ〜、本物のレオンって……異次元級の王子様ぁ♡」
あっけに取られるレオンを、まるで崇めるように見上げている。
どうやらエリアーナは、彼女の視界に入っていないようだ。
「…………は?」
レオンがあからさまに目を眇める。
だが少女は構わずぐいぐい迫った。
「ああーっ、やっっっと逢えた! まさか書庫室で出逢えるなんて……。ジルベール王弟陛下はすぐ見つけたのに、生徒会室に毎日通っても逢えなかったのに……!」
祈りのポーズのまま瞳を輝かせ、少女はレオンをまるで珍しいものでも見るように前から横から後ろから、眺めて回る。
そんな少女の『奇行』にレオンは成すすべもなく、戸惑う蒼い瞳がエリアーナに助けを求めた。
エリアーナが「知り合いなの?」と目だけで尋ねれば、レオンは「まさか」と首を振る。
「もしかして、あなたが……アネット?」
編入生のアネット・モロー。
長い黒髪にルビーレッドの瞳を持つ彼女こそ──ジルベール生徒会長にわざわざ世話役を付けようとまでさせた問題児──に違いなかった。
「あらいたの? あんた誰? あっ、やだあたし? そう! アネットわぁ、あたし」
「……ちょうど良かった。私はあなたの世話役を頼まれたエリー・ロワイエです。あなたが書庫室で待っていると聞いて、友人のアンと探していたところなの」
「ふーん。わざわざ自己紹介してくれちゃったみたいだけど、こっちは《《あんた》》の事なんかどうでもいいけどね?」
──「あんた」……?
この時点で、エリアーナには明日からの苦悩が透けて見えていた。
「それよりもぉー…。やだ、アネットったら。レオンとの遭遇で、頭んなかパニクってる!」
聞き慣れない語り口を繰り広げながら、アネットは鞄の中身をひっくり返す。
ごちゃごちゃと細かいものを床に広げていたが、何やら薄紙に包まれた小さな塊を手に取ってレオンに差し出した。
「はいこれ! 今回わぁ……チョコレート。だって全然逢えないからさ。ずっと鞄んなか入れてたから形くずれちゃった……でも、まいっか」
得体の知れない代物を強引に突きつけられたが、受け取るしかない。
指先でつまんだ塊にレオンが顔をしかめていると、アネットは眉間にその何倍ものしわを寄せた。
「うわー、うわっ。またしくった────! なんだよ、チョコも違うのかよ……ってコトはぁ、正解は飴玉?」
「「…………………」」
相当な変わり者を目の当たりにした衝撃で、突然の告白とキスの戸惑いが霧散する。
エリアーナとレオンは呆気に取られたまま──もう一度、顔を見合わせるのだった。
*
「ふぅぅ……」
さすがに反省すべきだと思う。
──私ったら、また。
ため息を吐けば幸せが逃げていくと言ったのは、誰だったか。
アネットとの《《顔合わせ》》を済ませたアンを伴い、レオンと別れて書庫室を出た。
レオンは名残惜しそうにしていたが、何も知らないアンとアネットの前で、惚れた惚れないの攻防戦を蒸し返すわけにもいかなかった。
疲労がどっと押し寄せる。
エリアーナは、重い足取りでジークベルト家の馬車が待つ裏庭へと歩く。
学園は魔窟……何が起こるか知れない。それでも今日は最悪だった。
──急がなきゃ、御者のアルバートさんが待ちくたびれてる。
眼前に広がる空は群青色から橙色にグラデーションを描き、一番星が煌めいていた。夕風は程なく肌寒い夜風に変わるだろう。
薄紫がかった銀糸の髪が、さらさらと風に靡く。
髪が《《こうなった》》のは、レオンのせい。
──髪留め、返してもらえなかった。一つしか持ってない眼鏡も。
下校が遅くなったのを焦る気持ちのなかで、レオンとの事が首をもたげてくる。
『驚かせたのなら謝る。だがエリー……俺は、本当に』
キスされた時は、驚きと嫌悪感しか湧かなかったけれど。
ふざけているとしか思えなかったけれど。
そのあとに見せたレオンの瞳は、どこか悲しそうで、心許なくて。
「ふざけて、たのよね……?」
額に触れた感覚がまだ鮮明に残っている。
彼の眼差しと相まって、エリアーナの心をほろ苦く揺さぶった。
黄昏の影が、足元をすっと横切る──。
「きゃ?!」
突然、木の影から腕が伸びて、手首を取られた。
強く引かれ、否応なしに立ち止まる。身体が揺らぎ、思わず目を瞑る。
「……エリアーナ」
気付けば、茂みの奥の塀を背に立たされていた──《《二本の腕》》に囲まれるようにして。
「旦那様……っ!」




