幸せな私
コツ、コツ、コツと階段を下りていく。途中何度か転びそうになりつつも、どうにかして扉の前へとたどり着いた桜咲は体で扉を押し開け、転がり込むように中へと入った。
荒い呼吸音が部屋に響く。すると、ビニールの擦れるような音と共に、暗闇からゆっくりと奏渚が姿を現した。
『グルルルゥ……』
低く唸り声を上げ、僅かに開いた口から白く輝く鋭い牙を見せびらかす。桜咲はそんなかのじょをいとおしげにみつめながら、ドア横にあるレバーを軽く撫でる。だが、体力の限界がやって来たようだ。ぐらりとそのまま座り込んでしまう。
薄明かりに照らされた桜咲を見るなり奏渚はより一層深く唸る。部屋に漂う血の香り。桜咲の体には無数の傷が刻まれていた。
切り傷、擦り傷、中には何かで抉られたような傷や銃創のようなものもある。生きているのが不思議なほどの重症の彼女からは、濃厚なご馳走な香りが漂い、彼女を刺激する。
『グルラァァァアアアアアアアアアアッ!』
激しい飢えが桜咲を喰らい尽くせと指令を出しているのだろう。甲高いようでいてどこか轟くような低さと重さを持った声で奏渚は彼女へと飛びかかろうとする。
だが、それは許されない。
体に巻き付いたテープが奏渚の体を引っ張り、それ以上桜咲へと近づくことは叶わない。
苛立たし気に何度もその場で地団駄を踏み、真っ赤な舌で彼女を引き寄せようと伸ばす。が、光が差し込む領域までは届かない。本来であれば、届くはずだが……
「無理、よ……はぁ、はぁ……その規制線が、あるかぎり……貴女の、能力は全て、制限される、から……ゲホッ」
真っ青な顔でそう言った彼女は口から血を吐き出す。が、何事もなかったかのように優しく微笑む。奏渚は桜咲の言葉など無意味だろう。
狂ったように尻尾を振り回し、狂ったように吠え続ける彼女には。
『サァァァァエェェェェェッ! タベ、モノ……ヨコセェェェェェェエエエエエエエエエ!』
「――ッウ……安心しなさい……ちゃんと準備してあるから」
咳き込む桜咲。その度に唾液交じりの血液が吐き出される。視界がだんだん暗くなってきた。
とうとう、全てバレてしまった。行方不明となった少女たちがどうなったのか。だが、どこで、人間たちは勘違いしてしまったのか。
――月橋桜咲は、悲しいことに自分の父親によって怪物へと変えられてしまった。見つけ次第殺せ。
まったく、普段から平和ボケしているからだろうか。とても不愉快だった。なぜなら、月橋桜咲は物心ついた時から――バケモノなのだから。
人間が嫌いで、そんな同じカテゴリーに属している自分自身も殺したいほど嫌いだ。だから、怪物やバケモノというのは間違いない。むしろ、人間とは別のカテゴリーにしてくれることに感謝するほどである。
「まったく、お父様程度の人間に怪物なんて作れるわけないのに」
口の中に溜まった血と一緒にその言葉を吐き出す。そして、歯を見せて笑う。だが、その笑みはどこか悲し気だ。
「……お父様」
科学者である彼だけのことは尊敬していた。人間が大好きなところだけは、どうしても理解できなかったが、あらゆる知識を持ち、それを教えてくれた彼が今の月橋桜咲を作りあげたようなものだ。
彼は、人を生き返らすための実験を続けていた。それは、ただ亡き母ともう一度会いたいというだけ。最初は理解できなかったが、今では何となく理解できる。
だが、そんな彼は母を生き返らせることなく呆気なく死んでしまった。
――桜咲、元気でやるんだぞ。
その言葉と共に家の窓から桜咲を放り投げた彼は次の瞬間、心臓を撃ち抜かれて死んだ。心底幸せそうに死んでいった彼の顔を思い出した桜咲はゲホゲホと咳き込む。
「きっと、お父様は……全部わかってた、のかも、しれないわね……」
視界がかすむ。体内の血液量が少なくなってきたためだ。緩やかに下がっていく体温に寒気を感じた桜咲は“これが、死の一歩手前か”と呑気に考える。だが、そんなのんびりとした時間もそろそろ終わらせなければ。
体を貫くほどの叫び声をあげる彼女を見据えながら、桜咲はフラフラと壁に手をつき、どうにかして立ち上がる。
「っは……はぁ……はぁ……ぐッ」
体中が痛い。意識が飛んでしまいそうだ。
「ほんと……人間なんて……っ」
肩で息をしながら桜咲は壁にあるレバーを手探りで探す。すぐに見つかったそれをしっかりと握ると、今だ叫び続ける彼女を見つめる。その表情は今にでも壊れてしまいそうなほどボロボロの笑みだった。
このレバーを下ろせば、彼女を縛るテープが切れる仕組みとなっている。だが、彼女はまだ下ろさない。最後にどうしても言いたいことがあるからだ。
「奏渚、ありがとう。私に愛を教えてくれてありがとう。大好きよ」
レバーを一気に下ろす。その瞬間、天井から大量の硫酸が雨のように叫び声を上げ続ける奏渚へと降り注ぐ。
ブチン、ブチン。
硫酸で溶けたテープが弾け飛ぶように千切れていく。普通に考えれば、硫酸は彼女にも牙を剥くところだが、予想通りだ。
黒い鋼のように硬質化した体毛が彼女を硫酸から守っている。傷一つ無い彼女を縛る最後のテープが弾け飛ぶ、と同時に奏渚は一目散に桜咲へと迫る。
『――サァァァァエェェェェェッ!』
大きく開かれた口が迫る。ギラりと並んだ牙や真っ赤な舌からは涎が滴り落ちている。その様子がどこか泣いているように見えてしまった桜咲はフッと笑う。
「くだらない。貴女に感情なんてないのに」
そうなるように作ったのだから。
「奏渚、ありがとう。これでやっと人間をやめられる」
それが月橋桜咲の最後の言葉だった。
『ゥヴァァァァァアアアアッ!』
口から真っ赤な血を零しながら奏渚は吠える。その声は酷く重たく悲し気だ。何度も、何度も、吠える。自分の喉が潰れるまで。
『サ……エ……』
奏渚は小さく名前を呼ぶ。だが、もう答えてくれる人間はいない。今まさに自分で食べてしまったのだから。もう一度、彼女の名前を呼んだ奏渚は目の前のドアへと顔を向ける。
ギョロギョロとせわしなく瞳が動く。ダラダラと口の端から血混じった涎が垂れる。
『タ、ベル……ニ、ンゲン……サ、エガ……ヨロ、コブ』
そう考えてしまったらもうここに留まる理由などない。喉を天へと向け甲高い遠吠えを上げた彼女は目の前のドアをぶち破る。
『サエ、サエ、マッテ、テ。カナラズ、ミンナ、タベルカラ』
彼女は階段を駆け上る。待っている彼女の望みを求めて。
――イマカラ、スベテノ、ニンゲンヲ、クイコロシテミセルカラネ。
体を抉るような笑い声が響く。




