崖から落ちたらやっぱり痛いのかしら
一斗缶を抱えた桜咲はいつも通り境界線へとそれを置く。暗闇からテープの擦れる音が響く。そして、ゆっくりとすがたを現した彼女は咆哮を上げる。
『ルゥゥゥゥアァァァアアアアアアアアアアアアアッ!』
桜咲は扉の横の壁に寄りかかると、微笑み一斗缶を見やった。
「奏渚、今日はいつもとは違う物を用意してみたの。気に入るかはわからないけど、食べてみて」
『グルゥゥゥウウウウウッ』
奏渚はしばらく桜咲を睨みつけていたが、一斗缶へと視線を落とすとフンフンと鼻を鳴らす。桜咲は、嗅覚がないのにその行為に意味があるのだろうかと考えつつ腕を組む。
カパッと口を開く奏渚。そのまま食らいつき、一口で一斗缶が消える。そのさまはいつ見ても気持ちがいい物だ。
バコン、ガリ、ボリ。
すがすがしいほどの破壊音。桜咲はニコニコと笑みを浮かべながらその様子を眺める。すると、瞳をトロンとさせた奏渚の顔が桜咲へと向けられる。
「あんまりおいしくなかった?」
『……』
桜咲はそう言って眉尻を僅かに下げる。奏渚は首を左右に傾げると小さく鳴いた。クゥン、と子犬のようなその泣き声に桜咲はホッと胸を撫で下ろした。
どうやら、今日の料理は彼女の口には合ったらしい。が、料理となった材料が彼女にどんな影響を与えるのかはまだ不明だ。桜咲は不安を胸の奥へと放り込みながら彼女に近づくことはせず、その場に腰を下ろす。
奏渚は尻尾をゆらゆらと揺らしながら桜咲を見つめていたが、次第にリラックスした様子で欠伸をした。
「そう言えば、昨日は来れなくごめんなさいね。大会に行った後、貴女のご飯を作ってたんだけど、ちょっと納得いかなくてね……」
眠たそうに瞬きする奏渚は尻尾を軽く揺らす。
「……あぁ、大会の話が聞きたいのね? あんまりおもしろくないけど話してあげる」
ニコリと僅かに微笑んだ桜咲。奏渚はそんな彼女を静かに見つめる。
「結論から言うとね、私が一位を取ったわ」
口角を上げて桜咲がそう言うと、奏渚の瞳が大きく見開かれ、ギョロギョロとくすんだ虹彩がせわしなく動く。その反応に桜咲は気を良くしたのだろう。ふふん、と得意げに笑う。
桜咲が通っている高校は陸上の弱将校だ。田舎の数校しか集まらない寂しい大会では万年最下位争い。それも、殆どが最下位である。
――私さ、いつかみんなであの大会で優勝したいんだっ!
眩しい笑顔でそう言っていた彼女をふと思い出した。桜咲はまだそんなことを覚えている自分の記憶力を褒めつつ、小さく鼻で笑う。
「貴女はそこそこ実力があるのにいつも最下位争いをしている理由がよく分かったわ。あんなメンバーでは絶対に優勝なんて無理ね」
『……』
「とくに二人目の子、一年生よね? あの子、走り方もペース配分もできてない。あれは、練習というよりも才能がないのね」
ため息をつき、天井を仰いだ桜咲。その瞳は呆れに染まっており、奏渚はそんな彼女を見つめながらゴロゴロと喉を鳴らす。
ギョロギョロと全ての瞳が桜咲を射抜く。桜咲は栗色の瞳を細め、見つめ返す。その瞳はゾッとするほど冷たく鋭い。
「貴女がいつも話して、あそこまで必死だからどんなものかと思ったけど……くだらないわね」
吐き捨てるようにそう言うと、奏渚はわずかに瞳を伏せる。言葉を完全に理解しているとは思えないが、どこか悲し気に見えるそれに桜咲は無性に腹が立った。
だが、すぐにその感情を捨て去るように息を吐き出す。
「……でも、残念ね。来年からは中止だそうよ。いつも走っていた貴女ならわかるでしょうけど、ガードレールが無いあそこで他校の生徒が――落ちたそうよ」
あっけらかんと何でもないような声色。奏渚は大きく口を開けて欠伸をすると、鼻先がかゆかったのか床へと鼻をこすりつける。桜咲はそんなかわいらしいこうどうをとる彼女にすっかり機嫌を直し、言葉を続けた。
「そんなに高さは無いけど、おそらく即死だろうってみんな言っていたわ。まぁ、彼女の死体が見つかることは無いからなんとも言えないけどね」
コロコロと楽しそうに笑う桜咲。その子どものような無邪気な笑みを桜咲は暫く見つめていたが、疲れたように瞳を閉じてしまう。桜咲は蚊るく口を尖らせると、立ち上がり彼女へと近づく。
しばらく様子を眺めていたが、どうやら平気だったようだ。よく、人の味を覚えた獣は人を襲うと漁師たちが言っていたから警戒していたが、問題なかったようだ。
「明日からは、薬の量も戻しておきましょうか。ごめんね? すっごく眠いでしょう」
『……サ……エ』
「大丈夫よ。今日はもう貴女は寝ることしかできないからね。ちゃんと傍にいてあげる」
奏渚の首筋を撫でながら囁くように声をかける。その声色はまるで子どもに子守歌でも歌っている母親のように優しくゆっくりとした調子だ。
黒く硬い毛並みを指で梳くように撫でながら、桜咲は「大丈夫、ゆっくり眠りなさい」という言葉を繰り返す。
「奏渚、大好きよ。この世の何よりも、貴女が好き」
『サエ……』
もう殆ど眠っている状態なのだろう。消えかかりそうなのんびりとした奏渚の声に桜咲はその顔に愛おしさを浮かべ、彼女一番喜ぶ顎下を撫でてあげる。
グルグル、と喉を震わせる。もう殆ど眠っているというに、と温かい気持ちでいっぱいになった桜咲は思わず「もう、本当に可愛いんだから」と呟く。
「……ずっと一緒にいましょうね」
そう言った桜咲の顔から感情が抜け落ちていく。なんの感情も持っていないかのようなそれはまるでロボットのようだ。
今のままでは永遠に一緒にいることはきっと無理だろう。生き物というカテゴリーにいる限り、“死”と言うものからは逃れられない。
加えて、手に入れた平穏を脅かそうとする“害虫”も現れている。桜咲は穏やかな寝息を立てる彼女の目元に指を滑らせる。
「問題をそろそろ解決すべきかしら……」
桜咲はフッと息を吐き出す。変につけられても面倒なので警戒していたが、しつこく嗅ぎまわって来る彼女たちがそろそろ本気で目障りになってきた。
早々に排除したいところだが、まだ高校生である彼女をこの村から排除するのは容易ではない。眠る彼女に寄りかかりながら、顎に手を当てて唸る。が、これといって解決策が浮かばない。
「……殺すのは簡単。だけど、死体は……」
桜咲は眠る彼女へと顔を向ける。気持ちよさそうに眠る彼女はいつもと変わらない。
「なんだ、死体を処分するのも簡単なことだったわね。私としたことが、ボケてきたのかしら」
桜咲はフッと鼻で笑う。そして、そっと彼女を撫でる。その表情はまるで、新しい悪戯を思いついた子どものように無邪気だ。
「待っててね、次来るときは貴女に最高の料理を持って来るから」
鼻先にキスを落とした桜咲は部屋を後にするのだった。




