臭みを取るのすごく苦労したのよ? 貴女は気にしないでしょうけど
桜咲はいつもより慎重に階段を下りていた。無理もない。今の彼女の両手は一斗缶を抱えていたからだ。
どんなに慣れた階段とはいえ、下が見えないというのは僅かな不安を生み出す。加えて、今日の料理には絶対の自信があるのだ。故に落として無駄にするなどあってはならない。
慎重にゆっくりと階段を下り終えるた桜咲はふぅと息を吐き出した。そのまま肩で額の汗を軽く拭う。今日は雨だからか、少し蒸し暑い。
「もう少し薄着で来た方がよかったかしら」
一斗缶を抱え直し、肩でドアを押し開ける。すると、まず彼女を迎えたのは強烈な殺気立った。慣れてない人間が居たらそのままショック死してしまうほどのそれに桜咲は“今日は起きてる”とそっと胸の中で呟く。
「奏渚、いつもより遅くなってごめんね」
そう言って微笑を浮かべた桜咲。持っている一斗缶をいつもの境界線へと置く。サラ、サラ、とテープの擦れる音と共に暗闇から彼女が現れる。すると、いつもとは違う物が置かれていることに戸惑っているようだ。
『……グルゥゥゥ』
経過した様子で一斗缶を見つめる。だが、やはり脳みそまで侵食した“飢え”には勝てなかったようだ。口を開き、舌を使わずに彼女はそのままかぶりつく。牙が一斗缶に食い込みギィィィィという悲鳴があがり変形する。
奏渚は一斗缶を加えたまま喉を天井へと向けると、一斗缶はまるで吸い込まれるように彼女の大きな口の中へと消えていく。そして、いつものようにそれを一気にかみ砕いた。
ガコン、バコン、バキッ。いつもと違って硬そうな音が響く。桜咲はそれを眺めながら彼女がどんな反応を見せてくれるのかを今か今かと待ちわびる。
だが、やはりいつもより食べるのに手こずっているようだ。無理もない、今までとは比べ物にならないほどの量の食材が入っているのだ。
暫く噛み砕く音が響いていたが、最後のゴクンという音で彼女の食事は終わりを告げる。そして、そのまま床へと寝ころぶ彼女は“早く来い”と言わんばかりに尻尾を床へと叩きつけた。
『サ、エ。サ、エ。ニク、ニク』
初めて聞いた別の単語。簡単ものだが、桜咲はどうしようもなく嬉しくなり、彼女の首筋へと飛び込む。硬くもどこか柔らかい毛並みが気持ちいい。
グリグリと顔を押し付けていた桜咲は顔を上げる。ギョロギョロと動く彼女の瞳を見つめ微笑む。その表情はとろけるような柔らかさだ。
「美味しかったでしょ! ふふふ、いつもより嬉しそうだからすぐにわかったわ」
『サエ、サエ、サエ……』
「本当に美味しかったのね。うふふ、いつもより頑張った甲斐があったわ」
ペロペロと桜咲の顔を舐める彼女の眼差しは嬉々としている。体に巻き付いた尻尾はもう離さないといわんばかりにキュッと締めてくる。本来であれば、彼女の尻尾は生き物を絞め殺すためにできているが、桜咲の体を傷つけない程度の力しか込められていない。
桜咲はそんな優しい彼女の三つある、真ん中の瞳の淵へとキスを落とす。すると、お返しだといわんばかりに真っ赤な舌で桜咲の口元と舐めた。
「ふふふ」
『サエ、サエ』
トロンとした表情でいる奏渚の顔を撫でながら桜咲はこれ以上ないほどの幸せに包まれていた。冷たい空気が流れていようと彼女の傍にいればへっちゃらだ。
奏渚も同じ気持ちでいてくれるはずだ。ほぼ確信ともいえるそれを桜咲は絶対に疑わない。なぜなら、彼女には月橋桜咲という人間しか頼れるものはないのだから。
「ずっと一緒よ。貴女と私はたとえ死んだとしても永遠に一緒よ」
『……サエ』
「貴女も同じことを考えてくれてるでしょうね。ふふふ」
彼女の真っ赤な舌に口づけを落とす桜咲。そのままポスンと彼女のお腹に背中を預け、気持ちよさそうに欠伸をした。すると、奏渚も釣られるように大きな欠伸をする。
「ふふっ、欠伸って誰にでも移るのね」
『フォン……』
「大きな口に似合わず可愛らしい欠伸。そんなとこも好きよ」
クスリと笑った桜咲は巻き付く尻尾の毛先をクルクルと弄ぶ。
「私ね、熊の解体って中学生の時に一回やったことがあるの。まぁ、あの時は力は無いし、力の使い方もわからなくて殆どお父様に任せてしまった。……けど、今回はちゃーんと一人でやり遂げたの。すごいでしょう?」
『……スゥゥ』
「ふふふ。でも、初めての時より小さい個体だったみたいでね、あまり」
ふぅ、と息を吐き出した桜咲。
「楽しくなかった。もう少し鎮静剤を少なくしとけばもっと面白かっただろうけど……山ってね、案外叫び声が響いちゃうのね……静かな田舎だとなおさら」
桜咲はそう言ってため息をつく。せっかく、自分の子どもが見ている目の前で母親を生きたまま解体したのに、鎮静剤を打ちすぎた子熊はぐったりしているだけで殆ど反応を示すことは無かった。もっと、子熊が苦しみ叫ぶ姿を見たかったのに、と桜咲は考えながら顔を上げる。
すると、彼女の角に巻いた真っ赤なリボンが解けかかっていることに気が付く。あのまま放っておけば、いずれは外れて彼女は落ちているそれを食べてしまうだろう。
「奏渚、少し頭を下げて」
桜咲がそう言うと、彼女は眠たそうな表情でいながらも大人しくゆっくりと頭を下げた。角へと触れた桜咲はそれをグッと下げ、リボンへと手をかける。そして、キュッと両端を引っ張る。
「……よしっ、これで大丈夫。あんまり部屋の中で暴れちゃダメよ?」
『ルゥゥゥゥ』
「その顔は絶対に無理ね」
今日何度目かのため息を吐く。すると、彼女の尻尾が桜咲の顔を優しく撫でていく。フワフワとはしていないが桜咲は気持ちよさそうにされるがままとなる。くすぐったく思わず身をよじりそうになる。
「そう言えば、貴女の友達の朱莉さん。まだ、私のことを見ているみたいなの。慣れてしまったせいで気付かなかったのね。クラスメイトの子が教えてくれたの。……まったく、目障りな人」
『……』
「あ、そうだ。明後日は少し遅くなってしまいそうなの」
桜咲は申し訳ないような寂しそうに瞳を伏せる。すると、奏渚は不思議そうに瞳をギョロギョロと動かす。
「そんなに心配しないで。ほら、前に言ったでしょう? 陸上部の助っ人やるって。本当は嫌だけれど、朱莉さんの疑惑解消のきっかけになるかもしれないからね、行ってくる」
どうしてあそこまで怪しまれなければいけないのか。まぁ、奏渚が学校に来なくなってもう随分と経つ。村人たちは一人暮らしをしていた奏渚のことを特に気にしていないために問題にはならなかったが、友達という存在はそうはいかないらしい。
特に、奏渚の親友だという朱莉さんは彼女がいなくなってから毎晩血眼になって色々な場所へと行き奏渚の痕跡を探しているという。
「やっぱり、適当な物でも用意して貴女が死んだことにするべきだったわね……ここは他人に対して無関心だからって油断していたわ」
『……』
「ねぇ、奏渚はあの子と仲が良かったわね。確か、家が隣だったかしら。登下校はいつも一緒だったような記憶があるわ」
桜咲はそう言った自分に驚愕した。まさか、他人のそんなことを覚えていたとは、と。奏渚はいつも引っ付いてきたせいで覚えざる負えなかったが、もう一人の方をここまで覚えていることが正直驚きだった。
ペロリと真っ赤な舌が桜咲の首筋を撫でる。ひんやりとしたそれに彼女の口からは甲高い声が漏れ出る。
「――ひゃっ……ちょっと、奏渚」
首筋に手を当てながら桜咲は軽く彼女を睨む。が、自分の口からあんな声が出ると思っていなかった桜咲の顔は若干赤らんでいる。
『グルル……』
「……はぁ、まったく」
どこか楽しそうに喉を鳴らす奏渚の鼻っ面を軽く指ではじいた桜咲。そのまま巻き付いていた尻尾から抜け出しいつも通りドアへと手をかけ、振り向く。
「またね」
その声に返事は帰ってこない。ただ、耳をつんざくほどの咆哮が響くだけだった。




