明日は何が食べたい?
奏渚の様子がおかしい。それは、いつも通り境界線へとトレーを置いた時に感じた。
常に地獄のような空腹に満たされている彼女ならばトレーを見た瞬間に勢いよく真っ赤な舌を伸ばすはずなのに。
今日は暗闇から出てこようとしない。桜咲は不安になった。もしかしたら、彼女が病気にでもなってしまったのでは、と。だが、今の彼女へと近づいてはいけない。
これが、誘い込むための“罠”の可能性が高いからだ。たとえ、信頼関係が築かれていようと、それは自殺行為に等しい。なぜなら、空腹状態の彼女はただの――獣に過ぎないのだから。
「奏渚? どうしたの?」
声かける。が、返事はない。ただただ、暗闇から静かな呼吸音が聞こえるだけだ。桜咲はわずかにその表情に安堵を浮かべると、閉じた扉の横の壁に背を付け腰を下ろす。
呼吸音が聞こえるということは生きている。そして、その安定した呼吸リズムから、桜咲は一つの考えへとたどり着く。それは――彼女が眠っている、と。
そう考えれば、全ての行動に納得がいく。彼女に嗅覚は無い。あるのは鋭い味覚とはるか遠くまで見通すことのできる視力ぐらいだ。故に、香ばしい香りを放つ料理を置いたところで彼女を起こすきっかけにはならない。
「私が声をかけたのに起きないってことは、よっぽど眠りたいのね。まぁ……たまにはいいかしら」
そうは言っても寂しい。桜咲は不満げに口を尖らせた。彼女はこの時間の為に苦痛でしかない日常を送っているのだ。なのに、最愛の彼女は夢の中……仕方なく、桜咲は独り言を始める。
「そろそろ、小動物を料理するのも飽きたわね。それに……貴女の大きさじゃもうきっと物足りないでしょうし」
目が慣れて暗闇にうっすら浮かぶ彼女の大きな体を見つめる。少し前までは子犬ぐらいだったはずなのにいつの間にかこんなに大きくなった。まぁ、そんなことは予想で来ていた。だから、そのためにこの部屋を大きめに作ったのだから。
桜咲はスゥスゥ、という可愛らしい寝息を聞きながら、先日のクッキーを与えた日を思い出す。やはり、いつもの量じゃ足りなくなっていたのだろう。嬉しそうにクッキーを頬張り噛み砕く彼女の姿を思い出し、桜咲はクスリと小さく笑う。
もっと、食べさせてあげたい。いろんなものを。だが、たかが高校生である桜咲が食料を調達するのにも限界というものがある。
「……お父様の動物じゃ、小さい物ばかりだし」
ゴミ箱に捨てられたスズメやカラス、たまにミニブタも入っていたが……あれは、薬品漬けで死んだ物ばかりだ。奏渚はとてもデリケートな存在だ。もしも、死体に含まれた薬品が彼女になんらかの影響を与えるかもしれない。
その為、桜咲は薬品漬けで死んだ物ではなく、素材を取るために解体された死体を使っている。が、それも最近では少なくなってきている。
「はぁ……別に狩りをすればいい話だけど……あの山、大きな動物いたかしら」
桜咲はため息をつく。学校の近くに山はあるが、あんな小さな山に大型の動物がいると思えない。せいぜい、猿やイノシシぐらいだろう。そこまで考えて、“最近、その山で熊が目撃された”という話を桜咲は思い出した。
確か、昨日の全校集会で校長が話していた。無駄に長くくだらない話ばかりするので、そこを思い出すのに時間がかかってしまったが、桜咲は“目撃されたのは子熊だが、近くに母熊もいる可能性があるので注意ししてほしい”というとこまで思い出すと、思わず笑みを浮かべていた。
この地域で熊は本当に珍しい。おそらく、どこからか迷い込んできてしまったのだろう。
「ちゃんと血抜きして解体すれば持ってこれそうね……ふふふ、楽しみだわ」
美味しい料理を作るためとはいえ、めんどうとはいえ、近所の人間たちに熊料理でも訊きに行こうか。本で調べるよりもはるかに早く、食べたことがあるという情報ほど確実なものは無い。
桜咲がどうやって熊を殺すかを考えていたその時、カシャ、カシャ、とビニールテープが擦れるような音が暗闇から漏れ出た。
『グルルルゥゥゥゥッ』
「あら、おはよう奏渚」
まだ寝ぼけているようだ。常人であれば気絶してしまいそうなほどの殺気と吐き気を催す程の邪悪を引き連れてゆっくりと起きあがる奏渚は、左右に体を揺らしながらトレーのある境界線までやって来る。その巨体とツノが壁にぶつかるたびにガコン、ガコン、という音が跳ねる。
奏渚は殆ど閉じている瞳でトレーを見つめると、カパッと大きく口を開くとその中にある舌を伸ばす。そして、数回トレーを突いたそれは掬い上げ口の中へと放り込む。
バリ、ボリ――ブシャァァァァァッ!
『グォォォオオオオオッ!?』
奏渚の閉じた口の隙間から噴き出す真っ赤な液体。それはまるで血飛沫のように部屋中に飛び散り、桜咲の目の前もわずかではあるが、赤い液体がベシャっと飛び散った。
真っ赤なソレを見つめながら奏渚は驚きで口を開いてしまい、そこからバラバラと噛み砕かれた肉塊や銀色のネジや釘などといったものが口の中に残っていた赤い液体と共に床へと散らばり、カラン、カランという音が響く。
『サ、エ……サエ』
助けを求めるような視線が桜咲を貫く。が、とうの彼女は顔を俯かせ肩を震わせていた。奏渚が不思議そうに首を傾げたその時、大きな――笑い声が桜咲の口から飛び出していた。
「あははははっ」
『……グルルゥ』
奏渚はその笑い声を睨みつけると、床に散らばってしまった食事を舐めとり再び口の中へと戻す。そのギョロギョロと動きながら笑い続ける桜咲を睨む眼差しはどこか怒っているようにも見える。そんな、視線に気づいていても桜咲は、お腹を抱えて笑い続ける。
おそらく、人生でここまで笑ったことは無いだろうというほど笑った。きっと、学校の人間たちが見たら驚いてしまうほどに。が、次第に落ち着きを取り戻し、数分もすればいつも通りの月橋桜咲がそこにはいた。
と言っても、その顔にはまだわずかな笑みが浮かんでいる。
『サ……エ……』
「ふふ……ごめんなさい。ちょっと……おもしろくて……ふふっ」
そう言って桜咲はポケットから一つの缶を取り出す。どこにでもありそうな形をしたそれには“トマトジュース”と書かれている。奏渚が文字を理解しているとは思えないので、桜咲は「これはトマトジュースよ」と言って笑う。
「貴女ってどんなものでも噛み砕けるでしょう? だから、液体の入った缶ジュースとか噛み砕いたらどうなるのかなって思って入れておいたの。驚いたでしょう……ごめんね?」
申し訳なさそうな顔で謝っているものの、笑いを必死に堪えているために口元は歪んでいる。奏渚はフンっと鼻を鳴らすとその場に伏せた。
ギョロギョロと動かした瞳が桜咲を射抜く。その視線が非難しているようにも見える。
「もう、ごめんね? 明日は美味しいもの持って来てあげるから許して?」
桜咲はそう言って奏渚の鼻先へと抱き着く。彼女の口に付いていたトマトジュースが服へと付く。まぁ、どうせ捨てる予定だったカーディガンだ。桜咲は彼女の鼻先へと顔を押し付けスゥっと大きく息を吸い込み長く吐き出す。
「ねぇ、聞いてくれる?」
そのままの体勢で桜咲が声を零す。その声は酷く暗い。
「……再来月、修学旅行があるの」
『サエ……?』
「行きたくない」
泣き出しそうな声。奏渚は下で桜咲の顔を軽く舐める。その舐め方がいつもより優しく感じた桜咲はわずかに微笑み、瞳を閉じる。
「貴女と離れるなんてイヤ。学校がある日はこうして夜しか会えないだけで心が張り裂けそうなのに、修学旅行ごときで4日も会えないなんて……きっと、寂しくて死んじゃうわ」
『サエ……』
奏渚が小さく喉を鳴らす。
「それに、最近……朱莉さんにずっと見られている気がするの……ほかにも、誰かが……多分一年生の子よ。だって、青いリボンを付けていたから」
グリグリと顔を彼女の鼻先へと押し付け、桜咲は疲れたように呟く。狭い空間に一緒にいるだけでも吐き気がしそうなのに、一日中見られているというのは思ったよりも心にストレスを与えているようだ。
フンフン、と奏渚の鼻息が胸を押す。少し息苦しかったのだろう。桜咲は「ごめんね」と謝って距離を取る。そして、そのままドアまで奏渚を見たまま後ずさる。
「じゃあ、また来るわね」
桜咲の声はひどく疲れていた。




