魚嫌いの貴女
階段を下り、肩で扉を押し開けた。生暖かいようでいてどこか冷たい空気が体へと叩きつける。ビリビリと肌を突き刺すような殺気に桜咲はフワリと微笑み、口を開いた。
「いい子にしてた?」
『――グルラァァァアアアアアアアアアアッ!』
轟く咆哮。ビリビリと震える空気。その音量は凄まじい。桜咲は骨の髄まで響く彼女の咆哮にこれでもかと表情を柔らかくし、幸せそうに微笑む。
持っていたトレーを彼女が潜む影と、桜咲が今立っている光が差し込んでいる場所との境界へと置く。色とりどりの野菜やふっくらとした白身魚などのおいしそうな料理が乗ったそれから白い湯気が立ち昇る。
だが、そんな美味しそうな料理の上には、まるで削ったチーズでもトッピングされたかのように――銀色に輝く釘が散りばめられていた。
暗闇から姿を現した奏渚は、グルルと低く喉を震わせトレーに乗った料理を見つめる。ギョロギョロと動く瞳は警戒しているようにも見える。が、彼女を埋め尽くす空腹には勝てないのだろう。
カパリと大きく開いた口から真っ赤な舌が伸び、トレーを掬い上げる。舌から垂れた唾液がまるで床を濡らすが、気にせず彼女は持ち上げたトレーを自分の口の中へと放り込む。
ガリ、ゴリ、バリ、グチャ。そんな音が響く。奏渚がそれをかみ砕いていくたびに、僅かに開いた口の端から、折れた釘やトレーの破片がパラパラ落ち、カラン、と音が床を跳ねる。桜咲はまるでおやつを頬張る小さな子どもでも見ているような気分だった。
パラパラと落ちるそれらを拾い上げ、奏渚に口を開くように声をかける。すると、ゴクンと口に入っていたものを飲み込んだ彼女が口を大きく開く。
「もうっ、ちゃんと注意して食べなきゃダメよ」
『サエ、サエ……』
「……あぁ、今日のご飯、あんまりおいしくなかった?」
いつもよりワントーン低く名前を呼ばれた桜咲はわずかに眉尻を下げ、ポケットからタオルを取り出す。そして、奏渚口の周りに付いた唾液を丁寧に拭いていく。されるがままの彼女ではあるが、ギョロギョロと動く左右の瞳たちは全て桜咲を睨んでいる。
桜咲はその瞳に不満の色が見えることに気が付くと、がっかりしたようにため息を吐く。奏渚は魚が嫌いだ。
「やっぱり、好みはどうにもならないってことかしら。できれば、貴女には好き嫌いをなくして欲しかったのだけれど」
そう言ってもう一度ため息をつく。だが、こんなことがあるのはわかっていたことだ。初めて彼女が“サエ”という言葉を発した時点でなにかが彼女に残っているということはすぐに想像できた。
だから、くだらないことを覚えているのね、とは思いつつ。桜咲は涎がべっとりとついたタオルを彼女へと食べさせる。嬉しそうに頬張るそれを見つめながら、次の料理は何にしようかと考える。
「……魚はダメとなったらやっぱりいつも通り肉よね」
『……サェ』
「あら、どうしたの?」
小さく鳴いた奏渚は桜咲の顔色を窺うように首を傾げる。その姿はまるで、自分が怒られるのではと怯えている子犬の様にも見えた桜咲はフフッと笑う。たとえ、それが相手を油断させるための動作だとしても可愛いと思ってしまった。
優しく奏渚の首筋を撫でた桜咲は安心させるように微笑みかける。
「怒ってないわ。だから、安心しなさい」
『サエ……』
納得したように寝転がる奏渚の背中に体を預けた桜咲はそのままズルズルと滑るように腰を下ろす。そのまま真っ暗な天井を見上げる。彼女の為に少し天井を高めに作った地下室。まぁ、その代わり、来るまでの階段がどうしても長くなってしまったが。
毎日、肉を与えては栄養バランスが偏ってしまう。まぁ、今の彼女に栄養バランスなんて概念は必要ないので考えても無意味ではある。だが、必ず鉄を大量に食べさせなければいけないので、そこさえ注意すれば、基本的には何でもいいが……
「ねぇ、明日は何食べたい? 釘はもう飽きちゃったかしら。やっぱり、この前あげたネジとかコインの方がいい?」
『……サエ』
「ふふふ、まだご機嫌斜めのようね。大丈夫よ、明日はちゃんとお肉を持って来てあげるからね」
ペロペロと奏渚の長い舌が桜咲の顔を撫でる。しっかり加熱したおかげで魚の生臭さは無いが、どことなく鉄が香る唾液はまるで血の臭いだ。が、そんなもの幼いころから嗅いできた桜咲にとって慣れ親しんだ香りともいえる。
桜咲そっと彼女の舌に口づけを落とす。ぬるりと生暖かい感触。ほんのりと頬を紅潮させた桜咲は、もう一度、彼女の舌に唇を当てる。奏渚はギョロギョロと瞳を動かし彼女を見つめた。
『サ、エ……』
「あら、もしかしてキスは初めてだった?」
いたずらっ子のように笑う桜咲。奏渚は舌を軽く動かし、彼女の唇へと舌先をちょん、よ軽く押し当てる。桜咲は一瞬瞳を見開くと、すぐに幸せそうに破顔した。
「ふふふ、安心して? 実は私も初めてなの。まぁ、貴女なら知っているかもしれないけどね」
もう一度、桜咲は自分から彼女へとキスをする。するたびにどうしようもなく心が温かくなり、彼女は“これが、幸せってやつかしら”とそっと胸の内で呟いていた。陽だまりのように温かい愛おしさが溢れ、果てしないほどの幸福が体を包む。
奏渚の尻尾がシュルリと桜咲の体へと巻き付く。冷たいような温かいようなその感触に思わず頬が緩む。彼女も同じ気持ちでいてくれているだろうか。
眠そうな彼女の瞳に映る自分の姿を見つめながら、桜咲の口から言葉落ちる。
「ずっと……このままでいられたらいいのに」
桜咲はまさか自分の口からそんな言葉が出るとは思わず、驚愕を顔に浮かべる。が、そんなことを呟いてしまうほどに、人生で初めての幸せを噛みしめているのだろうと納得し、巻き付いている尻尾へと頬ずりをした。
「そういえば、聞いてくれる?」
思い出したように桜咲は不意に口を開き、そのまま言葉を続ける。
「前に貴女が美味しいって言ってた竜田揚げ丼? だったかしら、あれを食べてみたわ。すごく美味しかった」
『サエ……』
「ふふふ、意外? でも、本当よ。他の人には“月橋さんってお弁当じゃない日もあるんだね”って言われてしまったけど、たまには食堂で食べるのもいいわね」
カラカラと笑っていた桜咲だが、すぐに瞳を伏せる。奏渚は瞳をギョロギョロと動かし、彼女を見つめる。その視線がどこか心配しているようにも見えた桜咲は再び果てしないほどの愛しさで満たされる。
「でも、もう食堂では食べないと思うわ。だって、静かに食べたいのにどんどん私の周りに集まって来るんだもの。……貴女だけよ。私が人間嫌いだって見抜いたの。それなのに、告白してきたときはどうしようかと思ったけれど」
その言葉に奏渚はグルルと喉を鳴らす、桜咲は小さくため息をつく。やはり、覚えていることはもう殆どないようだ。無理もない。今の彼女を支配しているのは強烈な飢えなのだから。思い出などとうの昔に塗り潰されている。
だが、桜咲にとって彼女の記憶などどうでもいい。名前を呼んでくれさえすれば、逆に記憶など邪魔なだけだろう。
『サ、エ、サエ……』
グルルゥ、と低いうなり声が響く。それは心臓の奥底まで響くように低く重たい。桜咲は巻き付いていた尻尾から滑るように抜け出し、立ち上がる。その瞬間――獣の咆哮が轟く。
もう、終わりか。桜咲は振り向き彼女へと視線を向ける。
『ッルァァァァァアアアアアアアアアアアッ! サァァァァエェェェェェッ!』
「……最近、早いわね……もう少し、量を増やすべきかしら」
顎に手を添えた桜咲は狂ったように吠え続ける彼女を見据える。先ほどまでの大人しさなど幻想だと言わんばかりの変わりよう。その姿はまるでおとぎ話のバケモノのようだ。
激しく頭部の角を振り回すたびに巻かれたリボンがヒラヒラと揺れる。天井は高いが部屋の広さはそこまで広くない。壁にぶつかるたびに火花が飛び散り、僅かに床が揺れる。が、それだけだ。
奏渚を縛る規制線がそれ以上の動きを許さない。桜咲へと近づこうとしても、彼女が影と光が差し込む境界線を越えることはできない。舌を伸ばしたって桜咲の身体能力があれば避けるなど容易いことで、捕まえることもできない。
「まだ、貴女には捕まってあげないわ」
『サァァァァエェェェェェッ! サァァァァエェェェェェッ!』
「どんなに情熱的に呼んだって無駄よ。それじゃあ、また来るわね」
桜咲がそう言って扉へと手をかけたその時だった。ゾクリとした何かが背中を走り抜けたのを彼女は感じた。それは、背後にいる彼女の殺気ではない。
ギィ、と扉が開き、見慣れた階段から風が舞い降りてくる。桜咲は背後の彼女を一瞥することなく地下室から出ると小さく呟く。
「……なにかしら、これが嫌な予感ってやつかしら」
桜咲はそんなくだらないことを考える自分にため息をつくのだった。




