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赤色のリボンが似合う貴女


 コツン、コツンという音が心地よい。両手でトレーを持った少女――月橋桜咲(つきはしさえ)はその口元に笑みを携えながら軽い足取りで階段を降りていく。

 もう何度も上り下りを繰り返しているおかげで、目を瞑っていとも下りることができるだろう。だが、そんなことをしても意味はない。


「ふふ、今日のはいつもとちょっと違うから、きっとあの子も喜んでくれるわ」


 光が届かないからか、ひんやりとした空気とわずかに鼻腔をかすめていく埃のニオイ。桜咲は最後の一段を丁寧に下りると、目の前にそびえる頑丈な鉄扉を肩で押し開けた。

 ひゅう、とドアの隙間から吐き出されるは生暖かい空気。まるで、夏がやって来る一歩手前の春の陽気が連れて来たような不思議な風。そして、それに混じる埃と獣ニオイが桜咲の体の横を通り抜け、階段を駆け上がっていく。


「遅くなってごめんね。寂しかった?」


 桜咲は嬉しそうに表情を綻ばせると、そう言って部屋の中へと入る。すると、次の瞬間――心臓を叩くような低い声が轟いた。


『ゥヴァァァァァアアアアッ! サァァァァエェェェェェッ!』


 常人が聞けばその恐ろしい声に足が竦んでしまうだろう。だが、桜咲は幸せそうに目を細め、その声の主に見えるようにトレーを置く。色とりどりの料理が乗ったそれからは湯気に乗って美味しそうな香りが漂っている。

 すると、部屋の奥。暗闇に潜む声の主は威嚇するような唸り声を収め、ゆっくりと姿を現す。

 ザリ、ザリ、と重たい手足を引きずるようにして現れたソレは黒い毛皮のような物に覆われていた。それだけを見れば人は熊だと思うだろう。だが、それは普通の熊とは決定的に違う部分を持っていた。

 立ち入り禁止と書かれた黄色いテープに体を縛られたソレは二メートルはあるだろうか。鋼のように硬そうな毛に覆われたソレの顔には左右三個ずつの目が横並びにあった。

 ギョロギョロとせわしなく動く瞳は見ているだけでおぞましい。そして、ソレの額には天へと伸びるように二本の鋭い角が生えている。


 その姿を見た者は誰もがこう思うだろう――バケモノ、と。


「今日は腕によりをかけて作ったのよ」

『ゥヴァァァァァアアアアッ!』


 桜咲の綿あめのように甘い声が響く。すると、バケモノは返事のように吠えると、そのままカパリと大きな口を開けてトレーへと顔を近づける。

 ギラりと並んだ巨大な牙と真っ赤な舌。ダラダラと零れた涎がトレーへと落下し、ベチャリ、ベチャリ、という音が響く。バケモノは伸ばした舌で器用にトレーを持ちあげると、それを口の中へと運び、一気にかみ砕く。

 バリ、ガリ、ゴリ。その咀嚼音を聞いているだけで人は恐怖で動けなくなってしまうだろう。だが、桜咲はまるでクラシック音楽でも聴いているかのように瞳を閉じ、その表情は柔らかい。そして、食事に夢中なバケモノの前へと腰を下ろす。


 バケモノは何度も、何度も、口に含んだ食事を味わうように細かく噛み砕く。暫くモグモグと口を動かしていたバケモノが喉を天へと向ける。

 ゴクンという音と共にバケモノの喉が膨らみ、食料が通り抜けていく。桜咲はその光景を眺めると、満足げに微笑みバケモノへと手を伸ばす。


「美味しかった?」

『サ……エ……サエ……』

「そう、美味しかったのね。よかった」


 顔を近づけるバケモノの鼻先を撫でる。その触り方はまるで壊れ物にでも触れているかのようだ。今日はいつもより大人しい。それほど今日の食事が美味しかったのだろう。思わずにやけてしまう顔に桜咲はどうしようもなく心が温かくなる。


「今日はね、貴女の苦手な数学のテストがあったわ。まぁ、私はいつも通り満点だけどね」


 カラカラと笑う桜咲。バケモノは小さく鼻を鳴らし、鼻息を彼女へと吹きかける。


「そう言えば、今度の日曜日に陸上部は大会があるらしいわ。でも、人数が足りなくてね、私が助っ人で出ることになったの。面倒だから嫌だけれど、一応出るわ」

『サエ……』

「安心して。私、これでも足は速さには自信があるわ。まぁ、今の貴女には勝てないかもしれないけどね」


 バケモノがカパリと口を開ける。ギラりと並んだ牙があふれ出た唾液でコーティングされ、薄明かりに照らされたそれはキラキラと輝く。長い真っ赤な舌が桜咲の顔へと伸ばされ、それは彼女の顔を舐め回す。

 他人が見れば、肉食獣が食料である肉を味見している様子にしか見えないものだが、彼女はこれが最近見せるようになった愛情表現を真似たものだと知っている。

 デザートに入れておいた果物のおかげか、顔にべったりとついた唾液からは甘い香りが漂っている。桜咲は持っていたタオルで顔を拭くと、バケモノから離れる。


「さて、そろそろ帰らなきゃ」

『……サ、ェ……』


 バケモノが小さく鳴く。その声はまるで子猫が飼い主に“いかないで”と言っているようにも感じた桜咲の頬がにやける。

 最初の頃は見るなり襲ってきたので、随分と苦労したものだ。が、今ではここまで懐いてくれた。それが、相手を油断させるためかもしれないものだとしても桜咲は沸き上がる高揚感に包まれながらバケモノから背を向け、肩越しに振り向く。

 バケモノは桜咲を見つめている。左右三個ずつ並んだ瞳がギョロギョロ動き、その全てが桜咲を射抜く。それだけでどうしようもないほどの愛おしさで満たされてしまうなんて単純だろうか。


「……あ、そうだった。貴女にはまだ渡す物があったんだったわ」


 体ごと振り向いた桜咲はそう言ってフワリと微笑む。バケモノが小さく喉を鳴らす。小石同士を擦り合わせたような不協和音。だが、桜咲の耳にはその音はなによりも美しい音となって吸い込まれていく。

 桜咲はカーディガンのポケットから少し大きめの布を取り出す。真っ赤なソレを見せびらかす様に動かし、バケモノに頭を下げるように手招きする。

 バケモノが頭を下げると、桜咲は「いい子ね」と言ってバケモノの顎下を軽く撫でた。


「少し、ジッとしててね」


 乳白色に煌めく滑らかな触り心地の角へと手を伸ばした桜咲。背伸びしたつま先がフルフルと軽く震える。そして、手に持っていた布をバケモノの角へと巻き付ける。


「……よし、これでいいわ」


 浮いていた踵を地面へとつけた桜咲は満足げに微笑む。バケモノはギョロギョロと瞳を動かし小首を傾げる。その可愛らしい仕草に桜咲は思わず胸を抑えそうになってやめる。代わりにバケモノの鼻先をそっと撫でる。

 そんなバケモノの角に巻きつけられた真っ赤なリボンが揺れる。蝶結びされたそれはバケモノが体を揺らすたびにゆら、ゆら、と揺れる。


「うんっ。とっても似合ってるわ。可愛い」

『サ……エ……』

「あら、お腹がすいたのね。まったく、さっき食べたばかりでしょ」


 桜咲はそう言うが早いか、一歩下がる。その瞬間、先ほどまで桜咲が立っていた場所へとバケモノの拳が振り下ろされる。

 ゴリィッ、という硬い骨が砕けるような音が響く。バケモノは不快そうにグルルと低く喉を鳴らす。そんなバケモノが殴った床には傷一つできていない。

 ここの床は少し特殊だ。たとえ砲弾であろうと傷つけることは不可能。ゆえに、バケモノは自分の体を痛めつけただけだ。


「前にも言ったでしょう。床は硬いって。まぁ、言葉を理解できない貴女じゃ無理な話でしょうけど」

『グルラァァァアアアアアアアアアアッ! サァァァァエェェェェェッ!』


 ため息をつく桜咲へとバケモノが吠える。床へと叩き下ろした反動で潰れた拳が時間を撒き戻す様に再生していく。


「もうっ、今日は宿題があるから遊んであげられないの」

『ゥヴァァァァァアアアアッ!』


 バケモノが桜咲へと飛びかかる。だが、体に巻き付いた規制線がそれを許さない。リードで繋がれた猛犬が固定され引っ張られ、無様に転ぶようにそのまま床へと倒れ込むバケモノが苛立たし気に唸る。

 桜咲はそんなバケモノを見下ろしながらカラカラと笑う。


「ふふふ、おバカさんね」

『ッアァァァアアアア! サエ! サァァァァエェェェェェッ!』

「私を食べたい? でもまだダメよ。だって、私ももう少しこのまま貴女といたいもの」


 思うように動けないバケモノを見下ろし桜咲は微笑む。その栗色の瞳は楽しそうに薄明りを反射し煌めく。バケモノはそんな彼女を睨みつけ、フゥ、フゥ、と悔し気に息を吐き出す。


「ふふ、じゃあ、今度こそ帰るわね」


 桜咲は踵を返し、扉へと手をかけ名残惜しむように振り向く。


「またね――奏渚(かんな)


 そう言い残した桜咲はゆっくりと扉を閉め、階段を上るのだった。








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