Revive
「っは――、はっ!! ……はぁッ!!」
暗い山道を、後ろを振り返ることなく必死に走る。疲労で動くことを拒否する腕と脚をそれでも千切れんばかりに振り、靴の脱げた足の裏が鋭い小石や枝でどれだけ傷つこうとも、この疾走を決して止めることはない。
もしこの疾走を止めれば、その瞬間に背後から襲いくる化け物にこの身は引き裂かれるだろうから。
現に一緒に星を見に山に登った友達は僕の目の前で物言わぬ肉塊へと変わり果てた。化け物を目にして動けなくなっていた僕が彼の赤い飛沫を受けて正気に戻り、逃げるという当たり前の選択肢を思いついたのは何とも形容しがたい想いがあるが、いまは彼への感謝と謝罪は一先ず置き、あれから逃げ遂せるのが先決だろう。
いま自分が村への正しい道を辿っているのかはわからない。もしかしたらまるで見当違いの方向へと走っているのかもしれない。
だが、いまこの時に限っては別にそれでも構わない。このままあの生き物から逃げられるのならどこへ向かっていようと構わないのだ。
黒い大きな毛むくじゃらの胴体から無数に生えた人の手足。それを蜘蛛のように動かし素早く動く様はとても醜く、悍ましい。また、最初にパッと見た程度だがアレに目のようなものはなく、ただ背中の部分に友達を喰らった大きな口がくっついているだけ。
――ああ、そういえば聞いたことがある。この山には血も凍るほど恐ろしい物の怪の類が住むと。その話をしてくれたオジイによれば、初めからあんな姿ではなかったらしい。
かつて、この村で起こった何かの事故で目の光を失った余所者がフラフラとこの山に迷い込んだ。何日も、何週間も、何か月も姿を見せぬので死んだものと思い、村人は次第にその男のことを記憶から消していったが、それから何年も経ったころ事件が起きた。山に狩りをしに行った村人三人が戻らぬのだという。
余所者ならばいざ知らず、同じ村に住む仲間を見捨てておけぬということで十人の屈強な男たちで山の中を捜索すると、程無くしていなくなった村人三人の衣服だけが打ち捨てられているのが見つかった。そして……、そして……。
……駄目だ、大事なところがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
三人の村人はどうなったのか?
屈強な男たちはどうなったのか?
疑問は尽きず、体力は尽きつつある。そしてそんな状態で余所事を考えていたからだろう。
「はっ……!! ッ……はっ!! ――――うあああああぁッ!?」
しっかりと踏みしめていた地面の感触が消える。そして落下する身体。手で何かを掴む暇もなく僕は頭、腰、腹、腕、脚と。万遍なく身体を固いものに打ち付けながらゴロゴロと転がり落ちていく。
そうして一際大きな衝撃が尻に響き、漸くその動きを止めると「ああ、そうか」と一人自分の身に何が起こったのかを理解した。
この辺りの山は決して人の手が加えられたなだらかなものではない。いま僕が滑り落ちてしまったような岩肌が露出している崖も多いといって良いくらいだ。暗闇の中、大した前方確認もせず全力疾走していては、このような目に遭うのも当然のことであるといえるだろう。
「うう……、ぐう……」
身体の随所が痛むがそんな甘えたことは言っていられない。あの化け物に捕まればこんなものでは済まないのだ。寧ろこの痛みと引き換えにアレとの距離が少しでも広がったなら幸運と呼べるだろう。
痛む身体を引き摺るように動かし、すぐそばに在った茂みの中へ身を隠す。崖から落ちて少し余裕ができたことは幸運でも、安心はできない。何しろ相手は人間でもなく、獣でもなく、明らかにこちらの常識を超えた何かなのだから。
何とか茂みの中へと潜りこみ、やっと得た休息を堪能しながらも、息を潜める。さて、これからどうしたら良いのだろう。
取り敢えず骨は折れていないようなので、ある程度体力が回復したらまた逃げる?
それともこのまま太陽が昇るまでここにずっと隠れているべき?
いや、でも――。
「――――ッ!?」
思考を中断させたのは微かな物音。本当に、僅かなものだったけれど、ああ間違いない。何時間も追い掛け回された、アレの気配だ。
ペタリ、ペタリと。
動くたびに人が何人も同時に歩くようなそんな音が暗闇の中に木霊する。そしてその足音はゆっくりと、しかし着実にこちらに向かってきており、あの背中にぽっかりと開いた口から発せられる息遣いが大きなものになりつつある。
「………………っ」
手で口を覆い、必死に息を殺す。
助けて、助けて、助けて――。
誰にでもなくそう祈り続ける。こんなところで死にたくないと、安穏とした毎日に戻りたいと、泣き叫ぶ。
すると、どうしたことだろう。もうあとほんの少しで僕を見つけられた筈の化け物はその足音、そして吐息と一緒に消え去った。いま聞き取ることができるのは風に撫でられた木々が枝を揺らす音だけ。
まるでそんなもの初めから何処にもいなかったかのように。僕を追いかけてきた化け物は綺麗さっぱりいなくなったのだ。
「は、あ……、はは……」
ああ、そうだ。そうに決まってる。アレはきっと僕が暗闇を恐れるあまり心が生み出した幻覚、幻聴、幻嗅。つまりは幻だ。だからだから、本当に僕があんなものに食べられるわけもなくて、きっと友達とは何処かではぐれただけで、きっとこの茂みから這い出たら崖の上でその友達が笑っていて、きっと手を差し伸べてくれる筈で、きっとお互いに馬鹿だなぁと罵り合って、きっと帰り道はいまの話で盛り上がって、きっといつものあの道でまた明日と別れて、きっと温かい布団に入って楽しい夢を見て、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きっと、きききききききききききっつっつっつっつっつっつっつっつっつつっつつつつつ、ととととととととととととととととととと。
「ひ、ひひ……、ひは……」
だから、これも幻なんだ。
僕の頭の上。
木の枝にあの化け物が張り付いていて。
いままでは見えなかった腹の部分に幾つもの顔があって。
その中の一つ。見知ったその顔が僕に向かってニタリと笑いかけてくるなんてそんなことは実際にはないんだ。
そこで不意に、オジイから聞いた物語の続きを思い出す。
ああ、そうだった。
十人の屈強な村人たちが見たのは、かつて山に迷い込んだ余所者に食われ、その身体に取り込まれた三人の村人の変わり果てた姿だった。
――お前たちは私から目を奪った。だから私もお前たちから奪ってやる――
そう吠えた怪物はその場にいた十人も瞬く間に食い尽くした――、これはそんな怪談。
「あは……、ひィ、ひひ……」
僕の震えた笑い声を合図にしたのか、ふわりと、化け物が枝から手を放す。すると当然、その毛むくじゃらの巨体は僕に向かって落ちてきて、そして――。
突如として横から割り込んできた黒い影によって弾き飛ばされた。
「うわっ、感触気持ち悪い!! もさっとする!!」
それは黒い狼。あの化け物と同じ黒ではあるが何とも艶やかで、美しい黒。その毛に覆われた巨大な狼はまるで僕を守るように、自身が弾き飛ばした化け物と僕の間に立つ。
「ナイス、ネロ」
そう言って狼が現れたのと同じ茂みから現れたのは一人の……人間? 背中から淡く青く光るコードを生やし、黒いコートに身を包んだその人物はコートとは対照的な白い髪についた葉を手で叩き落としながら黒い狼に近寄って行った。
僕より二、三歳年上だろうか? その顔立ちは整っており、ともすれば女性にも見えるが口を開けばその声色から男性であることがわかる。
君は一体……「何」?
僕がそう尋ねる前に、狼も白髪の男も弾けるようにその場から動き、ひっくり返ってしまい未だ手足をバタつかせる毛むくじゃらの怪物に向かって飛びかかっていた。
ほんと花粉何なの? どうも、久安です。
『嘘発見器』を含め、今回で九章目『フィアー・ウィッシュ・アンド・ディサイド』に突入です。いまのトコロ冒頭二章、三章を除いて戦闘は予定しておりません。それプラス文量の軽量化を懲りもせず狙っているのでかなり短い章になるかと。ご了承をば。
また次回更新ですが、少し間があきます。月曜日です。3月18日です。そして7時です。今後はちょっとこういうことが多くなるかもです。すいません。
では、今回はこの辺りで。




