ナーナと、焦り
あの人の家に来てから、どれくらい経ったんだろう。
熱が下がって、ネノネが自分の足で歩けるようになってからも、私はずっと、どうしたらいいのかわからずにいた。
朝、目を覚ますと、いつも暖炉に火が入っている。
私たちが眠っているうちに、彼は薪を割り、水を汲み、朝ごはんの支度を済ませていた。
テーブルの上には、湯気の立つスープと、硬いパン。
「起きたか。冷めないうちに食べな」
それだけ言うと、彼はいつも外へ出て行ってしまう。
私とネノネは、雪を踏む足音が遠ざかるのを確かめてから、ようやく椅子に座った。
彼が悪い人じゃないことは、わかっていた。
雪の中から私たちを助けてくれた。
熱を出したネノネの手を、一晩中さすってくれた。
「ここにいていい」と、言ってくれた。
それでも、身体が勝手に強張ってしまう。
大きな背中。低い声。重たい足音。
あの夜、村を焼いた黒い服の男たちも、みんな大きくて、低い声で笑っていた。
おじさんとあの男たちは違う。
頭ではわかっているのに。
ネノネは、ほとんど喋らなかった。
私の背中に隠れて、じっと彼を見ている。
怖がっているのか、それとも何かを確かめようとしているのか、姉の私にもわからなかった。
────
「……あの。何か、お手伝いできること、ありますか」
ある朝、外へ出ようとする彼の背中に、私は思い切って声をかけた。
ただでご飯を食べさせてもらって、ただで寝床を借りている。
いつか「もう出ていってくれ」と言われてしまうかもしれない。
そうなる前に、役に立つところを見せなきゃいけないと思ったから。
彼は少し驚いたように振り返って、それから困ったように頭を掻いた。
「手伝い?大丈夫だよ。まだ本調子じゃないだろ?」
「もう、平気……です。お洗濯でも、お掃除でも、します」
「……そうか。じゃあ、無理しない程度に、皿でも洗ってもらおうかな」
その日から、私たちは家の中の仕事を探して回った。
床を拭いて、暖炉の灰を掻き出して、彼が帰ってくる前に洗い物を全部片付ける。
数日経った、ある夕方のことだった。
棚の上に皿を戻そうと背伸びをした拍子に、手が滑った。
がしゃん、と。
乾いた音が、狭い家の中に響き渡った。
床に、白い破片が散らばっていた。
彼がいつも使っている、縁の欠けた古いお皿だった。
「……っ」
血の気が引いていく。
どうしよう。どうしよう。
役に立たなきゃいけないのに。怒られる。追い出される。
「どうした、何の音だ」
扉が開いて、彼が入ってきた。
床の破片と、立ち尽くす私を見て、彼は大股でこちらへ歩いてくる。
大きな手が、私のほうへ伸びてきた。
「ご、ごめんなさい……っ!」
私は咄嗟に目を閉じて、身体を縮こまらせた。
腕で頭を庇う。後ろで、ネノネが息を呑む気配がした。
……けれど、いつまで経っても、何も起こらなかった。
おそるおそる目を開けると、
彼は、伸ばしかけた手を宙に浮かせたまま、固まっていた。
それから、その手をゆっくりと下ろして、私の前に片膝をついた。
雪の日、初めて会ったときと同じ、私と同じ目の高さ。
「……怪我はないか?」
「え……」
「手、切ってないか?」
彼は私の手を取ると、掌と指先を、一本ずつ確かめるように見た。
ごつごつした、硬い指。だけど、触れ方は驚くほどそっとしていた。
「……うん、大丈夫そうだな。ネノネも、そこから動くなよ。危ないから」
彼は暖炉の脇から箒を持ってきて、黙って破片を集め始めた。
「お、怒らないんですか……?」
「怒る?」
「私……役に立たなきゃって……。そうしないと、ここに……」
言いかけて、喉が詰まった。
言ってしまったら、本当にそうなってしまう気がした。
彼は箒を動かす手を止めて、しばらく黙っていた。
「……ナーナ」
「……はい」
「何もしなくても、ここに居ていいんだ」
彼は私の目を見ずに、床の木目を見つめたまま言った。
「俺……今まで自分の為に仕事して、一人でここで暮らしてたけど。」
「二人が来てくれて、二人の為にご飯作ったり、そういうのがちょっと……」
「こそばゆいけど、嬉しいんだ。」
「男ひとりだから、むさくるしくて、綺麗な洋服とかもないけどさ。」
そういって、割れた欠片をくずかごに捨てた。
「だから、二人が無理に何かしてもらわなくても、俺は十分もらってるよ。」
おじさんは恥ずかしそうに、笑って頬を掻いた。
────
その日の夕食。
いつものように、彼はスープを置いて、席を立とうとした。
「……おじさん」
小さな声が、彼を呼び止めた。
ネノネだった。
私の背中から半分だけ顔を出して、彼の服の裾を、ちょこんとつまんでいる。
「……一緒に、たべないの?」
ぽつりと、ネノネが言った。
この家に来て、ネノネが自分から喋ったのは、たぶん、それが初めてだった。
彼は目を丸くして、それから、私のほうを見た。
私は少しだけ迷って、小さく頷いた。
「じゃあ、一緒に食べようか」
「うん」
三人で囲む食卓は、狭くて、少しだけぎこちなかったけど
久しぶりに、ネノネ以外と一緒に食べるご飯はいつもより温かく感じた。




