ネノネと父と、父の結婚
その日、私はお父さんと二人で、街まで買い出しに来ていた。
お父さんと二人きりなんて、久しぶりかも。
そう思うと、足取りも軽くなった気がした。
市場の喧騒の中、人混みを器用にすり抜けていくお父さんの大きな背中を追いかける。
籠いっぱいの野菜に、干し肉、それから姉ちゃんに頼まれた刺繍糸。
重たい荷物はほとんどお父さんが抱えていて、私の手には紙袋がひとつだけ。
「重くないか、ネノネ」
「大丈夫だよ。私、姉ちゃんより力あるもん」
なんでもない会話。いつもと同じ、優しい声に私の気分はいつにも増して高まっていった。
「ちょっと待っててくれ。そこの店で油を買ってくる」
「うん」
お父さんが店先に吸い込まれていくのを見送って、私は道の端に寄った。
行き交う人の波をぼんやり眺めていると、ふと、こちらをじっと見つめる視線に気が付いた。
「もしかして、えーと……そう。ナーナちゃん?」
「え?……」
「ん?違ったっけな、いやたしか双子だったか」
日に焼けた、がっしりとした体格の男の人だった。
腰に剣を提げていて、顎には無精ひげ。歳はお父さんと変わらないか少し上くらいだろうか。
どこか雰囲気がお父さんに似ていた。
「あ、あの……」
「あー、悪い悪い。あー……。お父さんの知り合いの者なんだけど」
姉ちゃんの名前を知っている、ということは、そうなのだろうけれど。
どう返していいかわからず、紙袋を胸に抱えて固まっていると、背後から足音が近づいてきた。
「ネノネ、待たせたな……って」
振り返ると、お父さんが目を丸くして立っていた。
「……お前、なんでここに?」
「ご挨拶だなぁ。そっちこそ、隠居して山に籠ったって聞いてたぞ」
男の人は豪快に笑って、お父さんの肩をばしんと叩いた。
「何年か前に越したって言わなかったか?お前の方は?」
「ちょっとした野暮用というか。……里帰りみたいなもんだ」
お父さんも、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑っている。
私の知らない顔だった。
「昔……一緒に働いていたんだ」
お父さんが、私にそう説明してくれる。
兵士だった頃のお父さん。私たちに出会う前のお父さん。
話には聞いたことがあっても、そこにいた人と会うのは初めてだった。
「娘の、ネノネだ」
「は、初めまして。妹のネノネ、です……。ナーナは姉ちゃんで……」
私はお父さんに背中を押され、こくん、と頭を下げた。
学校に通い出してから、人に慣れたといっても、私の人見知りは相変わらずだった。
「あー、こっちは妹ちゃんだっけ?お姉ちゃんの方は?」
「学校の子と遊んでるんじゃないか?今日は友達の家だ」
「ふーん」
男の人は顎を擦りながら、私とお父さんを見比べて、にやりと笑った。
「あんた、変わったなあ」
そういって男の人はにやにやした顔を崩さず、お父さんに話した。
「なんだって?」
「褒めてるんだよ。あの頃からは想像もつかないね。変わるもんだな、人の親になるってのは」
「……そうかもな」
そう言われて、お父さんはふっと、照れたような、少し困ったような表情になった。
お父さんの昔のこと。
私も姉ちゃんも、聞いたことはあってもどんな風だったか、
どんなことをしていたかまでは詳しく知らなかった。
お父さんは、私たちと会った時から優しくて。
私たちのこと助けてくれて、弓を教えてくれて、かっこよかった。
……昔のお父さんはそうじゃなかったのかな。
「そういや、あんた嫁さんはいないんだよな?」
「ああ」
「だったらよ、うちの妹なんてどうだ?ちょうど一人身でな、気立てもいい」
「おいおい……。俺は、そういう……」
私はお父さんのそういう、浮いた話は聞いたことが無かった。
たぶん、姉ちゃんもそうだった。
「もったいねえな。あんたにもそういう……潤い?彩り?みたいなもんがあってもいいだろ?」
「そう言われたってな」
お父さんはそれに困ったように頭を掻く。
私は、私がお父さんの重荷になっていて、そういうことを考える暇を奪っていたんじゃないか、と想い始めていた。
「子供のこと考えたってよ、母親が居た方がいいんじゃないか?」
お父さんはそれまで笑って聞いてたけど、
それを聞いて、ほんの少しだけ考え込むように、私の方を見た。
「母親、か……まあな」
お父さんのその呟きに、胸がざわつく。
お父さんが、結婚。
血の繋がり、そんなものなくてもずっと大事な、大切な、大好きなお父さん。
そんなお父さんの隣に、誰かが立つ。
喜ぶべきはずなのに、その想像は私の心を波打たせていた。
「今度連れてくから、一緒に飯でも食ってやってくれよ。な? 人助けだと思ってよ」
「……まあ、飯くらいなら」
……断らないんだ。
指先に、知らないうちに力がこもってくしゃりと、紙袋が乾いた音を立てた。
────
帰り道。
夕焼けに染まった坂道を、二人並んで歩く。
行きはあんなに軽かった足取りが、今は鉛みたいに重い。
「ネノネ、疲れたか?」
「え……?ううん……」
「さっきから静かだな。あいつ、うるさかっただろ」
「悪い奴じゃないけど……ああいう奴なんだ。」
お父さんは楽しそうに、昔の話をしてくれる。
私はそれに、ほとんど相槌を打てなかった。
「……お父さん」
「ん?」
「────結婚…………するの?」
結婚、という言葉が口から出た時自分で思っていたよりも、か細い声だった。
お父さんは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「あいつが勝手に言ってるだけだよ」
胸の奥で、張り詰めていた何かがふっと緩む。
そう思ったのも束の間だった。
「……でも」
お父さんは、少しだけ歩く速度を落とした。
「お前たちに母親がいた方がいいのかもしれないって、たまに思うこともあるんだ」
「え……」
「俺は男だし、女の子が何が欲しいのか、正直わからないことも多いし……。
お前たちが大きくなるにつれて、俺じゃやれないことも増えるだろうから」
お父さんが、私たちのために誰かを選ぶかもしれない。
私たちがいるから、今の家族が壊れてしまうかもしれない。
私はそんなのは嫌だった。
「それに……これからネノネ達が大人になっても、寂しくないように────」
「そんなのいらない……っ!」
お父さんが冗談めかして吐こうとした言葉を、
自分でも意識していないうちに遮ってしまった。
思っていたよりずっと強い声が出ていた。
お父さんも少し目を見開いて、それから、困った顔を覗かせる。
「服だって、姉ちゃんと一緒でいい……。 料理だって、読み書きだって教えてもらえなくていい……。お父さんと一緒がいいっ……!わたしは、わたしはお父さんから居なくなるつもりなんて……っ」
私は、言いながら何故か泣きそうになっていた。
お父さんの為なら、笑っていないとだめなのに。
お父さんがもし……結婚、するなら、泣いちゃだめなのに。
そう思っていたのに夕暮れが作った長い影を見ていることしかできなかった。
「……そっか、ありがとうネノネ」
いつものように、大きな手が私の頭を撫でる。
いつもなら、それだけで全部解決してしまうのに。
胸のざわめきは収まらなかった。




