姉妹と、耳かき
「ネノネ、髪の毛ちゃんと拭いてから上がりなさいー」
「はーい」
脱衣所から響くナーナの小言を適当な返事で流す声が聞こえてきた。
居間でくつろいでいた俺は、耳元から離し、息をつく。
案の定、廊下をパタパタと駆けてくる足音がすぐに近づいてきて、
湯気をまとったネノネが居間に飛び込んできた。
首にバスタオルを引っかけたネノネがポカポカとした体温を漂わせ、
迷うことなく俺の足元へと一直線に走ってくる。
「お父さん、何してたの?」
俺の膝の間に自分の身体をぐいぐいと潜り込ませようとしながら、手元を覗き込んでくる。
「耳掃除だよ」
「私もする!」
「髪が濡れてるから、先に拭こうな」
「はーい」
ネノネは素直に返事をしたものの、自分でタオルを手に取る気配はない。
首にかけたタオルをそのまま俺へ向かって両手で差し出し、首を少し傾けてこちらをじっと見つめてきた。
「はい」
「?」
「拭いて」
街の暮らしにもすっかり慣れてきたが、こうして家での団欒になると以前のように俺の手に身を委ねてくれる。
恥じらいが出てきたナーナと違って、ネノネの方はずっと甘えたがりのままだった。
俺は呆れ半分、可愛がり半分といった気持ちで、差し出されたバスタオルをその小さな頭からすっぽりと被せた。
「ネノネは甘えんぼだな」
被せられたタオルの下で、小さな頭が短く頷く感触が伝わってくる。
大きな両手でタオル越しに頭を包み込み、わしゃわしゃと豪快に拭いてやる。
「お父さん、力つよいー」
「これくらい拭かないと乾かないぞ。ネノネは髪が長いから」
暗いタオルの下から、ぎゃーと弾けるような笑い声が漏れ聞こえてきた。
だいたい水気が取れたところでタオルを外してやると、少しぼさぼさになった髪を手ぐしで払い、
ネノネはそのまま俺の太ももにコテンと頭を乗せてきた。
「お父さん、耳掃除して」
下から見上げてくる無邪気な瞳に俺は、はいはいと優しく笑いながら耳かきを持ち直す。
「動いたらあぶないからな」
「ん……」
頭が不意に動かないよう、左手でネノネの頭を軽く包み込むようにして固定し細い耳かきの先端を、尖った耳の繊細な内側へそっと滑り込ませる。
カリ、カリ……。
「……んふぅ……っ」
優しくなでるように内側を撫でてやると、途端にネノネの身体からふっと余分な力が抜けていった。
さっきまで元気に動き回っていたのが、まるで骨抜きにされたようにふにゃふにゃと脱力していく。
「痛くないか?」
手を緩めずに尋ねると、膝の上の頭がすっと俺の服の生地を撫でた。
「ん……いたくない……気持ちいい……」
とろけたような顔で俺の膝にすっかり身を預け、
小さく丸まった手が無意識のように俺のズボンの裾をぎゅっと握りしめてくる。
カリ、カリ……。
静かな部屋に、耳かきが擦れる音と溶けるようなネノネの声が響く。
俺は膝の上の小さな温もりを感じながら、ふと思い立った問いを投げかけてみた。
「ネノネは学校楽しいか?」
耳かきの動きに合わせて、ネノネの瞼が気持ち良さそうにうっすらと閉じる。
「うん」
「そっか、良かった」
一呼吸置いてから、ネノネは誇らしげに、でも少し照れくさそうに言葉を足した。
「友達もできたよ、勉強は……にがてだけど」
「そうか、偉いぞ」
「……偉いの?」
閉じかけていた目元をかすかに開き、下から俺の顔を覗き込むようにネノネは声を上げる。
住み慣れた環境から離れ、見知らぬ人間の街へ引っ越すと告げたときのことを思い出す。
俺の為に不安を押し抱えて、無理をしてくれていたはずだった。
それが今では、自分の足で新しい世界に踏み出して、こうして勉強も友達も懸命に取り組んで。
そして何より楽しい、と言って笑ってくれるその姿が、俺にはたまらなく誇らしくて、嬉しかった。
「ああ、お父さんは嬉しいよ」
「えへへ……」
満足そうに目を細め、ネノネは俺の手を取って頬をすりすりと寄せた。
手の下で、その表情はどんどん緩んでいく。
握りしめていたズボンの裾は少しずつ皺が消え、小さな手がだらりと床に降りて、規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、そう時間はかからなかった。
「……寝ちゃったな」
すっかり夢の中へ落ち、無防備な寝顔を晒すネノネを見下ろし、俺は小さく息を吐いて柔らかく微笑んだ。
────
「お風呂上がったよ……って」
「すー……すー……」
髪を綺麗に乾かし終え、居間に入ってきたナーナが、俺の膝で丸くなるネノネを見てくすっと笑った。
「ネノネったら、髪の毛乾かし終わる前に寝ちゃったの? もう、お父さん甘やかしすぎ」
「耳そうじしてたら、寝ちゃったな。起こすのもかわいそうだろ」
苦笑しながら、俺は膝の上のネノネの頭をぽんぽんと優しく撫でてやった。
ネノネはといえば、気持ちよさそうな寝息を立てたまま、夢の中から起き上がってくる気配はない。
ナーナが翻って、ネノネにかける毛布でも持ってこようと廊下へ戻りかける。
その背中を見送りながら、俺はふと思い立ち、空いているもう片方の膝をポンポンと軽く叩いてみせた。
「ナーナもするか?」
「……え?」
足を止めたナーナが、驚いたように振り返る。
「耳そうじ」
「あ……いや、私は……」
俺の手元と空いた膝を交互に見つめ、ナーナは慌てて視線を逸らすと、茹って赤くなった顔を逸らす。
手を胸元で抱え込み、戸惑うように視線を泳がせている。
後ずさりしかけるナーナを見て、俺は胸の奥にほんの少し、一抹の寂しさを覚えていた。
いつかネノネも同じように、恥ずかしがって今みたいに甘えることもなくなっていくことを思うと余計に。
そのうち、ふたりも大人になり、自分の家庭を持ち、俺の手の届かない場所へ巣立っていく。
こうして膝を貸して甘えさせてやれるのも、そう長い期間じゃないはずだった。
「そうか。まあ……ネノネもこうやって素直に俺に甘えてくれるのなんて、今のうちだけだろうな」
そう言って、すやすやと眠るネノネの柔らかい髪を掻き分けると、
少しの沈黙の後、恥ずかしそうにナーナは俯きながらそっと近づいてきた。
「……じゃあ」
「ん?」
「……じゃあ、わたしもしていい?」
「ああ、おいで」
俺は嬉しくなって目元を緩め、ナーナが頭を乗せやすいように膝の位置を少し直してやった。
ナーナはネノネを起こさないよう静かに膝を折り、どこか緊張した様子で、ゆっくりと俺の太ももへ頭を預けてくる。
「動くなよ」
「……うん」
ナーナの頭がブレないよう片手を添え、耳かきをそっと差し込み、内側を優しく撫でる。
カリ、カリ……。
「……ん……っ……!」
かさりと音が響いた瞬間、ナーナの身体が小さく跳ねて、口元を押さえるようにして悩まし気な声が漏れた。
「痛いか?」
「う、ううん……へいき……」
「そうか? 無理しなくても」
「だ、大丈夫だから……!」
顔を真っ赤にしながら必死に慣れない感触に見悶えしていたが徐々に強張りが解けて身体の脱力感が強まっていった。
耳かきを動かすたびに、くすぐったいのか耳がぴょこぴょこと跳ねるのが可愛らしい。
俺は苦笑交じりに手を動かしながら、ふと問いかけた。
カリ、カリ……。
「ナーナも学校楽しいか?」
ナーナは俺の服の生地に顔を少し埋めるようにして、小さく頷いた。
「うん……慣れないことばっかりだけど」
「そんなもんなんだろうな。新しい場所なんだから」
「お父さんも、学校行ってたの?」
「いや、ナーナ達と同じかな。みんなで集まって、簡単な読み書きを習ったくらいだよ」
「そうなんだ。
……お父さんも学校行きたかった?」
「その時は何も考えてなかったな。
ナーナ達みたいに友達は欲しかったけど」
「ふふ……っ」
俺の自虐交じりのつぶやきに、ナーナは緊張をすっかり解いて、くすぐったそうに小さな笑い声を漏らした。
カリ、カリと繰り返す規則正しい音と、膝の上の温もり。
会話が途切れると、ナーナの瞼は次第に重くなっていき、やがて、ネノネの横でナーナからも静かな寝息が聞こえ始めた。
俺は息をひそめ、耳かきをそっとテーブルの上に置いて、ふたりを寝室に抱えていった。
すやすやと安らかな寝息を聞きながら、俺は小さな頭を一つずつ撫で、灯りを消して静かに部屋を後にした。




