ナーナと、お料理教室
学校から帰ると、台所に袖をたくし上げたお父さんが立っていた。
まな板の上には、野菜と、市場で買ってきたお肉が並んでいる。
先に帰っていたネノネが、鞄を床に放り出したまま、台所の入口でぽかんと固まっていた。
「……お父さん、またトイレの人になるの?」
「……な、ならない」
「前もそう言ってたよ」
お父さんは真剣な顔で包丁を握り直す。
以前、ひとりで料理に挑戦して失敗し、トイレで一日中戦っていたのを、
お父さんなりにずっと気にしていたらしい。
私は思わず苦笑いを浮かべ、お父さんの手元を覗き込むように背後から首を回した。
ざく、ざく、と、不揃いな大きさに切られていく野菜たち。
包丁を持つ右手はともかく、押さえる左手の指が、まっすぐ伸ばされたまままな板に置かれていた。
鋭い刃のすぐ横で、太い指先が無防備に並んでいる。
「お父さんそれじゃ指切っちゃうよ」
「まだ切ってないぞ」
「切れてからじゃ遅いの」
見ていられなくなって、私はお父さんの背後にすっと回った。
「指、こうして」
後ろからお父さんを抱きしめるような姿勢で、お父さんのゴツゴツとした左手の上に、自分の左手をそっと重ねる。
ひょこ、とお父さんの肩越しに首を覗かせ、伸ばしっぱなしの指を、上から優しく内側へ折り曲げて丸めさせた。
重ねた私の小さな手のひらから、お父さんの大きくて分厚い手の甲が大きくはみ出していた。
節の太い指。使い込まれた硬い皮膚。ところどころに残る、白い古い傷跡。
いつも私の手を引いて守ってくれていた大きな手を、今度は私の手が導いていることに、ほんの少しの優越感とくすぐったい愛おしさを覚える。
「そのまま、爪の背に包丁の腹を沿わせて」
お父さんが、言われた通りにゆっくりと包丁を下ろす。
とんとんと、さっきよりずっと揃った野菜の小口切りが、まな板の上に出来上がっていく。
「うん……上手」
お父さんが手元を動かすたび、分厚い背中や硬い腕が、
後ろにいる私の身体にすすっ、と当たっては離れ、衣擦れする。
後ろから抱きかかえるような姿勢のまま伝わってくる、お父さんの体温。お父さんの匂い。
私の腕の中で、お父さんが深く息をするたびに、その大きな胸が膨らんでいくのが肌越しに分かった。
そんなことを急に意識し始めた途端、重ねていた手のひらが急に熱く、汗ばんできたような気がして、 私は慌ててお父さんの手から離れた。
「……あ、あとはひとりでできる?」
「ああ、たぶん」
お父さんは、私の動揺にまったく気づく様子もなく、相変わらず真剣な顔のまままな板と格闘していた。
顔を耳まで真っ赤に染めていたのは、私だけだった。
────
鍋を火にかけ、煮込んでいる間、私は木べらでときどき鍋の底を焦げ付かないようにかかき混ぜた。
お父さんは、私が指示する通りに素直に火を弱めたり、肉の煮え加減を確かめたりしている。
小皿にスープを少量すくい取り、ふーふーと息を吹きかけて味を見る。
「……ん、お塩、もうちょっとかな」
「このくらいか?」
瓶から塩を指でつまんだお父さんに、私は思わず目を丸くした。
「それじゃ多すぎだよ」
「難しいな……」
お父さんは指先についた塩を真面目な顔で見つめ、困ったように太い眉を寄せた。
いつも頼もしいお父さんが見せるそんな不器用な姿が、なんだか、たまらなく可愛らしく思えてしまう。
「ちょっとずつ入れれば、後からいくらでも調整効くから」
「うーん、なるほど」
「ほら、ちゃんと味見して」
「ああ」
そう言って、お父さんは私がさっき口をつけた小皿を迷いなく手に取ると、そのまま同じように口を寄せて味を確かめた。
ごくりと飲み込んだ瞬間、太い喉の奥から突き出した三角の喉仏が、大きく上下に揺れる。
「確かに、もうちょっと入れるか……」
そう言って、小皿を私の手の上に戻す。
小皿のお父さんが口を付けた部分に一瞬、目線が奪われ、すぐにハッとして目を鍋に戻した。
────
やがて出来上がった料理を食卓に並べ、ひと口食べたネノネが、パッと目を丸くして叫んだ。
「……ん! 普通においしい!」
「普通は余計だ」
「だって、お父さんのご飯で普通においしいなんてこと、そうそうないよ!」
「ナーナのおかげだな」
お父さんは自分の皿を見下ろし、どこか誇らしげに満足そうな息をついた。
お肉もちゃんと柔らかく煮込めていて、野菜にもじっくり味が染みている。
私が手伝わなかった分の野菜やお肉が、少し大きめで不揃いなところは、いかにもお父さんらしかった。
「でもやっぱり、ナーナが作ってくれたご飯の方が美味しいな」
「だねー」
「これからも頼むよ。……ナーナ」
────とくん、と胸が大きく跳ねた。
お父さんに必要とされて、お礼を言われて、お父さんのすぐ横でお料理をする。
今までもずっとそうしてきたけれど、こうして改めて言葉にされると、
胸の内側からじわりと温かな嬉しさが滲み出てくるようだった。
「……うんっ。私、これからも────」
頬を染めながら言いかけた私の声に、重ねるようにしてお父さんは優しく笑って続けた。
「ナーナは、きっといいお嫁さんになるよ」
お父さんは、心からの笑顔でそう言って私を褒めてくれた。
成長した私のことを誇らしく思って、心から慈しんで言ってくれたのだと分かっていた。
「えー、私はー?」
「ネノネは、まず皿を割らないようになるところからだな」
あたたかな食卓が、ネノネの不満そうな抗議とお父さんの大らかな笑い声で満たされていく。
私も、二人に合わせて一緒に笑った。
ちゃんと、笑えていたかは自分ではあまり自信がなかった。
お父さんの言う『これから』と、『お嫁さん』。
お父さんの中では、全く別々の話だっただけ。
お嫁さん。
お父さんが思い描いているのは、いつか私がこの家を出て、どこか別の場所で、誰かのためにお料理を作っていて。
その隣には、私の知らない誰かが座っている未来。
きっとお父さんは、私を想う親心からその未来を温かく話していた。
けれど私には、それがどうしようもなく寂しくて、遠い世界のことのように思えて上手に笑うことができなかった。




