ナーナと、父の手
「今日はお肉が安い日なの! 絶対行かなきゃ!」
休日の朝、ネノネが朝ごはんの途中から言い出して、三人で市場へ買い出しに行くことになった。
お父さんと私は呆れながら、大きな籠を背負って一緒に出掛けた。
右手は、包帯こそつけて赤みはまだ引いていないけれど、もうじんじんと痛むことはなかった。
市場へ向かう道を通り、街の大きな広場へ向かうと石畳の真ん中に、大きな日時計が立っていた。
あの日、あの子が待っていた場所だった。
私は気まずさから逸らすように、視線をネノネの方へ移してしまった。
ネノネは露店の看板を読み上げるのに忙しくて、
お父さんは、籠の紐を背負い直しながら私と肩を並べてネノネを見ていた。
ふたりとも、ここで何があったのかを知らない。
それが、ありがたくて、少しだけ苦しかった。
「ナーナ、どうした?」
「……ううん、なんでもないよ」
────
威勢のいい呼び込みの声と、焼けた脂の匂いと、衣擦れと石畳を踏みしめる雑踏。
市場は、あの日のように目が回るほど人でごった返していた。
「お父さん、あっち! あっちのお肉屋さんいこ!」
「分かったから引っ張るな」
ネノネは市場に入ってからずっと、お父さんの左腕にぶら下がっていた。
お父さんは文句を言いながらも、その腕を振りほどこうとはしない。
私は、それを少し遠めに微笑ましく見ていた。
「あ、串焼き!」
ネノネが不意にお父さんの腕を離して、人混みの向こうへ駆け出した。
「おい、ネノネ!……まったく」
お父さんは小さく溜め息をついて、それから私の方を振り返った。
ちょうど、荷車が脇を通り抜けていって、
押し出された人の波が私とお父さんの間に割り込んでくる。
「わっ……」
「っと……ナーナ」
お父さんが、何気なく包帯越しに右手を掴んだ。
それに一瞬、どきっとしてしまう。
今まで、何度も、何十回もそうしてきたのに、
お父さんの手と、あの日私が振り払った手が、重なって見えた。
私の様子がおかしいと思ったのか、お父さんは私の右手に視線を落とした。
「すまん、こっちは痛むか」
お父さんは、そう言って握っていた手を開こうとした。
がしっ……。
自分でもどうしてそうしたかったのか分からなかったけど、
お父さんの左手を、もうひとつ、自分の左手とで挟みこむように握り直した。
「ううん……こっちがいい……」
「そうか。痛かったら言ってくれ」
大きな手が、包帯の上から、そっと私の手を包んだ。
「大丈夫だよ、もう痛くないから」
そう言ったのに壊れものを持つみたいに、力を加減しているのが分かった。
それが、嬉しくて……ちっとも、嫌じゃなかった。
あの日、指先が少し触れただけで背中を駆け上がった悪寒が、どこにもなかった。
包帯の下から、ひりひりとする痛みとは別の熱さが広がっていくような気がした。
お父さんは私の手を引いて、人の波を肩で割るように進んでいく。
大きな背中が、私の前で、私の通る道を作ってくれて、私はその背中を、引かれるままについていった。
どうして、平気なんだろう。
……『お父さん』だから?
どうして、こんなに、離してほしくないんだろう。
それも……『お父さん』だから?
────
「ネノネ、走るなって言っただろ」
「あ……」
人混みを抜けて、串焼きの屋台の前に出ると、
お父さんは自然に私の手を離して、ネノネの襟首をひょいと掴んだ。
離された私の手は、少しのあいだ、宙に浮いたままだった。
お父さんにとっては、何でもないことだった。
はぐれそうな娘の手を引いて、人混みを抜けたら離す。
ただ、それだけのことだけど、私にとってはそれだけじゃないような気がして、
さっきまで手から伝わっていた温度が一気に引いていった。
「姉ちゃん、はい。 姉ちゃんの分」
「……ありがと」
ネノネが差し出した串焼きを受け取る。
甘辛いタレの匂いがして、ネノネは口の周りを汚しながら、お父さんにもう一本ねだっていた。
────
帰り道、ネノネはまたお父さんの左腕にぶら下がっていた。
私は、そんなネノネを羨ましそうに見ていた。
ネノネと同じように垂れさがった反対の腕にしがみついて、重いと笑われればいいだけ。
けれど、伸ばしかけた手は、お父さんに届く前に止めてしまった。
今の私は、ネノネとは違う気持ちを持っていた気がして、
そんな気持ちで、触れちゃいけない気がしたから。
結局私は行き場のなくなった手を下ろしていた。
お父さんと、ネノネの揺れる背中を見ながら、
来る時と同じように少し後ろを歩きながら、帰路へついた。




