ネノネと、普通の恋
その日も、私はいつものように花屋で見習いの仕事をしていた。
店内に満ちる瑞々しい草花の匂いと、水やりをしたばかりの湿った土の香り。
お父さんも姉ちゃんもいない仕事の時間は、余計なことをあまり気にせずにいられた。
「店長さん、この鉢は奥に運んでいいですか?」
「ああ、頼むよ。ネノネちゃんは女の子なのに、本当に元気いっぱいで働いてくれて助かるよ」
「えへへ、私、体力だけは自慢ですから」
ずっしりとした陶器の鉢を両腕で抱え上げ、額に浮いた汗を袖で拭って笑ってみせる。
こうして身体を動かしている間だけは、胸の奥のモヤモヤも忘れられた。
やがて窓の外が茜色から群青色へと変わり、閉店の時間を迎える。
店内の掃除を済ませ、お店の鍵を閉める店長さんと一日の締めの挨拶を交わした。
すっかり薄暗くなった通りへ一歩踏み出した、まさにその時のことだった。
「あ、あの……! すみません、ネノネさん」
「は、はい……?」
不意に自分の名前を呼ばれて、驚いて振り返る。
灯り始めたばかりの街灯の下に一人の男の人が立っていたけれど、それが誰なのか、最初は咄嗟に思い出せなかった。
「あの……すみません、どなたでしょうか」
「えっと、何度かお店に伺わせてもらっている者で……」
「……あ」
言われてようやく思い出した。ここ最近、いつもお店に来ては鉢植えや季節の花を選んでいたお客さんだった。
「こ、こんばんは……。あの、お花に何か、問題ありましたか……?」
私は慌てて頭を下げた。
お店の制服を着て「店員」という役割を被っていないと、私はいつもこんな風にぎこちなく、身を縮こまらせてしまう。
もしかして、私の接客態度に何か不備があって怒らせてしまったのかもしれない。
今から戻れば店長さんもまだ中にいるはず。
そんな不安が頭をよぎり、思わず今歩いてきた花屋の方へ視線を移す。
「い、いえ! そうじゃなくて……その、突然ご迷惑かとは思ったのですが」
私の怯えたような顔に気づいたのか、男性は慌てて両手を振った。
夕闇の中でも分かるほど耳の先まで真っ赤にして、視線を落ち着きなく泳がせながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「は、母へのプレゼントを買いに行って、そのときにあなたのことを見かけて────」
必死に勇気を振り絞るような真剣な表情だった。
いつも一生懸命に仕事をしている姿が素敵だったから、声を掛けたくて何度もお店に通っていたこと。
もしよければ、今度のお休みに一度お店の外で会ってくれないかということ。
彼の言いたいことはつまり、デートのお誘いだった。
今までの私だったら、家に帰ってすぐに二人に相談していたと思う。
あの日、姉ちゃんがクラスの男の子にお出かけに誘われたときみたいに、
夕飯のテーブルを囲んで、笑い合いながら話のタネにしていた。
恋とか、誰かを好きになるのって、いいな。
あの頃は、素直にそう思えていた。
だけど今の私は、このことをお父さんにも、姉ちゃんにも、どうしても知られたくなかった。
彼から好意を告げられた瞬間も、胸が弾むような嬉しさは少しも湧いてこなくて、ただ戸惑うだけだった。
どうしてなのか、自分でも理由は分からなかった。
お父さんにからかわれるのが嫌だったから?
それとも……お父さんに恋をしている姉ちゃんを置いて、私だけが普通に幸せになるみたいで嫌だったから?
たぶん、どちらも違っていた。
返事を保留にして、去っていく彼の背中を見送ったあとも、
街灯の灯りが薄暗く自身の影を映す街道でひとり立ち尽くしていた。
────
「ネノネちゃん、久しぶり。卒業してから少し間が空いちゃったね」
「うん、そうだね」
学校に通っていた頃、私に初めて出来た友達。
お互いの家に遊びに行ったり、苦手な科目を教えてくれたり、
お父さんや姉ちゃんのことを紹介したりした。
卒業して仕事を始めてからは少し疎遠になっていたけれど、今でも私にとって彼女は大切な親友だった。
オレンジ色のランプが優しく灯る部屋に通され、私は促されるまま柔らかいクッションの上に座った。
温かいお茶の入ったカップをテーブルに置くと、
彼女は私の向かいに腰を下ろし、心配そうに眉を寄せて開口一番に尋ねた。
「なにかあったの?」
こんな夜に急にお邪魔したのだから、何かあったと察するのは当然かもしれない。
けれど、昔から察しの良い彼女には、私の強張った顔色や落ち着かない視線から、
様子がおかしいことが一目で分かっていたのだと思う。
「……お店のお客さんから、お出かけに誘われちゃって────」
……どうしたらいいか分からない。
飾ることもなく素直に打ち明ける私の拙い説明を、彼女は急かすことなく聞いてくれた。
「良い人なんでしょ?」
「わかんないけど……たぶん」
嘘じゃない。
震える声で想いを伝えてくれた彼の一生懸命な顔を思い出す。
私を怖がらせたくない、嫌われたくないという真摯な思いが、伝わってきた。
「ネノネちゃんは、今好きな人、いる?」
あの日、姉ちゃんにも聞かれた質問だった。
私はクッションの端をきゅっと掴み、小さく首を横に振った。
「……いないよ」
『じゃあ付き合ってみれば』と言われるかもしれないと思ったけれど、彼女は何も言わなかった。
私はずっと気になっていたことを、すがるような目で親友に尋ねていた。
「ねえ……好きな人と一緒にいるって、どんな気持ちなの?」
「うーん……」
彼女は少し驚いたように瞬きをしてから、ふっと頬を緩め、カップを両手で包み込んだ。
「一緒にいて安心したり、もっと一緒にいたいって思ったり……。
あとは、その人が他の誰かといるところを想像して、落ち込んだり、かな」
どこか照れくさそうに、でも愛おしそうに語る彼女の言葉のひとつひとつを、私は胸の中でゆっくりと噛み締めた。
けれど、いくら頭を巡らせても、誘ってくれたあの男の人のことでは、何も湧き上がってこなかった。
それどころか、その人と一緒に並んで歩いたり、手をつないだりする場面を想像した瞬間、
背筋を冷たい水が伝うような、得体の知れない不快感が胸を掠めた。
……なんでだろう。
相手は丁寧で、優しくて、きっと良い人なのだと思う。
それなのに、その人と会う約束をすることや、そういう関係になっていくことを考えると、
胸の奥が冷えていくばかりだった。
会って間もない男の人だから、私が人見知りだから。
どれも、決定的な答えではない気がして、私のなかは疑問でいっぱいになった。
もし、私がこの誘いを受けたら。
お父さんは『ネノネも大きくなったんだな』って、どこか寂しそうに、でも誇らしそうに微笑むのかもしれない。
『楽しんでおいで』と、優しく送り出すのかもしれない。
そう想像した瞬間、胸の奥がキュッと激しく締め付けられた。
息が詰まりそうになって、私は思わず唇を噛みしめる。
お父さんにそんな風に笑って送り出されるのが、無性に嫌だった。
どうしてそんな気持ちになるのか、自分でもうまく説明がつかない。
ただ、知らない男の人の隣に立つ自分も、
それを見て穏やかに微笑むお父さんの姿を想像するのも嫌になった。
「……ネノネちゃん?」
ふいに名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。
膝の上で強く握りしめていた私の手に、温かい体温が重なる。
身を乗り出した親友の指先が、私の冷えた手を包み込むようにそっと触れていた。
「ネノネちゃんは、私が他の誰かと遠くに行っちゃうと思ったら、どう思う?」
「寂しいけど……応援すると思う」
今よりもっと疎遠になってしまうのは寂しいけれど、
やっぱり彼女には幸せになってほしい。
私が率直にそう伝えると、彼女は少しだけ目を細め、握った手にほんのりと力を込めた。
「じゃあ、例えば……ネノネちゃんのお姉さんだったら?」
一瞬、息が止まった。
脳裏に浮かんだのは、姉ちゃんの横に並ぶ……お父さんの姿だった。
あの日、姉ちゃんから気持ちを打ち明けられたとき、私は応援できるかどうかの答えを出せなかった。
そして、今になってもそれは変わらなかった。
「ごめん……姉ちゃんのことは……。今は、わかんない」
視線を落として呟く。
今日声をかけてきた男の人みたいな人と付き合って、結婚するのなら。
そうだったら、私も……『おめでとう』って普通に応援できたのかな。
「私はね……好きな子が誰かと遠くへ行っちゃうのを想像したら、すごく落ち込むよ」
「え……?」
顔を上げると、彼女はすぐ目の前の私を見ているのに、どこか遠くを見つめているような、少し切なげな瞳をしていた。
きっと彼女も誰かを好きになって、恋を知っていて、その大切な誰かのことを思い浮かべていた。
「その人のこと、誰にも取られたくないって。
誰かに取られちゃうって、怖くなる。
……ネノネちゃんには、そういう人、いない?」
それは……。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
私の瞼の裏に浮かんだのは、思い浮かべてはいけない人の顔だった。
大きな背中。少し不器用で優しい笑顔。頭を撫でてくれる、ゴツゴツとした温かい手。
自分の胸に浮かんだ答えを受け入れられなくて、
私は逃げるように彼女から視線を外し、顔を赤くして深く俯いてしまった。
「……そっか。ネノネちゃん、好きな人いるんだ」
親友は、耳まで赤くして固まっている私の顔をじっと見つめると、納得したように柔らかく微笑んだ。
「え……?」
「ううん、何でもない」
彼女はそれ以上追求せず、ゆっくりと私の手から指を離した。
「でも、ネノネちゃんの顔を見たらわかるよ。その男の人からのお誘い……受ける気、ないでしょ?」
「……うん。私……ちゃんとお断りする」
顔を上げてはっきりと口にすると、胸の奥に重く澱んでいたモヤモヤが、すっと引いていくのが分かった。
「うん。それがいいと思う」
────
お茶のお礼を言い、玄関先で『またね』と手を振って彼女の家を出た。
すっかり夜が更けていて、見上げた夜空には小さな星が瞬いていた。
吹き抜ける夜風が頬を撫でて、火照った肌を優しく冷やしていく。
彼女に聞かれて、私が真っ先に思い浮かべてしまった人。
一緒にいて安心して、もっとずっと一緒にいたいと思える、世界で一番大切な人。
結婚するかもしれないと思ったときも。
姉ちゃんが、『好きだ』って言ったときも。
私はずっと……お父さんを誰にも取られたくないって、そう思っていたのかな。




