ナーナと、普通の恋
放課後の鐘が鳴ったあと、その日はネノネと別々に帰ることになった。
私は、同じクラスの女の子たちに誘われて、そのうちのひとりの家に上がっていた。
玄関には、その子のお父さんの大きな革靴と、お母さんの平べったい靴が綺麗に並んでいた。
それを見ただけで、よそのお家に来たのだという気がした。
通された部屋の床に輪になって座ると、その子のお母さんがお皿に盛った焼き菓子を運んできてくれた。
甘い匂いが部屋に広がる。
私と女の子が三人。お皿を真ん中に置いて、膝を突き合わせておしゃべりを始めた。
学校のこと、先生のこと、家のこと。
最初は、そういう話ばかりだった。
「そういえば、前にナーナちゃんのお父さん、学校まで迎えに来たことあったよね」
ひとりがお菓子をかじりながら言った。
「背が高くて、ちょっと怖そうな人かなって思ってた」
私はすぐに首を振った。
「全然、怖くないよ」
「この間なんて、街の子が可愛い髪型をしてるのをネノネが見てて、俺もやってやるって言い出したの」
「下手くそで、ネノネの髪、鳥の巣みたいになっちゃってね」
思い出すだけで、自然と口元が緩んだ。
「あんなに大きくて真面目そうなのに、かわいいね」
そう話すと、三人が笑った。
私も一緒に笑った。
「ナーナちゃん、お父さんのことほんとに大好きだよね」
何気なく言われたその一言に、笑っていた頬がほんの少しだけ強張った。
誰も、変な意味では言っていない。
ただ、お父さんっ子だね、というくらいの軽口。
「うん、そうなの」
こういう話なら、私にもできた。
お父さんのことを、ただの「お父さん」として話している間は、
私もみんなと同じ、普通の子でいられた。
話はいつの間にか、好きな男の子のことになっていた。
誰かが声を潜めて、窓の外をちらりと見ながら名前を出した。
「あの子、荷物も持ってくれて優しいんだよ」
「知ってる。かっこいいって、前からずっと言ってたもんね」
名前が出るたび、話している子の頬が赤くなって、隣の子が肩を押して笑う。
私は、少しだけ離れたところから、それを聞いて相槌を打っていた。
「そうなんだね」
普通はそうなんだ。
同じ教室にいる男の子を見て、運動ができて、優しくて、かっこいいから。
その人のことを好きになる。
その名前をお菓子の皿と一緒に出して、みんなで頬を赤くして笑う。
それだけのことが、私にはどこか遠い国の話みたいに聞こえた。
「あ、でもさ」
ひとりがふと思い出したように、私のほうを見た。
「こないだの休日、ナーナちゃん、あの子と広場の方に行ってなかった?
ほら、同じクラスの」
「……ちょっと、お出かけしただけ。途中で、帰っちゃったから」
スカートの上で、自分の右手をそっと握り込んだ。
「そっか。あの子、ナーナちゃんのこと気にしてたみたいだったのに」
「……。うん」
曖昧に笑うと、そこから三人の目が、きらきらと面白そうな色に変わった。
「じゃあさ、ナーナちゃんは、他に好きな人いるの?」
三人の視線が、揃ってこちらを向く。
部屋の外の通りを、誰かの荷車が通っていく音だけが遠く聞こえた。
真っ先に思い浮かんだ顔があった。
さっきまで、話してた人。
大きな手。少し困ったように細められる目。
優しくて、格好良くて、女の子の服も知らなくて、お料理が下手で……。
私の大好きな人の顔。
もし、この子たちと同じように言ったらどう思うだろう。
「私はお父さんのことが男の人として好き」って。
「……秘密」
やっと、それだけ言った。
「えー」
「なにそれ、絶対いるじゃん」
「ひきょー。どんな人かだけでも教えてよ。
やっぱり、ナーナちゃんのお父さんみたいな人?」
私は曖昧に首を傾げて、笑ってみせた。
三人はひとしきり私の肩を突ついたあと、すぐに、また別の男の子の話へ戻っていった。
夕方になって、私は友達の家を出た。
西日の差す石畳の道を、ひとりで歩いて帰る。
すれ違う家族連れが、夕飯の買い物の袋を提げて笑っていた。
家に着けば、きっとお父さんとネノネが、待っている。
大好きな家族が待つ家に、私は少し早歩きで帰っていった。
お父さんが好きなことまで、嘘や冗談にしたくなかったから。
言ったら、私の気持ちを自分で、茶化してしまうような気がしたから。
「お父さんが好きだよ」って冗談めかして言えなかった。
そうやって冗談にできたら、
そうしたら、こんな痛みを知ることもなかったのかもしれない。
「いない」なんて言えなかった。
私が、お父さんのことを……好きな気持ちまで嘘にしたくなかったから。
本当にお父さんのことが『好き』だから……。




