俺と、過去のこと
鼻につく黒い油と、固まりかけた血の匂いが充満する陣の中で、
俺はただ座っていた。
何かを考えていたわけではない。
現実から意識を切り離し、半分眠りに落ちるような感覚でそこにいただけだった。
国境沿いの戦況は、熾烈を極めていた。
何十もの眉間を心臓を撃ち抜いてきた。
何百、何千人という人間が、目の前で泥に塗れて死んでいくのを見てきた。
手に残る弦の鋭い感触と、耳にへばりついて離れない断末魔。
鼻腔の内側にカピカピと固まる血の霧。地面に散らばる誰かと誰かと誰か。
目を瞑っていても、湧き上がるその感触を忘れようと、俺はただ何も考えずにいた。
心底どうでもよかった。
急に頭に投石が突き刺さって、死んだとしても、そう言ったと思う。
そこへ、見知らぬ兵士が一人、ぞんざいに声をかけてきた。
「ちょいと、横を失礼するよ」
「……」
腰を下ろしたい、ということだろう。
俺は顔を上げないまま、脇に置いていた荷物を静かに膝の上へと抱え直した。
他を当たれと追い払えばよかったのかもしれなかったが、それすらもどうでもよかった。
「あんた……噂に聞く、大陸一の弓取りってやつじゃないか?」
男は俺の隣にどかと尻を落とすと、構わず言葉を続けてきた。
「……名乗った覚えはない」
「そりゃそうだ、周りが勝手にそう呼んでるだけだからな」
「……」
噂自体は、嘘ではなかった。
俺より勇敢な男も、俺より強い男も、山ほどいた。
俺はただ運よく死なず、人より長く生き残っているというだけだった。
「ああ、そういや俺は────」
「いい」
言葉を遮り、さらに視線を落とした。
「どうせ覚えられない」
誰の顔も見ないようにしていた。
顔を上げて、そいつの名前と顔を覚えて、
そいつがいつの間にか居なくなったことを確認する。
その退屈な作業に飽き飽きとしていた。
「いや……名乗りたいんじゃない。ただ礼を言っておきたかったんだ」
「礼?」
「ああ。さっき、あんたに助けられた」
「……」
何の話だか、もうさっきまでの記憶なんてない。
覚えているだけ、ただ疲れと澱みが溜まっていくだけだった。
「土手っ腹にぐっさり穴が開いた奴がいただろ。それが俺だ」
そう言うと、男は腹に巻いた包帯を指して示した。
「……悪いが」
「覚えてないってか?」
「……ああ」
男は素っ頓狂な態度で大げさに肩を竦めた。
「……俺をここに運んだのも?」
「……ああ」
「普通、そこまで忘れちまうもんか?」
「考えないようにしてる」
俺の素っ気ない返事に、男は小さく鼻を鳴らして笑った。
「あんたみたいな奴、初めて見たよ」
「……」
驚き、呆気など、様々な感情を伴った台詞だが一番大きいのは納得だった。
「こんな状況で、こんな場所で、死んだような目をしてるくせに。
……あんたはまだ優しい。
助けた奴の顔も 助けたことすら覚えてない」
「……」
男の言葉に耳を貸しているわけではなかった。
ただ、無駄話を遮るのも面倒だった。
「窮地においてこそ、人の汚い部分が晒されるってよくいうが
あんたはまるで逆だな」
どうだっていい。
「この部隊の奴らみんな、あんたに感謝してたんだ。
強いからだけじゃない。直接命を助けてもらったわけじゃない。
……優しいままで居られるあんたに救われてんだ」
「……どうでもいい」
心底どうでもよかった。
だがそんな戦争は、ある日突然、打ち切りになった連載小説のように幕を閉じた。
双方の領土侵攻を賭けた泥沼の争いは、お互いの国が物資を使い果たし、
実質的な無期休戦となった。
戦が終わると、功績のあった数名の兵が都へと召喚された。
俺は叩き上げのしがない一兵卒に過ぎなかったが、
推薦という形でそれに選ばれることになった。
都の豪奢な城内で、銀食器より重いものを持ったこともなさそうな貴族から、
うやうやしく一つの勲章を手渡される。
それは、金の花があしらわれた、輝く冠だった。
初めて入った煌びやかな城も。
掌の上に載るあまりにも軽くて冷たい飾り物も。
こんなものの為に散っていった命も。
もう、一切考えるのが面倒だった。




